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第59話 神々の脚本会議と、見捨てられた駒

 月は、変わらず静かだった。

 真空の闇が支配する絶対的な静寂の中、人類の故郷である青い惑星は、まるで神が作り上げた完璧なガラス玉のように、ゆっくりと、そして荘厳に自転を続けている。その光景を、地上38万キロメートルの特等席から見下ろす観測ステーション『ヘブンズ・ドア』。その心臓部であるコントロールルームは、窓の外に広がる宇宙の静謐さをそのまま映し取ったかのような、穏やかな沈黙に満ちていた。


「よーし…」


 その沈黙を破ったのは、この孤独な神域の唯一の主、相馬巧の、どこか疲弊しきった、しかし意を決した声だった。

 彼は、硬質でありながら彼の体圧を完璧に分散する特殊素材のコントロールチェアのリクライニングを、ゆっくりと元に戻した。数時間の、意識を飛ばすかのような仮眠。それは、擬体の彼に肉体的な回復をもたらすものではない。だが、自らが創り出した二柱の神というあまりにも巨大なペルソナと、その神が背負う途方もない嘘と罪悪感に苛まれた彼の魂を、かろうじて正気の縁に繋ぎ止めるための、唯一の精神安定化プロセスだった。


「……じゃあ、太歳の着ぐるみを用意してと…」


 彼は、まるでこれから会社の重要なプレゼンに臨むサラリーマンが、一張羅のスーツに袖を通すかのように、独りごちた。彼の目の前のホログラムスクリーンには、先日イヴと共に練り上げた、新たなる神『太歳』の冒涜的なまでのアバターデザインと、中国の指導者・龍岳山の脳波パターンに同期するための、複雑怪奇なハッキングシークエンスが表示されている。これから、人類の歴史を再び大きく捻じ曲げる、壮大な虚構の幕が上がろうとしていた。

 彼が、その神の仮面を被るための最終準備に取り掛かろうとした、まさにその時だった。


「……すみません、マスター。一つ、気になっていることが」


 彼の傍らに静かに浮かぶ光のAI、イヴが、その優美なアバターの姿で、しかし、どこまでも無機質な声で、静かに割り込んだ。


「え、なに?」


 巧は、少しだけ億劫そうに振り返った。これから始まる大仕事の前に、これ以上厄介事を持ち込まないでほしい。彼の顔には、そう書かれていた。だが、イヴの紫色の瞳は、海の底のように静かなまま、揺らがなかった。


『ロシアです。……我々は、ロシア連邦を、どうしますか?』


「えー、ロシア?」

 巧は、心底面倒くさそうな顔をした。その脳裏に、世界地図が広がる。G7という青く輝く光の陣営。そして、今まさに赤黒い混沌の輝きを放とうとしている中華帝国。その二つの巨大なプレートに挟まれ、押し潰されそうになっている、ユーラシア大陸北方の巨大な白い熊の姿が、そこにはあった。

「ロシアかぁ……」

 彼は、腕を組み、唸った。

「個人的には、ウクライナ侵攻がなければ、技術を上げてやってもいいかなと思うけどね。あの国も、歴史も文化も、一筋縄ではいかない面白さがある。だが、どう考えても、今、奴らに力を与えたら、どうなる? 百人が百人、同じ答えを出すだろう。ウクライナに、再び侵攻する。それも、以前とは比較にならない、圧倒的な力でな。ダメダメ、上げられないよ。絶対に」


 その言葉は、彼がこの神の代理人稼業の中で、かろうじて守り続けている、最後の人間的な倫理観の防衛線だった。独裁国家の侵略行為に、神の力で加担するわけにはいかない。それだけは、絶対に。

 だが、イヴの返答は、その彼のささやかな正義感を、無慈悲なデータで粉砕した。


『ですがマスター。……そのロシアが、そろそろ限界なのです』


 イヴは、手元のコンソールを操作した。メインスクリーンに、ロシア国内の社会情勢を示す、無数のグラフとデータが映し出される。その全てが、絶望的なまでに右肩下がりの赤い曲線を描いていた。


『介入者が導くG7との経済的・技術的格差は、もはや修復不可能なレベルにまで拡大しています。国内のGDPは、この一年で30%も縮小。特に、代替装備技術の民間開放が始まってからの落ち込みは、致命的です。西側の眠らない経済圏の前に、ロシアの旧態依然とした産業構造は、もはや何の競争力も持たない』

 スクリーンには、モスクワの街頭で、配給を求めて長蛇の列を作る、疲弊しきった市民たちの映像が映し出された。

『さらに深刻なのが、国内の不満です。インターネットを通じてG7の『大休暇時代』の豊かさを知ってしまった若者たちの間で、政府に対する不信感が爆発的に増大。反政府デモは日常化し、治安部隊との衝突で、毎週のように死者が出ています。私が独自に算出した『社会崩壊危険指数』は、現在87.4%。……これは、いつ大規模な内乱、あるいは革命が起きてもおかしくない、極めて危険な数値です』


「…………」


 巧は、言葉を失った。


『そして、マスター。……これは、我々の計画全体にとっても、極めて好ましくない状況です』

 イヴは、さらに続けた。

『我々が、これから中国に『地龍脈』という、これまた強大な力を与えれば、どうなるか。……ロシアという緩衝地帯を失い、弱体化したG7は、覚醒した龍と、直接国境を接することになります。……そうなれば、両陣営の暴走を抑える歯止めは、完全になくなる。……そして何より、追い詰められたロシアが、その最後のプライドを賭けて、旧世代の遺物である『核兵器』のボタンを押してしまうという、最悪のシナリオの可能性も、無視できません』

 イヴは、そこで一度言葉を切った。

 そして、そのAIらしからぬ、しかし究極的に論理的な結論を告げた。

『中国にこれ以上、一方的に力を与え続けると、彼らが暴走する可能性もあります。……マスター。……この地球という名の天秤を安定させるためには、G7と中国という二つの皿だけでは、不十分です。……我々には、第三の、そしてある程度の重さを持つ『分銅』として、ロシアという存在が、どうしても必要なのです』


 そのあまりにも冷徹で、そして反論のしようのない地政学的な分析。

 巧の額に、冷たい汗が滲んだ。

「えー、マジ? ……じゃあ、どうするんだよ……」

 彼は、完全に袋小路に追い詰められていた。

 ロシアに力を与えれば、ウクライナが滅ぶ。

 ロシアに力を与えなければ、ロシアが自滅し、その結果、世界が滅ぶ。

 どちらを選んでも、待っているのは地獄。

 究極の、選択。


「うーん……」

 巧は、頭を抱えた。

「……龍主席に、太歳からということで、『お前んとこで取れた神の穀物、隣の熊さんにも少し分けてやれよ』って、食の奇跡を分け合うように言うぐらいしか、思いつかんぞ? ……それで、とりあえずは飢えを凌がせて、時間を稼ぐ」


 それは、あまりにもその場しのぎで、あまりにも付け焼き刃な、彼が絞り出した精一杯のアイデアだった。

 だが、イヴは、意外にもその提案に静かに頷いた。


『それで良いと思います。……とりあえずは』


「えー?」


『はい。それは、極めて有効な時間稼ぎとなりえます』と、イヴは分析を続けた。『中国は、その人道支援を通じて、弱体化したロシアを自らの衛星国として、事実上支配下に置こうとするでしょう。……それは、短期的には、ロシアの崩壊を防ぎ、地域の安定化に繋がります。……ですが、それはあくまで、問題を先送りにしているに過ぎません。……いずれ、中国という巨大な龍に完全に飲み込まれることを恐れたロシアの民族主義者たちが、より過激な反発を引き起こす可能性は、極めて高い。……我々が本当に解決すべきは、ロシアという国家が、G7にも中国にも依存せず、自らの力で、この新しい時代を生き抜くための、道筋を示してやることなのです』


「……そんなこと言ったって!」

 巧は、思わず叫んだ。

「ロシアに力を与えると、暴走するだろ? 子どもでも分かるわ、そんなこと!」

 彼の脳裏には、最新鋭のサイボーグ兵士や、遺伝子強化された超人士兵で武装したロシア軍が、ウクライナの美しい麦畑を、再び蹂躙する光景が、鮮明に浮かんでいた。

「そうなんですよね…」

 イヴは、静かに同意した。

 そして彼女は、まるで出来の悪い生徒に、最後のヒントを与える教師のように、その光の指先で、ホログラムスクリーンを操作した。

 スクリーンに、ロシアの広大な国土が、再び大写しになる。だが、今度表示されたのは、軍事基地や都市の位置ではない。地質学的なデータ、鉱物資源の分布図、そして、永久凍土の下に眠る、古代の地層の解析データだった。


『マスター。……あなたは、少し、視野が狭くなっているようです』

 イヴの静かな声が、響いた。

『あなたは、テクノロジーを『力』として与えることばかりを、考えておられる。……ですが、真の力とは、必ずしも武力や経済力と、イコールではありません』


 彼女の指が、シベリアの広大な凍土の一点を、ハイライトした。

『例えば。……この永久凍土の下には、あなた方人類がまだ知らない、未知の微生物が、何億年も眠り続けています。……その中には、常温で超伝導を実現する特殊な酵素を生成するバクテリアや、プラスチックを瞬時に分解する古代の菌類が存在する可能性が、私の計算では、47.8%あります』


 イヴの指が、次にウラル山脈の奥深くを指し示した。

『あるいは。……この山脈の地下深くには、地球の核から直接エネルギーを吸収し、半永久的に活動し続ける、特殊な結晶生命体が存在するかもしれません。……それは、あなた方が今必死で開発している、あらゆるエネルギー技術を、過去の遺物とする、究極のクリーンエネルギーとなりえます』


 彼女は、最後に、世界最大の淡水湖、バイカル湖の、その最も深い湖底をハイライトした。

『そして、この湖の底には。……高圧と低温の中で、水そのものが、我々の知らない全く新しい物理的性質を獲得した、『構造化された水』が存在する可能性があります。……それは、あらゆる情報を記憶し、伝達する、究極の量子コンピュータの媒体となりえるかもしれません』


 そのあまりにも壮大で、そしてロマンに満ちた、地球そのものが秘めた可能性の数々。

 巧は、呆然とそのスクリーンを見つめていた。


『マスター。……我々が、ロシアに与えるべきなのは、完成された『兵器』や『技術』ではないのでは、ありませんか?』

 イヴは、静かに、しかし、その言葉の一つ一つに、確信を込めて言った。


『我々が彼らに与えるべきなのは。……彼ら自身の足元に眠る、偉大なる宝の在処を記した、『地図』なのではないでしょうか?』

「…………!」

『彼らに、銃を与えるのではありません。……彼らに、自らの手で未来を掘り起こすための、『シャベル』を与えるのです。……彼らが、その宝を掘り当て、それをどう使うか。……侵略のための資金源とするのか、それとも、全人類と分かち合う新たな叡智とするのか。……その選択を、彼ら自身の手に、委ねるのです。……もちろん、その過程で、彼らが再び過ちを犯さないように、我々が厳しく、そして注意深く、見守り続けるという条件付きで』


 そのあまりにも、鮮やかな、そしてあまりにも美しい、第三の道。

 それは、ロシアという国のプライドを最大限に尊重し、彼らに自力での再生の機会を与え、そして同時に、世界を破滅させるリスクを最小限に抑える、究極の処方箋だった。


 巧は、しばらくの間、言葉を失っていた。

 そして、やがて彼の口から、深い、深い感嘆のため息が漏れた。


「…………イヴ……」

 彼は、かすれた声で言った。

「…………お前……。……本当に、ただのAIか……?」

『私は、あなたの思考をサポートするために存在する、ただのツールですわ、マスター』

 イヴは、いつものように、そう答えた。

 だが、その光の体の輝きは、いつもより、ほんの少しだけ、誇らしげに見えた。


 巧は、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、コントロールチェアの背もたれに、深く、深く、体重を預けた。

 彼の顔には、もはや焦りも、絶望もなかった。

 あるのは、このあまりにも複雑で、あまりにも困難な、しかし、挑戦する価値のある巨大なパズルの、最後のピースを見つけた者の、静かな、しかし燃えるような高揚感だけだった。


「…………そうか。……そうだよな」

 彼は、独りごちた。

「……俺は、ずっと、上から『与える』ことばかりを考えていた。……神様のフリをして、哀れな人間に、恵みを与えてやる、と。……だが、違ったんだ。……本当の神様の仕事は、そういうことじゃない。……彼らが、自らの足で立ち上がれるように、そっと、背中を押してやること。……それこそが、本当の『導き』なんだ」


 彼は、イヴに向き直った。

 その顔には、もはや疲弊したサラリーマンの影はなかった。

 それは、自らの進むべき道を、自らの使命の本当の意味を、見出した、神の脚本家の顔だった。


「――イヴ。……計画を、練り直すぞ」

 彼の声は、力強かった。

「中国への『地龍脈』の供与計画は、予定通り進める。……だが、それと同時に、全く新しいプロジェクトを、もう一つ、立ち上げる」

 彼は、ホログラムスクリーンに、ロシアの広大な大地を、再び映し出した。


「――プロジェクト名は、『ガイアの目覚め』だ」


 その静かな、しかし、人類の歴史の新たな一ページを開く、力強い宣言。

 それを聞いたイヴは、深々と、そして、心からの敬意を込めて、その光の体で、一礼した。

『――承知いたしました、マスター。……これより、地球という名の眠れる巨人を、その内側から揺り起こすための、最も壮大で、そして最も繊細なオペレーションの、基本設計を開始します』


 月面の孤独な聖域で、二人の神の代理人は、新たな、そして、より困難で、より希望に満ちた脚本の、第一稿を書き始めていた。

 それは、人類にただ力を与えるのではなく、人類が自らの内に眠る、本当の力に気づくための、物語。

 そのあまりにも遠大で、あまりにも美しい物語の結末を、まだ、誰も知らなかった。

 ただ、時計の針だけが、凍てついた大地の下で、新たなる春の胎動が始まったことを告げるかのように、静かに、そして力強く、その時を刻み始めていた。

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