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第45話 龍の天啓と大地の凱歌

 北京中南海。

 その名が放つ歴史の重みと、権力の深淵。その心臓部である国家主席執務室の空気は、前日の深夜、龍 岳山ロン・ユエシャンが一人で天啓を受けたと絶叫したあの瞬間から、完全に変質していた。そこは、もはや政治的な計算や駆け引きが行われるだけの場所ではない。神の意志が、この地上の代理人を通じて直接顕現する、新たな時代の神殿と化していた。


 夜明けと共に緊急招集された中国共産党中央政治局常務委員会の最高幹部たちと、国家科学院から召喚された各分野のトップ科学者たちが、その神殿へと恐る恐る足を踏み入れた。彼らの顔に浮かんでいたのは、深夜の突然の呼び出しに対する困惑と、そして何よりも、部屋の主である龍 岳山の、常軌を逸した異様なまでの高揚感に対する、隠しきれない疑念と警戒だった。

 主席は、病んでいるのではないか? この数ヶ月、西側から加えられ続けたあまりの重圧に、ついにその鋼の精神が折れてしまったのではないか?


「同志諸君。そして、我が国の頭脳たる科学者の皆さん。……今朝は、急な呼び出しに応じていただき感謝する」

 龍 岳山は、巨大な紅木の執務机の前に立ち、集まった人々を見渡した。その声は、いつものように威厳に満ちていたが、その奥底には、まるでマグマのように煮えたぎる狂信的な熱が宿っていた。

「本日、私が諸君をこの場所に集めたのは、他でもない。……我が中華民族の、数千年の歴史における最も偉大なる転換点を、諸君らと共に分かち合うためだ」

 彼はゆっくりと、昨夜の夢の中で起きた出来事を語り始めた。

 介入者とは別次元のことわりである大地の混沌を司る神、『太歳』との邂逅。西の偽りの神に見切りをつけ、真に力ある者としてこの中華を選んだという、その神託。そして、自らがその天命の代理人として選ばれ、不老不死の肉体を授かったという、あまりにも荒唐無稽な物語。

 最高幹部たちは、眉間に深い皺を寄せ、互いに顔を見合わせた。科学者たちは、その非科学的な独白に、もはや侮蔑の色すら浮かべていた。

 主席は狂ったか。

 その場の誰もが、そう確信しかけていた。

 龍 岳山は、そんな彼らの冷ややかな視線を、まるで意にも介さなかった。彼は静かに、その手を机の上に置かれた一つの古びた絹の袋へと伸ばした。


「……諸君らが、我が言葉を信じられぬのも無理はない。……だが、天は我々に、信じるための証をお与えくださった」

 彼はその袋の口を開き、中身を机の上の白い紙の上に、ゆっくりとこぼした。

 コロコロと、乾いた音を立てて転がり出たのは、数十粒の穀物の種だった。

 だが、それはただの種ではなかった。

 一粒一粒が、まるで最高品質の翡翠を夜の闇の中で磨き上げたかのように、妖しいまでの深い緑色の光を内側から放っていた。部屋の照明が、その小さな粒の周りで奇妙に屈折し、まるで小さな銀河がそこにあるかのような、幻想的な光景を生み出していた。

 科学者たちの間に、どよめきが走った。

「……これは……何だ……?」

 国家科学院の院長であり、中国最高の遺伝子工学者であるチェン教授が、震える声で呟いた。

「……見たこともない……。この光は、生物発光か? いや、違う。もっと根源的な……量子的なエネルギーの放出のように見える……」

 龍 岳山は、その科学者たちの反応に満足げに頷くと、絶対的な権威をもって命じた。

「陳教授。そして、農業科学のワン部長。……諸君らの疑念、今、この場で払拭してやろう。……警備兵!」

 彼の鋭い声に、扉の外に控えていた武装警官が二人、駆け込んでくる。

「この執務室の中庭の、あの牡丹の横だ。……そこに土を盛り、今からこの種を一粒だけ植えよ。……そして常務委員、科学者の諸君。……全員、この場でその成長を見届けるがいい。……天命の顕現を、な」


 そのあまりにも独裁者的な、そして芝居がかった命令。

 だが、もはや誰も、その狂気に満ちた王に逆らうことはできなかった。

 彼らは、まるで何かの儀式に立ち会わされているかのように、息を殺してその中庭の一角を見つめた。

 警備兵の手によって、翡翠色の種が一粒、湿った黒土の中にそっと埋められた。

 そして、人類の歴史が、再びその音を立てて軋み始めた。


 奇跡は、まず大地そのものの脈動から始まった。

 種が植えられてから、わずか数時間後。

 中庭の土が、まるで生きている巨大な生物の心臓のように、ゆっくりと、しかし確実に脈動を始めたのだ。その場にいた誰もが、その足元から伝わってくる生命そのものの鼓動に、畏怖の念を抱いた。

 そして、脈動の中心から、一本の芽が天を突くかのような勢いで突き出した。

 それは、翡翠色に輝く力強い芽だった。

 その成長速度は、常軌を逸していた。それは、もはや植物の成長ではなかった。それは、無から有が生まれる、創造のプロセスそのものだった。科学者たちは、持ち込んだ計測機器が次々と振り切れていくのを前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

「……信じられん……。細胞分裂の速度が、理論上の限界値を遥かに超えている……。……これは、我々の知る生物学ではない……」

 陳教授が、かすれた声で呟いた。


 三日後。

 その芽は、既に二メートルほどの高さを持つ、この世の物とは思えないほど美しい植物へと変貌していた。

 その茎は、しなやかな緑色の竹のようでありながら、その表面には、まるで龍の鱗のような幾何学的な紋様が、淡い光を放ちながら浮かび上がっている。蓮のように巨大な葉は、太陽の光を貪欲に吸収し、それを直接、成長のエネルギーへと変換しているようだった。光合成の効率が、地球上のいかなる植物の数千倍にも達していることが、計測データによって示された。


 そして、運命の七日目。

 中南海の奥深く、その古式ゆかしい庭園の一角に、一本の巨大な樹木が、まるで太古の昔からそこに存在していたかのように、天に向かってそびえ立っていた。

 その植物は、もはや単一の種としての定義を、完全に超越していた。

 太い幹から伸びる、何本ものしなやかな枝。その枝の一つには、まるで陽光を凝縮したかのように輝く黄金色の稲穂が、その重みに耐えきれずに垂れていた。

 別の枝には、ルビーよりも深く鮮やかな赤色をした、完璧な球形を描くリンゴのような果実が、たわわに実っている。

 また別の枝には、水晶のように透明な粒がびっしりと詰まった巨大なトウモロコシのような穂が、青白い光を放っていた。

 一つの植物が、米も、果物も、穀物も、その全てを同時に実らせる。

 そのダーウィンの進化論を、根底から嘲笑うかのような超自然的な光景。

 それは、もはや農業ではなかった。

 それは、神話の具現だった。


「―――収穫せよ」

 龍 岳山の、厳かな声が響いた。

 警備兵が、畏敬の念を込めて、その枝から黄金色の稲穂を数本と、ルビー色の果実を一つ、そして水晶の穂を一つ、丁寧に摘み取った。

 それらは、白磁の大皿に乗せられ、龍 岳山の前に恭しく差し出された。

 彼はまず、その黄金色の稲穂から一粒の米を指でつまみ上げた。

 そして、集まった最高幹部と科学者たちが固唾を飲んで見守る中、その一粒を、ゆっくりと自らの口へと運んだ。

 その瞬間。

 龍 岳山の世界は、味覚という名の根源的な快楽の奔流に飲み込まれた。

 それは、単なる「美味い」という言葉では、到底表現できるものではなかった。

 口に入れた瞬間に広がるのは、大地そのものの滋味と、太陽の温かさと、そして清らかな水の流れが一体となったような、芳醇で多層的な香り。

 そして、それを噛み締めた瞬間に、脳髄を直接焼き尽くすかのような爆発的な旨味と、蜜のように濃厚な甘みが、彼の全存在を支配した。

 それは、味ではなかった。

 それは、生命エネルギーそのものの奔流だった。

 彼は感じた。そのたった一粒の米が、自らの体内の細胞の一つ一つに直接活力を注ぎ込み、不老不死となった彼の肉体を、さらに若々しく、さらに強力なものへと作り変えていくのを。


「…………う……まい……」


 彼の口から、絞り出すような声が漏れた。

 そして、その目から一筋の熱い雫が、頬を伝い落ちた。

 龍 岳山。

 その生涯で、文化大革命の地獄を生き抜き、権力闘争の血の海を渡り、天安門の嵐を乗り越え、ただの一度も弱さを見せたことのなかったこの鋼鉄の男が。

 たった一粒の米を前にして、子供のように声を上げて泣いていた。

「……うまい……。……こんな、こんな美味いものがこの世に……この世にあったというのか……!」

 それは、権力者としての涙ではなかった。

 それは、飢えと貧困の時代を知る、一人の人間としての魂からの慟哭だった。


 彼は次に、ルビー色の果実を手に取った。

 その完璧な球体を、まるで聖杯のように両手で包み込み、そしてその皮にかぶりついた。

 パリッという心地よい音と共に、果汁が彼の口の中へと溢れ出す。

 それは、この世の全ての果実の甘みと酸味を、最も完璧なバランスで凝縮したかのような、神々しいまでの味だった。

 力が、湧いてくる。

 腹の底から、無限の活力が漲ってくる。

 彼は最後に、水晶の穂を手に取り、その透明な粒を、まるで宝石でも味わうかのように、一粒、また一粒と口に運んだ。

 プチプチと弾けるたびに、清涼な甘みが広がり、彼の思考をかつてないほどに明晰にしていく。


「―――食せ」

 彼は、その場に立ち尽くす幹部たちと科学者たちに、厳かに命じた。

「……これが、天が我らに与え給うた新たなる糧だ。……食し、そして知るがいい。……我々が、天命に選ばれた民であることを!」

 恐る恐る、幹部たちも科学者たちも、その神の食物を口にした。

 そして、次の瞬間。

 その場にいた、中国という国家の最も理性的で、最も懐疑的であったはずの頭脳たちが、一人、また一人と、その奇跡の味の前にひれ伏していった。

「……おお……!」「……なんということだ……!」「……力が……力が、漲ってくる……!」

 疑念は、完全に消し飛んだ。

 主席は、狂ってなどいなかった。

 彼は、真の預言者だったのだ。

 この日、この瞬間。

 中国共産党という、唯物論をその国是としてきた巨大な組織は、太歳という名の新たなる神を崇拝する、狂信的な宗教団体へと、その本質を完全に変貌させたのだ。


 その数日後。

 龍 岳山は、国家の全ての権力を、自らの下に完全に集中させた。

 そして、一つの超法規的な、そして国家の最重要機密とされる巨大プロジェクトを発動した。

 その名は、『神農しんのう計画』。

 古代中国の伝説に登場する、民に農業と医薬を教えたという神なる皇帝の名を冠した計画。

 その目的は、ただ一つ。

 この奇跡の種子『豊穣の龍鱗』を、中国全土に、そして最終的には全世界へと広めることで、この星の食糧と健康を完全に支配すること。


 プロジェクトの第一段階は、電撃的に、そして圧倒的な物量をもって実行された。

 人民解放軍の、数十万の工兵部隊が、国内の最も貧しく、そして最も不毛な土地へと派遣された。

 ゴビ砂漠の南端。

 黄土高原の、草木一本生えぬ荒れ地。

 四川の、地震で打ち捨てられた廃村。

 それらの、中国の近代化の影として見捨てられてきた絶望の大地に、一夜にして巨大な灌漑設備と近代的な農地が、まるで神の魔法のように出現した。

 そして空には、数百機の大型輸送ヘリと、数万機の農業用ドローンが舞い上がった。

 空から、まるで緑色の雪のように、翡翠色に輝く『豊穣の龍鱗』の種子が、大量に、大量に撒かれていった。


 そして、七日後。

 世界は、その目を疑うことになる。

 各国の偵察衛星が、中国大陸に信じがたい、そして説明不能な巨大な変化を捉えたのだ。

 昨日まで、衛星写真の上で茶色いシミのように広がっていたはずの不毛の大地が。

 一夜にして、見渡す限りの豊かな、深い緑色の穀倉地帯へと変貌していたのだ。


 その奇跡の光景は、まず、その地に住む最も貧しい農民たちの元へと届けられた。

 国営の大型トラックが、山のように積まれた黄金色の稲穂と色とりどりの果実を、彼らの村へと無償で運び込んだ。

 人々は、最初はそれを信じなかった。

 だが、その神の食物を一口食べた瞬間。

 彼らの心は、熱狂的な歓喜に包まれた。

 長年の栄養失調で苦しんでいた子供たちの頬に、血の気が戻った。

 原因不明の病に苦しんでいた老人たちの体が、みるみるうちに回復していった。

 食べるだけで、健康になる。

 食べるだけで、力が湧いてくる。

 その奇跡は、口コミで、そして国営メディアの巧みなプロパガンダによって、燎原の火のように中国全土へと広がっていった。

 食糧不足と、貧困と、そして多くの病が。

 わずか数ヶ月で、この十四億の民を抱える巨大な国家から、完全に根絶されようとしていた。


 人々は、もはや政府を、党を、信奉するのではない。

 彼らは、この奇跡をもたらした唯一人の男を、崇拝し始めた。

 龍 岳山。

 街角には、彼の巨大な肖像画が、かつての毛沢東のそれと並べて、いや、それ以上の場所に掲げられるようになった。

 彼は、もはやただの指導者ではない。

 彼は、民に食と健康を与えた、現代の神農。

 天命を受けた、新たなる皇帝だった。

 中国共産党の支配体制は、かつてないほどに盤石なものとなり、龍 岳山の権威は神格化され、絶対的なものとなった。


 そして、その絶対的な権力と、国民からの狂信的な支持を手に入れた龍 岳山は。

 中南海の執務室で、緑一色に染まったかつての砂漠の衛星写真を、満足げに眺めていた。

 彼の心にあるのは、もはや西側への焦りや劣等感ではない。

 絶対的な自信と、選民思想に裏打ちされた、次なる、そして、より巨大な野望の炎だった。

 彼は、天に向かって静かに語りかけた。

 まるで、そこに玉座に座る、あの混沌の神の姿が見えるかのように。


「―――太歳様。……ご覧になりましたかな。……貴殿から授かった最初の宝貝、しかとこの地に根付かせてご覧にいれましたぞ」

「……民は腹を満たし、力を蓄えました。……この龍は、もはや飢えることはありません」

 彼の目に、冷たい、そして飢えた光が宿った。

「……さて、太歳様。……次なる宝貝は、いつ我にお授けいただけますかな?」

「……この龍が世界の空へと舞い上がり、西の偽りの神を喰らい尽くすための……」

「―――牙と爪を」


 その独白は、誰にも聞かれることはなかった。

 だが、その静かなる宣戦布告は。

 この星の運命を、新たな、そして、より危険で予測不可能な混沌の時代へと突き落とす号砲となることを。

 まだ、誰も知らなかった。

 ただ一人、月の上でこの壮大なマッチポンプの脚本を書き上げ、そして今、そのあまりにも順調すぎる展開に、言い知れぬ恐怖を感じ始めている孤独な脚本家を除いては。

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