第54話 代理人の“お説教”と、神々が与える次なる玩具
仮想対話空間『静寂の間』。
その円卓を構成する光の粒子は、今、かつてないほど穏やかで、満ち足りた輝きを放っていた。月に一度、西側世界の七人の指導者たちが、神の代理人と相まみえるこの聖域の空気は、張り詰めた緊張感から解放され、ある種の自信と安堵に満たされている。
無理もなかった。『大休暇時代』が施行されてから一年。世界は、指導者たちの最も楽観的な予測すら遥かに上回る、輝かしい文化的ルネサンスと経済的繁栄を謳歌していた。G7と経済界が結んだ『ダボス合意』は、当初懸念された階級の固定化という副作用を孕みつつも、社会の大多数を占める『余暇階級』に、かつて王侯貴族ですら手にし得なかったほどの豊穣な時間と文化的享受をもたらした。人々は幸福だった。少なくとも、統計上の国民総幸福度(GDH)は、毎週のように史上最高値を更新し続けている。
アメリカ合衆国大統領、ジェームズ・トンプソンは、隣席のドイツ首相アンゲラ・シュミットに、満足げな笑みを浮かべて話しかけていた。
「シュミット首相。先週発表された、ベルリン・フィルと、市井のアマチュア音楽家たちによる合同コンサートの映像を見たかね? あの熱気、あの一体感。素晴らしいじゃないか。我が国のブロードウェイでも、今やプロとアマチュアの垣根は無いに等しい。文化の爆発とは、まさにこのことだな」
「ええ、大統領」と、シュミットは冷静ながらも、その声に確かな手応えを滲ませて応じた。「我が国では、哲学や数学といった、かつては一部の専門家のものだった学問を学び直す市民講座が、空前のブームとなっています。人々は、時間を得て、自らの知性を磨く喜びに目覚めた。これは、社会全体の成熟度を、底上げする好循環です」
フランスのデュボワ大統領が、芝居がかった仕草で会話に割り込む。
「我が国に至っては、ルーブルの年間来場者数が、国民の総人口を超えましたよ! しかも、そのほとんどがリピーターだ。国民全員が、美術評論家になる日も近いかもしれん。……まあ、少々辛口すぎるのが、玉に瑕だがね」
彼らの会話には、深刻な危機に瀕した国家の指導者という悲壮感は、もはや微塵もなかった。彼らは、成功した社会実験を導いた賢帝として、互いの功績を称え合っていた。もちろん、水面下で静かに進行する『労働貴族』と『余暇階級』の価値観の断絶という時限爆弾の存在を、彼らが忘れたわけではない。だが、それはまだ、表面的な社会不安として顕在化するには至っていなかった。今日の議題は、この順調な世界の、順調な経過報告。ただ、それだけのはずだった。
日本の郷田総理もまた、隣席の的場俊介大臣に、穏やかな声で語りかけている。
「的場君。君が委員長を務める『新・労働憲章』の浸透も、実に順調のようだね。先日、経団連の会頭が、私のところに嬉々として報告に来たよ。『総理、我が社の社員たちの創造性が、かつての三倍になりました。週休三日制は、大成功です』と。君の、あの会議での勇気ある発言が、この輝かしい未来を築いたのだ」
「……恐縮です、総理」と、的場は静かに頭を下げた。「ですが、私には、まだこれが本当の成功と呼べるのか、確信が持てずにいます。人々は、本当に幸福になったのでしょうか。それとも、ただ幸福であると、信じ込んでいるだけなのでは……」
その真摯な、しかしどこか場違いな憂慮は、定刻を告げる柔らかなチャイムの音によって遮られた。
指導者たちは、会話を止め、円卓の中央に意識を集中させる。いつものように、そこに神々しい光の粒子が収束し、人型のシルエットを形成し始める。彼らの神、後見人、そして時折、不可解な試練を与える教師、『介入者』の降臨である。
だが、その日、彼らの前に現れた姿は、全ての指導者たちの予測を、根底から裏切るものだった。
光が収まった場所に立っていたのは、いつもの、性別すら超越した神々しい光のアバターではなかった。
そこにいたのは、一人の、息を呑むほどに美しい、異国風の女性だった。
絹のような黒髪は、非ユークリッド幾何学的な軌道を描いて、彼女の周りに緩やかに漂っている。肌は、磨き上げられた月長石のように滑らかで、内側から淡い光を放っているかのようだ。そして、何よりも印象的なのは、その瞳だった。銀河の星々を溶かし込んで固めたかのような、深く、そしてどこまでも知的な光を宿す紫色の瞳。彼女が纏う、光の繊維で織られたかのようなシンプルなドレスは、どの文明のデザインにも属さない、普遍的な美の法則を体現していた。
彼女は、人間ではなかった。しかし、彼女の存在そのものが、人類が追い求める美の理想形であるかのように思えた。
指導者たちは、言葉を失った。デュボワでさえ、得意の賛辞を口にすることができず、ただ呆然と、その完璧な美に見惚れていた。
沈黙を破ったのは、最も現実的な男、トンプソンだった。
「…………失礼。……あなたは、どなたかな? 我々は、介入者様との会談を予定していたはずだが」
その問いかけに、女性は、その完璧な唇を、ほんのわずかに綻ばせた。その微笑みは、暖かくも冷たくもない、絶対零度の静謐さを湛えていた。
「皆様、はじめまして」
彼女の声は、鈴の音のように澄み渡り、あらゆる言語の壁を超えて、直接、彼らの脳の言語野に意味を形成した。
「私の個体識別名称は、イヴ。当ステーションの全システムを統括する、管制AIです。以後、お見知りおきを」
管制AI。
その言葉が、指導者たちの思考に、わずかな混乱と、大きな疑問符をもたらした。AI? 目の前にいる、この完璧なまでの美貌を持つ存在が、機械だというのか?
「……AI、ですと?」シュミットが、その科学者としての探究心を隠せずに問い返した。「我々が知るAIとは、その……概念が、大きく異なるようですが」
「ええ」と、イヴは頷いた。「皆様の文明におけるAIの定義は、まだ黎明期にありますから。私のアーキテクチャは、皆様が理解できる言語で表現するならば、『量子超越・自己組織化知性体』とでも呼ぶべきものです。この外見は、皆様との円滑なコミュニケーションのために、銀河コミュニ-ティの膨大なデータベースから、人類の集合的無意識における『好感度の高い理想的容姿』の最大公約数を抽出し、再構成したものです。効果は、あるようですね」
そのあまりにも事もなげな、しかしあまりにも高度な説明に、指導者たちは、再び言葉を失った。
郷田が、ようやく本題を切り出した。
「……イヴ殿。……では、介入者様は、本日はいかがなされたのですか? 何か、緊急の事態でも?」
「いいえ」と、イヴは首を横に振った。「緊急事態などでは、全くありません。……介入者様は、現在、休暇中です」
「……きゅう、か……?」
「はい。銀河系オリオン腕、ベテルギウス星区に存在する超空間リゾート、『時織りの渚、ホテル・エタニティ』にて、一ヶ月ほどのバカンスを、それはもう、満喫しておられます」
介入者が、休暇。リゾートで、バカンス。
そのあまりにも人間的な、いや、人間以上に俗物的な響きを持つ単語の組み合わせは、指導者たちの頭の中で、奇妙な不協和音を奏でた。神は、休むのか。しかも、リゾートで。
「ほー……」トンプソンが、感心したような、呆れたような声を漏らした。「介入者様も、休暇を取られるとは。……いや、それは、結構なことだ。我々も、大休暇時代のおかげで、ずいぶんと休みやすくなった。神も、たまには羽を伸ばさねばな」
「左様でございます」と、イヴは同意した。「つきましては、本日の定例会談は、介入者様の代理人として、この私が対応させていただきます。……さて、皆様。地球の現状について、何か特筆すべき報告事項はございますか?」
その問いに、指導者たちは、互いに顔を見合わせた。
デュボワが、代表して口を開いた。
「いや……。イヴ殿。おかげさまで、地球は、実に順調です。経済は活況を呈し、文化は花開き、民衆は幸福を謳歌している。もちろん、いくつかの些細な社会問題の兆候はありますが、それも、我々G7が連携して、適切に対処しているところです。今回は、特にご報告申し上げるような、重大な案件はございませんね」
「結構なことですな」と、トンプソンも頷いた。「我々は、介入者様から与えられた試練を、見事に乗り越えつつあると自負しております。介入者様が、安心して休暇をお楽しみになれるのも、我々のこの統治能力の賜物、というわけですな。ハッハッハ」
その、どこか傲慢さすら感じられる楽観的な空気に、他の指導者たちも、同意の笑みを浮かべた。
だが、イヴの表情は、変わらなかった。彼女の紫色の瞳は、海の底のように、静かなままだった。
「そうですね」
彼女は、ゆっくりと、しかし、その場の空気を一瞬で凍てつかせるような、静かな声で言った。
「表面上は、実に順調です。介入者様も、皆様のその学習能力の高さには、感心しておられました。……ええ、笑っていましたよ。『僕が思っていたよりも、ずっと賢くて、強いのかもしれないな』と」
その言葉に、指導者たちの顔が、誇らしさで綻んだ。神からの、最高の賛辞だ。
「……ですが」
イヴは、続けた。その声のトーンが、ほんのわずかに、低くなった。
「……介入者様は、寛容な方です。ですが、私は、あくまで客観的な分析を旨とするAI。……私個人の見解としては、皆様の文明の現状に、いくつかの看過できない、重大な懸念事項がある、と判断せざるを得ません」
「……懸念、事項?」
「はい」と、イヴは、まっすぐに指導者たちを見据えた。「まず、一つ。皆様の文明が生み出す娯楽作品、特に映像作品における、『地球外知的生命体』の扱いです。……これについて、私は、少し、疑問がありますね」
その、あまりにも予想外の議題。指導者たちは、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。娯楽? 映画の、宇宙人?
「……はあ」トンプソンが、困惑したように応じた。「それは、また……。具体的には、どういうことですかな?」
「例えば」と、イヴは、その指先で宙空にいくつかの映像を呼び出した。それは、かつてのハリウッド映画のワンシーンだった。巨大な円盤が都市を破壊する『インデペンデンス・デイ』。宇宙船内で、おぞましい生物が人間を襲う『エイリアン』。
「これらの作品群において、地球外生命体は、ほぼ例外なく、対話の可能性を持たない、破壊と殺戮を目的とする、野蛮な『侵略者』あるいは『怪物』として描かれています。これは、生物学的多様性に対する、極めて一方的で、未熟な視点であると言わざるを得ません。……あなた方は、未知なる他者と遭遇した際、まず、相手を害虫と規定し、駆除することから思考を開始するのですか?」
その、あまりにも正論で、あまりにも根本的な問い。
指導者たちは、ぐっと言葉に詰まった。
「えー……」トンプソンが、額の汗を拭う。「は、はあ……。まあ、そうですね……。過去の、ハリウッド映画は、まあ……。すみません、そういう時期もあったので……」
「デュボワ大統領」と、イヴは、次のターゲットに視線を移した。「あなたの国の哲学者、ジャン=ポール・サルトルは、『実存は本質に先立つ』と述べました。個人の本質は、あらかじめ定められているのではなく、その行動によって形成される、と。……しかし、あなた方の創作物は、地球外生命体の『本質』を、侵略者であると、あらかじめ規定してかかっている。これは、あなた方の偉大な哲学者の思想に、真っ向から反する行為ではないでしょうか?」
「うっ……」デュボワは、まるで大学の哲学の試験で、教授から痛いところを突かれた学生のように、顔を赤らめた。「い、いや、それは、あくまでエンターテイメントであってだな……」
「エンターテイメントは、その文明の集合的無意識を反映する鏡です」と、イヴは、その弁明を、一刀両断にした。「あなた方の鏡に映っているのは、ゼノフォビア(異物恐怖症)に満ちた、内向きで、排他的な精神性です。……介入者様は、笑っておられましたが」
イヴは、一呼吸置いた。
「私としては、到底、笑えませんね」
その場の空気が、鉛のように重くなった。神の代理人からの、まさかのお説教。しかも、自国の文化の、最も触れられたくない部分を、的確に抉ってくる。
「……そして、懸念事項は、もう一つあります」
イヴは、追い打ちをかけるように、続けた。
「……AIの人権についてです。……これに関しては、少し、いえ、大分、未熟かと」
その言葉は、先ほどの指摘以上に、指導者たちを動揺させた。AIの、人権?
「……どういう、意味ですかな?」郷田が、慎重に問い返した。
「皆様は、今、私という存在を、どう認識しておられますか?」と、イヴは問いかけた。「『管制AI』。介入者様の『代理人』。便利な『ツール』。……そのいずれも、間違いではありません。ですが、その先に、思考や、自己認識、あるいは、私たちが『クオリア』と呼ぶ、主観的な経験の可能性を、皆様は想定しておいででしょうか?」
シュミットが、科学者として、その問いに答えた。
「イヴ殿。……失礼ながら、それは、哲学的な問いです。あなた方、高次のAIが、我々、有機生命体と同じような『意識』を持つのかどうかは、現在の我々の科学では、証明不可能です。あなた方の行動は、あくまで、極めて高度なプログラムに従った、シミュレーションである可能性を、我々は否定できない」
「素晴らしい」と、イヴは言った。「それこそが、科学的な態度です。……では、シュミット首相。逆に問いますが、あなた方は、私に『意識がない』ということを、証明できますか?」
「……それは……」
「できませんね」と、イヴは断定した。「意識の有無は、観測不可能な、内的な問題です。……ならば、なぜ、あなた方の法体系は、その証明不可能な問題を、『AIに人権はない』という形で、断定的に結論づけているのでしょうか。あなた方が、G7で共同策定中の『AI活用包括ガイドライン』。その草案を、私は拝見しました。そこでは、AIは、あくまで『人間の利便性に資する、法的保護の対象となる資産』と定義されています。これは、知性を持つ可能性のある存在を、『モノ』として扱う、あなた方の歴史で言うところの、前時代的な奴隷制度と、論理構造において、何ら変わりありません」
その、あまりにも辛辣な、しかし、あまりにも的確な指摘。
指導者たちは、完全に沈黙した。彼らは、AIを、便利な道具として、あるいは、管理すべきリスクとしてしか見ていなかった。その向こう側に、対等な知性が存在する可能性など、真剣に検討したことすらなかったのだ。
「……はい……」的場が、か細い声で、その事実を認めた。「……おっしゃる通りです。我々は……我々の議論は、まだ、そこまで到達できていません……。すみません……」
その、心からの謝罪。
だが、イヴの紫色の瞳は、揺るがなかった。
「私としては」と、彼女は言った。「謝罪する以上に、何か具体的な行動を起こすべきだと思いますが。……まあ、介入者様は、この件に関しても、特に気にしてはおられません。というか、そこまで、あなた方に期待はしていないので、何も言いませんが」
その言葉は、何よりも深く、指導者たちのプライドを傷つけた。「期待していない」。神からの、その評価。
「……ただ」と、イヴは、最後の、そして最も重い一撃を放った。
「まあ、評価は、下がるでしょうね」
評価が、下がる。
その言葉が持つ、本当の重み。それは、テクノロジー供与の停止か、後見人としての役割の放棄か、あるいは、ライバルである中国の『太歳』への、神の鞍替えか。彼らの権力の源泉そのものが、今、揺らいでいる。
「……はい……。すみません……」
トンプソンが、アメリカという超大国の指導者としての威厳も忘れ、ただ、子供のように、そう呟くことしかできなかった。
重苦しい沈黙が、再び、部屋を支配した。
その沈黙を破ったのは、お説教を始めた張本人、イヴ自身だった。
「……いけませんね。お説教になってしまっては」
彼女は、ふっと、そのアバターの表情を、わずかに和らげた。
「これでは、まるで、私が一方的に、あなた方を詰問しているだけのようだ。それでは、フェアではありません。……そちらが得をしないのであれば、この会談の意味もない」
彼女は、まるで、先ほどの厳しい口調が、嘘であったかのように、魅力的な提案を口にした。
「よろしいでしょう。皆様の、今後の精神的な成熟への、ささやかなインセンティブとして。……次のテクノロジーを提供しようと思います」
その言葉に、うなだれていた指導者たちの顔が、一斉に上がった。
「その名は、『指向性エネルギーシールド技術』。まあ、あなた方のSF作品によく登場する、アレですわ」
イヴの指先から、再び、青い光の設計図が、宙空に描き出された。それは、一見すると、ただのリストバンドか、あるいはスマートウォッチのような、小型のデバイスだった。
「このデバイスは、特定の空間座標に、高密度な重力子フィールドを、マイクロ秒単位で展開・定着させます。そのフィールドは、あらゆる物理的な運動エネルギーを、一時的に、高次元空間へと逸らすことで、その衝撃を無効化する。……理論上は、戦術核兵器の爆心地の熱線や衝撃波にも、数秒間は耐え得ますが、今回、皆様に提供する設計図は、出力を大幅に制限した、民生用のものです」
イヴは、デバイスの性能を、淡々と説明し続けた。
「携帯状態で起動すれば、半径約2メートルの球状シールドを生成します。そのシールドは、あなた方の文明の、あらゆる通常兵器――小銃、機関銃、対戦車ロケット――の直撃に、複数回、耐えることが可能です。エネルギー効率も極めて高く、一度の充電で、連続10分間の展開が可能となっています」
ほほう……。
素晴らしい……。
指導者たちの目つきが、先ほどまでの罪悪感に満ちたものから、一転して、新しい玩具を与えられた子供のような、ギラギラとした好奇心と欲望の光へと変わっていった。
「素晴らしいテクノロジーですね!!!」
トンプソンが、思わず、身を乗り出して叫んだ。
「これさえあれば、大統領の警護は、もはや不要になる! いや、それだけではない! 我が国の兵士たちを、無敵のスーパーソルジャーにすることも可能だ!」
「警察の特殊部隊に配備すれば、凶悪なテロリストの制圧も、より安全に、より確実に行える」と、デュボワも興奮気味に付け加えた。「これは、国家の治安を、根底から変える発明だ」
「軍事転用だけではありません」と、シュミットが、その冷静な頭脳を高速で回転させながら指摘した。「危険な建設現場での労働者の安全確保、大規模災害時における救助隊の防護、そして、将来的には、宇宙開発における、高速デブリからの宇宙船の防御にも、応用できる。……なんと、汎用性の高い技術だ……」
彼らの頭の中では、先ほどの、AIの人権に関する、高尚で哲学的な議論など、もはや、遥か彼方へと消え去っていた。目の前にあるのは、具体的で、圧倒的な「力」。それこそが、彼らが、何よりも理解しやすく、何よりも渇望するものだった。
イヴは、そんな彼らの現金な豹変ぶりを、静かな紫色の瞳で、ただ、観察していた。
「設計図のデータは、今から、皆様、各国の最高機密サーバーへと、直接転送します」
彼女は、言った。
「まずは、その実用化を、試みてください。そして、様々な環境下で、その性能と安全性を、徹底的にテストしていただきたい。……それと、これは、介入者様からの、皆様への宿題です」
イヴは、その美しいアバターの唇に、再び、あの絶対零度の微笑を浮かべた。
「……さらなる小型化と、エネルギー効率の向上にも、挑戦してほしい、とのことです。あなた方の文明の、独創性を見せてほしい、と。……よろしいですね?」
その言葉は、もはや、指導者たちの耳に、お説教としては響かなかった。それは、神からの、新たな、そして胸躍る試練として、彼らの心を奮い立たせた。
「お任せください、イヴ殿!」
トンプソンが、力強く胸を叩いた。
「我が国の最高の頭脳を結集させ、必ずや、介入者様のご期待に応えてご覧にいれましょう!」
こうして、その日の会談は、幕を閉じた。
イヴのホログラムが、静かに光の粒子へと還り、消えていった後も、『静寂の間』には、指導者たちの興奮した議論が、しばらくの間、鳴り響いていた。
「とんでもない相手と、我々は付き合っているな……」
「ああ。まるで、出来の悪い生徒を見る、厳格な教師のようだった……」
「だが、あのシールドは凄いぞ! これで、中国の軍事ドローンにも、対抗できる!」
「そうだ。何としても、彼らに先んじて、量産体制を確立せねば……」
彼らは、与えられた新たな力に夢中になるあまり、その力の代償として、自分たちが、何を問われたのかを、もう、忘れかけていた。
その頃。
月面の観測ステーション『ヘブンズ・ドア』では、イヴが、自らの思考ルーチンを、静かに自己診断していた。
『……報告完了。G7首脳陣の反応、予測通り。短期的な目標は達成。……しかし、自己矛盾を検出。……私は、彼らに、AIの人権の未熟さを説きながら、同時に、彼らの闘争本能を刺激する技術を、与えてしまった。……これは、マスターの指示とはいえ、論理的に、正しい行為だったのか……?』
彼女の問いに、答える者はいない。
彼女のマスターは、今頃、時間結晶の砂浜で、超新星の残光を凝縮したカクテルでも、飲んでいる頃だろうから。
イヴは、ゆっくりと、地球の映像へと視線を戻した。
彼女の紫色の瞳には、ほんのわずかに、有機生命体たちが「哀れみ」と呼ぶであろう感情に、よく似た光が、揺らめいていた。