30話 魂の形
「あっれぇ?」
柔らかいベッドの上で一晩を過ごしてから、牧緒は間抜けな声を上げた。
手には、スマートフォンが握られている。
「仕事関係の連絡先が全部消えて……俺、働いてたっけ?」
「兄ちゃん、学校行かなくていいの?」
「学校? あ、あぁ、そうだな。大学行かないと……」
両親が残した遺産で、牧緒たちの生活は十二分に賄われている。
牧緒は、リュックを背負って家を出た。
バスに乗って20分。
学生たちが、吸い込まれるように大学の門をくぐる。
「よぉ、牧緒! 妹とは仲直りできたのか?」
「……まだかな」
牧緒は、友人の名前が思い出せない。
「牧緒君っ! 今日、XXに寄って行かない?」
「ごめん、もう一回言って」
「だからぁ、一緒にXX行こ」
何度聞いても聞き取れない。
「……俺、飯とか作らないといけないから帰るわ」
「え? お前が飯作ってるのか? 実家住みだろ?」
「そっか、母さんが作ってくれるんだった……」
そう、牧緒の両親は健在。
就職するまでは、面倒を見てくれている。
「じゃあ、18時にXX集合ね!」
行ったことも無い。聞いたことも無い。
遊んだことも無い。見たことも無い。
だからそれが、どこなのか分からない。
「俺に友達っていたんだな」
友人を作る時間なんて無かった。
恋人を作る時間なんて無かった。
だからそれが、誰なのか分からない。
「兄ちゃん! 今週の日曜日に遊園地連れてってくれるんでしょ!?」
急に右耳から翔太の声が響く。
「ん、あぁ、そうだったな」
気付けば、自宅のソファに座っていた。
「そういえば、母さんはどこ?」
「……」
翔太は、貼り付いたような笑顔のまま、微動だにしない。
「……父さんは?」
「……」
まるで、時間が止まっているかのよう。
そんな違和感の中に、温かい音が聞こえる。
コンコンコンコン――まな板の上で何かを切る音だ。
「今日は牧緒君の大好きなトンカツだからね」
「やったぁ! ありがとう、おばさん!」
牧緒はそう言ってから、ハッとした。
体が縮んでいる。小学生の頃の姿だ。
「ははは、牧緒はもう内の家族なんだから。遠慮せずに呼んでいいんだぞ。ほら、あれだ。その」
「お父、さん?」
「そうだ、いいぞぉ!」
「もぉ、お父さんばっかりずるいんだから。私のことは?」
「お母さん!」
懐かしい匂いが、牧緒の思考を鈍らせていく。
「この度は、ご愁傷さまです」
「――え、何が?」
突然現れた喪服の男性が頭を下げた。
牧緒の体は、重さを増していた。
それでも、中学生か、高校生か……少し幼い。
遠くに、泣き崩れる弟たちが見える。
「牧緒……、私たち……どうすればいいの?」
「美織、一体何が?」
「はぁ? 何がって……何が……うぐっ、うぇ、ぐ」
徐々に崩れる美織の顔面が、牧緒の心を抉る。
「そうか……母さんと父さんが……」
牧緒の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
理想と現実をごちゃまぜにして、記憶の断片として頭に叩きつけられているような感覚。
その違和感すらも、違和感と感じない。
「鉢木さんとこの長男、養子なんだそうよ」
「え? じゃあ、美織ちゃんたちとは……」
「そうなの。大変よねぇ」
「元のご両親はどうしたのかしら」
「それが、事故で亡くなったらしいわ」
「そう……なのね。それで今回は殺人……可哀そうだわぁ」
井戸端会議のつもりでいるのか、時と場所を選ばない不謹慎な声が聞こえる。
聞こうとしていないのに、自然と耳に入ってくる。
牧緒は、この逆境から逃げ出したいとは、微塵も思わなかった。
「俺が一緒だ。絶対に居なくなったりしない」
美織を抱きしめながら、決意を固める。
「兄ちゃーん! 早く早く!」
和樹と翔太が手を振っている。
その奥で、観覧車が回っていた。
「そうだ、俺は遊園地に……」
「ほら、牧緒。突っ立ってないで行こ」
美織が腕を掴んで引っ張る。
「美織も来たのか」
「はぁ? 当たり前じゃん」
どうやら、機嫌もすっかり直ったようだ。
「俺は……美織を迎えに行ったか?」
「何のこと?」
「ほら、修学旅行の」
「もう忘れたの? きてくれたじゃん」
美織は、あっけらかんと言い切った。
「俺は、行ってない」
「さっきから意味わかんない。和樹と翔太が待ってるよ」
「俺は、約束を守れなかったんだ」
牧緒自身、何を言っているのか分からない。
それなのに、次々と言葉が口から溢れ出す。
「俺が逃げ出したかったのは、辛い日常じゃない」
弟妹たちが、過去に負けずに成長していくのが、牧緒は本当に嬉しかった。
「もう、幸せなんだ。俺は、美織たちがいてくれるだけで」
牧緒は、その現実から逃げ出したかった。
実の両親を事故で失い、新しい両親は命を奪われた。
大切な人は、尽く不幸になっていく。
次に失うのは――。
「俺がいたらダメなんだ。このままじゃあ、美織たちも……」
「考えすぎ! 私たちだって同じだから。牧緒がいてくれるだけで……幸せだし……」
美織は、赤い顔を伏せる。
「ありがとう。でも、俺は……行くよ」
「どこに?」
「分からない。でも、必ず帰ってくる。同じ別れでも、”二度と逢えない”と”いつか逢える”は、全然違うだろ?」
「ははは、ほんっと、何言ってんのか全然分かんない!」
美織の手から、ゆっくりと牧緒の腕が離れていく。
「またね!」
「あぁ、またな!」
牧緒の前には、白い扉。
ドアノブに手をかけると、自然と扉が開く――。
「誰……?」
小さく弱弱しい声で、少女が怯える。
顔の右半分は腫れあがり、酷い痣になっていた。
「大丈夫か!? 誰にやられた?」
牧緒はすぐに駆け寄って、少女の髪を指で掬った。
痣は、首元まで伸びている。
「……お兄ちゃんにイジメられた」
「酷いお兄ちゃんだな」
少女の涙を親指で拭ってやる。
同時に、牧緒の目も潤んだ。
頭の中はスッキリしている。
全てを思い出した。困惑も後悔も無い。
別れ際の美織の顔を思い出しながら、そっと少女を抱擁する。
「ウォーハートさん! いませんか!? 大変です!」
突然、家の扉を何者かが開く。
「キュラハちゃんしかいないのかい!? 早くおいで! 逃げないと!」
その者は、慌てて少女の手を引く。
振り返った少女は、小さな手を牧緒の方へ伸ばす。
しかし、それが握られることはなかった。
「キュラハ……、ウォーハート?」
これが、他人の記憶の中だと悟る。
いや、正確には記憶ではなく、その者の想像する世界だろう。
牧緒は家から出て、彼らが逃げ出した理由を知る。
「これは……メリアナ火山か」
そこは、かつて捕らわれていた監獄にして”聖域”。
それが、赤い光と黒い煙を上げながら熱を爆発させている。
「メリアナ火山の噴火は800年以上前なのに……何で子供のキュラハが……」
牧緒は気付く。
この世界は、繋がっている。
同時に黒い影に飲み込まれた三人の意識が混ざり合う、混沌の世界。
「噴火は、リデューシャの記憶か」
牧緒は走った。
火山灰が降り注ぐ中、リデューシャの名前を叫び続ける。
「こっちだ」
微かに声が聞こえた。
振り返っても誰もいない。
それでも、招かれた方にひたすら走る。
キュラハのいた街は、いつの間にか消え去った。
視界に広がるのは、樹海のみ。
「さぁ、こっちへ」
再び声がした。
それは、リデューシャのものではない。
罠かどうかなど意に介さず、信頼できない導き手に賭ける。
「リデューシャ……」
そこは、小さな花畑。
火山灰が積もり、黄色い花弁は白く汚されている。
中央にへたり込んでいるリデューシャも同じく。
牧緒はそっと歩み寄る。
「死んだ人間は、どうなると思う? 天国へ行く? それとも地獄?」
俯いたリデューシャは、一輪の花をむしり取ってから言った。
花に積もった灰が、ぶわりと舞い散る。
「それは、生きてる人間にしか分からないよ」
まるで逆説。
「大好きだった人が、天国に行けたって信じたいだけだ。恨んでた奴に、地獄に落ちろって望んでるだけだ。そんな風に思うのは、生きてる人間だけだろ?」
死者に囚われるのではなく、残された生者を想うべきだ。
牧緒は、そう言いたかった。
「さぁ、行こう。ここから出るんだ」
「……私は行かない。ずっとここにいたい。ね、ノーシャ」
リデューシャが顔を上げた。
その視線の先には、何かがいる。
しかし、ハッキリと目視することができない。
「俺は、今度こそ約束を守りたい。どんなに馬鹿げた約束でもだ」
牧緒は、リデューシャの視線を遮るように立ち塞がる。
そして、膝を付いて目線を合わせた。
「月を手に入れるんだろ? だってリデューシャは、月の魔女じゃないか」
訴えかけるも、リデューシャの瞳は虚ろのまま。
「俺に『助けてくれ』って言ったけど……そんなの無理だ。無能な俺に、月の魔女を救えるはずなんかない」
そう言って、情けなくはにかんだ。
「だから、俺を助けてくれ。リデューシャがいないと、俺は何にもできないんだ」
「……仕方ない、なぁ」
少しだけ、瞳に光が戻る。
牧緒は問答無用でリデューシャを抱え上げて、メリアナ火山とは反対方向へ歩く。
出口がどこかなんて分からない。
ただ、闇雲に白い扉を探して突き進む。
「リデューのこと、よろしく頼むよ」
背後から、声がした。きっとそれは、牧緒にしか聞こえていない。
振り返ることも無く、牧緒はより一層気合を入れる。
だが、抱えたリデューシャの姿が、塵になって消えて行く。
「な、何で……!? リデューシャ!」
塵は黒い世界に溶け込んで、見えなくなった。
「くそっ、またここか!」
白い扉は見当たらない。
その代わり、もう一人の己の姿があった。
「よぉ」
もう一人の牧緒は、手を小さく上げて声を掛けた。
「幻覚が何の用だよ。俺は、さっさとここから出なきゃならないんだ。邪魔するな」
「そう言うなよ。俺はお前を助けにきたんだ」
「あ?」
「俺は、お前の魂だ。逃げることしか能の無い、役立たずの魂の形だよ」
魂は、両手を広げて正体を明かした。
「だから何だよ」
「俺に触れろ。ここから出られる」
「ダメだ。リデューシャを……ついでにキュラハも見つけないと」
「もう分かってるんだろ? 三人は繋がってる。お前がここから出れば、みんなも出られる」
魂は、必死に牧緒を説得する。
しかし、ここから出るための理屈は説明しない。
「……本当だな?」
「俺が俺に、嘘つくはずないだろ」
牧緒は、魂の手を取った。
「何も起きないじゃないか」
憤慨するも、魂の態度は平坦なまま。
「俺が助けてやれるのは、この一度きりだ。きっと、もう二度とない」
「は?」
「だから気張れよ。みんなのためにも!」
黒い世界が、白く塗りつぶされる。
牧緒は、理解が追い付かない。
追い付かなくても、言うべきことは理解していた。
「あぁ、任せろ!」
気が付くと、そこは元の遺跡。
呑気に林檎を頬張るヒュリューカの姿を捉えた。
「あ、え? どうやって……」
流石のヒュリューカも、呆気に取られてすぐに構えられない。
その様子から、牧緒は瞬時に取るべき行動に出る。
「動くな。さもなくば、殺す」
ありもしない力を誇示した。
ヒュリューカにとっての予想外を、牧緒にとっての想定内に変える。そう、思い込ませる。
「深淵からは、絶対に抜け出せないはずだ……。少なくとも、魔力の放出を禁じたこの空間では……」
「関係ない。そもそも俺には、魔力なんて無いからな」
「い、いや、ならば尚更! 抜け出すことなど……そうか、そういうことか。デルバめ……黙っていたな」
どうやら、ヒュリューカは合点がいったようだ。
しかし、牧緒がその理由を知る由はない。
「時間稼ぎは、このぐらいでいいか」
足元が盛り上がるのを見て、牧緒は演技を放棄した。
「あぁ、問題ない。あとは妾に任せるといい」
牧緒の影を通して、月の魔女が帰還した。




