第56話 神の土産物選びと、ささやかすぎる贈り物
時間結晶の砂浜に、二つの太陽が沈んでいく。
一つは、惑星の主星である赤色巨星ベテルギウス。その巨大で、燃え尽きようとする壮大な光が、空の半分を茜色に染め上げている。もう一つは、その伴星である青色巨星。鋭く、知的な光が、もう半分の空を群青色に切り裂いている。二色の光が交じり合う地平線は、神が誤って二つの絵の具をぶちまけてしまったかのように、幻想的で、混沌としたグラデーションを描いていた。
相馬巧は、その光景を、リゾートチェアに深く身を沈めながら、静かに眺めていた。超新星の残光を凝縮したというカクテル『スターダスト・メモリー』の、チリチリとした微かな電離作用が、心地よく舌を痺れさせる。
地球を離れ、この超空間リゾート『時織りの渚、ホテル・エタニティ』で過ごした一ヶ月。それは、彼のすり減った精神を回復させるには、十分すぎる時間だった。
最初の数日は、ただ眠り続けた。睡眠を不要にするテクノロジーが普及した地球から来た彼にとって、純粋な眠りは、もはや失われた贅沢だった。夢も見ない、深い、無の眠り。目覚めた時、彼は、自分が何者で、どこにいるのかを、数秒間、本気で思い出せなかった。それは、彼が背負い続けてきた「神の脚本家」という役割から、魂が、ほんの一瞬だけ解放された証だった。
それからの日々は、まさに夢のようだった。
重力井戸の底にあるという温泉に浸かり、肉体の芯から疲れを癒した。二重ブラックホールの優雅なダンスを眺めながら、銀河最高の音楽家たちが奏でる、時空そのものを楽器にしたという演奏に耳を傾けた。そして、この時間結晶の砂浜を、彼は毎日、飽きもせずに散歩した。足を踏み出すたびに、砂浜が、過去の彼の足跡を、淡い光でおぼろげに映し出す。昨日、一週間前、そして、このリゾートに到着した初日の、まだ不安げだった自分の姿。それは、彼が確かに「時間」を取り戻していることを、実感させてくれる、穏やかな儀式だった。
もちろん、彼は地球のことを、完全に忘れていたわけではない。
管制AIであるイヴからは、12時間おきに、地球の状況に関する定例報告が、彼の脳内の通信インプラントに直接送られてきていた。その報告内容は、彼の予測を、良くも悪くも、全く裏切らないものだった。
『指向性エネルギーシールド技術』。
G7各国は、その究極の「盾」を手に入れるため、狂騒的な開発競争を繰り広げていた。アメリカは、DARPAの天才科学者エリアーナ・ヴァンス博士の指揮のもと、圧倒的な物量と予算を投入し、わずか一ヶ月で、歩兵携行型のプロトタイプを完成させたという。その性能は、対戦車ライフルの直撃にも、涼しい顔で耐えるという、驚異的なものだった。ペンタゴンの将軍たちは、今や、この『神の盾』を、全世界に展開するアメリカ軍の新たな象徴として、世界戦略を練り直している。
ドイツは、クラウス・フォン・ヘルツォーク博士の厳格な管理下で、小型化よりも、品質と信頼性、そして量産化技術の確立に注力していた。彼らのプロトタイプは、アメリカのものより一回り大きいが、あらゆる過酷な環境下で、寸分の狂いもなく作動することを、すでに証明している。彼らは、最も信頼性の高い「製品」で、いずれこの市場を制圧するつもりだ。
そして、日本。的場俊介が率いるCISTは、佐伯教授の発見した「数式の最適化」という独自のアプローチで、最もエネルギー効率が高く、最も小型化に適したモデルの開発に成功しつつあった。しかし、的場は、その軍事転用への葛藤から、最終的な実用化の承認を、意図的に遅らせているようだった。
各国が、エゴと国家の威信を剥き出しにして、神の玩具に熱中している。その様は、滑稽で、哀れで、そして、どこか愛おしくもあった。彼らは、イヴが突きつけた「AIの人権」や「宇宙人への偏見」といった、耳の痛い哲学的な宿題のことなど、すっかり忘れてしまっている。
「……まあ、そんなものか、人間なんて」
巧は、カクテルを飲み干すと、リゾートチェアからゆっくりと立ち上がった。明日には、地球へ、あの喧騒と混沌の舞台裏へと、帰らなければならない。
手ぶらで帰るのも、なんだかな。
ふと、そんな考えが、彼の頭をよぎった。
G7の指導者たち。トンプソン、シュミット、デュボワ、郷田……。彼らは、厄介で、強欲で、どうしようもなく未熟な生徒たちだ。だが、この一年、彼らは、巧が与えた無理難題に、必死で食らいつき、時には愚かな過ちを犯しながらも、確かに世界を前進させてきた。
「……お土産でも、買って行ってやるか」
それは、彼らへの皮肉であり、新たな「手綱」であり、そして、巧自身も気づいていない、ほんのわずかな教師としての情、あるいは、同じ舞台で踊る役者仲間への、奇妙な連帯感の表れだったのかもしれない。
彼は、イヴに、リゾート内で最も品揃えの良い、ガジェットショップの場所を尋ねた。
「承知しました、マスター。ショッピングモール『ギャラクティック・プロムナード』の最上階、セクター・ガンマに位置する、『汎銀河ガジェットショップ“テック・ノマド”』が、最新のテクノロジー製品を最も多く取り扱っております。転送ゲートを起動しますか?」
「いや、いい」と、巧は答えた。「歩いていくよ。散歩の、ついでだ」
彼が、G7の指導者たちに、どんな「地獄の贈り物」を選ぶことになるのか。
この時の彼は、まだ、知る由もなかった。
ショッピングモール『ギャラクティック・プロムナード』は、人間の想像力を軽々と超えた、混沌と秩序が同居する空間だった。吹き抜けの天井には、生きたアステロイドが、ミニチュアの惑星のようにゆっくりと公転し、その表面には、様々な種族の言語で書かれたネオンサインが、明滅している。反重力リフトに乗って、アメーバ状の生命体や、昆虫型のサイボーグ、あるいは、純粋なエネルギー体のように見える存在が、思い思いの階へと移動していく。空気は、何百種類もの異星の大気が、完璧なバリア技術によって分離・共存しており、巧の周囲は、地球と同じ、懐かしい窒素と酸素の匂いで満たされていた。
最上階にある『テック・ノマド』は、その中でも、ひときわ異彩を放っていた。店構えは、地球のアップルストアのように、ミニマルで洗練されている。しかし、ガラス張りのショーウィンドウに陳列されているのは、最新のスマートフォンやラップトップではない。
『ポケット宇宙生成キット - あなただけの宇宙を、今すぐあなたの掌に!』
『因果律改変ダイス - 今夜のデート、絶対に成功させたいあなたへ(※局所的な時空法に抵触する可能性があります)』
『自己進化型ナノマシン粘土 - 想像力の続く限り、どんな道具も、どんな生命も、創造可能!』
巧は、その、あまりにも恐ろしいキャッチコピーの数々に、乾いた笑いを漏らすしかなかった。ここは、ガジェットショップなどではない。神の道具屋だ。
店内に足を踏み入れると、柔らかな浮遊感のあるBGMと共に、人間の女性によく似た、しかし、明らかにアンドロイドと分かる店員が、滑るように近づいてきた。
「お客様、ようこそ『テック・ノマド』へ。何か、お探しでございますか? それとも、ただ、未来を覗きに?」
「……少し、贈り物をね」と、巧は答えた。「あまり、その……受け取る相手の知性を、信用できないんだが」
「かしこまりました」アンドロイドの店員は、完璧な微笑を浮かべた。「『猿に機関銃』となることを避けたい、というお客様ですね。でしたら、こちらの『セーフティ・ロック』機能が充実したシリーズなど、いかがでしょう?」
彼女が示した棚には、一見すると、美しいアクセサリーや、文房具のようなものばかりが並んでいた。だが、その一つ一つに添えられた、ホログラムによる商品説明を、巧は、眩暈をこらえながら、読んでいくことになった。
商品A:『盆栽宇宙』
手のひらサイズの、完璧な球形の水晶。その内部には、星々が生まれ、銀河が渦を巻き、生命が誕生し、そして滅んでいく、一つの完結した宇宙が、美しいタイムラプス映像のように、封じ込められている。観賞用のインテリアだ。
「……これを、トンプソンに渡したら、どうなる?」
巧は、自問した。
答えは、すぐに出た。彼は、間違いなく、このミニチュア宇宙の「神」になろうとするだろう。CISTの科学者たちを総動員して、この水晶に干渉する方法を探らせ、内部の知的生命体の進化を、自分の思い通りにコントロールしようとするはずだ。そして、気に入らない文明があれば、躊躇なく、指先一つで、超新星爆発を引き起こし、絶滅させるに違いない。神の視点と、絶対的な力を手に入れた権力者が、いかに容易く暴君へと変貌するか。その、最も分かりやすく、最も悪趣味な実験サンプルが、出来上がってしまう。
「……却下だな」
商品B:『運命の糸紡ぎ(フェイト・ウィーバー)』
銀の糸で編まれた、繊細なブレスレット。対象の因果律に、量子レベルで介入し、短期的な未来を、「幸運」な方向へと、ごくわずかに誘導する。例えば、重要な会議で、相手が自分の提案に、好意的な反応を示す確率を、0.1%だけ上昇させる、といった具合だ。
「……デュボワあたりが、これを手にしたら?」
彼は、きっと、最初は些細なことに使うだろう。国内の支持率を、少しだけ上げるために。あるいは、厄介な労働組合との交渉を、有利に進めるために。しかし、その効果の絶大さを知れば、彼は、決して満足しなくなる。彼は、もっと大きな幸運を、もっと確実な勝利を、求めるようになる。G7の会議で、自国の発言力を高めるために。国際社会で、フランスの威信を高めるために。やがて、彼は、フランスという国家そのものが、神(介入者)によって選ばれた、特別な存在なのだと、本気で信じ始めるかもしれない。ナショナリズムの暴走。歴史が、何度も繰り返してきた過ちだ。
「……これも、ダメだ。危険すぎる」
商品C:『記憶の彫刻刀』
万年筆のような形をした、美しいデバイス。先端から放たれる、特殊なタキオン粒子を相手のこめかみに当てることで、その記憶を、まるで映像データのように閲覧し、あるいは、編集することが可能になる。
「……これを、諜報機関のトップに渡したら?」
想像するだに、恐ろしかった。世界中の、あらゆる国家機密、産業スパイ、テロリストの情報が、瞬時に、特定の国家の手に渡る。だが、問題は、それだけでは済まない。記憶の「編集」が可能だということ。それは、すなわち、歴史の「改竄」が可能だということだ。
政敵の記憶から、自分に都合の悪いスキャンダルを消去する。国民の記憶から、政府が犯した過去の戦争犯罪を、美しい愛国神話へと書き換える。スターリンは、慈悲深き人民の父となり、ポル・ポトは、偉大な農業改革者だったことにされるかもしれない。ジョージ・オーウェルが描いた『1984年』の世界が、現実のものとなる。真実という概念そのものが、権力者の都合で、毎日、捏造される世界。
「……論外だ。絶対に、渡せん」
巧は、次々と商品を検討しては、その危険すぎる可能性に、頭を抱えた。
夢を自在にコントロールできる『ドリーム・クリエイター』? 大休暇時代の『余暇階級』には最高の娯楽かもしれないが、『労働貴族』が手にすれば、睡眠時間すら、仮想会議や能力開発に利用する、究極のブラック企業ツールへと変貌するだろう。
原子配列を組み替えて、鉛を金に変える『物質転換器』? 資源問題は解決するが、同時に、貨幣経済の概念が、完全に崩壊する。富の価値が失われた社会は、新たな秩序が生まれる前に、まず、暴力と混沌の海に沈むに決まっている。
どの商品も、地球の文明レベルにとっては、過ぎたる力だった。それは、まるで、石器時代の村に、核融合炉の設計図をプレゼントするようなものだ。彼らは、その力を、正しく理解することも、制御することもできずに、自滅への道を、一直線に突き進むだろう。
「……どうやら、難しいお客様のようですね」
巧が、店の奥で、うんうん唸っていると、アンドロイドの店員が、再び、音もなく近づいてきた。
「お客様の、その慎重さ。よく分かります。未開な文明に、高度なテクノロジーを供与する際の、倫理的ジレンマ。我々、銀河コミュニティが、何万年も前から、ずっと悩み続けてきた問題です。『文明保護及び不干渉に関する銀河法典』、通称『プライム・ディレクティブ』が、なぜ存在するのか。あなた様のような、賢明な方なら、ご理解いただけるかと」
「……ああ、よく分かるよ」と、巧は答えた。「僕も、毎日、そのジレンマと戦っている」
「でしたら」と、店員は、ある一角を指し示した。「こちらのコーナーは、いかがでしょう? こちらは、『受動的防衛システム』シリーズ。使用者が、能動的に他者へ干渉するのではなく、あくまで、使用者自身を、様々な脅威から『守る』ことのみに特化した製品群です。これならば、文明への影響も、最小限に抑えられるかと」
その棚に並んでいたのは、ペンダントや、指輪、そして、腕輪といった、さらにアクセサリーに近い形状のものばかりだった。
巧は、その中の一つ、黒曜石のような、滑らかな光沢を放つ、シンプルな腕輪に、目を留めた。
第三章:ささやかすぎる、妥協の贈り物
巧が手に取った腕輪。その製品名は、『ガーディアン・ブレスレット Mk-IV』。ホログラムの説明によれば、銀河標準法に基づき、多くの文明圏で、一般市民の護身用具として、その所持が許可されている、ごくありふれた製品らしい。
しかし、その機能は、地球の基準から見れば、ありふれている、という言葉からは、ほど遠いものだった。
「……なるほどな」
巧は、腕輪を眺めながら、深く頷いた。
彼が数々の「ヤバすぎる」商品を見て回った結果、たどり着いた結論。それは、「彼らに、決して『自由裁量』を与えてはならない」というものだった。彼らの未熟な精神性に、選択の自由を与えることは、すなわち、破滅への選択肢を与えることと同義だ。ならば、与えるべきは、彼らが意識せずとも、自動で、受動的に機能する、いわば「お守り」のようなものでなければならない。
この腕輪は、その条件に、完璧に合致していた。
「お客様、お目が高い」と、アンドロイドの店員が、その機能を補足説明し始めた。「そのブレスレットは、先日、お客様の惑星に提供された、指向性エネルギーシールド技術と、互換性を持つ、最新モデルです。いわば、あの技術の、全自動オペレーティング・システム、といったところでしょうか」
店員は、ホログラムを操作し、その詳細な機能を、巧の前に映し出した。
機能1:『脅威予測・自動防御システム』
「まず、基本機能として、装着者の周囲の空間を、常に量子レベルでスキャンし、敵対的な脅威を予測します。例えば、混雑した場所で、暴徒化した群衆が、装着者になだれ込んできそうな場合。あるいは、高速道路で、前方の車両が、危険な運転でスピンし、こちらに衝突しそうな場合。その脅威が、設定した危険レベルを超えたと判断した瞬間に、0.001マイクロ秒以内に、自動で、指向性エネルギーシールドを展開。装着者を、完璧に保護します」
「……つまり、先日、彼らに与えた『盾』を、自動で使ってくれる、というわけか」
「その通りです。しかも、その脅威判定は、極めて高度です」
機能2:『敵意検知・時空間介入システム』
「このブレスレットの真価は、むしろ、こちらにあります」と、店員は続けた。「このデバイスは、単なる物理的な脅威だけではなく、周囲の知的生命体が発する、特定の量子的な脳波パターン、すなわち、装着者に対する明確な『害意』や『殺意』を、検知することが可能です。その検知精度は、銀河標準誤差で、10のマイナス30乗以下。つまり、誤作動は、天文学的確率で、あり得ません」
「……害意を、検知する……」
「はい。そして、その害意に基づいた、未来の攻撃を、時空間演算によって予測し、それが実行される前に、ごく自然な形で『無効化』します」
店員は、具体的な例を挙げた。
「例えば、スナイパーが、1キロ先から、装着者を狙っているとします。このブレスレットは、その殺意を検知し、スナイパーが引き金を引く、まさにその瞬間を予測します。そして、引き金が引かれる0.0001ナノ秒前に、ライフルの撃鉄を構成する金属原子の分子結合を、ごくわずかな時間だけ、一時的に弛緩させる。結果、撃鉄は空振り、弾丸は発射されません。スナイパーは、それを、ただの銃の故障、あるいは、自分の整備不良だと認識するでしょう」
「あるいは、テロリストが、装着者の乗る車の下に、爆弾を仕掛けたとします。ブレスレットは、その害意と、爆弾の存在を検知し、起爆装置のタイマー回路に、ごく微細な、時空の歪みを生じさせます。その歪みは、タイマーの進行を、100万分の1秒だけ、遅らせる。その、ほんのわずかな遅延が、起爆信号との同期を、決定的に狂わせ、爆弾は、不発に終わります。これもまた、テロリストにとっては、ただの『製品不良』としか、認識できません」
「……対象者は、自分が守られたことにすら、気づかない。ただ、『運が良かった』と、思うだけ……」
巧は、その、あまりにも洗練された、あまりにもエレガントな防衛思想に、戦慄すら覚えた。これは、暴力に、暴力で対抗する技術ではない。暴力を、その源流で、静かに、無かったことにする技術だ。
「さらに、おまけの機能も、充実しております」
おまけ機能1:『万能翻訳機能』
「テレパシーではありませんが、相手の脳の言語野の活動パターンをスキャンし、その意味を、瞬時に装着者の脳に伝達します。銀河コミュニティの、主要120万言語に、標準で対応済みです」
おまけ機能2:『限定的環境耐性』
「装着者の身体の周囲に、薄いエネルギーフィールドを常に展開し、体温、気圧、大気組成を、自動で最適化します。これにより、真空中でも、数時間は生存可能。水深1万メートルの水圧にも、耐えることができます。まあ、あくまで、緊急避難用の、限定的な機能ですが」
巧は、独白した。
「……ぶっちゃけ、これでも、充分すぎるほど、ヤバい代物だ」
万能翻訳機。深海や宇宙空間でも生きられる、環境耐性。そして、あらゆる暗殺やテロを、未然に防ぐ、絶対的な防御システム。これを、G7の指導者たちが身につけたら、世界の歴史は、どう変わるだろうか。
少なくとも、ジョン・F・ケネディや、エイブラハム・リンカーンが、暗殺されることは、なくなる。指導者の死という、歴史の大きなターニングポイントが、失われる。それは、世界の安定につながるかもしれないが、同時に、歴史のダイナミズムや、新陳代謝を、停滞させることにも、繋がりかねない。
「……だが、待てよ」
巧は、一つの疑問に思い至った。
「この『害意』の定義は、どうなっている? 肉体的な危害を加える殺意だけか? それとも、政治的に失脚させようとする、政敵の『害意』は? 選挙で、現職の指導者を引きずり下ろそうとする、対立候補の『害意』は? あるいは、圧政に苦しむ、国民の『怒り』や『革命の意志』は、このブレスレットにとって、排除すべき『害意』として、認識されるのか……?」
そうなれば、このデバイスは、独裁者を、永遠にその座に安住させる、最悪の道具となり得る。
巧が、その疑問を店員にぶつけると、彼女は、にこりともせずに答えた。
「素晴らしいご質問です、お客様。その点につきましては、銀河法に基づき、厳格な制限がかけられております。このデバイスが検知する『害意』は、あくまで、『対象の生命活動を、物理的に停止、あるいは、不可逆的な損傷を与えることに、直接的に結びつく意志』のみに限定されています。政治的、経済的、社会的な『害意』は、検知の対象外です。ご安心ください。銀河コミュニティは、民主主義のプロセスに、不当に介入することは、ありません」
「……なるほどな」
巧は、安堵し、同時に、ある種の諦めと共に、結論を出した。
これだ。これしかない。
これならば、彼らが、その自由裁量で、世界を滅茶苦茶にする心配はない。あくまで、彼ら自身を、物理的な暴力から守るだけだ。彼らが、愚かな暗殺者の凶弾に倒れることで、世界が、より大きな混乱に陥るリスクを、少しだけ、減らすことができる。
それは、脚本家としての、最低限の、リスク管理だった。
巧は、腕輪を、そっと、カウンターの上に置いた。
そして、アンドロイドの店員に向かって、静かに、こう言った。
「すみません。これ、7つ、下さい」
その言葉に、完璧なポーカーフェイスを保っていた店員の眉が、ほんのわずかに、ピクリと動いた。
「……はい、かしこまりました。7つ、ですね」
彼女は、丁寧な動作で、ストックルームから、同じ腕輪を、あと6つ、取り出してきた。そして、それらを美しいケースに収めながら、不思議そうに、巧に問いかけた。
「……お客様。差し支えなければ、お聞かせいただきたいのですが。……お客様は、どちらか、非常に治安の悪い星域から、お越しなのでしょうか? 銀河中心部では、このような護身用具を、お一人で、複数、購入される方は、大変、珍しいのですが……」
その問いに、巧は、ふっと、自嘲的な笑みを浮かべた。
そして、窓の外に広がる、無数の星々が輝く、完璧で、平和な宇宙を眺めながら、こう答えた。
「ええ、まあ。少し、手の掛かる、やんちゃな子供たちが、たくさんいる星なんでね」
その言葉の、本当の意味を。
目の前の、完璧なAIですら、まだ、理解することはできないだろう。
巧は、G-7という、七人の愛すべき問題児たちの顔を思い浮かべながら、お土産の代金を、彼の知らないうちに貯まっていた、100年分の給料で、支払った。