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第7話 神々の聖書と狂信者たち

 介入者との初回会議から、三週間。

 その日々は、的場俊介の人生において、最も長く、濃密で、そして最も常軌を逸した時間だった。

 彼が室長を務める特命対策室『CIST』の本拠点は、首相官邸の地下に置かれていたが、実証実験のためのメインステージは、国民の目から完全に隔離された、富士の樹海の奥深くに、古代から存在していたかのように広がる巨大な地下空洞に、急遽建設された。かつて、旧軍が秘密裏に兵器開発を行っていたという伝説が残る、いわくつきの場所。そこに、日本の、いや、世界中の最高性能の機材が、国家の最高権力によって、半ば強奪されるようにして集められたのだ。

 スパコン『富岳』の次世代機プロトタイプ。世界最高精度の原子時計。大型ハドロン衝突型加速器に匹敵する性能を持つ、極秘の粒子加速器。それらが、まるで巨大な怪物の内臓のように、洞窟内に張り巡らされている。

 そして、その怪物を動かす心臓部が、国中から集められた、十数名の天才科学者たちだった。

 だが、彼らの様子は、的場が知る、冷静沈着な科学者のイメージとは、かけ離れていた。


「――だから! この数式における虚数空間の扱いは、我々の知るカルツァ=クライン理論の応用ではない! 完全に新しい、独立した次元軸として定義しなければ、計算が合うはずがないだろうが!」

「馬鹿を言え! それではエネルギー保存則が崩壊する! 君は、この宇宙の根幹を否定するつもりか!」

「宇宙の根幹だと!? 我々が今読んでいるこの『聖書』そのものが、我々の宇宙観を根底から覆しているんだろうが! 常識に囚われるな!」

 怒号。罵声。そして、時折混じる、甲高い奇声。

 それが、CISTの日常風景だった。

 的場が、重い防爆扉を開けて、巨大なメインコントロールルームに足を踏み入れると、いつもの光景がそこにあった。

 壁一面を埋め尽くす、床から天井まで届く巨大なホワイトボードには、もはや芸術の域に達した、複雑怪奇な数式が、一分の隙間もなく書き殴られている。床には、エナジードリンクの空き缶と、数日分の食料の空き箱が散乱している。そして、その中央で、白衣を纏った、しかしその目は血走り、髪は逆立った、まるで狂科学者の集団のような男たちが、殴り合い寸前の勢いで、議論を戦わせている。

 睡眠も、食事も、風呂すら忘れて、彼らは介入者が残した、たった数十ページの論文という名の『聖書』の解読に、その魂ごと没入していた。


「……いつ来ても、なんか、みんな叫んでるな、ここは」


 的場は、コントロールルームの隅で、一人、冷静にコーヒーを飲んでいた、チームの最年長である老物理学者の権威、湯川教授に、呆れ声で話しかけた。

 湯川は、ノーベル賞に最も近いと言われた、日本の知性の至宝だ。だが、今の彼の姿は、公園で鳩に餌をやっている好々爺にしか見えない。彼は、狂騒の中心地から一歩引いた場所で、全てを達観したかのように、静かに微笑んでいた。

「やあ、的場大臣。ご苦労様です」

 湯川は、ゆっくりと的場に向き直った。

「まあ、無理もありませんな。彼らは今、赤ん坊が、いきなりシェイクスピアの原書を読まされているようなものですから。脳が、情報量に耐えきれんのです。奇声でも上げなければ、発狂してしまいますよ」

「発狂、ですか」

「ええ」

 湯川は、手にしたマグカップの中のコーヒーを、慈しむように見つめた。

「介入者から我々が貰った、あの資料。あれは、あまりに先進的過ぎる。我々が、あと五百年はかかるであろう道のりを、たった数十ページに凝縮してある。その一行一行に、我々の科学史全てを合わせたよりも、遥かに高密度な情報が詰まっている。……それを読んでいると、自分の脳が、自分の知性が、いかに矮小で、ちっぽけな存在であるかを、嫌というほど思い知らされるのです。プライドは粉々に砕かれ、知的好奇心は限界まで刺激され、そして、理解を超えた美しさを前に、脳はショートする。その結果が、あれです」

 湯川が顎でしゃくった先では、二人の数学者が、互いの胸ぐらを掴み合いながら、ある数式の解釈について、涙ながらに訴え合っていた。

「……なるほど。それで、最近、皆が壁に向かって祈りを捧げている、と」

 的場の視線の先、コントロールルームの最も神聖な場所とされる壁の中央には、介入者の、あの神々しいホログラム画像が、大きく引き伸ばされて飾られていた。そして、その前には、誰が置いたのか、コーヒーやお菓子が、お供え物のように並べられている。

 湯川は、はっはっは、と声を上げて笑った。


「ああ、あれですか。一部の若手の間で、『介入者教』を立ち上げようという、冗談のような提案が出ているのですよ。『我らが神、メディエーター様が与えてくださった、この聖書を、我々信徒は、命懸けで解き明かさねばならない』とかなんとか。まあ、一種の現実逃避ですな。自分たちの知性で理解できないものを、信仰の対象にすることで、精神のバランスを保っているのでしょう」


「……行き過ぎは、よくないな」

 的場は、眉をひそめた。

「我々は、科学者だ。信仰に逃げた瞬間、我々は、真理を見失うことになる。それは、介入者の望むところではあるまい」

「ええ、分かっております。……まあ、ほどほどに、と、私からも言っておきましょう」

 湯川はそう言うと、立ち上がった。

「さて、大臣。冗談はこれくらいにして、本題に入りましょう。……いよいよ、です」

 その言葉に、的場の背筋が、ぴんと伸びた。

「例の、計算上のパラドックスか」

「はい。昨日、大臣にご指摘いただいた、計算アルゴリズムの問題。あれをヒントに、うちの若い数学者が、やってくれました。介入者の理論を、我々の貧弱なコンピュータでシミュレートするための、全く新しい計算モデルを、一夜で構築しおったのです。……化け物ですな、あいつも」

 湯川の目が、科学者としての鋭い輝きを取り戻す。

「その結果、最後の障壁は、クリアされました。……実験の、準備は、全て整いました」


 その言葉は、CISTの狂騒を、一瞬にして、水を打ったような静寂に変えた。

 今まで怒鳴り合っていた科学者たちが、一斉に、動きを止め、的場と湯川に視線を集中させる。

 彼らの血走った目には、狂気と、恐怖と、そして、歴史の証人となることへの、抑えきれない興奮が、渦巻いていた。

 的場は、ゴクリ、と喉を鳴らすと、決然とした声で、宣言した。

「……よし。最終準備にかかれ。一時間後、人類史上初の、空間拡張実証実験を開始する」


 一時間後。

 CISTの地下研究施設、その最も奥深くに位置する、第一実験場。

 フットボールコートほどの広さを持つ、巨大なドーム状の空間。その中央に、人類の叡智と、介入者の知性が融合した、異形の装置が鎮座していた。

 何百キロにも及ぶ超伝導ケーブルが、巨大なコイルに、蛇のように巻き付いている。装置の周囲には、レーザー冷却装置や、ヘリウム循環システムが、複雑なパイプで接続され、不気味な低温の霧を吐き出している。

 そして、その巨大な装置の中央、まるで祭壇に捧げられた生贄のように、一つの、無骨な鉄の箱が、ぽつんと置かれていた。

 縦、横、高さ、それぞれ2メートルの、変哲もない、ただの箱。

 この日の主役は、この箱だった。

 実験場の周囲をぐるりと囲むように設置された、防弾ガラス張りのメインコントロールルーム。そこに、的場をはじめとする、CISTの全メンバーが集結していた。彼らの顔に、もはや、いつもの狂騒の色はない。あるのは、極度の緊張と、固唾を飲んで、これから始まる神事を待つかのような、敬虔な祈りだけだった。


「――最終チェック、完了。全システム、グリーン」

 若き女性オペレーターの、凛とした声が響く。

「時空位相変異コイル、エネルギー充填率、98パーセント」

「ヘヴィ・シリコン安定器、臨界前安定状態を維持」

「ターゲット・オブジェクト、内部センサー、全て正常に作動」

 湯川教授が、マイクを握り、最後の確認を的場に求めた。

「大臣。……よろしいですな?」

 的場は、黙って、力強く頷いた。

 湯川は、深呼吸を一つすると、コントロールルーム全体に響き渡る声で、号令を発した。


「……よし。では、人類の諸君。神の領域を、少しだけ、覗かせてもらおうじゃないか」

「――カウントダウン、開始! 10、9、8……」


 オペレーターの声に合わせて、全員が、息を止める。


「7、6、5……」


 的場の脳裏に、これまでの三週間の、地獄のような、しかし、どこか充実していた日々が、走馬灯のように駆け巡る。


「4、3、2……」


 彼は、そっと、目を閉じた。

 心の中で、月にいるであろう、あの観測者に、語りかける。

 (見ているか、介入者。これが、我々の、答えだ)


「――1。……ゼロ! イグニッション!」


 その言葉が、引き金だった。

 スイッチが押された瞬間、世界から、音が消えた。

 いや、人間の可聴域を遥かに超えた、超低周波の振動が、施設全体を、そして、その場にいる全員の身体を、内側から揺さぶったのだ。

 巨大なコイルが、青白い光を放ち始める。それは、溶接の光ではなかった。空間そのものが、エネルギーに耐えきれず、プラズマ化して、悲鳴を上げているかのようだった。

 うなり声のような、地響きのような轟音が、遅れてコントロールルームを襲う。計器の針が、ありえない数値を指し示し、次々と振り切れていく。警報音が、耳を劈くように鳴り響く。

「エネルギーレベル、臨界点に到達!」

「空間歪曲率、予測値を超えて上昇中! まずい、このままでは……!」

「構わん! 続けろ!」

 湯川の怒声が飛ぶ。

 そして、その時だった。

 実験装置の中央、鉄の箱が置かれていた、その周囲の空間が、ぐにゃり、と、まるで熱せられた飴のように、歪んだ。

 それは、一瞬の出来事だった。

 だが、その場にいた全員が、確かに、この三次元世界の法則が、根底から覆される瞬間を、目撃した。

 歪みは、一瞬で収束し、装置の唸りも、青白い光も、嘘のように消え去った。

 後に残されたのは、耳鳴りがするほどの静寂と、先ほどと、何一つ変わらないように見える、実験場の光景だけだった。

 中央には、あの鉄の箱が、変わらず、ぽつんと置かれている。


「……お、終わった、のか……?」

 誰かが、かすれた声で呟いた。

 成功なのか。失敗なのか。誰にも、分からなかった。

「……ターゲット・オブジェクトの、内部センサーからの映像を、メインスクリーンに!」

 的場の、命令とも叫びともつかない声が響く。

 数秒後。

 巨大なメインスクリーンに、鉄の箱の内部に設置された、広角カメラからの映像が映し出された。

 そこに映っていたのは、見慣れた、鉄の壁だった。

 だが、何かが、おかしい。

 その壁が、異常に、遠いのだ。

「……おい」

 誰かが、震える声で言った。

「遠隔操作アームを起動しろ! 箱の外寸と、内寸を、今すぐ計測するんだ!」

 天井から、巨大なロボットアームが、ゆっくりと降りてくる。

 まず、アームの先端のレーザー測定器が、箱の外寸を計測する。


【外部計測値:W 2.00m / D 2.00m / H 2.00m】


 モニターに表示された数字に、変化はない。

 次に、アームは、箱の上部に開けられた、小さな穴から、内部へと、細い測定用のプローブを、ゆっくりと挿入していく。

 プローブは、伸びていく。

 1メートル。

 2メートル。

 ……反対側の壁に、ぶつかるはずの距離。だが、プローブは、止まらない。

 3メートル。

 5メートル。

 10メートル。

 コントロールルームにいる全員が、息をすることも忘れ、モニターに表示される、その信じられない数字を、ただ見つめていた。

 そして。

 カツン、という、小さな音と共に、プローブの先端が、反対側の壁に到達した。


 メインスクリーンに、最終的な計測値が、巨大な赤い文字で、表示された。


【内部計測値:W 20.00m / D 20.00m / H 20.00m】


【内部空間拡張率:1000%】


 …………。

 ……。

 数秒間の、完全な、沈黙。

 誰もが、目の前で起きたことの意味を、理解しようと、必死に脳を働かせていた。

 その、静寂を、最初に破ったのは、誰かの、くぐもった、呻き声だった。


「――う、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」


 それは、獣の咆哮のようだった。

 一人の若き科学者が、椅子を蹴り倒して立ち上がり、天を仰いで、ただ、叫んでいた。

 それが、引き金となった。

 次の瞬間、コントロールルームは、熱狂と、歓喜と、そして、狂気の、爆心地と化した。

「やった……!」

「やった! やったぞおおおおおおおおおおお!!」

 科学者たちは、互いに抱き合い、肩を叩き合い、子供のように、涙を流して、その成功を喜び合っていた。

 白衣を着たまま、コントロールパネルの上に飛び乗り、意味不明な勝利のダンスを踊りだす者。

 ホワイトボードに書かれた、あの美しい数式に駆け寄り、恍惚の表情で、その数式にキスをする者。

 彼らは、もはや、社会的地位も、年齢も、何もかもを忘れ、ただ、人類の歴史を塗り替えたという、純粋な興奮の奔流に、その身を任せていた。

 そして、湯川教授が、わなわなと震える唇で、叫んだ。


「――ついに、やった……! やったんだ! 我々は、今日、この日、ついに、神の領域に、到達したんだ!」


 その狂騒の中心で、的場俊介は、一人、静かに、椅子に座ったまま、動かなかった。

 彼の視線は、歓喜に沸く同僚たちではなく、ただ一点、箱の内部を映し出すモニターに、釘付けになっていた。

 成功した。

 人類は、新たな火を手に入れた。

 だが、彼の胸に去来したのは、喜びではなかった。

 安堵。

 そして、それ以上に、遥かに巨大な、畏怖の念。

 これから、この技術を、人類は、どう使っていくのだろうか。

 この、あまりにも強大で、あまりにも甘美な、神の力を。

 彼は、まるで、パンドラの箱を、自らの手で、開けてしまったかのような、途方もない責任の重さに、静かに、身を震わせていた。

 的場は、ふらつく足で立ち上がると、一人、コントロールルームを出て、研究施設の屋上へと続く、冷たい金属の階段を上っていった。

 扉を開けると、富士の麓の、冷たく、澄み切った夜気が、彼の火照った顔を撫でた。

 空には、満天の星。

 そして、その中に、ひときわ大きく、静かに輝く、月があった。


 (――見たか、介入者)

 (これが、我々、人類だ)

 (あなたの与えた、この新しい火で、我々は、楽園を築くのか)

 (それとも、ただ、己の身を焼くだけに終わるのか……)


 答えは、まだ、誰も知らない。

 的場俊介の、そして、人類の、本当の戦いは、まだ、始まったばかりだった。

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