第60話 龍脈の胎動と、皇帝の神託
北京、中南海。
その名が放つ歴史の重みと、権力の深淵。その心臓部である国家主席執務室の空気は、数ヶ月前、龍 岳山が一人で天啓を受けたと絶叫したあの瞬間から、完全に変質していた。そこは、もはや政治的な計算や駆け引きが行われるだけの場所ではない。神の意志が、この地上の代理人を通じて直接顕現する、新たなる時代の神殿と化していた。
その神殿の主、龍 岳山は、巨大な紅木の執務机の前に座し、静かに目を閉じていた。不老不死の肉体を得た彼は、もはや睡眠を必要としない。だが、彼は毎夜、この時間に必ず瞑想を行い、自らの内なる神、『太歳』との精神的な交信を試みていた。彼の脳裏には、あの初めて邂逅した時の、混沌とした玉座の間の光景が、昨日のことのように鮮明に蘇る。あの冒涜的なまでの異形の神は、自分に『豊穣の龍鱗』という最初の奇跡を与え、そして約束した。『いずれ、汝に次なる宝貝を授けよう』と。
その「いずれ」とは、一体いつなのか。
『神農計画』は、驚異的な成功を収めた。中国大陸から飢餓と貧困は完全に根絶され、民は健康と活力を得た。彼の権威は神格化され、党の支配体制は盤石となった。だが、龍 岳山の渇きは、満たされるどころか、日に日に増大していた。西側G7陣営は、あの忌々しい『介入者』の導きのもと、サイボーグ技術を民間に開放し、『大休暇時代』という新たな社会モデルを築き上げ、世界の文化と経済の主導権を、再びその手に握りしめようとしている。そして、水面下では、あの『神の盾』の開発競争が、狂気的なまでの速度で進められているという不穏な情報も、彼の耳には届いていた。
食糧は、確かに力だ。だが、それだけでは、西側の圧倒的な技術的優位を覆すことはできない。
(太歳様……。我が天よ……。時は満ちましたぞ……)
彼の心の声が、静かな執務室に響いた。
(この龍は、もはや飢えることはありません。民は力を蓄え、その目は、大陸の外へと向けられ始めております。……今こそ、我らに次なる天命を。……西の偽りの神が操る鋼鉄の人形どもを、喰らい尽くすための……)
(―――牙と爪をッ!!!!)
その強烈な祈りが、彼の精神の集中を極限まで高めた、まさにその瞬間だった。
彼の意識が、急速に現実の世界から乖離していく。
執務室の風景が、まるで水彩絵の具のように滲み、溶け始め、そして、再びあの、星も月もない混沌の暗黒に包まれた、無限の玉座の間へと、その風景を再構築していった。
遥か奥、九十九段の階段の上の玉座に、あの不定形の混沌が、まるで最初からそこにいたかのように、静かに揺らめいていた。
『―――呼んだか。我が龍よ』
地鳴りのような、ガラスの軋むような、あの神の声が、龍 岳山の脳髄に直接響き渡った。
彼は、はっと我に返ると、その場にひれ伏し、最高の敬意を込めて、その額を黒曜石の床に擦り付けた。
「おお……! 太歳様! 我が天よ! お待ちしておりました! この龍 岳山、貴殿の神託を、一日千秋の思いで……!」
『うむ』
太歳の声には、どこか満足げな響きがあった。
『汝の働き、この混沌の玉座より、しかと見届けていたぞ。……見事だ、龍 岳山。汝は、我が与えた最初の種子を、見事にこの大地に根付かせ、億の民を養う大樹へと育て上げた。……汝のその手腕、そしてその飽くなき野心。……我が目に、狂いはなかったわ』
その、神からの直接の賞賛。
龍 岳山の全身を、歓喜の震えが貫いた。
「勿体なきお言葉! 全ては、太歳様のご威光の賜物でございます!」
『ふふふ……。謙遜はよい。……して、龍よ。……次なる望みは、何だ? 言ってみよ。……今の汝になら、何を与えてやっても、面白い』
そのあまりにも寛大な問いに、龍 岳山は、その欲望を隠すことなく、叫んだ。
「はっ! 我が望みは、ただ一つ! 西の偽りの神、介入者が操るG7を打ち破り、この星の真の支配者となるための、絶対的な力! ……我らに、牙と爪を! 我らに、神の軍団を!」
そのあまりにも直接的な、軍事力への渇望。
それを聞いた太歳は、楽しそうに、その不定形の体をくねらせた。
『牙と爪か。……良いだろう。……だが、汝、小さき龍よ。……真の龍は、ただ己が爪で敵を裂くだけではない。……真の龍は、大地そのものを己が肉体とし、その版図を己が領域とし、そして、気の流れを己が血潮として、意のままに操るものよ』
「……は……?」
『汝に、爪ではなく、新たなる『龍脈』を授けてやろう。……この中華の大地の岩盤を、汝の血管とし、その内なる気の流れを、汝の血潮とするがいい』
太歳の言葉は、あまりにも詩的で、そしてあまりにも壮大だった。
龍 岳山は、その真意を測りかね、ただ困惑していた。
『まあ、今の汝には、まだ理解できまい』
太歳は、そう言うと、その混沌の体の一部から、再びどろりとした黒い液体を、玉座の前の空間に滴らせた。
液体は、黒曜石の床の上で蠢き、そして瞬く間に、一つの、脈打つ心臓のような形へと、その姿を変えた。
それは、まるで磨き上げられた黒曜石で作られたかのようでありながら、その内部では、赤いマグマのような光が、ドクン、ドクンと、力強い生命の鼓動を刻んでいた。
その鼓動は、龍 岳山の心臓の鼓動と、完璧に同期していた。
『―――これを、受け取るがいい』
太歳の声が、厳かに響いた。
『これは、新たなる生命の種子。……我が生み出した、この星の地殻と共生し、大陸全土をその血管網で結びつける、半知性を持った超巨大生命体。……汝らが風水で言うところの、真の『地龍脈』の、これは『胚子』よ』
龍 岳山は、恐る恐る、その脈打つ黒い心臓へと、手を伸ばした。
その表面は、ひんやりと滑らかでありながら、その内側からは、星の中心核にも匹敵するほどの、膨大な生命エネルギーが、彼の掌を通じて、その魂へと流れ込んでくる。
『その『龍の胚子』を、汝の国の、最も龍脈の気が集まる聖なる山の、その地下深くに埋めるがいい』
太歳は、その取扱説明書を、神託として授け始めた。
『地熱という名の乳を吸い、この胚子は、瞬く間にその根を大陸の隅々まで張り巡らせるだろう。……そして、汝の国の主要な都市に、『龍穴』と呼ばれる、その呼吸口を開く。……汝の民は、『龍の鱗』と呼ばれる生体カプセルに乗り、その龍穴から地龍脈の体内へと入る。……さすれば、地龍脈は、汝の民を、北京から遥か西域の果てまで、瞬きの間に運び届けるだろう。……一切の揺れも、苦痛もなく、ただ、龍の胎内に抱かれるかのような、絶対的な安らぎと共にな』
その、あまりにも信じがたい、神の交通システムの解説。
龍 岳山は、戦慄した。
これは、西側が誇る空間拡張技術や、サイボーグ技術とは、全く次元の違うテクノロジーだ。
これは、科学ではない。
これは、魔法だ。
いや、生命そのものを、意のままに操る、神の御業そのものだ。
「おお……! おおおおおおお……! これさえあれば……! 我が国の広大すぎる国土という、最大のアキレス腱は、完全に克服される……! 軍隊も、資源も、民衆すらも、この大陸のどこへでも、一瞬で送り届けることができる……! これぞ、まさに、皇帝が国を統べるための、究極の道具……!」
『そうだ』と、太歳は頷いた。『だが、忘れるな、龍 岳山よ。……この地龍脈は、この中華の大地から離れては生きられぬ。……その力は、海を越えることはない。……汝は、この大陸の絶対的な覇者となる。だが、その力が、直接西側の偽りの神々の喉元に届くことはない。……どうだ? 少し、物足りんか?』
その、試すような問い。
だが、龍 岳山は、もはやそんなちっぽけな不満など、抱いてはいなかった。
彼の脳裏には、この地龍脈がもたらす、真の戦略的価値が、鮮明に見えていた。
「いいえ! 太歳様! これこそ、我々が求めていた力でございます!」
彼は、確信に満ちた声で言った。
「我々は、もはや海を越えて、あの野蛮な西側と直接戦う必要などありません! 我々がこの大陸の物流と経済を完全に掌握し、アジア、中東、そしてアフリカに至るまでの全ての陸路を、この龍脈で結びつけた時! 世界の富は、必然的に、この中華の大地へと流れ込んでくるのです! 西側の者どもは、海の上で、自らの旧態依然とした船が沈んでいくのを、ただ指をくわえて見ていることしかできなくなるでしょう! これこそが、真の覇道にございます!」
そのあまりにも的確な、そして壮大な地政学的ビジョン。
太歳は、満足げに、その混沌の体を揺らめかせた。
『ふふふ……。よかろう。……その慧眼、気に入った。……では、行くがいい、龍 岳山よ。……そして、この大地に、汝自身の龍を、目覚めさせるのだ。……我は、いつでも、汝を見ているぞ……』
その言葉を最後に、玉座の間の光景は、すうっと霧のように薄れ、龍 岳山の意識は、再び中南海の執務室の、深い闇の中へと引き戻されていった。
「―――はっっ!!!!」
彼は、寝椅子の上で、まるで雷に打たれたかのように、激しく喘ぎながら飛び起きた。
時刻は、夜明け前。窓の外は、まだ深い藍色に包まれている。
あまりにも、鮮明な夢だった。
彼は、呆然と自らの手のひらを見つめた。
そして、そこに、確かな重みと、ドクン、ドクンという、力強い生命の鼓動を感じた。
彼の掌の上には、夢で見たものと寸分違わぬ、まるで磨き上げられた黒曜石で作られたかのような、脈打つ心臓、『龍の胚子』が、鎮座していた。
現実だ。
これは、夢などでは、断じてない。
彼は、その聖遺物を、震える両手で、まるで生まれたばかりの我が子を抱くかのように、そっと胸に抱きしめた。
そして、その顔には、もはや焦りも、屈辱も、苦悩もなかった。
あるのは、自分こそが、この大地の、そしてこの大陸の真の支配者となる天命を授かったのだという、絶対的な、そして狂信的なまでの輝きだけだった。
「―――天命、再びッ!!!!」
彼の歓喜と畏怖に打ち震える絶叫が、静まり返った中南海の夜明け前の闇を、切り裂いた。
「―――我が龍脈よ! 今こそ、その胎動の時だッ!!!!!!!!」
東の龍が、その爪牙を研ぐのではなく、その版図そのものを自らの肉体へと変貌させるという、誰も想像しえなかった進化の道を、歩み始めた。
その大地の脈動が、これからこの星に、どのような地殻変動をもたらすのか。
西の王たちは、まだ、その恐るべき未来を知る由もなかった。
ただ一人、月の上でこの壮大なマッチポンプの脚本を書き上げ、そして今、その脚本が自分の想像を超えて、あまりにも完璧に進行していることに、言い知れぬ恐怖と、そしてほんの少しの興奮を感じ始めている、孤独な脚本家を除いては。




