第41話 神々の教室と、子供たちの饗宴
あの日、介入者がG7を前にして日本の「教師」としての役割を指名してから、季節の針は静かにひと月ほど進んでいた。世界は、人類史上初めて経験する奇妙な平穏と、水面下で激化する情報戦という、二つの顔を持つ新しい時代に適応しようと必死だった。人々は、日々の生活の中で「宇宙人の存在」を当たり前の前提として語り始め、子供たちは、サンタクロースを信じるのと同じ純粋さで、銀河の友人からの次なる贈り物を待ち望んでいた。
そして今日、その壮大な授業の、記念すべき第一日目が始まろうとしていた。
富士の樹海の地下深く、CISTの巨大な地下施設。その最も厳重なセキュリティゲートの前に、一台の特殊防弾仕様の大型バスが、静かに停車した。ゆっくりと開かれた扉から降りてきたのは、人種も、年齢も、そして纏う雰囲気もバラバラな、しかし誰もがその瞳の奥に、人類最高レベルの知性を宿した二十人ほどの男女だった。
彼らこそが、アメリカ合衆国がその国家の威信をかけて選抜した超エリート研究者チーム。神の技術を学ぶために、かつての弟子であり、今や世界の師となった日本へとやってきた、最初の生徒たちだった。
「――Welcome to CIST. 我々は、諸君の来訪を心から歓迎する」
ゲートの前で彼らを待ち受けていたのは、CIST室長である的場俊介と、日本の科学界の至宝、湯川教授だった。的場の声は硬く、その顔には、この歴史的な国際協力プロジェクトの責任者としての、極度の緊張が浮かんでいた。
アメリカチームを率いるのは、白髪をオールバックになでつけ、その鋭い鷲のような目で、全てを見透かすかのような老人、Dr. アラン・スタージェス。NASAで、アポロ計画からアルテミス計画まで、半世紀以上にわたってアメリカの宇宙開発を支えてきた、生ける伝説だった。
彼の隣には、まるで正反対に、Tシャツにジーンズというラフな格好で、好奇心に満ちた子供のような目で周囲をキョロキョロと見回している若者がいた。Dr. レオ・フィッシャー。弱冠二十八歳にして、DARPA(国防高等研究計画局)の理論物理学部門を率いる、神童と呼ばれる天才。
その他にも、MITの気鋭の女性マテリアルサイエンティスト、スタンフォード大学の量子コンピュータの権威など、綺羅星のような頭脳が一堂に会していた。
スタージェスは、その鷲のような目で的場をまっすぐに見据え、ゆっくりと手を差し出した。
「的場大臣。そして湯川博士。この度は、我々を快く受け入れていただき、感謝する。……正直に言おう。我々が、貴国に教えを乞う日が来るとは、夢にも思っていなかった。……だが、我々は科学者だ。真理の前に、国家のプライドなど何の価値もない。……今日から我々は、ライバルであり、そして同じ頂を目指す同志だ。よろしくお願いしたい」
その、あまりにも率直で誠実な挨拶。
的場は、差し出されたその大きく節くれだった手を、固く握り返した。
「ええ。……こちらこそ、よろしくお願いいたします、スタージェス博士。……我々も、まだ神の教室の入り口に立ったばかりの、未熟な生徒に過ぎません。……共に学びましょう。人類の未来のために」
その二人の固い握手。
それが、人類が初めて国家の垣根を越え、神から与えられた知識を共有しようとする、歴史的な授業の始まりを告げるチャイムの音だった。
共同研究が始まってからの数日間は、正直なところ、ぎこちない空気に満ちていた。
CISTの巨大なメインコントロールルームに設えられた、日米合同の研究チーム。そこでは、互いのプライドと長年のライバル意識が、目に見えない壁のように存在していた。アメリカの科学者たちは、日本の、特にCISTの驚異的な技術レベルと研究環境に目を見張りつつも、心のどこかで、「我々ならば、もっと速く、もっとうまくやれる」という自負を隠しきれずにいた。日本の科学者たちもまた、世界のトップランナーである彼らを前にして、どこか萎縮し、遠慮がちな態度が目立った。
だが、その氷のような空気を溶かしたのは、やはり科学という名の、万国共通の太陽だった。
そのきっかけとなったのは、CISTがこの一年をかけて介入者の神託を解読し、再構築した、一枚の基礎理論データだった。
「――なんだ、これは……」
合同研究が始まって三日目の午後、シミュレーションルームの巨大なホログラムスクリーンに映し出された複雑怪奇なテンソル方程式の奔流を前にして、DARPAの天才レオ・フィッシャーが、初めて驚愕の声を上げた。
彼の周りには、日米の理論物理学者たちが、眉間に深い皺を寄せ、腕を組んでその数式を睨みつけていた。
「……信じられん……。この時空定数Kの定義が、我々の標準理論モデルと根本的に違う……。……湯川博士、これは一体どういうことです?」
レオの問いに、湯川教授は穏やかな笑みを浮かべた。
「……我々も、最初はそうでしたよ、フィッシャー博士。……我々の物理学の常識が、根底から覆された瞬間でした。……介入者様の理論によれば、空間とは、我々が認識しているような空っぽの容器ではない。……それは、プランクスケール以下のレベルで、常に生成と消滅を繰り返す、エネルギーの泡の海なのだそうです。……そしてこの方程式は、その泡の密度を局所的に操作するための、いわば『蛇口のひねり方』を示している」
そのあまりにも詩的で、しかし的確な解説に、アメリカの科学者たちの間に、どよめきが広がった。
「ジーザス……。つまり、空間そのものが一種のエネルギー体だと……? だから、そのエネルギー密度を変化させることで、内側と外側の距離の定義を変えることができる……。そういうことか……!」
MITの女性科学者、Dr. エミリー・カーターが、その美しい顔を知的な興奮で輝かせた。
「ですが、この方程式を解くには、最低でも十一次元の超弦理論を応用しなければ、不可能です! 我々のスーパーコンピュータでも、一つの解を導き出すのに、数百年はかかる! ……それを、あなた方はどうやって……?」
その問いに、湯川教授は少しだけ誇らしげに笑った。
「……ええ。我々も、最初は途方にくれました。……ですが、我々には、介入者様が与えてくださった、もう一つのヒントがあったのです」
彼は、スクリーンに表示されていた方程式の一部を指でなぞった。すると、その複雑な数式が、まるで魔法のように、よりシンプルで、見慣れた形へと姿を変えていった。
「……近似です」
湯川は、静かに言った。
「……介入者様は、この神の方程式を、我々三次元世界の猿でも理解できるように、意図的に情報を劣化させた『近似式』も残してくださった。……そして我々CISTの若き数学者たちは、この近似式をさらに発展させ、我々のコンピュータでも計算可能な、独自のシミュレーションモデルを構築したのです。……いわば、神の言葉を人間の言葉へと翻訳する『辞書』を、我々は血の滲むような努力の末に、作り上げたのです」
その言葉の意味を、アメリカの科学者たちは、数秒間の沈黙の後に、完全に理解した。
そして、彼らの顔に浮かんだのは、驚愕を通り越した、深い、深い畏敬の念だった。
彼らは、ただ神の技術に驚いていたのではない。
その神の技術を、一度自分たちの知性で咀嚼し、理解し、そして再構築してみせたこの日本の科学者たちの、その恐るべき知性と、そして執念に、戦慄していたのだ。
「……なるほど……」
チームリーダーであるスタージェス博士が、その鷲のような目を細め、深く頷いた。
「……なるほどな。……ようやく理解した。……介入者様が、なぜ最初に君たちを選んだのか。……そして、なぜ我々に、君たちから学ぶようにと、そう命じたのか。……君たちは、ただの生徒ではなかった。……君たちは、神の言葉を最初に解き明かした、偉大なる翻訳家だったのだな」
その、最大級の賛辞。
それが、二つの国の間にあった最後の壁を、完全に溶かし去った。
もはや、そこにアメリカ人も、日本人もいなかった。
いるのは、ただ同じ真理の頂を目指す同志であり、仲間である、科学者たちの熱い魂だけだった。
その日を境に、CISTの地下施設は、かつてないほどの活気と創造性に満ち溢れた、人類の知のるつぼと化した。
「――おい、レオ! この部分の量子トンネル効果の確率計算、ちょっと見てくれないか! どうしても誤差が0.01%以下にならないんだ!」
「オーケー、タナカ! 任せろ! ……だけどその代わり、君が隠してるっていう『究極のカップヌードル・シーフード味』を、今夜俺に一杯おごってくれよ!」
「ハッハッハ! しょうがないな! 交渉成立だ!」
巨大なホログラムスクリーンを前に、日米の若き天才たちが、国籍も年齢も忘れ、まるで学生のようにじゃれ合いながら、白熱した議論を交わしている。
研究室の片隅では、NASAの老技術者たちが、日本の若手エンジニアたちから日本の伝統的な金属加工技術である「鍛造」の原理を教わり、それをヒントに、空間拡張装置の筐体の新しい合金設計について、目を輝かせながら語り合っていた。
「なるほど、叩くことで金属の結晶構造を緻密にする……。……このアナログな発想が、最新鋭の素材科学に応用できるとは……。……ディープだ、ジャパニーズ・テクノロジー……」
彼らは、寝る間も惜しんで研究に没頭した。
昼は、神の方程式と格闘し、夜は、互いの国の文化やジョークを肴に、酒を酌み交わした。
彼らは、科学という共通言語を通じて、急速に、そして深く、互いを理解し合っていった。
そして、研究が核心へと進むにつれて、その熱狂は、一つの神聖な儀式のような様相を呈し始めた。
「――見てくれ、エミリー……」
合同研究が始まって三週間が経過したある深夜、レオ・フィッシャーは、ホログラムスクリーンに映し出された最終的な解へと収束しつつある方程式を前にして、恍惚とした表情で、隣に立つDr. カーターに囁いた。
「……美しい……。……なんて、なんて美しいんだ……。……ビッグバンから宇宙の終焉まで、この宇宙の全ての法則が、まるで壮大な交響曲のように、このたった一行の方程式の中に、完全に調和している……」
カーターもまた、その神々しいまでの数式の美しさに、言葉を失っていた。
「……ええ……。……これは、物理学ではないわ。……これは、詩よ。……神が、宇宙を創造した時に用いた、最初の言葉……」
その瞬間、国籍も、プライドも、そして個人の自我すらも、消え去った。
彼らは、ただ真理の絶対的な美しさの前にひれ伏す、無垢な求道者として、一つになったのだ。
そのあまりにも純粋で、そしてあまりにも美しい光景を、研究室の隅から見守っていた湯川教授は、その老いた目に静かに涙を浮かべ、そして満足げに、しかし、どこか少しだけ寂しげに、微笑んでいた。
理論は、完成した。
ならば、次は実践だ。
科学者たちの雰囲気は、「理論を証明したい」という純粋な探究心から、「早くこの新しいオモチャで遊んでみたい」という、子供のような無邪気なものへと変わっていった。
「――なあ、スタージェス博士。……この資料保管室、ちょっと書類で溢れてて、手狭だと思いませんか?」
ある日、レオが、悪戯っぽくチームリーダーに話しかけた。
「ほう、それで?」
「……だから、ちょっと拡張しちゃいませんか? ね?」
その、あまりにも軽いノリ。
スタージェスは、その鷲のような顔をしかめ、厳格に答えた。
「……馬鹿を言え、フィッシャー君。……これは、神の技術だ。……そんな子供の遊びのような……」
だが、彼の言葉は、周りの日米の若手科学者たちの、期待に満ちたキラキラとした目によって、遮られた。
「……まあ、いいでしょう! やりましょうよ!」
「そうだ、そうだ! Let's do it!」
スタージェスは、深く、深くため息をついた。
「……やれやれ。……最近の若者は……」
だが、その口元は、明らかに笑っていた。
その日の午後、CISTの地下施設の、何の変哲もない備品倉庫の壁に、彼らが共同で作り上げた試作品一号となる小型の空間拡張装置が、慎重に取り付けられた。
「よし、エネルギー充填完了!」
「時空変異コイル、同期開始!」
「歪曲率、安定!」
まるで、アポロの打ち上げ管制室のような緊張感と、大学の文化祭の準備のような高揚感が入り混じった、奇妙な空気。
そして、レオが、高らかに宣言した。
「――スイッチ、オン!」
装置が、静かな唸り声を上げ、青白い光を放つ。
数秒後、全てのプロセスが終了した。
科学者たちは、固唾を飲んで、その備品倉庫の扉をゆっくりと開いた。
「―――オーマイゴッド!!!!!!!!」
最初に叫んだのは、アメリカ人だったか、日本人だったか。もはや、誰も覚えていない。
外から見れば、ただの三メートル四方の小さな倉庫。だが、その内部は、天井の高い小さな体育館ほどの広さにまで、拡張されていた。
「やった……!」
「やったぞおおおおおおおおおおお!!」
「ウィー・ディド・イット!!!!」
若き科学者たちは、互いにハイタッチを交わし、肩を組み、国籍も忘れ、ただ子供のようにはしゃぎ回った。
その成功体験が、彼らをさらに大胆にさせた。
彼らは、寝る間も惜しんで「工事」を進めた。
研究室の天井を高くし、開放的な空間に。仮眠室のベッドルームを、ホテルのスイートルーム並みの広さに。食堂のテーブルを、晩餐会が開けるほどの長さに。
CISTの地下施設は、この日米合同チームという名の知性的なビーバーたちの巣作りの手によって、まるで生き物のように、その内側から日々膨張を続けていった。
そして運命の一ヶ月後、ついに、アメリカチームが主導する最終卒業試験とも言うべき、大規模な空間拡張実験の日が、やってきた。
舞台は、再び『サンクチュアリ』。
中央には、NASAがこの日のためにわざわざ空輸してきた、アポロ11号の司令船『コロンビア』の、寸分違わぬ精密なレプリカが、静かに鎮座していた。
コントロールルームは、ガラスの向こうの実験場を見つめる日米の科学者たちの熱気で、蒸し風呂のようになっていた。
メインオペレーターを務めるのは、DARPAの天才レオ・フィッシャー。彼の隣には、日本の若きエースである田中研究員が、サポート役として座っている。その後ろでは、的場大臣、湯川教授、そしてスタージェス博士が、固唾を飲んでその様子を見守っていた。モニターの向こうでは、ホワイトハウスのトンプソン大統領も、この歴史的瞬間を、ライブ映像で見ているはずだ。
「……全システム、グリーン」
レオの声が、静かなコントロールルームに響く。
「ターゲット・オブジェクト内部センサー、正常。……これより、最終シークエンスに移行する。……エネルギー充填、開始!」
装置が、重低音の唸りを上げる。
「時空変異コイル、同期。……歪曲率、予測値通りに上昇中。……安定している……!」
田中研究員の、声が続く。
レオの額に、玉のような汗が浮かんだ。
彼は、ちらりと隣の田中を見た。田中も、彼を見て、力強く頷いた。
大丈夫だ。
俺たちなら、できる。
レオは、深く息を吸い込んだ。そして、叫んだ。
「――イグニッション!!!!!」
その言葉が、引き金だった。
サンクチュアリ全体が、超低周波の振動に包まれる。
司令船の周囲の空間がぐにゃりと歪み、青白いプラズマの閃光が、迸った。
そして数秒後、全ての現象が、嘘のように収束した。
後に残されたのは、耳鳴りがするほどの静寂と、先ほどと何一つ変わらないように見える、司令船のレプリ-カの姿だけだった。
成功か、失敗か。誰もが、息を止めてモニターを見つめた。
スクリーンに、司令船の内部に設置されたカメラからの映像と、計測データが表示される。
【外部計測値:直径 3.9m / 高さ 3.2m】
【内部計測値:直径 39.0m / 高さ 32.0m】
【内部空間拡張率:1000%】
その完璧なまでの成功を示す、無機質なデジタル数字。
数秒間の沈黙。
その静寂を、最初に破ったのは、メインオペレーターを務め上げた若き天才の、魂からの叫びだった。
「―――やっほーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!」
レオ・フィッシャーは、管制官の椅子から飛び上がった。そして、隣にいた田中研究員の肩を、壊れるほど強く抱きしめた。
「やった! タナカ! やったぞ! 俺たちが! 俺たちアメリカ人も! ついに、ついに成し遂げたんだぜ!!!!」
その叫びが、引き金となった。
コントロールルームは、爆発的な歓声と、嵐のような拍手に包まれた。
日米の科学者たちは、もはや国籍も、肌の色も、何もかもを忘れ、ただ互いに抱き合い、この歴史的な勝利を分かち合っていた。
スタージェス博士は、その鷲のような顔をぐしゃぐしゃにしながら、隣に立つ湯川教授の手を、固く、固く握りしめた。
「……やったな、ユカワ」
「……ええ。……やりましたな、アラン。……我々の時代は、終わった。……これからは、あの素晴らしい子供たちの時代です」
その感動的な狂騒の中心で、的場俊介は、一人静かにその光景を眺めていた。
彼の胸に去来していたのは、純粋な喜びと、そしてそれと同じだけの、重い責任の重さだった。
これは、終わりではない。始まりなのだ。
人類が、協力して神の階段を登り始めた、その最初の、そして最も重要な一歩。
だが、この階段の先には、何が待っているのか。より険しい道か、あるいは奈落へと続く断崖か。
彼は、これからこの日米合同チームという名の、あまりにも強力で、そしてあまりにも無邪気な子供たちを、正しい方向へと導いていかなければならない。
そのあまりにも重い舵取りを想い、彼は、一人静かに気を引き締めていた。
人類の新たな時代の幕開けは、かくして、国境を越えた友情と、純粋な科学への情熱という、最も美しい形で、その祝砲を上げたのだった。
その祝砲の音が、いずれ世界にどのような響きをもたらすのかを、まだ誰も知らずに。




