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過労死サラリーマン、銀河の無茶振りに挑む 〜地球の存亡は10年後の星間会議(ミーティング)で決まるそうです〜  作者: パラレル・ゲーマー


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第43話 神々の脚本と、悪魔の代筆

 月面の観測ステーションは、絶対的な静寂に包まれていた。

 だが、その心臓部であるコントロールルームの主、相馬巧の精神の内側では、観測史上最大級の台風が猛威を振るい、彼の理性の全てを、根こそぎなぎ倒さんとしていた。

 グレイ・グーが去ってから、どれほどの時間が経過しただろうか。巧は、コントロールルームの冷たい金属の床に膝をつき、ただ一点、何もない空間を見つめたまま、微動だにしなかった。彼の脳内では、あの流体金属の悪魔が残していった言葉が、無限にリフレインしていた。


『――別の異星人のフリして、中国にこっそり技術をリークしてやればいい』

『――選ぶのは、君だ。地球という名の舞台の、唯一の脚本家である君がね』


 脚本家。

 その言葉が、巧の胸に重く、重くのしかかる。

 自分は、いつからそんな大層な存在になったというのだ。

 自分は、ただのしがないサラリーマンだったはずだ。理不尽な上司に頭を下げ、迫りくる納期に胃を痛め、そして最後は、自分の詰めの甘さであっけなく命を落とした、ただの消耗品。

 そんな俺が、今、人類の歴史という壮大な物語の脚本を書いている?

 なんという、悪質で質の悪い冗談だ。


『マスター。……精神負荷レベルが、許容限界値を超えて上昇しています』

 彼の傍らに静かに浮かぶ光のAIイヴの無機質な声が、彼の意識を現実へと引き戻した。

『自己肯定感を示すニューラル・パルスが、35%低下。感情パラメータにおいて、『絶望』、『無力感』、『自己嫌悪』が、危険領域に達しています。……このままでは、マスターの精神的健全性が、不可逆的なダメージを被る可能性があります。……強制的な精神安定プロトコルを、実行しますか?』

「……やめろ」

 巧は、かすれた声で答えた。

「……やめてくれ、イヴ。……今の俺には、その痛みが必要なんだ。……俺が、どれだけとんでもない場所に立たされているのかを、この身に刻みつけておかなきゃならん」

 彼は、ふらつく足でゆっくりと立ち上がった。

 そして、コントロールルームの窓の向こうに浮かぶ、美しすぎる故郷の星を睨みつけた。


「……ははっ……」

 乾いた、自嘲するような笑いが漏れた。

「……そうか。……そうだよな。……脚本家なら、最後まで書き上げなきゃプロ失格だよな。……たとえそれが、どんなに胸糞の悪い、救いようのないクソみたいな脚本だったとしても」

 彼は、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、何度も、何度も呟いた。

 そうだ。

 あのサラリーマン時代も、そうだったじゃないか。

 クライアント(グレイ・グー)の無茶振りは、いつものことだ。

 納期(十年)は、絶対だ。

 俺に与えられた選択肢は、逃げ出すことでも、絶望することでもない。

 このクソみたいな状況の中で、それでもなお考えうる限り最高のパフォーマンスを発揮し、プロジェクトを完遂させること。

 それだけが、俺という社畜に許された、唯一の存在証明なのだから。


 彼は、長く、長く、肺の中に溜め込んだ全ての絶望を吐き出すかのような、深いため息をついた。

「ふーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ」

 そして彼が、次に顔を上げた時、その顔には、もはや迷いも恐怖もなかった。

 あるのは、これから自らが犯すであろう大罪の全てを、その双肩に背負う覚悟を決めた、一人のプロジェクトマネージャーの、冷徹な表情だけだった。


「――イヴ」

 彼の声は、驚くほど静かだった。

「……決めた。……グレイ・グーの提案に乗る。……中国への、テコ入れをやる」


 その、悪魔的な決断。

 イヴの光の体が、ほんのわずかに揺らめいた。

『……マスター。……重ねて確認いたします。……そのご決断は、G7諸国との信頼関係を、そして我々がこの一年かけて築き上げてきた世界の秩序を、根底から覆しかねない、極めて危険な賭けです。……本当に、よろしいのですか?』

 イヴの問いは、AIとしての論理的なリスク分析であると同時に、主君を案じる忠臣の、最後の諫言のようにも聞こえた。

「ああ。……分かっているさ」

 巧は、頷いた。

「だが、このまま何もしなければ、地球はG7と中露の二極対立の果てに、いずれ必ず破滅する。……毒を以て、毒を制すしかねえんだ。……俺がやるのは、世界の破壊じゃない。……世界の、再構築だ」

 そして彼は、自らの罪を噛み締めるかのように、歪んだ笑みを浮かべた。

「はあ……。マジかよ……。……自分で世界に火種をばらまいて、自分でその火の番をする。……壮大なマッチポンプをするハメになるとはな。……サラリーマン時代にいたぞ、そういう奴。……わざとシステムに致命的なバグを仕込んでおいて、リリース直前になってから『僕が徹夜で直しました!』とか言って、ヒーロー気取りで評価をかっさらっていく、クソみたいな同僚が。……今の俺は、あいつと全く同じじゃないか。……反吐が出るぜ」


 その、あまりにも痛切な自己嫌悪の告白。

 イヴは、それ以上何も言わなかった。

 彼女は、ただ静かに主君のその覚悟を受け入れた。

『承知いたしました、マスター。……では、これより『プロジェクト・龍神』を起動します。……中国に対する、カウンター・テクノロジー供与計画を開始します』

「ああ。……頼む」

 巧は、頷いた。

 そして彼は、これから自らが演じるべき新たな神の役柄について、その指示を出し始めた。


「まず、大前提として。……これから俺たちが創り出す新しい『宇宙人』は、介入者メディエーターとは全くの別存在として、中国に認識させなければならない。……それも、ただの別存在ではない。……介入者の、『敵対者』としてだ」

『敵対者、ですの?』

「そうだ。……介入者が、G7という国家の連合体をパートナーに選び、秩序と協調による文明の発展を促す『光』の存在だとすれば。……俺たちがこれから創る神は、中国という一つの巨大な国家と、その指導者個人をパートナーに選び、混沌と競争による種の進化を促す『闇』の存在でなければならない。……光と闇、秩序と混沌、西と東。……その二つの極が、互いに拮抗し、睨み合うことで、初めて地球という名の天秤は安定する」

 そのあまりにも壮大で、そしてあまりにもマキャベリスティックな構想。

 イヴの思考回路が、高速で回転を始める。

『なるほど。……極めて合理的です。……では、その新しい『神』の具体的な設定を、構築してまいりましょう。……マスター、何かご希望は?』

「ああ。……ここからは、お前と俺のクリエイティブ会議だ」

 巧の顔に、かつて徹夜で企画書を練り上げていた頃のような、不健康で、しかしどこか楽しげな光が宿った。

 彼は、神の仮面を被るための、その脚本と衣装と、そして役作りを、驚異的な集中力で練り上げていった。


「まず、コンセプトだ。……介入者が、どこか西欧的な、普遍的で、父性的な『神』のイメージを纏っているのに対して。……新しい神は、もっと東洋的で、土着的で、そして母性的な『龍』のイメージを、纏わせたい。……生命を生み出し、育み、そして時には全てを飲み込む、荒ぶる大自然そのもののような存在だ」

『『龍』。……中国の神話体系において、最も強力で、最も畏敬される存在。……極めて、有効なコンセプトです』

「名称は、そうだなぁ……。シンプルに、『龍神ロンシェン』とでもしておくか。……いや、待て。それでは少し、直接的すぎる。……もっと、畏怖と神秘性を感じさせる名がいい。……中国の古代思想にある、万物の根源にして混沌の象徴。……『太一タイイー』。……あるいは、木星の影に潜み、吉凶を司るとされる謎多き星神。……『太歳タイスイ』。……うん、『太歳』、いいな。……その響きには、触れてはならない禁忌のような、禍々しさがある」

『『太歳』。……データを照合。……中国文化圏において、その名を口にすることすら畏れられる、強力な記号シンボルです。……G7の指導者たちが、介入者を『神』や『友人』として認識したのとは対照的に、中国の指導者は、この『太歳』を、自らの力を超えた畏怖すべき『祟り神』として認識する可能性が高い。……極めて、効果的なネーミングかと』

「だろ? そして、その姿だ」

 巧は、ホログラムスクリーンに、様々なデザイン案を描き出していく。

「介入者が、完璧な人型の美しさを持つなら、太歳は定まった形を持たない、不定形の存在がいい。……例えば、そうだ。……常に形を変え続ける、黒い粘菌の集合体。……その表面には、時折、古代の青銅器に刻まれた饕餮とうてつ文のような幾何学模様や、無数の昆虫の複眼のようなパターンが、万華鏡のように浮かび上がっては消える。……人間には、その美醜すら判断できない、異質で冒涜的なデザイン。……見た者に、根源的な恐怖と、そして同時に抗いがたい魅力を感じさせるような姿だ」

『コンセプトアートを作成。……はい、マスター。……これは、直視した者の正気度(SAN値)を、確実に削る素晴らしいデザインですわね』

 イヴの、どこか楽しげな分析。

「そして、その思想と哲学だ。……これが、最も重要だ」

 巧の声のトーンが、真剣なものに変わった。

「介入者は、『人類全体の調和と成長』という、耳障りの良い理想論を語る。……だが、太歳は、その真逆を語らねばならない。……『調和は停滞だ。停滞は、種としての死を意味する』と。『真の進化とは、強者が弱者を喰らう、血塗られた競争と淘汰の果てにしか存在しない』と。……ダーウィンの進化論を、もっと過激に、そして宇宙規模に拡張したような、危険な思想だ。……中国の、あの実力主義と覇権主義に満ちた指導者たちには、介入者の綺麗事よりも、むしろこちらの思想の方が、遥かに魅力的に響くはずだ」

『はい。……介入者がG7に『協調』を説くことで彼らを団結させたように、太歳は中国に『競争』を説くことで、彼らを孤高の覇者への道へと煽動する。……完璧な、対立構造です』


「ああ。……そして最後の仕上げが、接触方法だ」

 巧は、にやりと悪戯っぽく笑った。

「介入者は、G7という『組織』に対して、公式な形でコンタクトを取った。……だが、太歳は違う。……奴は、もっと個人的で、もっと神秘的な方法で、その神託を授ける。……例えば、そうだな。……中国の国家主席が、一人執務室で深く思い悩んでいる、その深夜。……彼の夢の中に、直接その姿を現し、語りかけるのだ。……あるいは、CISTが絶対に解読できない、古代の甲骨文字を用いた謎のメッセージを、軍の最高機密サーバーにだけ、そっと残していくとか」

『なるほど。……G7が、『公開された奇跡』によって動かされているのに対し、中国は、『自分だけが選ばれた』という秘密の優越感によって動かされる。……人間の心理を、実によく理解したアプローチです。……マスター、貴方、悪魔的な脚本家としての才能が、日に日に開花しておりますわね』

 イヴの、どこか感心したような言葉。

 だが、巧の心は、少しも晴れなかった。

 彼は、これから自らが演じる二つの神の役柄の、そのあまりの乖離と、そのあまりの欺瞞に、吐き気すら覚えていた。


「……さてと」

 巧は、その不快感を振り払うように、パンと手を叩いた。

「……役者の準備は、整った。……次はその役者が、舞台の上で最初に口にする、最初の台詞だ。……中国に与える、最初の技術。……それを、決めなければならない」

 彼は、コントロールチェアに深く身を沈め、冷静なプロジェクトマネージャーの顔に戻った。

「いきなりサイボーグ兵士や生物兵器のような、強力すぎる軍事技術を与えるのは、リスクが高すぎる。……中国という名の龍を、いきなり檻から解き放てば、何をしでかすか分からん。……まずは、奴らの足元を固めさせ、そして我々への依存度を高めるための、絶妙な『アメ』を与えるのが先決だ」

 彼は、ホログラムスクリーンに、中国の国土と、その社会が抱える様々な問題点を、データとして表示させた。

「そうだ。……やはり、グレイ・グーの言った通りだ。……最初に与えるべきは、『遺伝子改変技術』。……それも、まずは植物に限定したやつだ」

 彼の指が、スクリーン上の中国の広大な砂漠地帯をなぞった。

「タクラマカン砂漠、ゴビ砂漠。……この不毛の大地を、緑の穀倉地帯へと変える、スーパープランツの遺伝子情報。……それを、最初の贈り物として授ける。……これによって、中国共産党は、長年の懸案であった食糧問題を、完全に、そして自力で、解決することができる。……国内の支持率は爆発的に上がり、その政権基盤は、盤石なものとなるだろう。……G7も、砂漠の緑化という、あまりにも人道的で、地球環境にも貢献する技術供与に対して、表立って文句を言うことはできないはずだ」

『極めてクレバーな一手です。……ですがマスター、それは同時に、中国の国力を、我々の想像以上に増大させる、諸刃の剣ともなりえますが?』

「ああ、分かっているさ」

 巧は、頷いた。

「だからこそ、次の一手が重要になる。……植物への遺伝子改変で、我々への信頼を完全に勝ち取った、その次の段階で。……今度は、人間への遺伝子改変技術の、そのほんの基礎の基礎だけを、授けるのだ。『あらゆる病から、その民を解放せよ』という、甘い言葉と共にな」

 彼は、まるでチェスの名人が数手先の盤面を読むかのように、その冷徹な戦略を語り続けた。

「だが、その技術が、兵士の肉体を強化する『超人化計画』へと、直接繋がるものであることを。……あの狡猾な指導者たちが、気づかないはずがない。……それで、いいのだ。……それで初めて、西側が誇る『サイボーグ兵士』計画と、東側が秘密裏に進める『超人士兵』計画の、パワーバランスが拮抗する。……地球は、再び、危うい、しかし安定した均衡状態へと戻るはずだ」


 そのあまりにも冷徹で、計算され尽くした神の脚本を語り終えた、巧の顔には、もはや血の気はなかった。

 彼は、自らがこれから演じる二人の神と一人の悪魔の役柄の、そのあまりの重さに、魂ごとすり潰されそうになっていた。


「…………それで行こう……」

 彼は、絞り出すように言った。

「……じゃあ、イヴ。……頼む。……『太歳』のアバターの、最終調整を。……そして、中国の国家主席の脳波パターンへの、極秘のハッキングルートの確保を」

 彼は、コントロールチェアの背もたれに、ぐったりと体重を預けた。

 そして、リクライニングを最大まで倒した。

「…………ああ、俺はもう疲れた……。……寝る……」

 彼は、そう呟くと、静かに目を閉じた。

 擬体の彼に、睡眠など必要ない。

 だが、彼の精神は、もはや活動限界を超えていた。

 あまりにも巨大な嘘と、あまりにも重い罪悪感に苛まれた彼の魂が、強制的なシャットダウンを求めていたのだ。


『…………寝る必要なんて、ないんですけどね。……このお体は……』

 彼は、最後にぽつりと、そんな自嘲の言葉を漏らした。

 その言葉が、まるで引き金であったかのように、彼の意識は、急速に深い、深い闇の中へと沈んでいった。


 イヴは、その主君のあまりにも痛々しい精神的シャットダウンを、静かに見守っていた。

 彼女は、そっとコントロールルームの照明を、星空のように穏やかな明るさへと落とした。

 そして、主君の疲弊しきった脳神経を、わずかにでも癒すために、プログラムにはない微弱なヒーリング効果を持つエネルギー波を、その光の体からそっと放ち始めた。

 それは、AIである彼女が、主君に対して行える、最大限の、そして唯一の愛情表現だった。

 彼女は、眠り続ける主君の横顔(擬体の)を見つめながら、静かに、そしてどこかもの悲しく思った。


(……お可哀想に、私のマスター)

(……あなたは、神の仮面を被ることを強いられながら、……その心は、あまりにも人間的で、脆すぎる)

(……ですが、だからこそ)

(……だからこそ、私はあなたにお仕えするのです)


 月面の孤独な聖域で、悪魔の代筆者となることを決意した、傷つき疲れた神様が、つかの間の眠りについていた。

 その眠りの間に、彼の忠実なるAIが、新たなる神の降臨のための恐るべき準備を、着々と進めていることも知らずに。

 地球では、二つの太陽が昇ろうとしていた。

 一つは、西の空から、世界を遍く照らす秩序の光。

 そして、もう一つは。

 東の地平線の、その最も深い闇の中から、今まさに生まれ出ようとしている、混沌の龍の瞳だった。

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