第62話 凍土の呼び声
シベリア、サハ共和国北部。北極圏の境界線が見えない壁のように大地を横切る、この極寒の地は、人の営みを拒絶するかのような絶対的な静寂と、純白の支配する世界だった。太陽ですら冬の間は何週間も地平線の下に隠れ、代わりにオーロラが、緑と紫の幽玄なカーテンを夜空に揺らす。夏になれば、ツンドラの短い草花が一斉に咲き乱れるが、その足元には、数百万年の眠りから決して覚めることのない永久凍土が、大陸の岩盤まで深く根を張っている。
その文明の最果てとも言える場所に、ロシア科学アカデミー極地研究所の第7観測基地は、まるで雪原に突き刺さった一本の杭のように、孤独に存在していた。プレハブを連結しただけの簡素な建物群。その屋根には、雪と氷を溶かすためのヒーターが常に稼働し、白い湯気を虚空に吐き出している。周囲には、地磁気センサー、気象観測タワー、そして永久凍土の深層部まで掘削されたボーリングコアの採取施設が、寒々とした幾何学模様を描いていた。
この基地の責任者であり、地質学と古代微生物学の世界的権威であるアレクセイ・ペトロフ博士は、メインラボの分厚い防寒窓の前に立ち、外で吹き荒れるブリザードを、深い憂鬱と共に眺めていた。50代半ば、痩身で神経質そうに尖った顎には無精髭が伸び、その目は、長年の研究生活による疲労と、そして最近、彼を悩ませている不可解な観測データへの困惑で、深く窪んでいた。
「……やはりおかしい」
彼は独りごちた。手にしたタブレットには、この数ヶ月間、基地の深層地磁気センサーが記録し続けている奇妙なグラフが表示されている。それは、通常の地磁気の変動パターンとは全く異なる、極めて規則的で、まるで生命の鼓動のような微弱なパルスだった。周期は約27.3時間。そのエネルギー源も発生メカニズムも、現在の地球物理学の常識では全く説明がつかない。
当初、彼はこれを機器の故障だと考えた。だが、他のセンサー、他の基地でも同様の、しかしさらに微弱なパルスが同期して観測されていることが判明した。それは、あたかもこのシベリアの凍土の、さらに地下深くで、何か巨大な未知の存在が、ゆっくりと呼吸をしているかのようだった。
クレムリンにこの異常データを報告すべきか、彼は迷っていた。西側G7が『介入者』という宇宙人の存在を公表し、世界が熱狂と混乱の渦に叩き込まれて以来、ロシアという国家は、ますますその殻に閉じこもり、猜疑心を強めていた。こんな非科学的で説明不能なデータを上げれば、モスクワの官僚たちに一笑に付されるか、あるいは逆に西側の新たな謀略だと邪推され、面倒な政治的査問に巻き込まれるのが関の山だろう。
(……だが、科学者として、この謎を放置することはできない……)
彼の心の奥底で、純粋な探究心の炎が燻っていた。このパルスの正体は何なのか。それは、この星の、まだ誰も知らない深淵からのメッセージなのではないか。
彼がその葛藤に心を囚われていた、まさにその時だった。
ラボの空気が変わった。それは温度の変化ではなかった。気圧の変化でもない。もっと根源的な、空間そのものの質が変容したかのような奇妙な感覚。ブリザードの唸り声が一瞬遠のき、代わりに、まるで深い森の奥で響くような、静かで荘厳な倍音が、彼の鼓膜を震わせた。
そして光。窓の外の吹雪の白さとは全く違う、内側から発光するような柔らかな緑と青の光が、ラボの中央、何もないはずの空間に、ゆっくりと満ち始めた。
「な……!?」
アレクセイは息を飲んだ。彼は咄嗟に、壁に取り付けられた非常警報のボタンに手を伸ばそうとした。だが、彼の体はまるで金縛りにあったかのように動かなかった。恐怖ではない。むしろ、あまりにも圧倒的な、神聖なまでの存在感を前にして、彼のちっぽけな人間の意志が、完全に無力化されてしまったかのようだった。
光は収束し、一つの形を結んでいく。それは女性の姿だった。だが、彼が知るいかなる人間とも似ていなかった。流れるような長い髪は、窓の外で揺らめくオーロラそのものを編み込んだかのように淡く、そして絶えずその色彩を変えていた。瞳は、夏のバイカル湖の、その最も深い湖底の色を湛え、見る者の魂の奥底までを見透かすかのような、静かでしかし絶対的な知性を宿していた。彼女が纏う衣は、苔むした岩肌のようであり、同時に春の若葉のようでもあり、そして秋の紅葉のようでもあった。それは、季節そのものを織り込んだかのような、生きたドレスだった。素足でラボの冷たい金属の床に立っているにも関わらず、その足元からは、まるで幻のように小さな白い花が咲き、そして数秒で儚く散っていく。彼女の存在そのものが、この極寒のシベリアの大地に息づく、厳しくも美しい自然の精霊、あるいは女神そのものの顕現であるかのように思えた。
『……聞こえますか? 大地の子よ』
その声は、アレクセイの耳からではなく、彼の頭蓋骨の内側に直接響き渡った。それは女性の声でありながら、同時に風の囁きであり、氷河の軋む音であり、そして大地そのものの深淵から響いてくるような、重く荘厳な響きを持っていた。
「あ……あ……」
アレクセイは言葉を発することができなかった。彼はただ膝をつき、その、ありえないほど美しく、そして畏怖すべき存在の前に、ひれ伏すことしかできなかった。
『恐れることはありません』
女神の声は穏やかだった。だが、その穏やかさの奥には、数億年の時を静かに見つめてきた存在だけが持つ、絶対的な威厳があった。『私は、あなた方がロッド(Rod)と呼ぶもの。……あるいは、この星そのものの声とでも認識なさい』
ロッド。スラヴの古き神の名。アレクセイの脳裏に、忘れかけていた民族の記憶が蘇る。
『私は、あなたを見ている』
ロッドは、アレクセイが手にしていたタブレットに、その深い青色の瞳を向けた。『あなたが聞き取った、この大地の微かな呼吸を。……それは気のせいではありません。……それは、この星が、その永い眠りから目覚めようとしている、胎動の響きなのです』
「……星が……目覚める……?」
『ええ』と、ロッドは頷いた。『あなた方人類は、あまりにも性急に、あまりにも多くのものを、この大地から奪いすぎた。……森を焼き、土を汚し、そして大気の組成すら変えてしまった。……この星は傷つき、疲れ果て、そして静かに怒りを溜め込んでいる。……その怒りが限界を超えた時、何が起きるか。……あなた方自身が、一番よく知っているはずでしょう?』
その言葉は静かだが、有無を言わせぬ重みを持っていた。アレクセイの脳裏に、近年、世界各地で頻発する異常気象、巨大地震、そして火山の噴火の映像が、フラッシュバックのように蘇った。
『ですが』とロッドは続けた。『大地は、ただ怒りだけを抱いているわけではない。……その深淵には、あなた方人類を、そしてこの星の全ての生命を、新たなるステージへと導くための、偉大なる力が眠っている。……それは、あなた方が『介入者』や『太歳』と呼ぶ、星々の彼方から来た者たちがもたらす力とは、全く異なる。……この星自身が、その胎内で億年の時をかけて育んできた、固有の奇跡なのです』
ロッドは、そのオーロラの髪を揺らしながら、ラボの壁に表示されたシベリアの広大な地質図の一点を、静かに指し示した。それは、この第7観測基地から北東へ数百キロ離れた、ヤナ川流域の永久凍土が特に深く分布する地域だった。
『――あの場所へ行きなさい』
女神の最初の神託が下された。『その凍てつく大地の下深く。……数百万年の時を超えて、この星の若き日の記憶をその身に宿したまま眠り続ける、古の命がいます。……彼らは、かつてこの星が、まだ灼熱の炎と氷に覆われていた時代に生まれ、星の中心核から湧き上がる熱だけを頼りに生き永らえてきた。……彼らこそが、あなた方が聞き取った、この大地の呼吸の源なのです』
彼女の瞳が、強い光を放った。『その古の命は、星の熱を生命の力へと変える術を知っている。……それは、あなた方人類が今、喉から手が出るほど欲しがっている『力』そのもの。……エネルギーの究極の答えです』
アレクセイは息を飲んだ。エネルギー。常温超伝導。彼の脳内で、点と点が繋がり始めた。
『ですが』と、ロッドの声に、厳かな警告の響きが加わった。『その力を目覚めさせることは、同時に大いなる危険を伴います。……星が育んだ力は、星そのものを癒すために使われるべきもの。……それを、あなた方人類のちっぽけな欲望や争いのために使うならば……』
彼女の瞳が、絶対零度の氷のような光を宿した。『――星は、その怒りを解き放つでしょう。……あなた方がその力に相応しい叡智と、大地への敬意を持つまでは、決してその眠りを妨げてはなりません』
ロッドは、その警告を最後に、ふっとその表情を和らげた。『……ですが、あなたにはその資格があるかもしれない』
彼女は、アレクセイの、その科学者としての純粋な探究心と、大地への畏敬の念を見抜いていた。『まずは、その存在を確かめてごらんなさい。……彼らを傷つけぬよう、細心の注意を払って。……そして、もしあなたが彼らと対話する方法を見つけ出すことができたなら……』
彼女は、まるで母親が子供に秘密を打ち明けるかのように、その声にわずかな期待を滲ませた。『……その時こそ、この星の新たなる夜明けが訪れるでしょう』
その言葉を最後に、ロッドの女神のような姿は、すうっと、まるで陽炎のように揺らぎ始めた。オーロラの髪が風に溶け、バイカル湖の瞳が霧に霞み、そして大地の色を映した衣が、光の粒子へと還っていく。数秒後、そこには元の無機質なラボの空間だけが残されていた。ブリザードの唸り声が、再び現実の音としてアレクセイの鼓膜を打った。
全ては夢だったのだろうか。あまりにも鮮明で、あまりにもリアルな白昼夢。
だが、彼の目の前の床には、その夢が現実であったことを示す、一つの小さな証拠が残されていた。それは、ロッドが立っていた場所の金属の床に、まるで霜が降りたかのように自然に咲いた、一輪の見たこともない白い花だった。その花は、この極寒の地ではありえないほどの、甘く清らかな香りを放っていた。そして彼の手にしたタブレットには、先ほどロッドが指し示したヤナ川流域の、永久凍土の正確な座標データが、まるで最初からそこにあったかのように記録されていた。
「……………」
アレクセイは、しばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。そして、彼はゆっくりと膝をつき、その白い花を震える指先で、そっと摘み上げた。
彼の心は決まっていた。クレムリンへの報告などどうでもいい。政治的な駆け引きも国家の威信も、今の彼には関係なかった。科学者として、いや一人の人間として、この星の声を聞いてしまったのだ。行かねばならない。あの凍てつく大地の下へと。そこに眠る古の命に会うために。
その日から、アレクセイ・ペトロフは変わった。彼は全ての公的な研究活動を停止し、少数の、最も信頼できる若き研究者たちだけを集め、極秘裏にヤナ川流域への調査探検の準備を開始した。表向きは「永久凍土の融解が古代微生物生態系に与える影響に関する長期フィールドワーク」。誰も疑う者はいなかった。
彼らは、基地にある全ての資源と機材をかき集め、最低限の食料と燃料だけを積み込み、そして雪上車に乗り込んだ。目指すは、神が指し示した人類未踏の聖域。
一週間の過酷な旅だった。ブリザードが視界を奪い、クレバスが行く手を阻み、雪上車は何度も故障しかけた。だが、アレクセイの心は不思議なほどの確信に満ちていた。まるで、大地そのものが彼らを導いているかのように。
そして、ついに彼らはその場所にたどり着いた。そこは、周囲を氷河に囲まれた巨大なクレーターのような盆地だった。風もなく、絶対的な静寂が支配するその場所の空気は、他のシベリアのどの場所とも違う、奇妙な温かさを帯びていた。そして盆地の中心部には、永久凍土が奇妙な形で隆起し、まるで古代の祭壇のような形を作っていた。
「……ここだ……」
アレクセイは呟いた。彼の体が、その場所に満ちる未知のエネルギーに共鳴し、微かに震えていた。彼らは慎重に、そして最新の注意を払いながら、その祭壇の中心部へとボーリングを開始した。ドリルは驚くほどスムーズに凍土を貫いていく。まるで大地が自らその胸を開いて、彼らを迎え入れているかのようだった。
そして掘削開始からわずか数時間後。深度三百メートルの地点で、ドリルは硬い氷の層とは明らかに異なる、何か柔らかく弾力のある層に突き当たった。モニターに、採取されたコアサンプルの映像が映し出される。研究者たちは息を飲んだ。
それは氷ではなかった。それは、まるで生きたゼリーのような半透明の緑色の物質だった。そしてその内部には、無数の微細な気泡のようなものが、まるで星屑のように明滅し、ゆっくりと、しかし確実に脈打っていた。
「―――見つけた……」
アレクセイは震える声で言った。「―――これが……。これが星の熱を伝える古の命……。『シベリアの星霜菌』……!」
研究者たちは歓喜の声を上げ、抱き合った。だが、アレクセイの心は喜びよりも、むしろ畏怖の念で満たされていた。自分たちは、パンドラの箱を開けてしまったのではないか。この、あまりにも美しく、そしてあまりにも未知なる生命体を、自分たちは本当に制御できるのだろうか。ロッドの警告が、彼の脳裏に重く響いた。
彼がその畏怖に立ち尽くしていた、その時だった。再び空気が変わった。掘削現場の極寒の空気が、春の陽光のような暖かさと、芳しい花の香りに満たされた。
そして、彼らの目の前、祭壇のように隆起した永久凍土の上に、あの女神ロッドが再びその姿を現した。今度の彼女の姿は、以前よりもさらに輝きを増し、その瞳には満足げな光が宿っていた。
『……よくぞたどり着いた。大地の探求者よ』
ロッドの声が、アレクセイの魂に直接響いた。『あなた方は、最初の試練を乗り越えた。……この星の、最も深き秘密の一つに触れる資格を得たのだ』
彼女は、アレクセイたちが採取した緑色のゼリー状の物質――星霜菌のコロニー――へと、その視線を向けた。『それは、ただの微生物ではない。……それは、この星の地熱エネルギーを直接、生命エネルギーへと変換し、そしてその過程で、空間そのものの構造に干渉する、奇跡の生命体だ』
彼女は、アレクセイの脳内に直接、その知識を送り込んできた。それは言葉ではなかった。数式であり、分子構造であり、そして彼がこれまで学んできた物理学の常識を覆す、全く新しい宇宙の法則だった。
『彼らは、その体内で極めて特殊な金属原子を生成する。……それは、あなた方が『超伝導』と呼ぶ現象を、絶対零度ではないこの地上の温度で実現させる、奇跡の物質だ』
常温超伝導。その言葉の持つ意味の巨大さに、アレクセイは眩暈を感じた。
『だが、それだけではない』とロッドは続けた。その声には、どこか悪戯っぽい響きすらあった。『彼らが、そのエネルギー変換プロセスの中で副次的に放出する、微弱な高次元放射線。……それは、あなた方人類が生み出した、最も愚かで危険な汚染物質――原子の核が崩壊する際に放たれる死の灰(放射能)――すらも、無害な元素へと分解し、還元する力を持っている』
放射能すら分解する。チェルノブイリの悪夢。フクシマの悲劇。そして、シベリアの凍土の下に、秘密裏に廃棄され続けてきた核廃棄物の山。その全てを、この小さな微生物が浄化できるというのか。
『まさに、星が育んだ奇跡でしょう?』
ロッドは静かに言った。『生命を生み出す力と、死を浄化する力。……その両方を、彼らはその小さな体の中に宿しているのです』
彼女はアレクセイの目を、まっすぐに見つめた。『だが、忘れてはなりません。……奇跡とは、常に大いなる責任を伴うもの。……この力をあなた方がどう使うか。……創造のためにか、それともさらなる破壊のためにか。……大地は、そして私は、あなた方の選択を静かに見守っているでしょう』
そして、彼女は最後の警告を告げた。『扱い方を誤ってはなりません。……星の怒りは、あなた方が想像するよりも遥かに深く、そして恐ろしいものなのですから』
その言葉を最後に、ロッドの姿は再び、すうっと、まるで春の雪解け水のように、シベリアの冷たい空気の中へと溶けるように消えていった。後に残されたのは、絶対的な静寂と、手にした緑色の奇跡の物質、そしてその、あまりにも巨大な可能性と責任の重さに、ただ呆然と立ち尽くす科学者たちだけだった。
アレクセイ・ペトロフは、震える手で星霜菌のサンプルを、厳重な保管容器へと収めた。彼の心の中には、もはや疑念も恐怖もなかった。あるのは、この神からの、いや大地からの贈り物を、人類のために、そしてこの星のために、正しく用いなければならないという、科学者としての、そして一人の人間としての絶対的な使命感だけだった。
彼は、凍てつく風が吹き抜けるシベリアの荒野を見渡した。その荒涼とした風景が、今の彼には、無限の可能性を秘めた宝の山のように見えていた。
(……帰ろう)
彼は心の中で呟いた。(……モスクワへ。……そしてあの氷の皇帝に、この奇跡を報告するのだ)(……彼が、この力を正しく使うことを信じて……)
その彼の純粋な願いが、クレムリンの冷徹な権力闘争の中で、どのように歪められていくのか。その悲劇的な未来を、彼はまだ知る由もなかった。
ただ、彼の足元の永久凍土の下で、数百万年の眠りから目覚めた古の命が、新たな時代の胎動を告げるかのように、静かに、しかし力強く、その脈動を続けているのだった。




