第49話 王たちの食卓と、失われた時間
仮想対話空間『静寂の間』。
月に一度、西側世界の七人の王たちが神の代理人と相まみえるその聖域は、今、かつてないほどの重苦しい沈黙に支配されていた。円卓を囲むG7の指導者たちのアバターは、皆一様に憔悴しきっており、その顔には、空前の好景気に沸く国家の指導者としての輝きなど、微塵もなかった。あるのは、自らが統治する社会の足元が、静かに、しかし確実に崩れ始めているのを目の当たりにしている者の、深い憂慮と焦燥の色だけだった。
数ヶ月前、介入者の許可のもとで解禁された代替装備技術の民間利用。それは、確かに西側陣営に爆発的な生産性の向上と、熱狂的な経済成長をもたらした。人々は、「疲労」と「睡眠」という人間古来の軛から解き放たれ、24時間稼働する眠らぬ社会が誕生した。誰もが、輝かしい未来の到来を信じて疑わなかった。
だが、その光が強ければ強いほど、その下にできる影もまた、濃くなる。
光の当たらない場所で、社会は静かに、しかし確実に蝕まれ始めていたのだ。
重苦しい沈黙を破ったのは、ドイツのアンゲラ・シュミット首相だった。彼女のホログラムは、いつも通りの冷静沈着さを装っていたが、その声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「――皆様。本日の緊急会合にお集まりいただき、感謝いたします。……議題は、皆様も既にご承知の通り、我々の社会に急速に広がりつつある、新たなる病についてです」
彼女は手元のコンソールを操作し、円卓の中央に、一つの巨大なグラフをホログラムとして投影した。
「これは、我が国の連邦統計局が、この三ヶ月間の社会動向をまとめたものです。……ご覧の通り、GDP、一人当たりの生産性、企業利益、その全てが観測史上最高の伸び率を記録しています。……ですが、その一方で」
彼女はグラフを切り替えた。次に表示されたのは、見る者の心を凍りつかせるような、右肩上がりの赤い曲線だった。
「失業率、特に代替装備を導入していない『非改造者』の失業率は、この三ヶ月で15%も上昇。若年層においては、その数値は実に25%に達しています。そして、離婚率、精神疾患の罹患率、そして原因不明の自殺者の数もまた、この経済成長と完璧に比例する形で、異常な上昇を記録しているのです」
そのあまりにも無慈悲なデータ。
それは、この場にいる全ての指導者たちが、自国でも同じように直面している不都合な真実だった。
フランスのデュボワ大統領が、苦々しげに呟いた。
「我が国でも同じだ。……先日、パリで大規模なデモがあった。失業した非改造者の労働組合が、『我々の仕事を奪うな』、『改造人間を優遇するな』と叫んでね。……一部は暴徒化し、代替装備クリニックのショーウィンドウを破壊した。……あれは、もはや単なる労働争議ではない。新たな時代の、新たな階級闘争の始まりだよ」
その言葉に、アメリカ大統領ジェームズ・トンプソンが、苛立ちを隠せない様子で割り込んだ。
「まあ、格差なんて、いつの時代のどんな社会にもあるものだろう。資本主義とは、そもそもそういうものだ。自由な競争の結果、勝者と敗者が生まれる。それは、当然のことじゃないのかね?」
そのあまりにもシニカルな、そしてアメリカ的な物言い。
だが、彼もすぐにその言葉を付け加えた。
「……だが、さすがに今回の事態は少し質が違う。……『アップグレードしなければ、人間としてのスタートラインにすら立てない』。……先日、ニューヨーク・タイムズの一面に、そんな見出しが躍った。……国民の間に広がるこの静かな絶望と分断は、さすがの我々も見過ごすことはできん」
そうだ。
彼らは、皆理解していた。
このままでは、社会が持たない。
生産性の向上という甘い果実の裏側で、社会の結束という根幹が、静かに腐り始めているのだと。
議論が行き詰まり、重い沈黙が再び部屋を支配しかけたその時。
この技術の供給元であり、そしてこの問題の全ての鍵を握る国、日本の郷田龍太郎総理が、満を持してその老獪な口を開いた。
「――皆様のご懸念、痛いほどお察しいたします。……そして、この問題の根源に、我が国が開発と供給を主導する代替装備技術がある以上、その責任の一端は我々日本にあることも、深く自覚しております」
そのあまりにも殊勝な、そして責任感に満ちた前置き。
他の指導者たちは、一体何を言い出すのかと、固唾を飲んで彼に注目した。
郷田は、まるで慈悲深き賢者のように、その解決策を提示した。
「……つきましては、我が国政府として、一つの提案がございます。……この『改造格差』を是正するため、我が国のCISTが保有する潤沢な資産を活用し、低所得者層向けの代替装備導入に対する、大規模な補助金制度を試験的に導入してはどうかと、そう考えております」
「……補助金だと?」
トンプソンが、訝しげに問い返す。
「はい」と、郷田は頷いた。
「幸い、我が国のCISTは、この数ヶ月、世界中の富裕層からの感謝の寄付金と、代替装備の国際ライセンス料収入によって、国家予算とは全く別枠で、莫大な黒字を計上しております。……この『神の富』を、経済的な理由でその恩恵に浴することができないか弱き民に還元するのは、最初にこの奇跡を授かった我々の、当然の責務でありましょう」
そのあまりにも気前が良く、そしてあまりにも「良い顔」をした提案。
他のG7の指導者たちの間に、一瞬、気まずい空気が流れた。
そうだ。
この技術の利益は、今、その全てが日本に集中しているのだ。
その日本が、自らの富を使って貧しき者を救う。
それは、確かに崇高な行いだ。
だが、それは同時に、日本の道義的な優位性を、さらに絶対的なものにしてしまう。
我々、他のG7は、ただ指をくわえて日本の慈善事業を眺めているだけなのか?
その微妙なプライドの葛藤を、カナダのジャスティン・トルドー首相が、最も穏当な形で代弁した。
「……郷田総理。……そのあまりにも寛大で、自己犠牲的なご提案には、心からの敬意を表します。……ですが、この問題は、もはや日本一国の問題ではありません。我々G7全体が、共に背負うべき問題です。……日本ばかりに、その金銭的な、そして政治的な負担を押し付けてしまうのは、決してフェアとは言えますまい」
彼は、代替案を提示した。
「つきましては、こう提案したい。……我々G7が共同で、『人類アップグレード基金』とでも言うべき、新たな国際基金を設立するのはどうだろうか。……各国がその国力に応じて資金を拠出し、その基金を通じて、全世界の希望者に安価に、あるいは無償で代替装備を提供する。……そして、その施術へのアクセスを容易にするため、G7市民に限り、日本への渡航規制を大幅に緩和し、医療ツーリズムならぬ『アップグレード・ツーリズム』を、国家ぐるみで促進するのです」
そのあまりにも建設的で、そしてG7の連帯をアピールするには、完璧な提案。
それに反対する者はいなかった。
郷田もまた、内心で「全ては思惑通りだ」とほくそ笑みながら、その提案を快く受け入れた。
会議は、ようやく一つの希望の光を見出し、少しだけその空気を和らげた。
そのほんのつかの間の安堵の空気の中で。
ふと、トンプソン大統領が、まるで長年の疲労を吐き出すかのような、深いため息をついた。
「…………まあ、しかし」
彼は、どこか遠い目をして、独り言のように呟いた。
「……あの疲労抑制ユニットだけでも、大したもんだよな。……正直に告白するが、実は先月、私もホワイトハウスの主治医に頼んで、こっそり体内に埋め込んでもらったんだよ」
その突然のカミングアウト。
部屋の空気が、一瞬だけ凍りついた。
そして、次の瞬間。
フランスのデュボワ大統領が、バツが悪そうに咳払いをした。
「……ほう。……奇遇ですな、ミスター・プレジデント。……実は、私もだ」
「おお! あなたもか!」
「ええ。……なにせ、我が国の労働組合が、毎日私の執務室の前でデモをやってくれるおかげでね。……眠る時間もありはしないのですよ」
その皮肉めいた告白に、今度はドイツのシュミット首相が、その鉄の仮面をわずかに崩して、くすりと笑った。
「……お仲間がいて、安心しましたわ。……私も一ヶ月前から、『エターナル・スプリング』の愛用者です。……おかげで、EUのあの延々と続く官僚的な会議を、最後まで正気を保ったまま乗り切ることができる」
次々と明らかになる、世界の指導者たちの秘密。
彼らは皆、公にはその是非を議論しながらも、その水面下では、誰よりも先にその神の恵みを享受していたのだ。
トンプソンは、その共犯者たちの告白に、満足げに頷いた。
「だろ? 実際、周りのスタッフも閣僚も、今やほとんどが導入済みだ。……本当に便利だよな。……おかげで、一日二十時間働いても、全く平気だ」
そして彼は、この会議室の張り詰めた空気を完全に破壊する、究極のジョークを飛ばした。
「―――まあ、そのおかげで、仕事、仕事、仕事の毎日で、可愛い妻と過ごすプライベートな時間は、完全に無くなったがな! ハッハッハッハッハ!」
そのあまりにも悲痛な、そしてあまりにも人間的な、乾いた高笑い。
それに、他の指導者たちもつられるようにして、苦笑を漏らし始めた。
「確かに!」
デュボワが、大げさに天を仰いだ。
「私も先日、妻から真顔で言われましたよ。『あなたいつ寝ているの? もしかして、あなたが寝室にいるあれは、精巧に作られたデコイ(囮)なの?』とね!」
「分かります、分かります」
イギリスの首相も、深く頷いた。
「我が国では、もはや『休日』という単語が、死語になりつつありますな。……体は、休む必要がないのですから」
「そうそう。……最近では、夢すら見なくなった……」
その世界の頂点に立つ男たちの、あまりにも情けなく、そしてあまりにもリアルな愚痴大会。
その奇妙な光景を、円卓の末席で、日本の的場大臣は複雑な表情で見つめていた。
彼は、この数ヶ月、誰よりもこの問題の深刻さを、その肌で感じてきた。
そして、この偉大な指導者たちが、あまりにも根本的な、そしてあまりにも単純な一つのことを見落としていることに、気づいていた。
彼は、おそるおそる、しかし意を決してその手を挙げた。
「…………あのう……。皆様……」
そのあまりにも場違いな、そして真面目な声。
指導者たちの苦笑が、ぴたりと止まった。
全ての視線が、この東洋から来た、実直すぎる科学者上がりの大臣へと集中する。
「…………それは、少しおかしいのではありませんでしょうか?」
的場は、その場の空気を凍りつかせる、あまりにも素朴な、しかしあまりにも根源的な問いを投げかけた。
「……テクノロジーの進歩は。……本来、我々人間を過酷な労働から解放し、より多くの自由な時間を与えるために、あるべきはずです」
彼の声は、震えていた。
だが、その言葉には、揺るぎない確信が宿っていた。
「……我々は、一日二十四時間働けるようになりました。……それは、事実です。……ですが、それは裏を返せば、これまで一日八時間かかっていた仕事が、同じ効率でこなせるようになった我々ならば、理論上は、三分の一の時間で終えられるはずだ、ということでもあります」
彼は、円卓を囲む世界の最も賢いと言われる男たちを、一人一人、まっすぐに見つめた。
そして、言った。
「―――『仕事の効率が三倍になったのだから、……労働時間を三分の一にするのが道理ではないか』と。……なぜ、そのように誰も考えないのでしょうか?」
そのあまりにも当たり前で。
そして、誰もが忘れてしまっていた、究極の正論。
その一言が、G7の指導者たちの、そのアップグレードされたはずの優秀な頭脳を、まるでハンマーで殴りつけたかのように揺さぶった。
そうだ。
なぜだ。
なぜ、我々は、その最も単純な発想にたどり着けなかったのだ。
我々は、生産性を上げること、GDPを増やすこと、そして中国との終わりのない競争に勝ち続けることばかりに、夢中になっていた。
そして、その進歩の果実を、国民の、いや、我々自身の「幸福」へと還元するという、最も基本的で、最も重要な視点を、完全に忘れ去っていたのだ。
トンプソンは、深く、深く、何かを考え込んでいた。
そして彼は、まるで長年の夢から覚めたかのように、はっと顔を上げた。
「…………そうか……」
彼は、独り言のように呟いた。
「……そうだな、的場大臣。……君の言う通りだ。……我々は、間違っていたのかもしれない。……我々は、国民を、そして我々自身を、より効率的に国富を生み出すための、高性能な歯車にすることばかりを考えていた」
そのトンプソンの告白を引き継ぐように、ドイツのシュミット首相が、その冷静な、しかし今は熱を帯びた声で続けた。
「これは、我々政府が主導して、経済界に強く働きかけるべき、全く新しいアジェンダです。……例えば、『週休三日制』のG7全体での義務化。……あるいは、AIと代替装備の普及を前提とした、『一日四時間労働制』の導入。……それを、我々G7が人類の新たな労働基準、『新・労働憲章』として、世界に提唱するのです」
そのあまりにもラディカルな提案。
だが、もはやそれを夢物語だと笑う者はいなかった。
会議の空気は、完全に変わった。
彼らは、もはや「改造格差」という目先の対症療法について議論してはいなかった。
彼らは、「新しい時代の本当の豊かさとは一体何なのか」という、より本質的で、より哲学的な未来の設計図を描き始めていたのだ。
「……面白いじゃないか」
フランスのデュボワが、その顔に久しぶりに心からの笑みを浮かべて言った。
「中国の龍が、『神の穀物』で民の腹を満たすというのなら。……我々は、『神の時間』で民の心を満たす。……素晴らしい。……これこそが、我々自由主義陣営が世界に示すべき、新たな価値観だ」
会議は、もはや誰も予想しなかった方向へと、大きく舵を切った。
彼らはその場で、「G7新・労働憲章(仮称)」の起草委員会の設立を、全会一致で合意した。
その委員長には、この歴史的な議論のきっかけを作った日本の的場俊介大臣が、満場一致で推薦された。
月面の観測ステーションで、この会議の全てを神の視点から見つめていた相馬巧は。
その意外な結末に、呆然としていた。
そして、彼の傍らのイヴが、静かに、しかしどこか誇らしげに、その分析結果を報告した。
『……マスター。……観測史上、初めての事象です。……人類は、外部からの直接的な介入なしに、自らの力で社会システムの根源的な問題点に気づき、そしてそれを是正しようとする、高度な自浄作用を発揮し始めました。……素晴らしい傾向です』
巧は、スクリーンに映る的場の、困惑した、しかしどこか嬉しそうな顔を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……ああ。……そうだな。……俺が思っていたよりも、あいつらはずっと賢くて、ずっと強いのかもしれないな……」
彼は初めて、自分が育てているこの人類という名の子供に、ほんの少しだけ誇らしさを感じていた。
だが、彼は同時に知っていた。
経済界という名の、強欲で保守的な巨人たちが、この理想に満ちた革命を、そう簡単には受け入れないであろうことを。
ここからが、本当の戦いの始まりなのだと。
人類が、神から与えられた強大な力を、自らの「幸福」のために正しく使うことができるのか。
その本当の意味での「精神的な成熟」が問われる、新たな、そして、より困難なステージの幕が、今、静かに上がろうとしていた。




