第38話 神々の玩具箱と、王たちの渇き
富士の樹海の地下深く、CISTの聖域『サンクチュアリ』に隣接して急遽設えられた、日本の最高意思決定のための地下作戦司令室。その部屋の空気は、もはや人間の理性が制御できる限界を超えた、純粋な狂気と熱狂のプラズマで満たされていた。
二つの神の遺物――黒真珠のように鈍い光を放つ『全自動サイボーグ化ポッド』と、純白のセラミックのように清らかな輝きを放つ『医療用ポッド』。そのあまりにも異質で、あまりにも絶対的な存在感を放つ二つの祭壇を前にして、日本の権力の中枢を担う男たちは、もはや国家の指導者としての仮面をかなぐり捨て、剥き出しの欲望と野心を滾らせる、ただの獣と化していた。
「―――素晴らしい……! なんという、なんという絶景だ……!」
最初にその狂おしい歓喜の声を上げたのは、財務大臣の大蔵だった。彼の目は血走り、その指先は、まるで天文学的な数字を弾き出す高速計算機のように、虚空で目まぐるしく動いていた。
「見えますぞ、私には! この二つのポッドが生み出す無限の富が! 国富が! もはや我が国は、資源の乏しさに喘ぐ必要はない! この医療用ポッドのナノマシン技術を応用すれば、あらゆる病は過去の遺物となる! 国民は健康になり、労働人口は爆発的に増加する! サイボーグ化技術は、全ての産業の生産性を、現在の千倍、いや一万倍にまで引き上げる! 我が国は、もはや税金という概念すら必要としない、人類史上初の絶対的な富裕国家となるのだ!」
その金銭欲にまみれた預言に、防衛大臣の鬼塚が、地を這うような低い、しかし歓喜に打ち震える声で続けた。
「富だけではない! 大蔵大臣! 我が国は、絶対的な『力』をも手に入れるのだ!」
鬼塚は、まるで恋焦がれた女神を見つめるかのように、黒いサイボーグ化ポッドにその熱い視線を注いでいた。
「見ろ、あのフォルダを! 『サイボーグ兵士化パッケージ』! 介入者様は、我々に軍隊を持つことを、いや、神の軍隊を創設することを、お許しになられたのだ! 痛みを知らず、恐怖を知らず、眠ることもなく、ただ命令のままに敵を殲滅する鋼鉄の神兵! そんな軍団が、我が国の国防を担うのだぞ! もはや、アメリカの第七艦隊も、中国の空母打撃群も、我々の敵ではない! この日本こそが、アジアの、いや、世界の警察官となる時代が来たのだ!」
そのあまりにも危険な軍国主義的妄想に、しかし、この場の誰もが酔いしれていた。そうだ、その通りだ。我々は選ばれた。我々にはその資格がある。
「うおお……! なんということだ……! これぞまさしく、天壌無窮の神勅……!」
この国の最高権力者、郷田龍太郎総理ですら、その老獪な仮面の下の素顔を隠すことなく、子供のように目を輝かせ、わなわなと震えていた。彼の脳裏には、もはや日本という国家の枠組みすら超えた、壮大なビジョンが広がっていた。
「見えんかね、諸君! この二つのポッドは、我が大和民族を新たなるステージへと導くための、天の浮橋なのだ! 我々は、この肉体という名の矮小な軛から解き放たれ、より完全な、より神に近い存在へと進化する! そして、その進化した我々が、この未熟で愚かな地球人類を導いていくのだ! それこそが、神に選ばれた我々に課せられた崇高なる責務! 八紘一宇の理想を、この星々にまで広める時が来たのだ!」
そのあまりにも時代がかった、しかし本心からの選民思想に満ちた絶叫。
日本の権力の中枢は、神から与えられた究極の力に完全に魂を奪われ、危険で甘美な狂乱の饗宴へと、その身を投じていた。
その狂騒の輪から、ただ一人外れている男がいた。
CIST室長、的場俊介。
彼の顔は、蒼白を通り越して土気色になっていた。彼は、この国の指導者たちが、いとも容易く権力という麻薬に溺れ、正気を失っていく様を、冷たい恐怖と絶望をもって見つめていた。
(……ダメだ……。この人たちでは、ダメだ……)
彼の魂が、悲鳴を上げていた。
(この力は、あまりにも強大すぎる。あまりにも危険すぎる。今の欲望と野心にまみれた人類には、まだ百年、いや千年早すぎるのだ……!)
彼は、この暴走を止めなければならないと、本能的に感じていた。だが、何を言えばいい? この狂乱の渦の中心で、彼の冷静な声など、誰の耳に届くというのだ。
彼は、助けを求めるように、この全ての元凶である神の代理人へと視線を向けた。介入者は、その狂宴を、ただ静かに、その神々しい仮面の下で、何の感情も見せずに見つめていた。その深い蒼色の瞳の奥に、一体何が宿っているのか、的場には全く読み取ることができなかった。
狂喜の渦の中心で、郷田総理がはっと我に返った。そして彼は、介入者に向き直ると、まるで神の前にひれ伏す敬虔な信者のように、深々と頭を下げた。
「――おお、介入者様! この度のあまりにも寛大なるお恵み、我々日本国民を代表し、心より、心より御礼申し上げます! 我々は、この神の御業を決して無駄にすることなく、貴殿のご期待に応えるべく、全身全霊をもってこの国の発展に邁進することをお誓いいたします!」
そのあまりにも恭しい感謝の言葉。
だが、郷田の目は笑ってはいなかった。
その目の奥には、既に次の要求を計算する、冷徹な政治家の光が宿っていた。
「……つきましては、介入者様。……一つ、我々の現実的な問題について、ご相談に乗っていただきたいのですが……」
「ほう、なんだね?」
「はっ。……先ほど介入者様は、この素晴らしいポッドを稼働させるためには、素材となるレアメタルや金属類が相当量必要になると、そう仰られました。……誠に申し上げにくいことではございますが、我が国は資源に乏しい小国。このポッドを本格的に稼働させれば、国内の資源はあっという間に枯渇してしまうでしょう。……どうか、この我々の窮状をお救いいただく、何か良いお知恵はございませんでしょうか?」
そのあまりにも抜け目のない、そして貪欲な要求。
神から与えられたばかりの玩具の、その電池が足りないと、そう泣きついているのだ。
そのあまりにも人間的な、そしてどこか滑稽ですらある嘆願を聞いて。
介入者の神々しい仮面に、初めて人間的な感情が浮かんだ。
それは、ほんの一瞬。
だが、その場にいた誰もが、確かにそれを見た。
――苦笑いだった。
まるで、出来の悪い、しかしどこか憎めない子供のわがままを聞かされた親のような。呆れと慈愛と、そしてほんの少しの憐憫が入り混じった、複雑な人間的な表情。
その神の意外な一面に、閣僚たちは一瞬息を飲んだ。
「――君たちは、いつもそうだ」
介入者の声には、いつもの超越的な響きではなく、どこか疲れたような人間的な響きが混じっていた。
「一つの問題を解決してやれば、すぐに次の問題の答えを欲しがる。……まるで、クリスマスにもらったばかりのオモチャに飽きて、すぐに次の誕生日プレゼントをねだる子供のようだ。……その飽くなき探究心、あるいは底なしの強欲さこそが、君たち人類という種をここまで発展させてきた原動力なのだろうがね」
その褒めているのか、貶しているのか分からない言葉。
そして彼は、ふっと息を吐いた。
「まあ、いいだろう。……君たちのその尽きることのない渇きに免じて、ヒントだけは与えてやろう。……答えはある」
その一言に、閣僚たちの目が再びギラリと輝いた。
「本当ですか、介入者様!」
郷田が、身を乗り出す。
「ああ。……君たちが今直面している資源問題など、銀河コミュニティの基準から言えば、石器時代の人間が『硬い石が足りない』と嘆いているような、あまりにも原始的な悩みでしかない。……我々には、その問題を根本から解決する技術が、もちろん存在する」
介入者は、まるで壮大な劇のクライマックスを告げる俳優のように、ゆっくりと腕を広げた。
「――エネルギーを、質量へと転換する技術だ」
そのあまりにもSF的な単語。
科学者である的場と湯川教授の顔が、瞬時に蒼白になった。
「……なっ……!?」
「そ、それは……! E=mc²の……アインシュタインの特殊相対性理論における、質量とエネルギーの等価原理を、完全に制御する技術だとでも……!?」
湯川教授が、かすれた声で叫んだ。
「その通りだ、老賢者よ」
介入者は、満足げに頷いた。
「純粋なエネルギーから、直接物質を創り出す。……君たちの言葉で言うならば、こう表現するのが一番分かりやすいかもしれんな」
彼は、にやりと笑った。
「――究極の3Dプリンターとでも言うべき、代物だ」
究極の3Dプリンター。
その言葉が、部屋にいる全ての人間たちの脳髄を、雷のように撃ち抜いた。
「……ど、どういうことですかな……?」
財務大臣の大蔵が、震える声で尋ねる。
「言葉通りの意味だ」
介入者は、こともなげに言った。
「その装置を使えば、設計図データと十分なエネルギーさえあれば、ありとあらゆるものを、原子レベルで完璧に『印刷』することができる。……例えば、そうだ。……最高級の和牛のステーキから、どんな病にも効く特効薬。……そして、君たちが喉から手が出るほど欲しがっている、レアメタルや超硬合金に至るまで。……食料問題も、医療問題も、そして資源問題も。……その全てが、この技術一つで完全に過去の遺物となる」
そのあまりにも信じがたい、神の御業の解説。
もはや、誰も声を発することができなかった。
部屋を支配していたのは、絶句という名の、絶対的な沈黙だけだった。
サイボーグ化技術ですら、霞んで見える。
これは、もはや技術ではない。
天地創造だ。
無から有を生み出す、神そのものの力だ。
財務大臣の大蔵が、その場にがくりと膝から崩れ落ちた。
「……終わった……。……経済という概念が……終わった……。……もはや金にも、資源にも、何の価値もなくなる……。……なんと、なんということだ……」
防衛大臣の鬼塚は、その武骨な顔を恍惚とした表情で歪ませ、虚空を見つめていた。
「……弾薬が……最新鋭のステルス戦闘機が……無敵の宇宙戦艦が……無限に……無限に『印刷』できる……。……我が軍は……神の軍団となる……」
科学者たちは、もはや狂喜すら通り越し、その知性のキャパシティを超えた情報量を前に、ただただ打ち震えていた。アインシュタインが、その生涯をかけて追い求めた夢の、その先の光景が、今目の前にあるのだ。
そして、的場俊介だけが。
その究極の福音の裏にある、究極の地獄を幻視していた。
(……労働の価値が消える……。……誰も働かなくなる……。……全ての人間が、ただ無限の豊かさの中で快楽に溺れ、そして緩やかに滅びていく……。……それは……それは救いなどではない……。……究極の堕落だ……!)
その混沌のるつぼの中心で、郷田総理が、まるで長年の夢から覚めたかのようにはっと我に返った。
そして彼は、まるで餓えた獣のように、介入者に食らいついた。
「―――介入者様ッ!!!! どうか! どうか、その究極の技術も、我々にお授けください! お願いいたします! それさえあれば、我々は……!」
その必死の嘆願。
だが、介入者は、そのあまりにも愚かで純粋な渇望を、冷たい一言で一刀両断にした。
「――だが、これはまだ君たちには早い」
その静かな、しかし絶対的な拒絶の言葉。
熱狂の頂点にあった部屋の空気が、一瞬にして氷点下まで凍りついた。
「……な……ぜですかな……?」
郷田が、絞り出すように尋ねる。
介入者は、まるで悪戯っ子の言い訳を聞かされた親のように、ふたたび苦笑いを浮かべた。
「なぜだと? ……郷田総理。……あなた方は、今、この部屋でどんな顔をしていたか、自覚しているかね?」
「…………!」
「欲望だ。……底なしの、純粋な欲望。……今の君たちは、目の前にぶら下げられたアメに夢中で、そのアメが猛毒である可能性など、微塵も考えてはいない。……この物質創成技術は、それほどまでに強力で、それほどまでに危険な劇薬なのだよ」
介入者の声が、冷徹な響きを帯びる。
「この技術は、使い方を誤れば、文明そのものを内側から腐らせて崩壊させる。……私は、銀河の歴史の中で、この甘美な毒に呑まれ、自滅していった文明をいくつも見てきた。……かつて、無限の豊かさを手に入れたことで全ての創造意欲を失い、ただ感覚的な快楽だけを求め続けて仮想現実の世界に閉じこもり、そして静かに種族として滅びていった、美しき鳥たちの文明があった。……またある時は、無限の兵器を手にしたことで互いの正義を疑うことをやめ、星が塵になるまで終わりのない戦争を続けた、誇り高き戦士たちの文明もあった」
そのおとぎ話のような、しかし生々しいリアリティに満ちた物語。
それは、日本の指導者たちの熱しきった頭脳に、冷たい水を浴びせた。
「……今の君たちにこれを与えるのは、火薬庫の中で子供にマッチを渡すようなものだ。……君たち人類は、まだ自らの欲望を、自らの手でコントロールする術を知らない。……まずは、今与えられたオモチャ(サイボーグ化技術)で、上手に遊べるようになることだ。……その力に相応しい精神的な成熟を、君たちがその手で掴み取ったと私が認めたその時。……改めて、この究極の玩具箱を開けてやることを、検討してやってもいい」
そのあまりにも的確で、反論のしようのない宣告。
それは、彼らにとって絶望であると同時に、新たなる希望の道筋でもあった。
我々が、成熟すれば。
我々が、神に認められれば。
その究極の力が、手に入る。
技術は、手に入らなかった。
だが、その存在を知ってしまった。
もはや、後戻りはできない。
日本の指導者たちの心には、もはやサイボーグ化技術への興奮すら霞むほどの、より巨大な、そしてより根源的な渇望の炎が燃え上がっていた。
「―――星間文明、半端ない!!!!!!!!」
誰かが、そう叫んだ。
それは、郷田か、鬼塚か、あるいはこの場にいる全員の魂の叫びだったのかもしれない。
そうだ。
半端ない。
我々が数千年間、悩み、苦しみ、争い続けてきた資源も、病も、戦争も。
その全てが、彼らにとってはとうの昔に通り過ぎた、過去の遺物なのだ。
その絶望的なまでの文明格差。
だが、その絶望は、彼らの心を折るどころか、むしろ彼らの歪んだ野心を、極限まで燃え上がらせていた。
いつか必ず。
我々も、その頂きへとたどり着いてみせる。
介入者を、超えてみせる。
神の座を、この手で奪い取ってみせる。
その人間たちのあまりにも愚かで、しかしどこか愛おしいほどの野心の狂宴を。
介入者は、その神々しい仮面の下で、静かに、そしてどこかもの悲しい目で見つめていた。
彼は、最後にぽつりと、予言のような言葉を残した。
「――富は、使い方を誤れば身を滅ぼす毒となる。……君たちが、その毒に呑まれぬことを、ただ願っているよ」
その言葉を最後に、介入者の姿はすうっと光の粒子へと変わり、消え去った。
後に残されたのは、二つの神の遺物と。
そして、まだ見ぬ究極の技術への焦がれるような渇望と、歪んだ野望だけだった。
日本の、そして人類の運命は、今、神が仕掛けた壮大なゲーム盤の上で、次なるステージへとその駒を進めようとしていた。
その先に待っているのが、進化か、それとも破滅か。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。