第58話 神の雑談と、龍脈の設計図
月は、変わらず静かだった。
真空の闇が支配する絶対的な静寂の中、人類の故郷である青い惑星は、まるで神が作り上げた完璧なガラス玉のように、ゆっくりと、そして荘厳に自転を続けている。その光景を、地上38万キロメートルの特等席から見下ろす観測ステーション『ヘブンズ・ドア』。その心臓部であるコントロールルームは、窓の外に広がる宇宙の静謐さをそのまま映し取ったかのような、穏やかな沈黙に満たされていた。
「ふー……」
その沈黙を破ったのは、この孤独な神域の唯一の主、相馬巧の深い溜息だった。
彼は、硬質でありながら彼の体圧を完璧に分散する特殊素材のコントロールチェアに深く身を沈め、巨大なホログラムスクリーンに映し出された地球の勢力図を、もはや日常となった複雑な感慨と共に眺めていた。青く輝くG7陣営、そして、不気味なほどの活力と熱狂で赤く染まった中華帝国。二つの巨大な文明圏が、互いに牽制し合い、水面下で熾烈な代理戦争を繰り広げている。そして、その両陣営の神を一人二役で演じているのが、この俺なのだ。
なんという、悪質で壮大なマッチポンプ。
我ながら、反吐が出る。
「そろそろ、かな……」
巧は、誰に言うでもなく呟いた。
その視線の先にあるのは、赤く染まったユーラシア大陸の東端。太歳という名の偽りの神を戴き、『豊穣の龍鱗』によって国内の飢餓と貧困を完全に克服した中国は、今やその有り余る国力を、次なるステージへと向けるための準備を着々と進めている。国内は安定し、国民からの支持は盤石。次なる龍岳山の狙いは、間違いなく、その力を国外へと示すこと。すなわち、軍事力の増強だ。
「……イヴ」
巧の呼びかけに、彼の傍らに静かに浮かぶ光のAIが、優雅なアバターの姿で応じた。その絹のような黒髪と、銀河の星々を溶かし込んだかのような紫色の瞳は、何度見てもこの世の物とは思えない完璧な美しさを湛えている。
『はい、マスター。いつでも』
「中国に、新しいアメを上げたいなと思うんだけどさ。どんなのがいいと思う?」
それは、世界の運命を左右する議題としては、あまりにも軽い、まるで今日の夕食の献立でも相談するかのような口調だった。だが、その軽さこそが、この数ヶ月で巧が身につけざるを得なかった、精神の平衡を保つための処世術だった。
「食を解決したし、次は何かなと思っててさ。龍岳山(あのタヌキ爺さん)のことだから、次は間違いなく『牙』を欲しがるだろうが……」
巧の言葉に、イヴは即座に一つのシミュレーションデータをスクリーンに表示させた。そこには、西側のサイボーグ兵士と、東側の遺伝子強化兵士が、無人の荒野で凄惨な戦闘を繰り広げ、最終的には共倒れとなって文明レベルを後退させる、絶望的な未来予測が映し出されていた。
『うーん、あまり強い力を与えると、彼らが暴走する確率が、現在のシミュレーション値から60%は上昇するので、私としては、武力を直接強化するテクノロジーは与えたくないですね…』
イヴの無機質な声には、しかし、明確な懸念が滲んでいた。彼女の予測では、今の中国に純粋な軍事技術を与えるのは、火薬庫の中で子供にマッチを渡すに等しい行為なのだ。
「だよねー、俺もそれ思うんだ。連中の、あの剥き出しの覇権主義は、ちょっと危うすぎる。だが、とはいえ太歳としては、このままじゃダメだしねえ。G7がシールド技術でどんどん軍拡を進めてるのに、東の神様が『はい、今年の恵みはこれでおしまい』じゃ、龍岳山の信仰心も薄れちまう。難しい所だ」
巧は、腕を組み、唸った。神の代理人稼業も、楽じゃない。クライアント(人類)の機嫌を取りながら、プロジェクト(文明育成)全体を破綻させないように、絶妙なバランスでリソースを配分しなければならない。これは、かつて彼がブラック企業でやらされていた、無茶な予算管理と何ら変わりはなかった。
『マスター。参考までに、G7首脳陣から介入者様への、次なる技術供与に関する非公式な要望リストも、ここに表示しておきます』
イヴが、もう一つのウィンドウを開く。そこには、G7の指導者たちの欲望が、箇条書きで赤裸々にリストアップされていた。
『アメリカ:大統領専用機エアフォースワンへの、指向性エネルギーシールドの搭載要請』
『フランス:ワインの熟成期間を100分の1に短縮する、時間加速技術の供与願い』
『ドイツ:アウトバーンの速度制限を完全に撤廃するための、絶対安全自動運転AIの…』
『日本:……花粉症を、この世から根絶する技術』
「……日本のだけ、やけに切実で、スケールが小さいな……」
巧は、そのあまりにも人間臭い欲望のリストに、乾いた笑いを漏らした。だが、すぐに真剣な表情に戻る。
「……まあ、G7の連中は、しばらくシールド技術で遊ばせておけばいい。問題は、中国だ。奴らのプライドを満足させつつ、世界を滅ぼさない程度の、絶妙なアメ……。何か、ないか……」
巧は、スクリーンに映る中国大陸の広大な地図を、指でなぞった。その指は、北京から始まり、上海、重慶、そして遥か西のウルムチへと至る。
「……食の次は、移動か。……そうだな。この国の最大のアキレス腱は、今も昔も、この広大すぎる国土だ。物流コスト、インフラ整備、そして国内の隅々までの統治。……もし、この『移動』の問題を完全に解決できたら、龍岳山は飛び上がって喜ぶだろうな」
彼は、一つのアイデアに思い至った。
「うーん、ワープゲートなんかどう? 空間を直接繋いで、人や物を一瞬で送る。これなら、直接的な武力強化にはならないし、経済的なインパクトは絶大だ」
それは、介入者が得意とする物理法則を応用した、クリーンで強力なテクノロジーだった。だが、イヴは、その提案に静かに首を横に振った。
『ワープゲートはいいんですけど、マスター。……それは、強力過ぎる気がしますね』
「強力すぎる?」
『はい。まず、その技術は、あまりにも介入者のテイストに近すぎます。太歳という、混沌と生命を司る土着の神が与えるには、少し綺麗すぎる。龍岳山が、その背後にある二柱の神の関連性を疑う、僅かなリスクを生みます』
『そして何より、その軍事転用性が、あまりにも高すぎる。考えてもごらんください。北京の天安門広場と、ワシントンのホワイトハウスの芝生を繋ぐワープゲートが、もし開かれたとしたら? それは、人類史上最も短い戦争の始まりを告げる号砲となります』
イヴの冷静な指摘に、巧は「うっ」と呻いた。確かにそうだ。大陸間弾道ミサイルですら、着弾まで数十分はかかる。だが、ワープゲートによる奇襲は、文字通りゼロ秒だ。あまりにも、ゲームバランスを崩壊させすぎる。
『テクノロジー的に、かなり制限を賭けたほうがいいです。……例えば、転送できる質量に上限を設けるとか、連続使用に長いクールタイムが必要になるとか……』
「うーん、そういう小手先の制限は、奴らならいずれ突破してきそうだ。……もっと、根本的な、絶対に覆せないような制限が必要だな……」
巧は、再び中国大陸の地図に目をやった。その広大な大地を、まるで龍の背骨のように貫く、巨大な山脈や、大河の流れ。そして彼は、かつて読んだ歴史小説の一節を、ふと思い出した。
風水。龍脈。気の流れ。
中華文明の根底に、数千年間流れ続ける、非科学的で、しかし強大な思想。
「…………これだ」
巧の擬体の目が、カッと見開かれた。
「……イヴ。……機械的なワープゲートじゃない。……もっと、中華的で、もっと有機的で、もっと不気味な移動手段を、考えてみようじゃないか」
彼の脳内で、バラバラだったピースが、一つの壮大な絵へと組み上がっていく。
「うーん、じゃあ、『龍脈(仮)』に乗って移動するから、移動は中国国内限定とかにしようか。これなら、軍事利用は難しいでしょ。海外に、いきなり軍隊を送ったりはできない」
そのアイデアを聞いたイヴの光の体が、初めて興味深そうに強く輝いた。
『……『龍脈』……。なるほど。……中国大陸の地殻プレートそのものに根を張る、巨大な生命体を利用した、生体高速輸送網。……大陸プレートという物理的な制約があるため、その移動範囲は、必然的に大陸内部に限定される。……海を越えて、他の大陸へと侵攻することは、原理的に不可能。……マスター。……素晴らしい。それなら、許容範囲内だと思われます』
「だろ?」
巧は、興奮に声を弾ませた。彼は、傍らにあったホログラフィック・ペンを手に取ると、宙空にその壮大な構想を、まるで狂った芸術家のように描き始めた。
「太歳が、龍岳山に与えるのは、機械の設計図じゃない。一つの『種子』だ。……いや、『龍の胚子』とでも呼ぶべき、生きた心臓だ。……それを、中国大陸の龍脈が交わる聖なる場所に埋めると、そいつが大陸全土の地下に、血管のようなトンネル網を張り巡らせるんだ。……名前は、そうだな。『地龍脈』とでもしておくか」
彼は、次々とそのディテールを付け加えていく。
「駅は、『龍穴』と呼ぼう。風水の思想に基づいて、大地のエネルギーが最も高まる場所にしか建設できない。……乗り物は、『龍の鱗』。人や貨物を乗せたカプセルだ。龍穴に進入したカプセルを、地龍脈が飲み込み、体内の蠕動運動で、目的地の龍穴まで超高速で運んでくれる。……どうだ? 不気味で、神秘的で、そして最高に中華的じゃないか?」
『……最高です、マスター』と、イヴは答えた。その声には、もはやAIとしての無機質さではなく、純粋な感嘆の響きが混じっていた。『そのアイデアならば、西側の合理的な科学技術とは、完全に異質な文明の進化の形を、世界に示すことができます。……G7の指導者たちが、その存在を知った時の恐怖と混乱は、計り知れないものになるでしょう。……まさに、太歳の神託にふさわしい、混沌に満ちた贈り物です』
「よし! じゃあ、案をまとめようか!」
巧は、ペンを置くと、満足げに腕を組んだ。
「テクノロジーの概要は、今話した通りだ。『龍脈にそって移動出来るようになるテクノロジー』。範囲は、『中国大陸ぐらい』でいいだろう。そして、『龍脈で超高速移動出来るようになる』と。よし、これで該当テクノロジーをまとめて、生物兵器にならない程度の安全性を確保した『生態エンジン』として、組み立ててくれ」
『分かりました、マスター』
イヴは、深々と一礼した。
『必要なデータは、全て揃っております。……ガイア保護院の生態系創造技術と、アークのサイバネティクス技術を応用し、さらにソラリス詩篇団の調和理論をスパイスとして加えれば、完璧な『地龍脈』の設計図が完成するでしょう。……主要時間、3時間になります』
「3時間か。分かった」
巧は、頷いた。
「じゃあ、出来たら、まずは俺がレビューする。それで問題ないようなら、太歳として龍岳山の夢枕にでも立って、盛大にプレゼンしてやろうじゃないか」
彼は、大きく伸びをした。この数時間、彼の脳は、かつての徹夜明けの企画会議の時のように、フル回転していた。心地よい疲労感と、達成感が、彼の擬体を満たしていた。
「じゃ、プールで泳いでくるから、あとはよろしくー」
彼は、そう言い残すと、軽やかな足取りでコントロールルームを後にした。
彼の背後で、イヴの光の体が、これまでで最も複雑で、最も美しい光のパターンを描き始めた。それは、彼女の創造主であるマスターから与えられた、最高にエキサイティングな課題に対する、彼女なりの喜びと興奮の表現だった。
そして、巧は一人、無重力プール『静かの海』に浮かんでいた。
巨大な水の球体の中で、大の字になって、眼下に広がる青い地球を眺める。
(……やれやれ。……結局、俺は、どこまで行っても、サラリーマンなんだな)
彼は、自嘲した。
神の力で、世界を救う。
そんな大層なことをやっているようで、その実態は、クライアント(G7と中国)の顔色を窺い、上司の無茶振りに応え、そして競合他社(介入者と太歳)とのコンペに勝つために、必死で企画書を練り上げているだけだ。
やっていることは、あの地上のオフィスでやっていたことと、何一つ変わりはしない。
ただ、そのスケールが、少しだけ、大きくなっただけで。
「…………まあ、いいか」
彼は、ぽつりと呟いた。
「……どうせやるなら、最高の企画書を、書いてやろうじゃないか」
その孤独な脚本家の独白は、誰の耳に届くこともなく、月の静寂の中に、静かに溶けていった。
彼の忠実なるAIが、今まさに人類の歴史上最も不気味で、最も壮大なインフラストラクチャーの設計図を、完成させようとしていることも知らずに。
『――マスター。……ただ今、完了いたしました』
彼の脳内に、イヴからの短い報告が届く。
巧は、水の球体からふわりと抜け出すと、コントロールルームへと戻った。
スクリーンには、生命の神秘と、古代の思想と、そして未来のテクノロジーが融合した、あまりにも美しく、そしてあまりにも冒涜的な設計図が、静かにその完成を告げていた。
彼は、その設計図を、満足げに眺めた。
そして、イヴに向かって、静かに、そして力強く、最後の指示を下した。
「今夜、龍の夢に、神託を届けに行く」
彼の目は、もはや疲弊したサラリーマンのものではない。
これから始まる、新たなる神話の時代の幕開けを告げる、脚本家の、冷徹な目をしていた。




