第47話 神々の代理戦争と、王たちの渇望
仮想対話空間『静寂の間』。
月に一度、西側世界の七人の王たちが神の代理人と相まみえるその場所の空気は、会議が始まる前から、まるで火薬庫のように張り詰めていた。G7の指導者たちのアバターは、皆一様に憔悴しきっており、その瞳の奥には、隠しきれない焦りと、そして裏切られたという怒りの色が、暗い炎のように揺らめいていた。
彼らの執務室の机の上には、ここ数週間で世界を震撼させた、あの衝撃的なニュースの報告書が、山のように積まれているはずだった。
――中国、新たなる神『太歳』の出現を宣言。
――神の穀物『豊穣の龍鱗』により、食糧問題を完全克服。
――主席、龍 岳山は、天命を受けた現人神として、国民からの絶対的な支持を確立。
西側が、介入者の導きのもと、慎重に、そして倫理的な議論を重ねながら一歩ずつ前進しているその間に。東の龍は、あまりにも分かりやすく、あまりにも劇的な奇跡を民に与え、世界のパワーバランスを、一気にその掌中へと引き寄せようとしていたのだ。
定刻。
円卓の中央に、介入者がその神々しい姿を現した。
だが、彼がいつものように穏やかな挨拶を口にするよりも速く。
アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソンが、椅子を蹴立てる勢いで立ち上がった。その顔は、怒りで赤黒く染まっていた。
「―――介入者様ッ!!!! これは、一体どういうことですかなッ!!!!?」
その絶叫は、もはや敬意を払った問いかけではない。純粋な、剥き出しの非難だった。
「中国に現れたという、あの『太歳』と名乗る存在! アレは、一体何者なのですか!? あなた様は、我々人類の唯一の後見人ではなかったのですか! なぜ、我々の最大の敵であるあの独裁国家に、あなた様と同じような、いや、それ以上に強力な存在が肩入れしているのですか! 我々は、あなたに裏切られた気分ですよ!」
そのトンプソンの魂からの叫びに、他のG7首脳たちも、次々と同調した。
「そうだ! 我々は、あなたを信じてジュネーブで禁断の扉を開いた! 宗教界を説得し、国民の不安と向き合い、慎重に一歩ずつ前に進んできた! その我々の努力を、嘲笑うかのようなこの仕打ち! 一体どういうことか、ご説明いただきたい!」
フランスのデュボワ大統領が、激昂した。
「介入者様、あなたはこの全てをご存知だったのではないのですか? なぜ、この最も重要な情報を、我々同盟国に隠しておられたのですか!」
ドイツのシュミット首相の、冷徹な詰問。
G7という名の、神を信じた王たちの、悲痛なまでの非難の嵐。
その嵐の中心で、介入者は、しかし、全く動じなかった。
それどころか、彼はその神々しい仮面の下で、ほんのわずかに、その唇の端を歪ませたように見えた。
それは、まるで癇癪を起こす子供たちを面白がるかのような、どこか楽しげな表情だった。
そして彼は、その嵐を一言で鎮める、衝撃的な爆弾を投下した。
「――ああ、太歳のことかね」
その声は、驚くほど穏やかで、そしてどこか懐かしむような響きを持っていた。
「……うん。実は、知人なんだよ、彼は」
そのあまりにも軽い、そしてあまりにも信じがたい告白。
G7の指導者たちの非難の言葉が、ぴたりと止まった。
誰もが、呆然とその言葉の意味を理解しようとしていた。
知人?
神に、知人がいる?
介入者は、その彼らの混乱を愉しむかのように、ゆっくりと続けた。
「まあ、地球の言葉で言うならば、そうだな……。私の『ライバル』とか、『好敵手』とでも言うべき存在かな」
「…………ら、ライバル……!?」
トンプソンが、かすれた声で呟いた。
「ああ」と、介入者は頷いた。
「個人的には、彼のその混沌としていて予測不能で、そして目的のためには手段を選ばない、その純粋なまでの破壊的なところは、嫌いじゃないんだがね。……なにせ、私のやり方が『秩序』と『調和』を重んじ、文明全体をゆっくりと育んでいこうという、いわば王道だとすれば。彼のやり方は、『混沌』と『競争』を是とし、強者だけを生き残らせることで、種の進化を強制的に促す、いわば覇道。……そう、我々は、いわば光と影。コインの裏表のような存在なのだよ。だから、どうしても昔から対立することが多くてね」
彼は、まるで遠い昔の旧友との思い出を語るかのように、楽しげに笑った。
そのあまりにも超越的で、あまりにも他人事のような態度。
それに、ついにトンプソンの堪忍袋の緒が切れた。
「―――笑い事じゃありませんよ、介入者様ッ!!!!」
彼は、円卓を拳で叩きつけた。仮想空間であるため音はしなかったが、その怒りの波動は、部屋全体の空気を震わせた。
「あなたのその個人的なライバルが! 今まさに、我々の最大の敵である中国に肩入れして! この世界の、我々が必死で守ってきた平和と秩序を、根底から滅茶苦茶にしようとしているんですよ!? あなたにとっては、ただの旧友とのゲームの続きなのかもしれないが、我々にとっては、人類の存亡がかかっているんですよ!」
その魂からの叫び。
それを聞いた介入者は、ようやくその楽しげな表情を消した。
そして、まるで言うことを聞かない子供に、ようやく本題を切り出すかのように、ふっと息を吐いた。
「……はいはい。分かっているよ、ジェームズ。……君たちが焦る気持ちもね」
その初めてファーストネームで呼ばれたという事実に、トンプソンは一瞬たじろいだ。
介入者は続けた。
「……まあ、確かにこのままだと君たちの面子が丸潰れになって、せっかく私が作り上げたこの地球という名の面白いゲーム盤が、あまりにも一方的で、つまらないものになってしまうのも事実だ。……少し、テコ入れをしてやることにしよう」
「……テコ入れ……?」
「ああ」と、介入者は頷いた。
「君たちにも、太歳が中国に与えた『食』という分かりやすい恵みに、対抗するための新たな『福音』を授けてやる。……いわば、神々の代理戦争の第二ラウンドの始まりというわけだ」
そのあまりにも不謹慎な、しかし、抗いがたいほどに魅力的な提案。
G7の指導者たちは、ゴクリと喉を鳴らした。
介入者は、宣言した。
「―――特別に、これまで人道支援という崇高な目的に限定してきた、あの代替装備技術の民間への商業利用を許可しよう」
その一言が持つ本当の意味を。
指導者たちは、すぐには理解できなかった。
民間への、商業利用?
介入者は、その彼らの鈍い頭脳を見透かすかのように、具体的な未来のビジョンを語り始めた。
その声は、もはや神のそれではない。
巨大な市場を創造しようとする、悪魔的なまでの才能を持ったコンサルタントのそれだった。
「考えてもごらん、諸君。……例えば、そうだ。ニューヨークとロサンゼルスを結ぶ長距離トラックの運転手。……彼らの両腕を、二十四時間休むことなく、正確にハンドルを握り続けられる、疲労知らずの高性能な義手に換装したとしたら? ……物流の効率はどうなる? 途中で事故を起こす、ヒューマンエラーの確率は? 人件費は?」
「あるいは、ウォール街の証券トレーダー。……彼らの眼球を、ミリ秒単位の株価の変動を捉え、その背後にある膨大な経済指標を瞬時に分析できる、演算機能付きの義眼に換装したとしたら? ……金融市場は、どう動くかね?」
「建設現場で働く屈強な労働者たち。深夜の工場で単調な作業を繰り返すライン工たち。危険な深海油田で働く技術者たち。そして、いずれ君たちが再び目指すであろう過酷な宇宙空間で働く宇宙飛行士たち。……その全ての『労働者』を、より強く、より疲れ知らずで、より高性能な肉体へとアップグレードしていくのだ」
そのあまりにも具体的で、そして社会の形を根底から変えてしまう、恐るべきビジョン。
G7の指導者たち――特に、資本主義という名の競争原理を誰よりも信奉するトンプソンや、イギリスの首相の目が、ギラギラとした欲望の光を放ち始めた。
「―――『改造した装備で業務効率化や身体能力向上など、分かりやすい利益を民衆に与える』」
介入者は、静かに言った。
「どうだね? 中国の『食』という、誰もが享受できる平等的で、ある意味では社会主義的な恵みとは、また違ったベクトルの。……自らの意志で、自らの金を払って、自らの能力を『アップグレード』する。……より高度で、より資本主義的で、そして、より競争を煽る、素晴らしい福音だとは思わんかね?」
その悪魔の囁き。
もはや、この部屋にその提案に反対できる者はいなかった。
人道支援という美しい仮面の下で、自分たちが本当に望んでいたもの。
すなわち、経済成長と、生産性の向上と、そして国家の競争力の強化。
その全てを、この技術はもたらしてくれるのだ。
「……素晴らしい……!」
トンプソンは、もはや恍惚の表情を浮かべていた。
「素晴らしいご提案です、介入者様! これさえあれば、我が国の経済は、再び黄金時代を迎えることができる! 中国の物量作戦など、恐るるに足らず!」
その熱狂に、介入者は静かに水を差した。
『――ただし、その技術の管理と実際の施術に関しては、引き続き日本のCISTにその全てを一任する』
「なっ……!?」
「この技術は、まだあまりにも新しく、そしてあまりにも危険だ。……その使い方を誤れば、社会に深刻な格差と、分断を生み出しかねん。……そのリスクを管理できるのは、この星では、この技術を最初にマスターした日本の友人たちしかいない」
介入者は、日本の郷田総理へとその視線を向けた。
『日本には、これまで以上の、そして遥かに重い負担をかけることになるが。……この人類の新たな一歩を、正しく導くという大役。……引き受けてくれるかね? 郷田総理』
その神からの、直接の指名。
郷田は、その老獪な顔の内側で、この新たな権益と責任の重さを瞬時に計算した。
そして彼は、最も恭しく、そして最も力強い声で答えた。
「―――はいッ! そのご指示、我が国日本、謹んで、そして名誉と共に全うさせていただきます!」
その歴史的な決定。
G7の指導者たちは、日本の優位性がさらに揺ぎないものになったことに、わずかな嫉妬を覚えながらも、それ以上に、これから自国にもたらされるであろう経済的な恩恵への期待に、胸を躍らせていた。
だが、介入者のテコ入れは、それだけでは終わらなかった。
「……まあ、これだけでは、まだ太歳が中国に与えるであろう次の一手には、足りんかもしれんな」
介入者は、まるで、まだメインディッシュが残っているとでも言うかのように、意味深に呟いた。
「……本当はもう一つ。……君たちに授けてやりたい、究極の技術があるのだがね」
その一言に、指導者たちの耳が再びぴくりと動いた。
「……『後天的遺伝子改良技術』。……まあ、読んで字の如く、生まれた後から自らの遺伝子の設計図を、自在に書き換える技術だ」
その神の領域そのものとしか思えない単語。
部屋の空気が、再び凍りついた。
「……だが、これを今君たちに与えてしまえば、間違いなく日本のCISTのキャパシティが、完全にパンクしてしまうだろう。……それに、サイボーグ化の倫理問題でさえまだ結論が出せずに右往左往している君たちに、これを与えるのは、あまりにも時期尚早というものだ。……うん。まあ、これはまた今度の話にしよう」
そのあまりにも巧みな、そして残酷なまでの「チラ見せ」。
G7の指導者たちは、完全に食いついた。
「ほう! 後天的遺伝子改良技術ですと!?」
ドイツのシュミットが、科学者としての飽くなき探究心を隠せずに、身を乗り出した。
「凄いですね! もしかしてそれは、人間を後から天才にしたり、あらゆる病にかからない完全な肉体へと作り変えることができるのですか!?」
その質問の嵐。
介入者は、まるで退屈な講義でもするかのように、淡々とその効果を説明し始めた。
「そうだな。……まあ、銀河コミュニティでごく一般的に行われている基礎的な応用例で言えば。……老化を司るテロメアの短縮遺伝子を完全に不活性化させて、肉体的な寿命を数百年単位で伸長させたり。……あるいは、脳の神経細胞のシナプス結合を、学習効率が最大化されるように最適化して、知能指数を三百、あるいは五百といったレベルまで恒常的に引き上げたりといったところかな」
「…………!」
「まあ、もちろん肉体そのものを完全に老化させない『不老』の技術も、あるにはあるが。……あれは、精神と肉体の乖離という、非常に厄C介な哲学的副作用を伴うのでね。……今の君たちには、あまりオススメはしないがね」
そのあまりにもさらりと語られる、とんでもない情報の数々。
不老不死。
後天的な、天才化。
G7の指導者たちは、もはや自らの思考がその情報の奔流に追いついていないことを自覚していた。
それは、もはや理解の範疇を超えている。
ただ分かるのは、目の前に神の宝物庫の扉がほんの少しだけ開かれ、その内部の、眩いばかりの輝きが垣間見えているということだけだった。
その究極の渇望を、その魂に植え付けられた指導者たち。
彼らの欲望が、その頂点に達したのを完璧に見計らって。
介入者は、静かにその話を締めくくった。
「――まあ、先の-話は置いておいてだ」
彼の声が、彼らを現実へと引き戻した。
「……まずは、君たちの目の前にある課題を、一つずつクリアしていくことだ。……この代替装備の民間開放を、日本の友人たちと協力して成功させ、太歳に傾きかけた民衆の支持を、再び我々(介入者とG7)の側へと引き戻す。……それこそが、君たちが今、全力を挙げて取り組むべき当面の仕事だ。……いいね?」
そのあまりにも巧みな、人心掌握術。
もはや、この部屋に介入者の言葉に逆らおうとする者はいなかった。
彼らの心にあるのは、もはや中国への恐怖や嫉妬ではない。
介入者から与えられたこの新たな「課題」を、いかにして他の国よりも速く、そして上手くクリアするか。
そして、その先にある究極の「ご褒美」――遺伝子改良技術――を、いかにして手に入れるか。
その新たな、そして、より健全な(と彼らは信じ込んでいる)競争への熱意だけだった。
トンプソンは立ち上がると、日本の郷田総理の肩を力強く叩いた。
「――ゴウダ総リ! 聞いただろう! 話は決まった! 我々も、全面的に協力する! 金も、人も惜しまない! だから頼む! 一刻も早く、我が国のトラック運転手たちを、眠らないスーパーマンへと作り変えてくれ!」
そのあまりにもアメリカ的な、そしてどこか子供じみた熱狂。
会議は、西側陣営が新たな経済的、そして肉体的な進化という目標に向かって、再びその結束を固めるという、極めて前向きな雰囲気の中でその幕を閉じた。
だが、その裏側で。
この壮大な神々のゲームの唯一の脚本家である相馬巧は、自らが仕掛けた新たな展開が、人類をどのような未来へと導くのかを、ただ静かに見つめていた。
彼は、人類に二つの異なる進化の道を、同時に提示した。
西側には、肉体を機械へと置換していく『サイボーグ』への道を。
そして東側には、肉体そのものを内部から書き換えていく『遺伝子改変』への道を。
その二つの道は、いずれどこかで交わるのか。
それとも、決して交わることのない、全く異なる種への分岐点となるのか。
そして、その二つの進化した人類が、再びこの星の上で出会った時。
彼らは、互いをまだ「同胞」として認識することができるのだろうか。
そのあまりにも遠大で、そしてあまりにも危険な実験のスイッチを、彼は今、自らの手で押してしまったのだ。
月面の観測ステーションで、巧がイヴにぽつりと呟いた。
「……これで、しばらくは時間を稼げるだろう。……だが、イヴ。……いつか必ず、この二つの技術は、その優劣を決するために、正面からぶつかり合うことになる。……その時、人類は、一体どんな選択をするんだろうな……」
その脚本家の独白に、イヴはただ静かに答えた。
『――それこそが、マスター。……あなたがお望みになった、最も面白い物語の始まりなのではございませんか?』
その言葉に、巧はただ黙って、眼下に広がる青い星を見つめ返すことしかできなかった。




