第44話 龍の夢と、天命の種子
北京、中南海。
その名が象徴する、幾重にも塗り重ねられた権力と歴史の深淵。その最も奥深く、外部の世界から完全に遮断された、中国共産党総書記兼国家主席の執務室は、深夜の静寂に支配されていた。だが、その静寂は、安らぎとは程遠い、張り詰めた硝子のような脆さと、煮えたぎるマグマのような熱量を内包していた。
部屋の主、龍 岳山は、巨大な紅木の執務机の前に一人立ち、壁に掲げられた巨大な世界地図を、睨みつけていた。その背中は、七十歳という年齢を感じさせない、鋼のような力強さと威厳に満ちている。だが、その双眸の奥に宿る光は、この数ヶ月間、片時も休まることのなかった激しい心労と、そして燃え盛る屈辱によって、深く、そして危険なほどに淀んでいた。
地図の上で青く輝く領域が、まるで癌細胞のように世界を蝕んでいる。G7。かつては形骸化した金持ち国家の談合クラブに過ぎなかったはずの彼らが、今や『介入者』という名の未知なる神の寵愛を一身に受け、一枚岩の城壁となって、ユーラシア大陸の東端に横たわるこの偉大なる龍を、包囲し、締め付けようとしていた。
日本が、そしてアメリカが独占する『空間拡張技術』。西側全体で共有されつつある、『代替装備技術』。その圧倒的な技術的優位を背景に、G7は世界の新たなルールメーカーとして君臨し、かつて中国が掲げた『一帯一路』の構想は、もはや砂上の楼閣と化しつつあった。アジア、アフリカ、南米の国々は、もはや中国の経済力ではなく、G7がもたらす神の奇跡に、その羨望と忠誠を捧げ始めていたのだ。
(……足りぬ……。圧倒的に、力が足りぬ……)
龍 岳山の胸の内で、焦燥が黒い炎のように燃え上がった。
水面下で進める諜報活動も、非対称戦力の開発も、全てが後手に回っていた。CISTの鉄壁の守りを前に、人民解放軍の誇るサイバー部隊は手も足も出ず、科学者たちへの接触も、日本の公安とG7各国の情報機関が連携した鉄のカーテンに阻まれ、遅々として進まない。
彼は、この膠着した状況を打破するための、起死回生の一手を必死に模索していた。だが、答えは見つからない。介入者は、あまりにも公平不偏な顔で、G7という名の寵姫だけを、愛し続けている。
(我々にも……。我々中華にこそ、天命を授ける真の神が、必要なのだ……)
(介入者などという西の偽りの神ではない。……この龍の血を理解し、その覇道を肯定する、我々だけの守護神が……)
そのあまりにも強烈な渇望は、もはや政治的な計算を超えた、一つの純粋な祈りにも似ていた。
数日間にわたる不眠不休の思索は、さすがの彼の鋼鉄の精神力をも、蝕んでいた。強烈な眠気が、鉛のようにその瞼にのしかかる。彼は、執務室の片隅に置かれた紫檀の寝椅子へと、その重い体を引きずっていった。そして、深く、深く沈み込むような仮眠へと、その意識を手放した。
ほんの数分、目を閉じるだけのつもりが、彼の魂は、彼自身も知らぬ間に、この宇宙の全く別の次元の淵へと、引きずり込まれようとしていた。
次に彼が意識を取り戻した時、龍 岳山は、自分がどこにいるのかをすぐには理解できなかった。
彼は、立っていた。
見慣れた中南海の執務室ではない。そこは、まるで紫禁城の太和殿をそのまま無限に引き延ばしたかのような、途方もなく広大な玉座の間だった。黒曜石を磨き上げたかのような床は、彼の姿を不気味なほど鮮明に映し込み、遥か頭上の天井は、星も月もない、ただ完全な混沌とした暗黒に飲み込まれていた。空気は、古びた香木と、そしてオゾンが入り混じったような、奇妙な匂いに満ちていた。
そして、その広大な空間の遥か奥、九十九段の階段のさらに上に、一つの巨大な玉座が鎮座していた。だが、そこに座しているのは、かつての皇帝ではない。
それは、生き物とすら呼べるのか定かではない、冒涜的なまでの異形の「何か」だった。
それは、定まった形を持たなかった。
一見すれば、黒い粘菌か、あるいは流れる水銀の巨大な塊のようだった。だが、その表面は、まるで意思を持つかのように絶えず蠢き、見る者の正気を削り取るかのような無数のイメージを、幻のように結んでは消していく。
ある瞬間には、古代の青銅器に刻まれた、全てのものを喰らい尽くすという獣、饕餮の禍々しい紋様が浮かび上がり、またある瞬間には、何万もの昆虫の複眼が一斉にこちらを見つめてくるかのような、生理的嫌悪を催させるパターンが、万華鏡のように明滅した。
そして、その不定形の塊の奥深くから、まるで深淵の底から響いてくるかのような、声がした。
それは、男の声でも、女の声でもなかった。地鳴りのようであり、ガラスの軋む音のようでもあり、そして何よりも、聞く者の脳髄に直接その意味を焼き付けるかのような、不可解で抗いがたい力を持っていた。
『―――ふふふ……。ふふふふふふふ……』
その笑い声だけで、龍 岳山の背筋を、冷たい氷の刃が撫で下ろした。彼は、その生涯で一度として、本当の恐怖というものを感じたことのない男だった。だが今、彼の魂は、その根源から、絶対的な畏怖に打ち震えていた。
目の前にいる存在は、自分がこれまで対峙してきたいかなる人間――政治家も、軍人も、テロリストも――とも、全く次元が違う。これは、人間の理解を超えた、神か、あるいは悪魔。
『―――ようやく見つけたぞ。……この澱んだ星の泥水の中で、唯一、龍の輝きを宿す魂を……』
その声は、龍 岳山に直接語りかけていた。
彼は、必死でその恐怖を意志の力でねじ伏せ、絞り出すように声を発した。
「……な、何者だ、貴様は……! ここは、どこだ……!?」
その問いに、玉座の上の混沌は、楽しそうに揺らめいた。
『我が名か? ……我が名など、この宇宙には無数にある。……だが、そうだな。この地の者である汝に、最も分かりやすい名で名乗ってやろう。……汝らが古来より畏れ、そして同時に崇めてきた、吉凶を司る星神。……あるいは、触れることすら禁忌とされる、大地の精髄』
その声が、ゆっくりとその名を告げた。
『―――我が名は、『太歳』。……そう、名乗っておいてやろう』
太歳。
その名を口にした瞬間、龍 岳山の脳裏に、古代の伝承が雷のように蘇った。土を掘れば現れるという、肉の塊のような謎の生命体。それを傷つけた者には、必ずや祟りが訪れるという、不吉の象徴。
目の前の存在は、その名を自ら名乗ったのだ。
『安心するがいい、龍の魂を持つ者よ。……私は、汝に祟りを成しに来たのではない。……むしろ、その逆だ。……私は、汝に天命を授けに来た』
「……天命、だと……?」
『そうだ。……見ているぞ、私は。この星の全てを。……西の空に浮かぶ、あの秩序と調和などという生温い戯言を謳う、偽りの神。……お前たちが『介入者』と呼んでいる、あのなまっちょろい存在のこともな』
太歳の声に、明確な侮蔑の色が混じった。
『奴が光ならば、私は闇。奴が天の秩序ならば、私は大地の混沌。奴が、弱き者どもが手を取り合う醜い平等という名の甘やかな毒で汝らを飼いならそうとするならば。……私は、汝ら強き者がその牙を剥き、弱者を喰らい尽くすための、真の力を与えよう。……私の目的は、あの偽善者とは別次元にあるのだ』
その、あまりにも衝撃的な言葉。
介入者の、敵対者。そして、自分たちを選んだ、もう一つの神。
龍 岳山の心臓が、激しく高鳴り始めた。これは、危機ではない。これは、自分が心の底から渇望していた、千載一遇、いや、万載一遇の好機なのだ。
彼は、その卓越した政治家としての交渉術を、この神なる存在に対しても発揮しようと、その思考を高速で回転させた。
「……ほう。……それは、実に興味深いお話ですな、太歳様。……ですが、貴殿が我々に力を与えるとして、その見返りは? 貴殿は、我々に何を望んでおられる?」
その問いに、太歳は、再び楽しそうに笑った。
『見返りか。……良いだろう、その問いに答えてやる。……私が望むのは、ただ一つ。……『進化』だ』
「……進化?」
『そうだ。……この星の生命を、次のステージへと、無理矢理にでも押し上げることよ。……介入者の言うような、手を取り合う生温い共存など、停滞に他ならん。停滞は、種としての死を意味する。……真の進化とは、強者が弱者を淘汰し、より完璧な生命体へと昇華していく、その血塗られた闘争の果てにしか、存在しないのだ。……そして私は、見た。……その進化の頂点に立つ資格を持つのが、この星では、汝ら中華の民だけであるということをな』
その、あまりにも甘美な囁き。
龍 岳山が、その生涯をかけて信じてきた中華思想、その覇権主義的な野望を、この神は完全に肯定し、そして煽動しているのだ。
彼は、もはやこの神を、疑うことをやめた。
彼は、跪いた。
そして、生まれて初めて、誰かに心の底から臣下の礼を取った。
「―――おお、太歳様! ……我ら中華の民は、貴殿こそを、我らが真の天としてお迎えいたします! ……どうか、我々にお示しください! 我らが進むべき道を! そして、我々にお与えください! 西の偽りの神を打ち破るための、その大いなる力を!」
その完璧な忠誠の誓いに、太歳は満足げに揺らめいた。
『よかろう。……では、汝に我が最初の『宝貝』を授けてやろう』
太歳の不定形の体の一部が、どろりと黒い液体となって滴り落ちた。それは、黒曜石の床の上で、まるで意思を持つかのように蠢き、そして瞬く間に、一つの美しい形へと変化していった。
それは、一握りの穀物の種だった。
だが、ただの種ではない。一粒一粒が、まるで最高品質の翡翠を削り出したかのように、妖しい緑色の光を放っている。
『これは、私が数多の銀河の生命の遺伝子を掛け合わせ、創り出した究極の種子、『豊穣の龍鱗』だ』
太歳の声が、響いた。
『これを、汝の国の最も不毛なる大地に、蒔くがいい。……水も肥料も、ほとんど必要とはせん。……それは、三日で芽吹き、七日でその身の丈を超すほどの穂を、実らせるだろう。……そして、その一粒は万倍となり、汝の民一億の腹を、永遠に満たし続ける。……その味は、天上の龍の肉を食らうが如く、食した者の活力を、極限まで高めるだろう』
その、奇跡の性能の解説。
龍 岳山は、戦慄した。
食糧問題。
それは、十四億の民を抱えるこの国にとって、常にアキレス腱であり続けた、最大の弱点。
それを、完全に、そして自力で、解決できる。
それどころか、無限の食糧という名の、新たな戦略兵器を手にすることができる。
これさえあれば、共産党の支配は盤石となり、国民は、来るべき西側との最終戦争に、何の憂いもなく臨むことができるのだ。
「…………おお……! おおおおおお……!」
彼は、その翡翠の種を前に、ただただ感動に打ち震えていた。
太歳は、そんな彼にさらに追い打ちをかけるように、王者の余裕を見せつけた。
『何か質問は、あるか? ……今の汝になら、何でも答えてやろう』
龍 岳山は、はっと我に返った。そして、彼が最も聞きたかった、いくつかの核心的な問いを投げかけた。
「……太歳様! ……なぜ我々を? 数ある地球の民族の中から、なぜこの中華を、お選びになられたのですか!?」
『言ったはずだ。……私は、強き者を選ぶと』
太歳の答えは、明快だった。
『西の者どもは、個人主義と偽りの自由に骨抜きにされ、衰退しつつある。……だが、汝らは違う。……汝ら中華の民は、国家という一つの大いなる意志の下に団結し、個を殺して公に尽くすことができる。……そして何より、汝らには、目的のためには手段を選ばぬ、冷徹なまでの合理性と、底知れぬ野心がある。……それこそが、生命が進化するために必要な、最も美しく、そして最も気高い、混沌の輝きなのだ』
そのプライドを、極限までくすぐる答え。
龍 岳山は、もはや恍惚の表情を浮かべていた。
「……では、太歳様! 貴殿は、我々に何を望んでおられるのですか!?」
『強くなれ。……ただ、ひたすらに』
太歳の声が、厳かに響いた。
『西の偽りの神が与える、生温い協調という名の甘言に惑わされることなく、汝ら自身の孤高の道を突き進め。……いずれ、この星の真の支配者を決める時が、来る。……その時、汝らが勝利するために、私はその背を押し続けてやろう』
その、あまりにも力強い約束。
龍 岳山は、もはや完全に、この太歳という存在を、自分たち中華民族のためだけに遣わされた、天命の守護神だと信じ込んでいた。
彼の心が完全に掌握されたのを、見計らい、太歳は、最後の、そして究極の力を打ち込んだ。
『――龍 岳山よ』
その声は、もはや神のものではなく、まるで血の繋がった親が、その息子に語りかけるかのような、親密な響きを帯びていた。
『お前は、この私に選ばれた人間なのだ。……私の、この地上における唯一の代理人として、この地の進化を導く天命を、背負っている』
「……はっ……!」
『そして、選ばれし者への最初の祝福として、汝に、永遠の時を与えよう』
「…………え……?」
『我が神氣の一部を、汝の魂に注ぎ込む。……それがある限り、お前は老いることも、病にかかることも、そして死ぬこともない。……不老不死の身となるのだ』
その言葉と共に、玉座の上の不定形の混沌から、一筋の黒い霧のようなものが伸び、龍 岳山の額に、そっと触れた。
その瞬間、彼の全身を、経験したことのない雷のような衝撃と、そして同時に、母親の胎内にいるかのような絶対的な安心感が、貫いた。
長年彼を悩ませてきた古傷の痛みや、内臓の不調が、嘘のように消え去っていく。視力は若い頃のように回復し、その思考は、かつてないほどに明晰になっていく。全身の細胞が、一つ一つ、より若く、より強力なものへと作り変えられていくのが、分かった。
これは、奇跡だ。
いや、奇跡などという、陳腐な言葉では表現できない。
これこそが、天命。
『まあ、我が権能からすれば、これくらいは、ほんの序の口に過ぎんがな』
太歳は、その圧倒的な力の差を、こともなげに告げた。
龍 岳山は、その場にひれ伏し、歓喜と畏怖に打ち震えていた。
『では、また現れる時を待つがいい。……汝の働き、この混沌の玉座より、しかと見届けさせてもらうぞ。……ではな』
その言葉を最後に、太歳の冒涜的な姿は、すうっと、まるで最初から何もなかったかのように、玉座の間の暗闇の中へと、溶けるように消えていった。
そして、龍 岳山の意識もまた、急速に現実の世界へと引き戻されていった。
「―――はっっ!!!!」
彼は、執務室の寝椅子の上で、まるで溺れた人間が空気を求めるかように、激しく喘ぎながら飛び起きた。
時刻はまだ深夜。窓の外は、深い闇に包まれている。
あまりにも、鮮明な夢だった。
彼は、呆然と自らの手のひらを見つめた。そして、気づいた。長年彼を悩ませてきた右手の関節の痛みが、完全に消え去っていることに。
そして全身に、若い頃のような、いや、それ以上の漲るような活力が、満ち溢れていることに。
そして何より、彼が固く握りしめていた、その右手の中に、確かな、そしてひんやりとした感触があった。
おそるおそる、その手を開く。
そこにあったのは、夢で見たものと寸分違わぬ、まるで最高品質の翡翠を削り出したかのように妖しい緑色の光を放つ、数十粒の穀物の種がぎっしりと詰まった、小さな古びた絹の袋だった。
現実だ。
これは、夢などでは断じてない。
彼は、その袋を、まるで聖遺物のように、震える両手で天へと掲げた。
そして、その顔には、もはや焦りも、屈辱も、苦悩もなかった。
あるのは、自分こそが神に選ばれた天命の子であるという、絶対的な、そして狂信的なまでの輝きだけだった。
「―――天啓だッ!!!!」
彼の歓喜と畏怖に打ち震える絶叫が、静まり返った中南海の夜の闇を、切り裂いた。
「―――天啓が! 我に! 我が中華に、降りたのだッ!!!!!!!!」
東の龍が、ついにその覚醒の時を迎えた。
神の不在を嘆く西の賢人たちとは、対照的に。
自分たちだけの神を手に入れた東の王は、今、その神から授かった禁断の種子を手に、世界という名の庭を、自らの色に塗り替えようとしていた。
その龍の咆哮が、これからこの星に、どのような嵐を巻き起こすのか。その恐るべき未来を、まだ誰も知らなかった。
ただ一人、月の上でこの壮大なマッチポンプの脚本を書き上げ、そして今、罪悪感に苛まれながらつかの間の眠りについている、孤独な脚本家を除いては。




