第61話 龍脈の覚醒と、大地の凱歌
北京、中南海。
その名が放つ歴史の重みと、権力の深淵。その心臓部である国家主席執務室の空気は、あの日、龍 岳山が一人で天啓を受けたと絶叫したあの瞬間から、完全に変質していた。そこは、もはや政治的な計算や駆け引きが行われるだけの場所ではない。神の意志が、この地上の代理人を通じて直接顕現する、新たなる時代の神殿と化していた。
その神殿の主、龍 岳山は、夜明け前の薄闇の中、執務室の窓から眼下に広がる紫禁城の瑠璃瓦を、静かに見下ろしていた。不老不死の肉体を得た彼は、もはや睡眠を必要としない。だが、それ以上に、彼の魂を高揚と焦燥の炎で焼き尽くすものが、その掌の上にあった。
彼の右手には、あの夢枕で授かった古びた絹の袋が、確かな重みをもって握られている。そして左手には、黒曜石を磨き上げたかのような、脈打つ心臓、『龍の胚子』が、ドクン、ドクンと、まるで彼の野心と共鳴するかのように、力強い生命の鼓動を刻んでいた。
(時は、満ちた……)
彼の口元に、絶対的な権力者だけが浮かべることのできる、静かな、しかし獰猛な笑みが浮かんだ。
彼は、内線電話のボタンを押した。その声は、夜明け前の静寂を切り裂く、雷鳴のようだった。
「――中央政治局常務委員、及び人民解放軍統合参謀部の全将官を、一時間以内に官邸第一会議室に招集せよ。……遅参は、許さん」
一時間後。
中国という巨大な国家の全ての権力をその手に握る男たちが、深夜の突然の呼び出しに困惑と警戒の色を浮かべながら、その重々しい会議室の席に着いていた。彼らの視線は、壇上に一人立つ龍 岳山の、常軌を逸した異様なまでの高揚感に、釘付けになっていた。主席は、ついに重圧に耐えかねて狂ったか。その疑念が、部屋の空気を支配していた。
龍 岳山は、そんな彼らのちっぽけな憶測を、まるで意にも介さなかった。彼はただ、演台の上に恭しく置かれた『龍の胚子』を指し示した。
「同志諸君。……本日、汝らに集まってもらったのは、他でもない。……我が中華民族五千年の歴史における、真の天命の始まりを、その目に焼き付けさせるためだ」
彼は、昨夜の太歳との邂逅を、その神託の全てを、まるで叙事詩を語る吟遊詩人のように、荘厳に語り始めた。そして、最後に、その物理的な証拠である脈打つ心臓を、高々と天に掲げた。
「これこそが、天が我らに与え給うた、新たなる生命! この大陸そのものを、我らが肉体へと変える、『地龍脈』の種子である!」
その狂信的な演説と、目の前で不気味に脈打つ未知の臓器。
幹部たちは、恐怖と混乱に言葉を失った。
だが、龍 岳山は、もはや彼らの同意など求めてはいなかった。これは、神託の執行なのだ。
彼は、統合参謀総長に向かって、絶対的な権威をもって命じた。
「――即刻、全軍の最精鋭工兵部隊を、山東省、泰山へと派遣せよ。……山頂に、祭壇を築くのだ。……そして、国家科学院の陳教授をはじめ、我が国の全ての頭脳を、そこに集結させろ。……これより、我々は、神の御業を、この大地に顕現させる!」
その日から、中国は変わった。
いや、中国が立つ大地そのものが、変貌を始めた。
泰山。
かつて、始皇帝をはじめとする歴代の皇帝たちが、天に対して自らの統治の正当性を報告する「封禅の儀」を執り行った、中華文明で最も神聖な山。その山頂は、人民解放軍によって完全に封鎖され、わずか数時間で、古代の祭壇を模した巨大な施設が、急造された。
その中央、最も気の集まるという龍穴の真上に、龍 岳山は、自らの手で『龍の胚子』を、深く、深く地中に埋めた。
それは、もはや政治的な行為ではなかった。
それは、神官王として、大地と天とを結ぶ、神聖な儀式だった。
胚子が埋められた、その瞬間。
泰山の山頂から、中国大陸全土へと、目には見えない、しかし誰もが肌で感じることのできる、巨大な生命の脈動が、同心円状に広がっていった。
それは、地震ではなかった。
それは、この大陸という名の眠れる巨人が、数億年の眠りから覚醒する、最初の産声だった。
北京、国家地震局の地下管制室は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「なんだこれは!? 中国全土の地震計が、同時に、同じ周期の微弱な振動を捉えている! ありえん! こんな芸当、惑星そのものを揺るがすほどのエネルギーでもなければ……!」
「震源地は……泰山!? だが、これはプレートの動きではない! 何か……何か巨大な生き物が、地殻の下で、心臓のように脈打っているとでもいうのか!?」
科学者たちは、自らの観測機器が映し出す、あまりにも非科学的なデータの前に、ただ絶叫するしかなかった。
その大地の脈動は、日に日に、その力を、そしてその範囲を増していった。
埋設から三日後。
泰山に集められた国家科学院の科学者チームは、その脈動が、単なる振動ではないことを突き止めた。それは、中国大陸の古代の断層線、すなわち、風水で言うところの「龍脈」そのものに沿って、驚異的な速度で広がる、一種の有機的なネットワークだった。
陳教授は、震える声で龍 岳山に報告した。
「……主席……。信じがたいことですが、あの『胚子』は……大陸の地熱エネルギーを吸収し、自己増殖しながら、地下深くに、一種のトンネル網を、形成しているようです。……それは、まるで、この大陸そのものが、一つの巨大な生命体の、循環器系へと、作り変えられていくかのような……」
そして、運命の一週間後。
その奇跡は、ついに人々の目の前に、その姿を現した。
上海、外灘。早朝の散歩を楽しむ市民たちの目の前で、その異変は起きた。黄浦江沿いの遊歩道の、その石畳が、まるで生きているかのように、ゆっくりと隆起し始めたのだ。人々は、悲鳴を上げて後ずさった。
だが、それは破壊ではなかった。
隆起した石畳は、まるで蕾が綻ぶかのように静かに左右に割れ、その亀裂の中から、黒曜石を磨き上げたかのような滑らかな質感を持ち、翡翠色の血管のような紋様が走る、巨大な黒い蓮の蕾のような物体が、音もなく、せり上がってきた。
それは、見る者を畏怖させる、禍々しくも、神々しいまでの美しさを湛えていた。
その現象は、上海だけではなかった。
北京の天安門広場、広州の珠江沿い、西安の鐘楼の前、そして、遥か西域ウルムチのバザールの中心。
中国全土の、人が多く集まる主要な都市、その全てに、まるで天からの啓示のように、同じ黒い蕾が、同時に出現したのだ。
中国国民は、混乱と興奮の渦に叩き込まれた。政府は、これを「太歳様がもたらした、国家の新たなる門出を祝う吉兆である」と発表。人々は、その黒い蕾を、畏敬の念を込めて『龍籠(ロンコ゛)』と呼び、その周りに集まっては、祈りを捧げ始めた。
そして、出現から二十四時間が経過した、正午。
龍 岳山が、天安門広場の巨大な龍籠の前に立ち、全世界に向けて、その覚醒を宣言した。
「―――見よ、同胞たちよ! これこそが、太歳様が我らに与え給うた、新たなる龍脈の息吹! 我が中華の大地を、一つに結ぶ、神の道である!」
彼がそう叫び、その手を天に掲げた瞬間。
中国全土に点在する、数百の龍籠が、まるで彼の声に呼応するかのように、一斉に、その黒い花弁を、ゆっくりと、そして荘厳に開花させた。
その内部から溢れ出したのは、闇ではなかった。
それは、柔らかな、胎内のような温かい光と、乗る者を優しく包み込む、霧のような生体エネルギーだった。
龍籠の内部は、まるで最高級の寝台のような、滑らかな曲線を描く有機的な空間となっており、その中央には、一人、あるいは数人が乗り込むための『龍の鱗』と呼ばれる、流線型のカプセルが、静かに鎮座していた。
龍 岳山は、全世界のメディアが固唾を飲んで見守る中、その最初の乗員として、天安門広場の龍籠の中へと、迷いなく足を踏み入れた。
彼は、龍の鱗に乗り込むと、ただ一言、その目的地を告げた。
「――上海、外灘」
その言葉を認識したかのように、龍の鱗は音もなく閉じ、龍籠の花弁もまた、静かにその口を閉ざした。
数秒間の沈黙。
そして、龍籠全体が、ごくわずかに、しかし力強く一度だけ脈打った。
それは、地龍脈が、その最初の乗客を「飲み込んだ」合図だった。
その頃、上海、外灘の龍籠の前では、待ち構えていた政府高官たちが、緊張した面持ちで、その到着を待っていた。
北京を出発してから、わずか十分後。
上海の龍籠が、同じように力強く一度だけ脈打ち、そしてその黒い花弁を、ゆっくりと開いた。
中から現れたのは、出発した時と何一つ変わらぬ、威厳に満ちた龍 岳山の姿だった。
彼は、カプセルから降り立つと、上海の湿った空気を、満足げに吸い込んだ。
その背後には、北京の天安門の楼閣ではなく、上海の近代的な摩天楼が、広がっていた。
「―――うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」
その場にいた政府高官、そしてその光景を中継で見ていた中国全民衆から、熱狂的な、そして狂信的なまでの歓声が、巻き起こった。
奇跡は、本物だった。
北京から、上海まで、わずか十分。
飛行機でも、高速鉄道でもない。
龍の胎内を通って、この国の端から端までが、一瞬で結ばれたのだ。
その日から、中国は、再び変わった。
龍籠は、国民に無償で開放された。
人々は、まるでバスに乗るかのような気軽さで、この神の乗り物を利用し始めた。
その結果、中国という国家から、『距離』という概念が、事実上消滅した。
ハルビンの、氷祭りの会場で働く若い女性が、仕事終わりに、十分かけて、南国の海南島のビーチで、恋人と夕日を眺める。
新疆ウイグル自治区で牧畜を営む老人が、孫の大学の卒業式に出席するために、十分かけて、北京の大学へとやってくる。
四川の、山奥の村に住む少年が、生まれて初めて海を見るために、十分かけて、上海の港へとやってくる。
ビジネスマンは、もはや出張という概念を失った。朝は上海で会議をし、昼は重慶で火鍋を食べ、夕方には北京の自宅で家族と食卓を囲む。
この広大すぎる国土が、まるで一つの小さな都市のように、一つになった。
人々は、もはや自分が住む省や市といった、ちっぽけな共同体に属しているとは、考えなくなった。
我々は皆、この龍脈という名の血管で結ばれた、一つの巨大な家族、『中華』なのだと。
そのあまりにも強烈な、そして心地よい一体感。
中国国民は、歓喜した。
彼らは、この奇跡をもたらした太歳を、真の神として崇め、そしてその代理人である龍 岳山を、現代の始皇帝として、心の底から崇拝した。
ただし、この神の乗り物には、一つの奇妙な制限があった。
龍籠は、人が多く集まる都市や町にしか、出現しなかったのだ。誰もいない砂漠の真ん中や、未開の山奥に、直接行くことはできない。
だが、人々はそれを、不便だとは思わなかった。
むしろ、こう解釈した。
「太歳様は、我々人民の集う、賑やかな場所がお好きなのだ」と。
その人間的な制限こそが、かえってこの神への、親近感を増大させる結果となった。
西側のG7は、この東側で起きた、あまりにも非科学的で、あまりにも神話的な出来事を前に、完全に沈黙するしかなかった。
彼らの偵察衛星が捉えたのは、中国大陸の地表に点在する、不気味な黒い蓮の蕾だけ。その地下で、一体何が起きているのか。彼らの合理的な科学の常識では、もはや分析することすら、不可能だった。
西側が、個人の肉体を鋼鉄へと進化させる『ミクロの革命』を進めている間に。
東側は、国家の大地そのものを生命体へと変貌させる『マクロの革命』を、成し遂げてしまったのだ。
その絶望的なまでの、文明進化の方向性の違い。
そのどちらが、真の進化なのか。
その答えを、まだ誰も知らなかった。
ただ、時計の針だけが、二つの全く異なる未来へと向かって分岐を始めた人類の、新たな時代の到来を、静かに、そして無慈悲に、刻み続けていた。