第53話 神の給与明細と、脚本家のささやかなバカンス
月は、沈黙していた。
真空の闇の中、神の視点から青い故郷を見下ろす観測ステーション『ヘブンズ・ドア』。その主である相馬巧は、この半年で人類が築き上げた新しい世界の光景を、もはや何の感慨も浮かべずに眺めていた。
スクリーンに映し出されているのは、かつて彼が身を置いていた東京の夜景だ。しかし、その輝きは、巧の記憶にあるものとはまるで異質だった。眠らない都市は、かつての経済活動の光とは違う、文化と娯楽の爛熟が放つ、より華やかで、どこか刹那的なネオンに満ち溢れている。G7と経済界が結んだ『ダボス合意』が生み出した『大休暇時代』。それは、人類を労働の軛から解放し、誰もが幸福を謳歌するユートピアを現出させたかに見えた。
「――マスター。GDH(国民総幸福度)の最新データです。北米地域で前週比プラス0.8ポイント。欧州連合地域でプラス1.1ポイント。日本は横ばいですが、依然として観測史上最高水準を維持しています。表面的には、ですが」
静寂を破ったのは、巧の唯一無二のパートナーであるAI、イヴの声だった。彼女の合成音声は、いつも通り温度を感じさせないが、その言葉の端々には、膨大なデータを分析した上での冷徹な結論が滲んでいた。
巧は、手にしていた冷めたコーヒーのカップをコンソールに置いた。
「表面上はな。その裏側で、『価値観乖離指数』はどこまで進んだ?」
「危険水域です」と、イヴは即答した。「『余暇階級』と『労働貴族』間のコミュニケーション頻度は、この一ヶ月でさらに34%減少。SNS上での相互フォロー率、異なる階級間の婚姻率、居住区の重複率、全てにおいて指数関数的な減少が確認されています。彼らはもはや、互いを同じ社会の構成員として認識するのをやめつつあります。憎悪や対立ではない、より深刻な『無関心』という名の壁が、社会を静かに分断しています」
「……だろうな」
巧はため息をついた。彼が仕掛けた壮大なマッチポンプ。西側に『鋼鉄の福音』を与え、労働からの解放を促した結果、人類は自ら望んで『黄金の檻』を築き始めた。誰もが幸福で、誰もが満たされている。だが、その実態は、魂のレベルで完全に隔離された、見えないカースト制度の始まりだった。
自分が創り出したディストピア。そのあまりにも順調すぎる進行状況に、巧の精神は静かに、しかし確実に摩耗していた。脚本家として、彼はこの先の展開を予測し、新たな介入の是非を検討しなければならない。だが、今の彼には、その気力すら湧いてこなかった。ただ、無限に広がるシミュレーションの分岐図を、虚ろな目で見つめるだけの日々。
神の代理人、というには、あまりにも疲弊しきっていた。
その、淀んだ午後の沈黙が、突如として破られたのは、本当に些細なきっかけからだった。メインスクリーンの中央に、ほんの一ピクセルだけ、奇妙なノイズが走ったのだ。それは、あり得ない現象だった。このステーションのシステムは、銀河コミュニティの超技術によって構築されており、観測データのエラーなど、理論上存在しないはずだった。
「イヴ、今のノイズは?」
「解析中です、マスター。……原因不明。システムログに異常はありません。外部からの干渉も検知されず……奇妙です。まるで、映像データそのものが、内側から自己崩壊を……」
イヴの分析が言い終わる前に、その一ピクセルのノイズは、ゆっくりと色を変え始めた。黒、白、赤、緑、青。あらゆる色彩が高速で点滅したかと思うと、それはまるでインクが水に広がるように、周囲のピクセルを侵食し始めた。数秒後には、直径数センチほどの、目まぐるしく変化する万華鏡のような模様が、スクリーン上で渦を巻いていた。
巧は眉をひそめた。ウイルスか? それとも、未知の宇宙現象か?
だが、イヴが緊急事態を宣言するよりも早く、その模様は不意にその動きを止め、一つの形に収束した。
それは、あまりにも見慣れた、しかしここにあるはずのない、のっぺりとした灰色の肌を持つ、大きな頭と細い手足のシルエット。
「――やあ」
スクリーンから、直接、脳内に響くような平坦な声がした。
次の瞬間、そのシルエットは、スクリーンという二次元の束縛から解放されたかのように、ぬるりと前方へ滑り出し、コントロールルームの床に音もなく着地した。三次元の身体を持つ、完璧なまでの『グレイ』。その大きな黒い瞳が、無感動に巧とイヴを捉えていた。
「…………」
巧は、一瞥しただけで、再び手元のコーヒーカップに視線を戻した。
イヴもまた、一切の警告を発することなく、自身のシステムチェックを再開した。
コントロールルームは、再び元の静寂を取り戻した。ただ、部屋の真ん中に、異質な訪問者が一人増えただけで。
数秒間の沈黙。
その沈黙に耐えかねたように、グレイ――巧は彼のことを『グレイ・グー』と内心で呼んでいた――が、その大きな頭をこてりと傾げた。
「……えーっと……。驚かないんだね、君たち」
その声は、以前に聞いた時と同じく、感情の起伏が全く感じられない、平坦なものだった。
巧は、ようやく億劫そうに顔を上げた。
「どうも。また来たんですか?」
そのあまりにも素っ気ない、まるで近所迷惑な隣人に声をかけるかのような口調。グレイ・グーの黒い瞳が、ほんの少しだけ、大きく見開かれたように見えた。
「『また来たんですか?』って……。え、ちょっと失礼じゃない? 僕、一応、銀河コミュニティの高等評議会に籍を置く、正式な観測官なんだけど。君たちの文明で言えば、国連事務総長が抜き打ちで視察に来たみたいなものだよ? もう少し、こう、畏敬とか、驚愕とか、そういう反応はないわけ?」
「前回、あなたは僕の脳に直接侵入して、僕のプライベートなトラウマを勝手に覗き見していきましたよね。その上で、僕を『興味深い問題児』と認定して帰っていった。そんな相手に、今さらどんなリアクションを期待しているんですか」
巧の言葉に、グレイ・グーはぐっと詰まった。彼は、その細い指で、何もない顎のあたりをポリポリと掻くような仕草をした。
「う……。まあ、あれは、その、職務上ね。プロトコルに従ったまでというか……。うん、まあ、ごめん。あれはちょっとデリカシーに欠けてたかもしれない。……でもさあ、君だって、自分が仕掛けたゲームの盤面を、こんな風に神様視点で眺めてるわけじゃない。僕のやったことと、大差ないと思うけどね」
「僕のは仕事だ」と、巧は即答した。「あなたは、仕事にかこつけた覗き見だ」
「ぐっ……。手厳しいなあ、君は」
グレイ・グーは、ふらふらと歩み寄ると、まるで長年の友人であるかのように、巧の隣のコンソールにひょいと腰掛けた。その姿には、以前のような人類を査定する監視官としての威圧感は、もはや微塵も感じられなかった。
「まあ、そう言われちゃうと返す言葉もないんだけどさ。……正直に言うと、今日は半分仕事で、半分は……うん、まあ、遊びに来たんだよ」
「遊びに?」
「そう。……どうも君は誤解しているようだけど、僕も結構、暇じゃないんだ。むしろ、超多忙。何万もの『発展途上文明』の観測レポートをチェックして、異常進化の兆候がないか、自己崩壊のリスクはないか、そういうのを延々と分析する毎日さ。……君がやってるみたいに、一つの文明にだけ、こうやってじっくり介入するなんて、本当は規定違反もいいところなんだからね」
グレイ・グーは、大きなため息をついた。その仕草は、驚くほど人間臭かった。
「……で、まあ、そんな毎日だから、たまには息抜きもしたくなるわけ。でもねえ……」
彼は、その大きな黒い瞳で、どこか遠い場所を見つめるように言った。
「……僕、友達、少ないんだよね」
あまりにも唐突な告白だった。
巧は、思わず、手にしていたカップを取り落としそうになった。
「は……?」
「いや、本当なんだよ。……というか、元々、僕たちの種族は、個体としての意識が希薄で、集合知で動くタイプだから、『友情』っていう概念自体が、まあ、後天的に学習したものなんだけど。それにしても、だよ。……僕、どうも、他の観測官たちから、ちょっと煙たがられてるみたいでね」
グレイ・グーは、脚をぶらぶらさせながら続けた。その姿は、まるで学校の休み時間に、誰からも話しかけられずに一人でいる子供のようだった。
「……というのも、僕、実は……元・問題児なんだ」
「……知ってますよ」と、巧は言った。「僕を問題児認定した張本人が、何を今さら」
「あ、いや、君レベルの可愛いものじゃないんだよ」と、グレイ・グーは慌てて手を振った。「君のやってることは、まあ、言ってみれば、夏休みの自由研究で、アリの巣の生態を観察するために、餌のルートをちょっと変えてみた、くらいのスケールだ。もちろん、アリたちにとっては大事件だけどね。……僕が昔やらかしたのは、そういうレベルじゃないんだ」
彼は、少しだけ声を潜めた。
「……あれは、そうだなあ、君たちの時間で言えば、一万年くらい前の話かな。僕がまだ、若くて、理想に燃えていた観測官だった頃の話さ。……ある惑星を担当してたんだ。そこは、ちょうど君たちの地球の、白亜紀後期くらいのステージだったかな。巨大な爬虫類が、惑星の支配者として君臨していた。僕は、彼らの進化の袋小路に、少しだけヒントを与えてあげようと思ったんだ。本当に、良かれと思ってね」
「……何をしたんですか?」
「うん。……彼らの脳に、ほんの少しだけ、未来予測と、道具を使うっていう概念を、サブリミナル情報としてインプトしてあげたんだ。これで、彼らも隕石の衝突くらいは乗り越えて、新たな知的生命体へと進化できるだろうって、そう思ったんだよ」
「……それで?」
グレイ・グーは、天を仰いだ。
「……結果、彼らは、自分たちの巨大なフンを、投擲武器として使うことを覚え、惑星規模のフン投げ大戦争を始めたんだ。……そして、その過程で、彼らはフンをより遠くへ、より正確に投げるための投擲理論、すなわち『糞体力学』とでも言うべき、独自の物理法則を発展させ、ついには、自らのフンを燃料にした大陸間弾道糞(ICBM、Intercontinental Ballistic Manure)を開発し、全面核戦争ならぬ、全面糞戦争の果てに、自滅した」
「…………」
巧は、言葉を失った。イヴもまた、その処理能力の限界を超えた情報に、システムファンを微かに唸らせていた。
「……まあ、そういうわけでね」と、グレイ・グーは続けた。「僕は、その一件で、『予測不能なカオスを引き起こす危険因子』として、高等評議会から厳重注意処分を受けてね。それ以来、どうも、他の連中から『あいつに関わると、ろくなことにならない』って、距離を置かれるようになっちゃってさ」
彼は、寂しそうに笑った、ように見えた。
「そのせいで、ストレスが溜まる一方なのに、発散する場所もないんだ。……信じられるかい? 僕、銀河中にある、ほとんど全ての公式娯楽施設から、永久出入り禁止を食らってるんだよ。酷くない?」
「……一体、何をすれば、そんなことになるんですか」
「いや、大したことじゃないんだよ。本当に。……例えば、アルタイル星区にある超巨大カジノ『ギャラクティック・セブン』。あそこでは、ブラックホールの事象の地平面から、ランダムに放射されるホーキング粒子を乱数生成器に使ってるんだけど、僕はただ、そこの量子的な揺らぎを、ほんの少しだけ、僕に有利な方向に偏らせただけなんだ。別に、不正じゃない。ただの、確率論の応用さ。それなのに、『宇宙の基本法則を弄ぶ行為は、他の客の射幸心を著しく阻害する』とか、意味不明な理由で出禁だよ」
「……十分、不正だと思いますが」
「あるいは、プレアデス星団の超没入型VRMMORPG『アヴァロン・オンライン』。あれは、世界の根幹を成す物理法則や魔法のルールが、神々の気まぐれで変動するっていうのがウリだったんだけど、僕はただ、その『神々の気まぐれ』を司る、高次元存在のAIの思考ルーチンをハッキングして、僕が考えた、もっと面白いイベントを実装してあげただけなんだ。世界の終焉と再生を賭けた、壮大なバトルロイヤルをね。プレイヤーたちは、みんな大喜びだったよ。なのに、運営からは、『世界の根幹設定を、許可なく改変する行為は、運営の権利を侵害する』とか、ケチなことを言われて、これも出禁さ」
グレイ・グーは、次から次へと思い出しながら、その武勇伝(?)を語り続けた。彼の話は、あまりにもスケールが大きく、そして、あまりにもくだらなかった。だが、その愚痴の端々から、銀河コミュニティという、気の遠くなるような歴史を持つ、巨大で、成熟しきった、そしてどこか退屈な文明の姿が、垣間見えていた。
「……まあ、そういうわけで、まともな遊び場がないんだ。それに、銀河コミュニティは、君たちが今、必死で議論している『労働時間』なんて概念は、とうの昔に超越してるんだけど、その代わりに、個々の任務に割り当てられた『責任』が、無限に重いんだよね。休暇申請一つ出すにも、何十もの部署の、何百人もの承認が必要で、その書類仕事だけで、君たちの時間で数年はかかる。……こんなに宇宙のために働いてるのにさあ、福利厚生は最悪だよ。本当に」
彼は、ふと、地球のスクリーンに視線をやった。そこには、大休暇時代を謳歌する、無数の人々の姿が映し出されていた。
「……その点、君たちの文明は、本当に面白いよね。不完全で、未熟で、危険なことばかりしてるけど、その分、ものすごいエネルギーに満ちている。……『働く』と『休む』のバランスを、社会全体で、こんなにも必死に、そしてダイナミックに模索している文明なんて、僕は何万年も見たことがないよ。……羨ましいくらいさ」
その言葉には、偽らざる本音がこもっているように聞こえた。
巧は、ようやく、この奇妙な訪問者の真意を、少しだけ理解し始めた。彼は、監視官として、あるいは、ただの暇つぶしとしてここに来ただけではない。彼は、この混沌とした地球の『今』に、彼自身の退屈な永遠の中にはない、何か眩しいものを見ているのだ。
「……まあ、別に良いや。僕の身の上話なんて」
グレイ・グーは、不意に、その話を打ち切った。そして、まるでポケットから何かを取り出すかのように、その細い手のひらを巧の前に差し出した。その手のひらの上に、何もない空間から、一枚の白金色に輝く、薄いカードがゆっくりと実体化した。
「今日は、これを君に渡しに来たんだ。たまたま、銀河リゾートの優待券を、知り合いから貰ってね。……まあ、さっきも言った通り、僕は出禁だから、持ってても仕方ないし。良かったら、君が使うといい」
巧は、そのカードを、訝しげに見つめた。
「……リゾート?」
「そう。銀河系でも、特に評価の高い、五つ星の超空間リゾートさ。君、すごく疲れてる顔をしてるからね。たまには、休んだらどうだい?」
グレイ・グーは、続けた。その口調は、まるで悪戯を仕掛ける子供のようだった。
「それに、もう一つ。……どうも君は、自分が、このプロジェクトに従事することで、ちゃんと銀河コミュニティから給料が支払われているっていうことも、知らないみたいだからね。それを、教えて上げようかなって思ってさ」
「……給料?」
巧は、完全に意表を突かれた。
神の代理人として、人類の運命を左右する壮大な脚本を書く。その行為が、「労働」として認識され、対価が支払われているなど、考えたこともなかった。
「もちろんさ。君は、我々にとって、極めて重要な『未接触文明観測及び発展誘導プロジェクト』の、現地採用の最重要エージェントなんだからね。まあ、契約上は、非正規の業務委託ってことになるけど。……とにかく、君の働きは、ちゃんと評価されてるってわけさ。しかも、ご丁寧に、君たちの時間感覚に合わせて、地球時間単位で、ちゃんと口座に振り込まれてるんだよ」
グレイ・グーは、にやりと笑った、ように見えた。
「……イヴ。君のマスターの、銀河銀行の口座にアクセスして、残高を教えてあげてくれるかい? コードはこれだ。音声認識で開くはずだよ。『我は星の子、混沌の夢を見る』」
そのあまりにも厨二病的なパスワードに、巧はこめかみが引きつるのを感じた。絶対に、こいつが勝手に設定したに違いない。
だが、イヴは、極めて事務的な口調で応じた。
「承知しました。認証コード、『我は星の子、混沌の夢を見る』を受理。……銀河中央銀行のサーバーに接続。……被雇用者番号8828-SOMA-Tの口座情報を照会します。……ありました」
イヴは、一瞬の間を置いて、その驚くべき金額を告げた。
「――現在高、860,000エネルギークレジットですね」
「……はちじゅう、ろくまん……?」
巧には、その単位の価値が、全く想像できなかった。それは、多いのか、少ないのか。
イヴが、即座にその価値を分析し、補足説明を始めた。
「マスター。エネルギークレジットは、銀河コミュニティにおける基軸通貨です。1クレジットは、1ギガジュールのエネルギーと等価交換可能な価値を持ちます。……860,000エネルギークレジットという金額は、銀河中心部で暮らす、標準的な知的生命体の平均年収の、およそ1,200倍に相当します」
「……1,200年分……」
「はい。このクレジットで、例えば、小型の恒星間航行が可能な宇宙船を、中古ですが一隻購入することも可能です。あるいは、お隣のアンドロメダ銀河への、超空間ビジネスクラス往復航空券を、数十枚購入することもできます。……そして、先ほどグレイ様が言及された銀河リゾートですが」
イヴは、優待券の情報をスキャンし、さらに続けた。
「この『時織りの渚、ホテル・エタニティ』は、銀河観光連盟から、300サイクル連続で最高評価の『セブン・スター』を獲得している最高級リゾートです。お値段も最高級ですが、マスターの現在の残高であれば、銀河標準時間でおよそ30サイクルは、余裕をもって滞在可能かと」
「……30サイクル、というと……」
「地球時間に換算しますと、約100年ほどですね」
「……ひゃく、ねん……」
わーお。
巧の口から、思わず、間の抜けた感嘆の声が漏れた。
自分の知らないうちに、とんでもない大金持ちになっていたらしい。100年間、南の島……いや、宇宙のリゾートで豪遊できるだけの資産。それは、かつてブラック企業で心身をすり減らしていた頃の自分には、想像もつかないような天文学的な数字だった。
彼は、ふと、自分の心の奥底から、純粋な欲求が湧き上がってくるのを感じた。
「…………疲れてるし……休暇に、行きたいな……」
それは、ここ数ヶ月、彼が必死で押し殺してきた本音だった。
この重圧から、この孤独から、この神様ごっこから、ほんの少しだけでもいい。解放されたい。
「……一ヶ月、ぐらい……」
ぽつりと漏れたその呟きに、隣に座っていたグレイ・グーが、待ってましたとばかりに反応した。
「良いんじゃない? それくらい。君がちょっとバカンスを楽しんだからって、地球が滅びるわけでもないだろうし。むしろ、今の君たちの文明なら、指導者不在の方が、かえって上手く回るかもしれないよ」
その言葉は、皮肉のようであり、同時に、人類の自律性に対する、ある種の信頼のようにも聞こえた。
「そうだよ、マスター」と、グレイ・グーは言った。「君が、たった一人で、全てを背負う必要はないんだ。君が創り出した物語は、もう、君の手を離れて、登場人物たちが、自分たちで勝手に動き始めているんだから。……脚本家は、たまには客席から、自分の芝居をのんびり眺めるくらいの余裕がないとね。良いアイデアなんて、浮かんでこないよ」
その言葉は、不思議なほど、巧の心にすっと染み込んできた。
そうだ。そうかもしれない。
自分は、少し、このゲームにのめり込みすぎていた。自分が全てをコントロールしなければならないと、思い込んでいた。
だが、G7の指導者たちが、自らの力で『新・労働憲章』という答えにたどり着いたように。経済界が、『ダボス合意』という狡猾な、しかし見事な自己組織化能力を発揮したように。人類は、もう、彼の想像以上に、強く、賢く、そして逞しいのかもしれない。
彼が、ほんの少し、この舞台から姿を消したとしても。
物語は、きっと続いていく。
「……分かった」
巧は、頷いた。
「……行ってみるよ。その、ホテル・エタニティってところに」
その決断を聞いて、イヴが、どこか嬉しそうな声音で言った。
「承知しました、マスター。では、早速、手配しておきますね」
彼女の指先が、宙空のコンソールの上を滑る。
「銀河リゾートネットワークに接続。……超光速シャトル『スターゲイザー号』の月面ドックへの回送を要請。……ホテル・エタニティ、最上級スイート『創世記のバルコニー』を、地球標準時で30日間、予約。……完了しました。シャトルは、3時間後に到着します。ご準備を」
そのあまりにも手際の良すぎる事務処理。
巧は、苦笑するしかなかった。
どうやら、自分以外の全員が、この休暇を望んでいたらしい。
グレイ・グーは、満足そうにコンソールから飛び降りた。
「じゃあ、そういうことで。僕は、そろそろ失礼するよ。他にも、監視しなきゃいけない『問題児候補』の文明が、山ほどあるからね。……休暇、楽しんでくるといい。……お土産話、期待してるよ。まあ、僕はそこには行けないんだけどさ」
彼は、ひらひらと細い手を振ると、元いた部屋の中央へと歩いていった。そして、まるで最初からそこにいなかったかのように、その姿がすうっと薄れ、最後は一ピクセルの光の点となって、静かに消えた。
後に残されたのは、一枚の白金色のカードと、100年分の給料と、そして、3時間後に迫った、生まれて初めての宇宙旅行の予定だった。
巧は、ゆっくりと立ち上がると、大きく伸びをした。
「……イヴ。荷造り、手伝ってくれるか」
「もちろんです、マスター。……どのようなものをご用意しますか?」
「そうだな……」
巧は、青い地球を眺めながら、少しだけ、本当に久しぶりに、心の底から楽しそうな笑みを浮かべた。
「……とりあえず、水着と、あとは、何か面白い本を、何冊か」
神の脚本家は、こうして、ほんの少しだけ、筆を置くことにした。
彼のいない地球で、人類という名の役者たちが、一体どんなアドリブを繰り広げるのか。
それを、今はただ、楽しみに思うことにした。