56話 虎の威
「うにゃぁ……、みんな凍ってるにゃ」
魔女の部屋の前。
ニャプチは石英に包まれた『知恵と石塊の円環』の冒険者たちを見て、勘違いした。
磨き上げられたかのように透き通った美しい石英は、氷と見紛う程の艶を輝かせている。
加えて、魔女の部屋から漂う妙に冷たい空気が、勘違いの一因となった。
「大人しく出てくるにゃ!」
ぱっくりと開いた両開きの扉。
その先の漆黒に向けて威嚇した。
ゆっくりと、白い姿が視界に映る。
(にゃ?)
言葉は出なかった。
視界がキラキラと霞み、体が動かせない。
呼吸は遮られ、全身の圧迫感が瞬時に意識を奪う。
「魔女の心臓は手に入れた。次は――」
オーギュオンによる最速の結晶魔法は、ニャプチにすら一切の反応を許さなかった。
「魔境の王の命……。ここまできたついでだ。奪っておくか」
目的を果たして尚、オーギュオンは絶対の自信を以って選択する。
その体はドロドロと液状化し、床に溶け込んで消えた。
***
牧緒の怒りは”安楽椅子作戦”の外。
胸を締め付ける後悔を、どうしても抑え込むことができなかった。
だが、その怒りは侵入者たちではなく、牧緒自身に向けられるべきもの。
S級冒険者ほどの強者が送り込まれるとは、予想できていなかった。
そして、隠密を捨てて堂々と攻撃を仕掛けてくるとも考えていなかった。
≪終末級≫を内在する魔境への侵攻は、特に慎重に行われるべきもの。
そんな慢心があった。
全ては、牧緒の判断ミス。
それは、本人も重々理解していた。
「俺の……、俺の命だけで何とかなりませんかね……?」
リジンは、頬をピクピクと震わせながら微笑んだ。
「……君は冒険者だろ? どうしてそこまでする」
「俺は、故郷を戦争で失いました。人間同士の戦争です」
リジンはカップ掴んで、温くなった紅茶を一気に飲み込んだ。
「争いの目は、どこかで摘まないといけない。それが俺なら、喜んでこの身を捧げる」
その目に迷いは無かった。
僅かに残っていたはずの恐れや不安も存在しない。
「そうか……。俺にはできないやり方だ……」
牧緒は椅子の背もたれに体を預けて、天井を仰いだ。
怒りが矛先を失い、再び自身を責めようとした時、天井の木理が渦を巻いて歪んだように見えた。
「ん?」
目を細めると、天井は酷い雨漏りのようにゆっくりと滴る。
強い粘性を持った雫は、徐々に人の形を模していく。
顔に見える模様は、確かに開眼した。
途端、牧緒の座っていた場所が石英に覆われる。
デスクは砕かれて吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
リジンは、体を翻してソファの陰に身を隠した。
慎重に顔を覗かせると、石英の前に白い修道服の男――オーギュオンが立っていた。
視線の先には、無事に魔法を躱した牧緒がベッドの縁に手をかけている。
「どうやって最速の魔法に反応した?」
「最速も何も、あんな不気味な登場されたら、事前に反応するだろ」
物質に体を潜り込ませ、音も無く出現したオーギュオンにとって想定外だったのは、丁度牧緒が見上げていたこと。
結晶魔法が行使されるよりも前に、牧緒はその場から跳んで逃げていた。
「なるほど。そういうことであれば問題はない」
オーギュオンは確信した。
焦らずとも、いつでも魔境の王を殺せると。
勇者の如く達者な身体能力、または魔女のように優れた魔法による対応ではない。
魔境の王は弱い。オーギュオンにも、それは瞬時に見抜かれた。
「お前みたいなのがいてよかった。誰に八つ当たりすればいいか、悩んでたところだ」
行き場を失った自責の念は、卑怯な暗殺者への怒りに変換された。
「召喚獣――」
牧緒は片手で襟を整えながら唱えた。
ベッドを引きちぎり、まるで地獄の底から這いあがってきたかのように巨大な鷲の頭が出現する。
「グ、グリフォン……!?」
リジンはロープを掴み、警戒した。
巨大な翼は部屋中の家具を押しのけて、壁を抉る。
四足獣にもかかわらず、その背は天井にまで達していた。
「流石、魔境の王。名を呼ばずにそれほどの魔物を召喚するとは」
弱いと思った相手が、まさか召喚獣を扱うとは想定外。
オーギュオンは、動揺を悟られぬように無表情のまま世辞を述べた。
「頼んだぞ」
そう言って、牧緒はグリフォンの嘴の根元を撫でた――。
牧緒が召喚魔法など使えるはずもない。
他者が魔力を分け与えることも、他者の魔力が込められた魔法具を使うこともできない。
”聖域”でもない限り、魔石の魔力は戦闘に利用できるほどの出力と量が無い。
魔力を一切持たない牧緒自身を強化することは、魔女ですら困難。
しかし、演出するだけなら簡単だ。
幾何魔法【心眼】によって、魔女は遠い国にいても常に牧緒のことを見守っている。
国境を隔てる程に距離が遠いと、繊細な魔力操作や遠隔での魔法行使までは行えない。
ただ、召喚獣を事前に呼び出して、魔境に待機させておくことは可能。
牧緒が「召喚獣」と口にすれば、直ちにグリフォンが牧緒の代わりに戦う手筈となっている。
それを目にした者からすれば、魔境の王が召喚魔法を行使したかのように見えるだろう。
オーギュオンの結晶魔法が、グリフォンの翼を貫く。
同時に、開いた嘴から咆哮が放たれた。
グリフォンの原型魔法【轟然】。
その声は、不可視の重砲に等しい破壊をもたらす。
部屋の壁は扉ごと粉みじんとなり、リジンとオーギュオンは廊下に投げ出されて転がった。
「結晶魔法程度では、止まらぬということか」
その身に攻撃を受けながらも、オーギュオンは絶えずグリフォンに向けて魔法を浴びせかけていた。
結晶魔法はグリフォンの巨躯を全て覆うことはできない。
翼や足など、機動力を削ぐための場所を集中的に狙っても、グリフォンはその部位をブルブルと震わせて、ゴミを振り払うかのように石英を砕いてしまう。
(この狭い場所では、グリフォンは機動力を生かせない。必ず、もう一度咆哮するだろう)
オーギュオンは、狙いを一点に定めた。
再び嘴が開かれた時、グリフォンの喉を石英が破壊する。
「グアッ、グワアッ!」
強引に嘴を閉じて石英を砕くも、声は疎か呼吸も易々と通さない程に喉の奥は石英で覆い尽くされている。
戸惑い、鬼気を失ったグリフォンの背後で、牧緒は静かに呟く。
「今更だ。壊していいぞ」
グリフォンは構わず飛び上がり、屋根を粉砕した。
そして、翼をたたんで急降下する。
オーギュオンとリジンは、それを辛うじて避けた。
床は崩壊して、木片とガラス片が弾丸の速さで跳び散る。
「ここは、渡り廊下だったのか」
体が宙に浮く感覚で、リジンは状況を把握した。
ロープを伸ばし、半壊した廊下へ戻る。
再び舞い上がったグリフォンが、次の攻撃を仕掛けるまで間は無い。
だから、オーギュオンは最速の魔法で召喚者を狙う。
出現した石英は、何故か牧緒を避けるように広がった。
「相反魔法か……?」
「いいや、ゴーストだ」
牧緒の周囲が、蜃気楼のように僅かに歪む。
巨大な金魚の形を模した、半透明の何かが空中を泳いでいる。
「異なる種の召喚獣を同時に……。魔境の王の強さは、世間に正しく伝わっていないようだ」
オーギュオンの驚きと評価は、実質的に魔女に向けられたものだが、本人はそれに気づきもしていない。
「ゴーストの肉体に触れた物理現象は異常をきたす。俺に攻撃したいなら、ゴーストを避けて魔法を当てるんだな」
牧緒が虎の威を借りてほくそ笑むと、グリフォンがオーギュオンへ向けて爪を差し向けた。
「捕らえた!」
その脚にリジンのロープが巻き付く。
これで安寧の魔法がグリフォンの威を削ぎ、攻撃の手を止ませることができる。
だが、グリフォンは瞬時にロープの巻き付いた後ろ足を爪で切り落とした。
普通は、初手でロープを切ることを試みる。
それを見て、リジンは驚愕した。
(魔法具の強度を察して、魔法の効果を危惧した? 魔物があの一瞬でその判断を……?)
理由は一つしかない。
(完璧に調教されている。野生の戦い方ではなく、戦術を学んでいるのか!)
召喚獣の契約を結ぶには、対象とする魔物を完膚なきまでに打ち倒す実力が必要となる。
契約を結べたとしても、決して魔物が屈服したわけではない。
主人が力不足だと判断された場合、容赦なく魔物は反旗を翻す。
そんな魔物を調教するには、膨大な時間と労力を要するだろう。
(俺の目でも、魔境の王の実力を正しく見抜けないのか)
今もリジンの目には、何の変哲もない青年として牧緒が映っている。
それは間違っていない。
少し冷静になれば、これが魔女の演出だと気付けたかもしれない。
しかし、弱き者に強欲の魔女が手を貸すはずがない。
その大前提が、「魔境の王は弱い」という事前情報を凌駕して偏見を生み出した。
「芽吹け。そして架けなさい」
廊下の反対側の扉が開き、詠唱が響く。
幾本もの樹木が壁から生えて、倒壊した足場を補強する。
「助けにきました! お役に立てるかは分かりませんが……」
華道のレアラが、長い杖を構えて後衛を買って出た。
戦闘の轟音を聞いて、居ても立っても居られなくなったのだ。
「また増えたか。じゃあ、そろそろ本気を出すか」
牧緒は、うなじに纏わりついたパッチを掴んでかざした。
完全なハッタリ。
バルバラの残した生きた炎は、見た目こそ炎そのものだが、何を成すこともできない。
そんなこと知る由も無い者たちは、魔境の王の奥の手を警戒せざるを得ない。
こうして生まれるのは、臨戦態勢による僅かな静寂。
その時間を使って、牧緒は再び対話の流れに持ち込み、この戦いを終結させるつもりでいた。
「うっ、にゃあぁ!」
しかし、間に跳んで入ったのはニャプチだった。
牧緒の足元を頭でぶち破って、フラミンゴのような体制で構える。
「氷から抜け出すのに手間取っちゃったにゃ」
「……氷だと?」
ピンピンしているニャプチを見て、一番驚いているのはオーギュオンだった。
結晶魔法で覆い尽くして、絶命させたはずの獣人だったからだ。
「ボク、寒いと自然と体が超熱くにゃるから、氷が溶けて助かったにゃ」
ニャプチは結晶魔法をその身に受けながらも、それが氷だと最後まで勘違いしていた。
ただの思い込み。にもかかわらず、石英は確かに氷のように溶けて無くなったのだ。
(通用しない魔法と、する魔法があるのか)
安寧の魔法が不発となったリジンは、ニャプチの言動とオーギュオンの反応から法則を導き出そうとする。
彼らの疑念の根源を、本人は全く認識していない。
ニャプチは、あらゆる生物の特性を併せ持つ合成獣人。
血肉を構成する無限種に近いDNA情報は、無限の矛盾を生み出し続ける。
その矛盾をこの世界の理は包括しきれず、許容することもできない。
裂けた道理を修復するために、世界は強引に形を変えて適応する。
結果、ニャプチが認知していない魔法や物理現象、果ては概念的事象はニャプチに何の影響も及ぼすことができない。
それどころか、誤った認知が正道となる。
ニャプチの頭の中の世界は、現実の世界を書き換えるのだ。
これは、比喩でも哲学でもない――事実である。
「ここには魔女も唯一竜もいない。それでも、戦力は君たちを上回った。まだやるか?」
牧緒は、ポンとニャプチの肩を叩いて言った。
「残念だが、私に失敗は無い。魔境の王の討伐はついででしかなかったが、着手したからにはやり遂げさせてもらう!」
オーギュオンは、右手首を握って何かをしようとする。
だが、手首には別の何かも巻き付いた。
「最初から、こうするのが正解でしたね」
リジンが、安寧の魔法でオーギュオンの戦意を鎮火した。
「何故だ……。お前たちも、目的は同じはず……」
「魔境の王の討伐なんて大それた依頼、勇者以外にするわけないじゃないですか」
目的は違えど、志は同じ――そう思っていたオーギュオンは、落胆しながらも安寧に満ちた。




