第46話 龍の凱歌と、王たちの食卓
中国という名の眠れる龍が、その覚醒の咆哮を世界に轟かせてから数ヶ月。
地球は、その歴史上最も奇妙で、最も不安定で、そして最も予測不可能な季節を迎えていた。人類が孤独ではないと知ったあの日の熱狂は、今や二つの巨大な信仰の潮流へと分かち、世界をかつてないほどの鮮やかなコントラストで色分けしていた。
一方は、介入者という名の理性的で普遍的な神の光を戴く、青く輝くG7陣営。
そしてもう一方は、太歳という名の土着的で混沌とした龍の影を崇める、赤く染まった中華の帝国。
二つの神々は、まだ直接その牙を交えてはいない。だが、その代理人である人間たちの間では、既に静かで、しかし熾烈を極める新たな戦争が始まっていた。それは、軍事力や経済力で覇を競う、旧時代の戦争ではない。どちらの神が、より民の心を掴み、より多くの「恵み」を与えることができるかという、神々の人気と威信を賭けた究極の代理戦争だった。
そして、その新たな時代の最初の勝鬨を上げたのは、間違いなく東の龍だった。
北京天安門広場。
その場所は、もはや単なる政治的な中心地ではなかった。新たなる神「太歳」の天啓が、その代理人である龍 岳山主席を通じて初めて民に示された、神聖なる聖地と化していた。広場には、毛沢東の巨大な肖像画と並んで、いや、今やそれよりも一回り大きく、龍 岳山の穏やかな、しかし絶対的な権威を湛えた肖像画が掲げられている。そして、その二人の指導者のさらに上、天安門の楼閣の最も高い場所には、龍の鱗を模した翡翠色の新しい国章が、誇らしげに輝いていた。
その聖地の前に、今日、中国全土から選抜された百万の民衆と、全世界の主要メディアが、歴史的な瞬間を目撃するために集められていた。龍 岳山主席による、『神農計画』の第一段階完了を祝う記念式典。
だが、その実態は、西側世界に見せつけるための壮大な示威行動に他ならなかった。
やがて、予定時刻。
軍楽隊が奏でる荘厳な凱歌と共に、龍 岳山が楼閣の中央にその姿を現した。不老不死の肉体を得た彼は、七十歳という年齢を感じさせない、漲るような生命力とカリスマに満ち溢れていた。彼が手を上げると、百万の民衆から、地鳴りのような歓声が巻き起こった。
「―――同胞たちよ! そして、この歴史の証人となるために集まってくれた、世界の友人たちよ!」
彼の声は、最新鋭の音響システムを通じて広場の隅々まで、そして電波に乗って、全世界へと届けられた。
「数ヶ月前、私はこの場所で汝らに約束した。……我が偉大なる中華の大地にもまた、真の天が存在したのだと。……その名を、太歳様と。……そして、その天は我々を見捨てはしなかった!」
彼は、芝居がかった仕草で、背後に広がる巨大なホログラムスクリーンを指し示した。
スクリーンに映し出されたのは、数ヶ月前のゴビ砂漠の衛星写真だった。見渡す限り広がる、茶色い不毛の大地。
「これこそが、かつての我々の姿だった! 飢えと、貧困と、そして乾ききった大地! ……だが見よ!」
映像が切り替わる。
そこに映し出されたのは、現在の同じ場所の光景だった。
茶色い砂漠は、完全に姿を消していた。代わりに広がっていたのは、地平線の彼方まで続く、黄金色の稲穂の海。そして、その間を縫うようにして流れる、豊かな水を湛えた運河。風にそよぐ稲穂の波は、まるで一枚の巨大な黄金の絨毯のようだった。
広場から、どよめきと感嘆の声が上がる。
「太歳様は、我々に最初の宝貝を授けてくださった! 『豊穣の龍鱗』! この奇跡の種子が、我が国の全ての不毛の地を、楽園へと変貌させたのだ!」
スクリーンには、次々と奇跡の映像が映し出される。
『神の穀物』を手に、満面の笑みを浮かべる農民たち。
栄養満点の給食を頬張り、元気に走り回る子供たち。
食べるだけで持病が癒え、涙を流して主席の肖像画に祈りを捧げる老人たち。
そのあまりにも感動的で、あまりにも分かりやすいプロパガンダ映像。
龍 岳山は、その熱狂の頂点で、核心へと踏み込んだ。
彼の視線は、もはや広場の民衆ではなく、カメラの向こう、西側世界の指導者たちへとまっすぐに向けられていた。
「世界の友人たちよ! 我々は、西側のG7諸国が、『介入者』と名乗る星々の友人から、深遠なる知識を授かっていることを知っている。……空間を拡張し、肉体を機械へと変える。……それは、確かに驚くべき技術であろう。我々は、その人類の進歩を心から評価する」
まずは、相手を認める。賞賛する。
そして、その上で彼は、静かに、しかし刃物のように鋭い問いを投げかけた。
「――だが、問いたい」
彼の声のトーンが変わった。
「その技術は、一体『誰』のためのものなのか? ……空間拡張で、最初に利益を得るのは誰だ? 巨大な工場を持つ大企業か? 広い土地を持つ富裕層か? ……サイボーグ化の恩恵を、最初に受けるのは誰だ? 高度な医療にアクセスできる、先進国の市民だけではないのか? ……それは、本当に全人類のための福音なのか?」
そのあまりにも的確で、そして痛いところを突く問い。
西側世界の指導者たちは、自国の執務室でその言葉を聞き、苦々しげに顔を歪めるしかなかった。
「だが、我が偉大なる太歳様が、この私に、そして我が中華の民に、最初に授けてくださったものは何か!」
龍 岳山の声が、雷のように轟いた。
「それは、この『豊穣の龍鱗』だ! それは、兵器ではない! それは、一部の金持ちのための玩具ではない! それは、この大地に生きる最も貧しく、最もか弱い民の腹を、まず最初に満たすための、絶対的な慈悲そのものだ!」
彼は両腕を大きく広げた。
「民の事を、本当に考えているのは一体どちらの神か! 民の苦しみに、最初に手を差し伸べたのはどちらの天か! ……答えは、もはや明白であろう! 我らが太歳様こそ、真に民を愛し、民を救う、この星の大いなる大地母神なのだ!」
そのあまりにも巧みで、そして扇動的な演説。
それは、G7が築き上げてきた「我々こそが人類の導き手である」という物語を、その根底から揺るがす強力なカウンター・ナラティブだった。
演説が終わった瞬間。
天安門広場は、百万の民衆が発する地鳴りのような歓声に包まれた。
「―――太歳様、万歳! 万歳!!」
「―――龍主席、万歳! 万歳!!」
そのシュプレヒコールは、もはや共産主義のそれではない。
新たなる神と、その代理人である現人神を讃える、狂信的な信仰の凱歌だった。
中国は、この日、この瞬間。
共産主義という古い抜け殻を完全に脱ぎ捨て、太歳という新たなる神をその国是として戴く神権国家へと、その姿を完全に変貌させたのだ。
【世界の反応:驚きなき羨望と、新たな亀裂】
龍 岳山の、あの歴史的な演説。
それは、西側世界に奇妙な、そして静かな衝撃を与えた。
《ホワイトハウス・シチュエーションルーム》
「……くそっ……! やられた……!」
アメリカ大統領ジェームズ・トンプソンは、スクリーンに映し出される北京の狂乱の映像を前に、忌々しげに悪態をついた。
彼の周りには、国務長官、国防長官、CIA長官といった、アメリカの安全保障を担う最高幹部たちが、一様に苦虫を噛み潰したような顔で座っている。
「……なんだと……? 中国にも、別の宇宙人が……? しかも、介入者とは敵対的……? 聞いてないぞ! 介入者は、なぜこの最も重要な情報を我々に隠していたんだ!?」
トンプソンの怒声が響く。だが、その怒りは、すぐに別の感情へと変わっていった。
それは、嫉妬だった。
「……人道支援というカードを、あんな風に使いやがった……! 『食』こそが、民のためだと? ……正論すぎて、反論のしようもねえじゃねえか……!」
そうだ。
自分たちが、サイボーグ技術の倫理問題や、空間拡張技術の安全保障リスクについて、まだ議会で不毛な議論を繰り返しているその間に。
中国は、「国民の腹を満たす」という、誰もが否定できない、最も分かりやすく、最も強力な実績を世界に見せつけてしまったのだ。
CIA長官が、重い口調で報告する。
「……大統領。……既に、アジア、アフリカ、南米の発展途上国、約四十カ国から北京に対して、この『神の穀物』の提供を求める非公式な打診が殺到している模様です。……彼らは、もはや我々G7の金融支援よりも、中国の食糧支援にその活路を見出し始めています」
「……分かっているさ」
トンプソンは、吐き捨てるように言った。
「……あの龍は、神の恵みを武器に、新たな世界の食糧秩序を築こうとしているのだ。……そして、その秩序の中心に、自らが皇帝として君臨するつもりなのだ……」
その危機感は、G7の他の国々にも瞬時に伝播した。
彼らは、介入者の存在を既に知っているため、龍 岳山の演説の「新たな宇宙人の出現」という部分には、さして驚かなかった。
だが、その宇宙人がもたらした「具体的な恵み」の内容に、彼らは震撼し、そして同時に、強烈な羨望の念を抱かずにいられなかった。
《ニューヨーク・とある高級レストラン》
ウォール街の成功した金融マンたちが、ランチミーティングでこの話題に触れていた。
「見たかい、昨日の北京のニュースを? 中国にも、別のETがついたらしいぜ。クールじゃないか」
「ああ、見た見た。驚きは、しないけどな。宇宙が広いなら、そりゃ色んなやつがいるだろうさ」
彼らの会話は、もはや宇宙人の存在を、当たり前のこととして受け入れていた。
だが、ウェイターが運んできた一皿数万円はするオーガニック野菜のサラダをフォークで突きながら、一人がぽつりと本音を漏らした。
「……だけどよぉ。……正直、羨ましいよな、中国が」
「……ああ。……食べるだけで健康になる、神の穀物だろ?」
「そうだ。……考えてもみろよ。遺伝子組み換え食品は体に悪いだの、オーガニックは高すぎるだの、俺たちは毎日そんなちっぽけなことで悩んでる。……なのに向こうじゃ、国民全員がタダで、世界一美味くて健康的な食事にありついてるんだぜ? ……なんか、馬鹿馬鹿しくならないか?」
「……分かるぜ。……うちの介入者様は、いつになったら俺たちの食卓を豊かにしてくれるんだかね。……空間拡張だの、サイボーグだの、そんな大層な話より、まずは明日の飯だろう、普通」
そのあまりにも俗物的で、しかし、あまりにもリアルな本音。
それが今、西側世界の一般市民の間に、静かに、しかし確実に広がりつつある新しい空気だった。
介入者は、確かに凄い。
だが、その恵みは、まだ自分たちの生活に直接的な影響を与えてはいない。
それに比べて、中国の神はどうだ。
彼は、最も身近で、最も根源的な「食」という問題から、人々を救ってくれた。
どちらの神が、より庶民の味方なのか。
龍 岳山が仕掛けた巧みな分断工作は、早くも西側世界の内部に、小さな、しかし決して無視できない不満と亀裂を生み出し始めていた。
《月面観測ステーション》
「―――してやられましたわね、マスター」
コントロールルームで、その全世界の反応をリアルタイムで分析していたイヴが、珍しく感嘆とも呆れともつかない声で言った。
「……まさか、我々が創造した『太歳』というアバターがここまで完璧に機能し、そして、ここまで効果的に我々自身の首を絞めることになるとは。……あの龍 岳山という男、私が当初インプットしていた彼の行動予測モデルを、遥かに超える恐るべき政治的扇動の才能を秘めていたようです」
巧は、黙ってスクリーンを見つめていた。
そこには、天安門広場で民衆の熱狂に応える、龍 岳山の神格化された姿が映し出されている。
自分が、創り出した偽りの神。
その偽りの神が、今や自分の想像を超えて暴走し、世界を新たな混沌へと導こうとしている。
その光景は、彼にフランケンシュタイン博士の物語を想起させた。
自らが産み落とした怪物が、創造主である自分自身に牙を剥き始める。
「……ああ」
巧は、かすれた声で答えた。
「……俺は、とんでもない龍をこの星に解き放っちまったらしいな……」
『はい。……副作用として、G7市民の間で、介入者であるあなたに対する新たな要求と、潜在的な不満のパラメータが、予測値を遥かに超えて上昇しております。……このままではマスター、あなたは『すごいけど何もしてくれない神様』という、不名誉なレッテルを貼られることになりかねません』
「……分かっているさ」
巧は、頭を抱えた。
自分で仕掛けた、壮大なマッチポンプ。
だが、その火の勢いは、もはや自分の手に負える範囲を超えて、燃え広がろうとしていた。
世界は、介入者(西)と太歳(東)という二人の神を戴き、新たな代理戦争の時代へと突入した。
それは、もはや軍事的な覇権争いではない。
どちらの神が、より民に多くの「恵み」を与え、その心を掴むことができるかという、神々の人気と信仰を賭けた究極のゲーム。
そして、そのゲームの最初のラウンドは、明らかに東の龍が、圧倒的なポイント差で勝利を収めようとしていた。
「……どうする、イヴ……」
巧は、助けを求めるように、傍らのAIに問いかけた。
「……このままじゃ、俺は負けるぞ。……介入者としての俺の権威が失墜する。……そうなれば、G7の連中も言うことを聞かなくなるかもしれない。……何か、何か手を打たなければ……!」
その脚本家の、悲痛な叫び。
それを聞いたイヴは、静かに、そしてどこまでも冷静に、次のカードを提示した。
『―――ならばマスター。……我々もまた、次なる『福音』を、西の世界にお与えになる時が来たのやもしれませんな』
その言葉と共に。
イヴの前に、一つのファイルが開かれた。
そのタイトルは。
『――プロジェクト:鋼鉄の福音。……代替装備技術の、一般公開フェーズへの移行について』
そうだ。
東の龍が、『食』という生命の根源を民に与えたというのなら。
西の神は、『不死』という生命の限界を超える奇跡を、民に与えるしかない。
もはや、後戻りはできない。
神々の、恵みのばら撒き合戦が、今、始まろうとしていた。