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第50話 王たちの提案と、黄金の軛

 世界は、かつてないほどの好景気に沸いていた。

 G7諸国で解禁された代替装備サイボーグ技術の民間利用は、眠らない労働者と、決してミスのない超効率的な生産システムを生み出し、西側陣営の経済を、まるでジェットエンジンのアフターバーナーに点火したかのように、凄まじい勢いで加速させていた。株価は連日史上最高値を更新し、都市には新たな摩天楼が次々と建設され、人々の顔には、未来への楽観的な希望が満ち溢れていた。

 この黄金時代の、まさに震源地。

 その富と権力が、最も凝縮された場所。

 スイス、ダボス。アルプスの山々に抱かれたその高級リゾート地に、今年もまた、世界の真の支配者たちが秘密裏に集結していた。

 彼らは、政治家ではない。彼らは、その政治家たちを金と情報で操る巨大多国籍企業のCEO、ウォール街の金融王、そしてシリコンバレーのテクノロジー長者たち。世界経済フォーラムという名の、現代の王侯貴族たちが集う華麗なるサロンだった。


 今年のダボスの空気は、例年とは全く異なっていた。そこには、地政学リスクや気候変動といった、ありふれた議題に対する退屈な議論は存在しなかった。彼らの心を占めているのは、ただ一つ。神から与えられたこの究極の玩具――代替装備技術――を、いかにして自分たちの利益のために最大限活用するかという、剥き出しの欲望と興奮だけだった。


「――諸君! 乾杯しようではないか!」

 フォーラムの初日の夜に開かれた、非公式のディナーパーティー。その壇上で、世界最大の投資銀行の老獪なCEOが、クリスタルのグラスを高々と掲げた。

「この一年、我々の資産がどれほど増大したか、もはや計算するのも馬鹿馬鹿しいほどだ! 全ては、介入者様と、そしてその技術を賢明にも我々民間に解放してくださったG7の友人たちのおかげだ! 新たなる黄金時代に、乾杯!」

「乾杯!」という唱和が、シャンデリアの光を震わせた。

 CEOたちは、ウハウハだった。

 彼らは、誰よりも早くこの新しい時代の波に乗り、自社の従業員を次々と「アップグレード」させ、ライバル企業を圧倒的な生産性の差で叩き潰し、そして市場を独占した。彼らにとって、24時間、文句も言わずに働き続けるサイバー・ワーカーたちは、かつて夢見た理想の労働力そのものだった。

 彼らは、この祝祭が永遠に続くと信じて疑わなかった。


 だが、その狂騒の饗宴の真っ只中に。

 一本の冷ややかな爆弾が投下された。

 G7の指導者たち、連名による公式な共同声明。

 その内容は、このダボスに集った王たちの、その黄金の杯に注がれた美酒を、一瞬にして苦い毒へと変えてしまうほどの、衝撃的なものだった。


『――G7新・労働憲章(草案)の提言について』


 そのあまりにも場違いなタイトル。

 CEOたちは、自らのスマートデバイスに転送されてきたその文書を、訝しげな表情で開き始めた。

 そして、その第一条を読んだ瞬間。

 会場の陽気な喧騒は、水を打ったように静まり返った。


『第一条:G7に加盟する全ての国家は、AI及び代替装備技術の普及を前提とし、全国民の心身の健康と、文化的で人間らしい生活を保障するため、『週休三日制』及び『一日四時間労働』を、新たな標準労働モデルとして法制化することを目指す』


 週休三日制。

 一日四時間労働。

 その単語が、CEOたちの脳内で、まるで意味をなさない異星の言語のように、空虚に反響した。

 数秒間の、絶対的な沈黙。

 そして、次の瞬間。

 その沈黙は、爆発した。


「―――ふざけるなッ!!!!!!!」


 最初に絶叫したのは、やはり、あのウォール街の老練な投資銀行家だった。彼は、読んでいたデバイスをテーブルに叩きつけ、その顔を怒りで真っ赤に染め上げた。

「これは、一体何の冗談だ!? 社会主義への回帰か!? いや、それ以上に悪質な怠惰の強要だ! せっかく我々が人類を24時間戦える戦闘マシンへと進化させ、この経済を爆速で回復させているこの最高のタイミングで! なぜ、わざわざそのエンジンに冷や水をぶっかけるような真似をする必要があるんだ!」

 彼の怒声に、他のCEOたちも次々と同調した。

「そうだ! G7の連中は、ついに理想論に脳を毒されて狂ったか!」

「労働こそが、人間の美徳ではなかったのか!? 我々が血の滲むような努力で築き上げてきたこの資本主義の精神を、彼らは根底から否定するつもりか!」

「24時間仕事をする方が、人生はよほど充実するだろう! なぜ国が、国民から働く喜びを奪うのだ!」


 その経営者としての、あまりにも正直な本音。

 彼らにとって、労働時間の短縮は、自らの利益の減少に直結する絶対悪に他ならなかった。

 だが、その怒号の嵐の中で。

 全てのCEOが、同じ意見というわけではなかった。


「…………うーん……」

 ドイツの巨大自動車メーカーの冷静沈着なCEO、ハンス・グルーバーは、腕を組み、難しい顔で唸っていた。

「……確かに、感情的には諸君らの意見に同意したい。……だが、少し頭を冷やして考えてみたまえ。……G7の指導者たちが、何の勝算もなく、我々経済界全体を敵に回すような、こんな過激な提案をすると本気で思うかね?」

 その冷徹な指摘。

 会場の熱狂が、少しだけ鎮まった。

「……彼らの狙いは、別にあるはずだ」と、グルーバーは続けた。

「……思い出してみろ。……この代替装備の普及が、我々に何をもたらしたかを。……富、そして生産性。……だが同時にそれは、深刻な『改造格差』と、非改造者の大量の失業という、巨大な社会不安をも生み出した。……このまま放置すれば、いずれ大規模な暴動や革命が起き、我々が築き上げたこの黄金時代そのものが、内側から崩壊しかねん。……G7の連中は、その爆弾が爆発する前に、そのガス抜きをしようとしているのだ。……労働時間を短縮し、最低限の生活を保障することで、民衆の不満を和らげようと。……これは、我々資本家を守るための、必要悪なのかもしれんぞ」


 そのあまりにも現実的な、そして説得力のある分析。

 多くのCEOたちが、ぐっと言葉を詰まらせた。

 そうだ。

 自分たちも、心のどこかでは気づいていた。

 この熱狂が、永遠には続かないことを。

 自分たちの富が、大多数の貧者の犠牲の上に成り立っているという、不都合な真実を。


 その議論の潮目の変化を、シリコンバレーから来た若きIT企業の創業者、ケンジ・タナカは見逃さなかった。彼は、日系三世の、まだ三十代の若き億万長者だった。

「……いや、待ってください、グルーバーさん」

 彼は静かに、しかしその声には次世代のリーダーとしての確信を込めて言った。

「……僕は、これは『必要悪』などという消極的なものではないと思う。……むしろこれは、我々にとって最大の『ビジネスチャンス』なのではないでしょうか?」

「……ビジネスチャンスだと?」

 ウォール街の老銀行家が、訝しげに眉をひそめた。

「ええ」と、ケンジは頷いた。

「……皆さん、考えてみてください。……もし本当に、週休三日、一日四時間労働が実現したら、人々は何をしますか? ……彼らは、突如として膨大な『自由な時間』を手にすることになる。……その時間を、彼らはどう使うでしょう? ……旅行、映画、音楽、ゲーム、スポーツ、そして自己啓発のための学習。……そうです。そこに、我々がこれまで想像すらしえなかった、数十兆ドル規模の巨大な『余暇市場』が生まれるのですよ」


 そのあまりにも鮮やかな、視点の転換。

 会場の空気が、再び変わった。

 怒りと警戒は、好奇心と打算へと、その姿を変えていく。


「我々が今恐れているのは、『労働』という旧時代の市場が、縮小することです。……ですが、我々が今目を向けるべきは、その先に広がる『余暇』という、全く新しいブルーオーシャンなのではないでしょうか? ……我々がやるべきは、この時代の変化に抵抗し、沈みゆく船にしがみつくことではない。……この新しい大海原へと誰よりも早く漕ぎ出し、その全てを支配する、新しい時代の海賊王になることなのではありませんか?」


 そのあまりにも若く、そして野心的な演説。

 それは、旧時代の資本家たちの凝り固まった頭脳を、鮮やかに打ち砕いた。

 そうだ。

 なぜ、気づかなかったのだ。

 これは、危機ではない。

 好機なのだ。

 新たな富の源泉が、すぐそこにあるのだ。


 その議論の潮目が完全に変わったのを見計らい、グルーバーが、その現実主義者としての本領を発揮した。

「……なるほどな、ケンジ君。……君の言う通りかもしれん。……G7政府の提案を、真っ向から拒絶するのは、やはり得策ではないようだ。……我々は、彼らの提案を『受け入れる』という姿勢を、まずは世界に見せるべきだ。……その上で」

 彼は、その冷徹な目で、会場のCEOたちを見回した。

「……その上で、我々経済界の利益を最大限に守るための『条件』を、彼らに突きつけるのだ」


 その言葉を皮切りに。

 ダボスの会議室は、人類の未来の労働環境を設計するための、最も高度で、そして最も狡猾な戦略立案の場へと変貌した。

 彼らは、数時間にわたる激しい議論の末、一つの完璧な妥協案を練り上げた。

 それは、G7の理想論と、資本主義の現実を、悪魔的なまでに巧みに融合させた、究極の回答だった。


 まず、第一に。

 彼らは、G7が提唱する『週休三日・一日四時間労働』を、新たな時代の『標準労働モデル』として、全面的に受け入れることを表明する。これで、彼らは民衆の敵ではなく、時代の変化を歓迎する革新者としての顔を、世界に示すことができる。


 だが、第二に。

 彼らは、労働者個人の『働く自由』もまた、最大限に尊重されるべきだと主張する。

 標準時間を超えて、もっと働きたい、もっと稼ぎたいと願う、意欲的な労働者。

 彼らのためには、『プレミアム・ワーク制度』とでも言うべき、特別な選択肢を用意する。


 そして、第三に。

 そのプレミアム・ワークを選択した労働者に対して、企業は、通常の三倍、いや、五倍の極めて高額な超過勤務手当を、自らに義務付ける。

 これは、一見すれば労働者側に有利な条件に見える。

 だが、その裏には、冷徹な計算があった。

 企業は、もはや安易な残業を命じることはできなくなる。

 その代わり、本当に優秀で、本当に生産性の高い一握りの『スーパー・ワーカー』だけを、この高給なプレミアム・ワーク制度で雇用し、企業の核心的な業務を担わせる。

 そして、それ以外の大多数の『標準労働者』は、最低限の給料で最低限の仕事だけをこなす、周辺的な労働力として位置づける。


 そして、最後に。

 彼らは、この二つの働き方の間で、給料以外のあらゆる面において、完全な平等が保障されるべきだと、G7に要求する。

 昇進の機会、福利厚生、社内での地位。その全てにおいて、標準労働者とプレミアム・ワーカーは、全く同じ扱いを受ける。

 それは、あくまで個人の『ライフスタイルの選択』の問題なのだと。


 そのあまりにも巧妙で、そして完璧な制度設計。

 それは、表向きは労働者の自由と権利を最大限に尊重する、理想的な社会に見える。

 だが、その本質は。

 人類を、二つの決して交わることのない階級へと完全に分断する、新たなる黄金のくびきだった。


 一方は、高い報酬と引き換えに、自らの人生のほとんどを仕事に捧げる、一握りの『エリート労働者』。

 そしてもう一方は。

 最低限の生活と膨大な自由時間を保障される代わりに、もはや社会の中枢からは完全に切り離された、大多数の『余暇階級』。


 その恐るべき未来の設計図を、彼らは『ダボス合意』としてまとめ上げ、G7に対する公式な回答として、世界に発信した。

 そのあまりにも建設的で、そして労働者の権利を尊重するかのように見える回答に、G7の指導者たちは、そして世界中の民衆は、安堵し、そしてそれを歓迎した。

 彼らは、気づいていなかった。

 自分たちが今、自らの手で、自らを新たな階級社会の檻の中へと閉じ込めようとしていることに。


 月面の観測ステーションで、その一部始終を神の視点から見つめていた相馬巧は。

 そのあまりにも人間的で、そしてあまりにも狡猾な結論に、ただ深いため息をつくことしかできなかった。


「……ああ。……やっぱり、こうなるのか」

 彼は、独りごちた。

「……結局、人間は、どんなに豊かになっても、どんなに自由な時間を与えられても。……自ら序列を作り、壁を作り、そして競争せずにはいられない生き物なんだな」

『はい、マスター』と、イヴが静かに分析結果を報告した。

『人類は、再び極めて高度な自浄作用、あるいは自己組織化能力を発揮しました。……政府と経済界が、対立ではなく対話によって、新たな社会契約を結び直そうとしています。……社会の成熟度は、さらに一段階、予測値を上回る速度で上昇しました』

「……成熟か」

 巧は、乾いた笑みを浮かべた。

「……これが、本当に成熟と呼べるものなのか、俺にはもう分からんよ」


 彼は、スクリーンに映し出されるダボスの華やかな会議室の光景を見つめた。

 そこにいる世界の真の支配者たちの、その満足げな笑顔を見ながら。

 彼は、これから訪れるであろう新たな時代の光と影を、幻視していた。

 究極のワークライフバランスを手に入れる権利を得た、人類。

 その「自由な選択」の果てに、彼らが築き上げるのは。

 誰もが幸福なユートピアか。

 それとも、緩やかに、そして心地よく魂が死んでいく、完璧なディストピアか。

 その答えを、まだ誰も知らなかった。

 ただ、神の脚本家だけが、その新たな、そして、より複雑になったゲームの盤面を、静かに、そしてどこかもの悲しい目で見つめていた。

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