第9話 世界が揺れた日
空間拡張技術の実証実験成功から、一週間後。
その七日間は、日本の政府中枢にとって、まさに嵐のような時間だった。CISTから上げられてくる報告書は、日に日に熱を帯び、その内容は、およそこの世のものとは思えないような、バラ色の未来予測で埋め尽くされていた。経済効果の試算、都市計画の再構築案、次世代産業の創出計画。どの報告書も、結論は同じだった。「日本は、神になる」。
権力者たちの興奮は、頂点に達していた。
的場俊介が鳴らした警鐘は、彼らの記憶の片隅には残っていたものの、目の前にぶら下げられた、あまりにも甘美な果実の誘惑の前では、もはや、些細な杞憂としか感じられなくなっていた。リスク管理はもちろん重要だ。だが、それ以上に、この歴史的な大発見を、一刻も早く、全世界に知らしめたい。この日本の、圧倒的な優位性を、世界に誇示したい。その欲望が、政府全体の空気を支配していた。
そして、運命の日。
首相官邸の大会見場には、国内外から、数百人もの報道陣が詰めかけ、異様な熱気に包まれていた。
「緊急記者会見」とだけ銘打たれた、謎の会見。事前に配布された資料もなく、議題も不明。だが、総理大臣をはじめ、全閣僚が列席するという、その異例の物々しさから、何か、とんでもないことが発表されるのではないかという憶測が、記者たちの間で飛び交っていた。
「おい、一体何が始まるんだ? 解散総選挙か?」
「いや、それにしては雰囲気がおかしい。まるで、戦争でも始まる前のような緊張感じゃないか」
「北の国が、また何かやらかしたのか?」
無数のフラッシュと、ざわめき。
その喧騒の只中にいる的場は、閣僚席の末席で、一人、冷や汗をかきながら、掌に「人」という字を何度も書いていた。
これから、自分たちが、世界に放つ情報の、その巨大すぎるインパクトを思うと、恐怖で、身が震えそうになる。
やがて、予定時刻。
官房長官が、硬い表情で演台の前に立ち、深々と、一礼した。
会見場が、水を打ったように静まり返る。
「――これより、日本政府によります、緊急記者会見を、執り行います」
官房長官の声は、緊張で、わずかに上ずっていた。
「本日、皆様にお集まりいただきましたのは、他でもありません。我が国が、人類の歴史を、そして、我々が住む、この世界のあり方を、根底から覆す、ある、重大な発見に成功したことを、ご報告するためであります」
その、あまりにもったいぶった、思わせぶりな前置きに、記者席から、失笑とも、どよめきともつかない声が上がった。
なんだ、いつもの大げさな発表か。新しい省エネ技術でも開発したのか。
だが、官房長官は、構わずに続けた。
「我が国、日本政府が、直轄で組織いたしました、ある、非公開研究機関が……先日、世界で初めて、『空間拡張技術』の、実証実験に、成功いたしました」
空間拡張技術。
その、SF小説から飛び出してきたかのような単語に、記者たちは、一瞬、きょとんとした。
そして、次の瞬間、会見場は、爆笑の渦に包まれた。
「く、空間拡張!? なんだそりゃ!」
「おいおい、政府は、ついにアニメの見過ぎで、頭がおかしくなったのか!?」
「エイプリルフールの冗談は、四ヶ月も前だぞ!」
嘲笑。野次。
だが、官房長官は、その反応すら、織り込み済みだった。彼は、表情一つ変えず、静かに、後方の巨大スクリーンを指し示した。
「……まずは、こちらの映像を、ご覧ください」
スクリーンに、あの、CISTの地下実験場で撮影された、例の映像が、大音量と共に映し出された。
巨大な実験装置。青白い閃光。そして、中央に置かれた、2メートルの鉄の箱。
箱の内部カメラの映像に切り替わり、広大な空間を、調査ドローンが飛び回る。
そして、ロボットアームが、外部と内部の寸法を、無慈悲に計測していく。
【外部計測値:2.00m】
【内部計測値:20.00m】
【内部空間拡張率:1000%】
映像が終わると、会見場は、先ほどの爆笑が嘘のように、不気味な静寂に包まれていた。
記者たちは、呆然と、スクリーンを見上げている。
なんだ、今の映像は。
手の込んだ、CGか? 何かの、映画の宣伝か?
「……今、ご覧いただいた映像は」
官房長官が、静かに、しかし、はっきりと告げた。
「CGでは、ありません。全て、現実に、我が国の研究施設で、撮影されたものです。……信じられない、という皆様のお気持ちは、よく分かります。ですので」
彼は、そこで、にやりと、不敵な笑みを浮かべた。
「別途、この会見場の隣のホールに、記者様向けの、体験コーナーを、ご用意いたしました。……どうぞ、ご自身の目で、その肌で、この、人類の奇跡を、ご体感ください」
その言葉が、引き金だった。
記者たちは、我先にと、隣のホールへと、殺到した。
ホールの真ん中には、あの、実験で使われたものと、全く同じ、2メートルの鉄の箱が、一つ、ぽつんと置かれている。
警備員の制止に従い、記者たちが、一人ずつ、列をなして、箱の側面に設けられた、覗き窓から、その内部を覗き込んでいく。
そして。
覗き込んだ者、全ての時間が、止まった。
「…………あ……」
最初に覗いた、ベテランの政治部記者が、間の抜けた声を上げた。
彼の、百戦錬磨のはずの顔が、驚愕と、混乱と、そして、純粋な子供のような、好奇心で、ぐにゃぐにゃに歪んでいる。
「……なんだ……これは……?」
次の記者も、同じだった。
その次の記者も。
そして、その場にいた、数百人の記者、全員が。
まるで、集団催眠にでもかかったかのように、次々と、そのありえない光景の前に、ひれ伏していく。
彼らが見ているのは、ただの、がらんどうの、鉄の箱の中だ。
だが、その壁が、異常に、遠い。
まるで、小さな窓から、巨大な体育館の中を、覗き込んでいるかのようだ。
口を、あんぐりと開けたまま、固まっている記者たち。
我に返った者たちが、口々に、意味をなさない言葉を叫び始める。
「……おい……どうなってるんだ、これは……!?」
「トリック……か? 鏡か? いや、違う! 奥行きが、本物だ!」
「……うそだろ……」
やがて、全員が、その『体験』を終え、ふらふらとした足取りで、会見場に戻ってきた。
先ほどまでの、嘲笑と、懐疑に満ちた空気は、どこにもない。
そこにあるのは、自分たちの常識が、根底から破壊されたことへの、畏怖と、そして、歴史的な瞬間に立ち会っているという、凄まじい興奮だけだった。
一人の、若い女性記者が、震える手で、マイクを握りしめ、立ち上がった。
「……お、お伺いします! 今、我々が見たものは、一体、何なのですか!? も、もしかして、これは……こ、これは、世紀の、大発見なのでは!?」
その、叫びにも似た質問に、官房長官は、満足げに、そして、これ以上ないほど、芝居がかった、重々しい口調で、答えた。
「ええ。――そうですね。そのように、ご理解いただいて、結構です」
その言葉は、肯定だった。
次の瞬間、会見場は、フラッシュと、怒号と、質問の嵐に、飲み込まれた。
「この技術は、一体、誰が、いつ、どこで発見したのですか!?」
「ノーベル賞どころの騒ぎじゃないぞ!」
その質問に、官房長官は、用意された回答を、淡々と読み上げた。
「この、歴史的な発見をなされた、研究者ご本人が、ご自身の情報を、非公開とすることを、強く希望されましたので、誠に申し訳ありませんが、発見者に関する情報は、今後一切、非公開となります。政府といたしましても、その、偉大な勇気と、謙虚なご意志を、最大限、尊重する所存であります」
もちろん、真っ赤な嘘だ。だが、そのストーリーは、ミステリアスな天才科学者の存在を匂わせ、人々の想像力を、大いに掻き立てた。
「では! この技術の、民間への応用は、どうなっているのでしょうか!? 我々の、生活は、いつ、変わるのですか!?」
国民が、最も聞きたいであろう、その質問。
これもまた、用意された回答があった。
「はい。政府といたしましては、この技術の、国民生活への、一日も早い還元を目指しております。その第一歩として、既に、国内の、一部の選定した運送業者にご協力いただき、彼らが保有するトラックのコンテナを借り受け、空間拡張の実証実験を、秘密裏に、実施中であります」
スクリーンに、今度は、見慣れた運送会社のロゴが入った、大型トラックの荷台の映像が映し出された。
外見は、普通のトラック。
だが、その荷台の扉が開かれると、中は、まるで、巨大な体育館のようになっている。
その、あまりにも分かりやすい応用例に、記者たちは、再び、息を飲んだ。
「この、実証実験により、まずは、その安全性と、社会的、経済的影響を、慎重に、検証いたします。そして、安全が、完全に確認されしだい、段階的に、しかし、速やかに、この空間拡張技術を、様々な分野へ、応用していく計画であります。住宅、インフラ、産業……皆様の生活が、劇的に変わる日は、そう、遠くはありません」
官房長官は、そう、締めくくった。
それは、日本国民、いや、全世界の人々に対する、壮大な、そして、抗いがたい、希望のメッセージだった。
この日、この瞬間。
世界は、確かに、変わった。
この記者会見のニュースは、瞬く間に、全世界を駆け巡った。
最初は、誰もが「日本のエイプリルフール」だと、笑い飛ばした。
だが、会見に出席した、各国の、信頼あるメディアの記者たちが、皆、一様に、半狂乱の状態で、「これは、本物だ」「信じられないことが、起きている」と報じ始めると、世界の空気は、一変した。
ニューヨーク、ロンドン、北京、モスクワ。
世界中の金融市場が、大混乱に陥った。
不動産関連の株価が、軒並み、暴落。
逆に、日本の、建設、運輸、半導体関連の株価は、ストップ高を記録した。
各国政府は、緊急の首脳会議を招集し、日本の、この発表の、真偽を、確かめようと、躍起になった。
アメリカ大統領は、日本の郷田総理に、緊急のホットラインで、問い質した。「リュウタロウ、一体、何が起きているんだ? 説明してくれ」。
郷田は、その、世界の覇者からの、必死の問いかけに、ただ、こう答えたという。
「――我が国は、ただ、少しだけ、未来の扉を、開いただけだよ。ミスター・プレジデント」
CISTの地下本部。
的場は、巨大なスクリーンに映し出される、世界中のニュース速報を、静かに、見つめていた。
BBC、CNN、新華社、タス通信。
あらゆる言語で、『空間拡張』『日本の奇跡』という文字が、踊っている。
パンドラの箱は、開かれた。
世界は、熱狂と、混乱と、そして、日本に対する、嫉妬と、警戒の渦に、飲み込まれていく。
彼の通信機に、月からの、暗号化された、短いメッセージが、届いた。
『――第一段階、成功、おめでとうございます。的場室長』
介入者、からの、祝福の言葉。
だが、的場の心は、晴れなかった。
そうだ。
第一段階は、成功した。
だが、本当の戦いは、これからなのだ。
この、全世界の、欲望と、猜疑心を、一身に、浴びながら。
自分たちは、この、あまりにも強大な力を、正しく、導いていけるのだろうか。
的場は、スクリーンに映る、有頂天で、自国の快挙を語る、郷田総理の顔を見ながら、その、あまりにも重い、責任の重さに、ただ、静かに、身を震わせていた。