第36話 神々の遺物と、賢人たちの狂宴
介入者がその神々しい姿を光の粒子へと還し、去っていった後。
CISTの聖域『サンクチュアリ』に残されたのは、絶対的な静寂と、そして人類の未来そのものを凝縮したかのような、一つの小さな遺物だった。
七色に輝く、視覚拡張用義眼。
それは、介入者がいた場所の空間に、まるで宇宙に浮かぶ孤独な惑星のように、静かに、そして美しく浮遊していた。
そのあまりにも美しく、そしてあまりにも異質な物体を前にして。
先ほどまで感動と興奮に打ち震えていた人類最高の頭脳たちは、誰一人として声を発することができなかった。
彼らは、ただ固唾を飲んで、その神が残していった奇跡のカケラを見つめていた。
それは、もはや科学者たちが研究対象を見る目ではなかった。
それは、巡礼者たちが聖地で聖遺物を前にした時のような、畏怖と、信仰と、そしてわずかな恐怖が入り混じった、敬虔な眼差しだった。
数分間にも感じられた、その神聖な沈黙。
それを最初に破ったのは、やはり最も情熱的で、そして最も純粋な探究心の持ち主だった。
アメリカ、MITから来た脳神経科学の権威、ジョン・マクブライド教授。
彼は、まるで催眠から解かれたかのように、はっと我に返ると、その子供のような目をキラキラと輝かせた。
「―――うおお……。……おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」
彼の口から上がったのは、もはや言葉ではない。
ただの、歓喜の咆哮だった。
「……見たか、諸君! ……今、我々が目撃したものを! ……これは……これは、ただの技術ではない! ……革命だ! いや、天地創造だ! 人類が、アウストラロピテクスからホモ・サピエンスへと進化したあの瞬間に匹敵する……いや、それを遥かに凌駕する進化の特異点が、今、我々の目の前にあるのだぞ!」
そのあまりにも熱狂的な叫びが、引き金だった。
他の科学者たちも、次々とその呪縛から解き放たれ、狂乱の渦へと身を投じていく。
「義眼だけでも、人類の歴史を変える代物ですよ!」
フランスのパスツール研究所から来た若き女性遺伝子工学者が、その美しい顔を興奮で真っ赤に染めながら叫んだ。
「完璧に馴染む義眼……。拒絶反応がゼロだと? ありえない! 我々が、何十年もかけて挑み続けてきた免疫システムという神の城壁を、彼らはまるで存在しないかのように通り抜けてみせた! ……そして、あのナノマシン! ……やっぱり、SFで夢見ていたようなナノマシンを、彼らは当たり前のように使っているんですよね!? ……凄い……! 凄い、凄い、凄すぎる!」
彼女は、その場でぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。その姿は、もはや世界的な権威ではなく、欲しかったクリスマスプレゼントを手に入れた少女のようだった。
「……いや、それだけではない」
今度は、ドイツのマックス・プランク研究所から来た材料工学の鬼才、クラウス・シュタイナーが、その厳つい顔を恍惚とした表情で歪ませた。
「……あのエレナ・ヴァシレヴァ嬢の左腕。……あのセラミックとチタンの複合素材。……見たかね、君たち。あの滑らかな表面。あの芸術的なまでの曲線。……そして、何よりもあの強度と柔軟性。……我々の知る、いかなる合金とも違う。……あれは、おそらく原子レベルで構造が設計されている、『メタマテリアル』の一種だ。……それも、我々がまだ理論上でしか存在しえないと思っていた次元のな。……くそっ! あの腕だけでも手に入れば、航空宇宙工学も、エネルギー産業も、全ての産業が根底から覆るぞ!」
金、金、金!
科学者たちの目は、もはや金の亡者のようにギラギラと輝いていた。
だが、彼らが求めるのは紙幣ではない。
知識という名の、究極の財宝だった。
「――触らせてくれ!」
「いや、俺が先だ!」
「まずは、非破壊スキャンを!」
「馬鹿を言え! その前に、質量分析だ!」
彼らは、一斉にその宙に浮かぶ義眼へと殺到した。
だが、その聖遺物は見えない力場に守られており、彼らの指先が触れることはできない。
「くそっ! なぜだ!」
「フィールドが、展開されているのか!」
その醜い奪い合いの光景。
それを冷ややかに、そしてどこか哀れむような目で見つめている男がいた。
CIST室長、的場俊介だった。
彼の心は、この熱狂の渦から一歩引いた場所にあった。
彼は、科学者であると同時に政治家であり、そしてこの巨大プロジェクトの責任者だった。
彼が知りたいのは、この奇跡がどれほど素晴らしいかではない。
彼が知りたいのは、ただ一つ。
その奇跡を、自分たち人間の手で再現できるのかどうか。
そのあまりにも現実的で、そしてあまりにも重要な問いだけだった。
彼は、その狂騒の輪から少し離れた場所で、静かにその様子を見守っていたチームの最年長、湯川教授の元へと歩み寄った。
「…………湯川先生」
的場は、静かに問いかけた。
「……彼らは、まるで新しいオモチャを与えられた子供のようですね」
湯川は、その老いた顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「……ええ。ですが大臣。……科学者とは、いつまでも知的好奇心というオモチャを追い求める子供でなければ、ならんのです。……その心を失った時、我々はただの物知りの老人になってしまいますからな」
その、深い言葉。
だが、的場にはそんな哲学的な問答をしている時間はなかった。
彼は、単刀直入に聞いた。
その声は、震えていた。
これから発せられる答えが、この国の、いや、人類の未来を左右することを、彼は知っていたからだ。
「――先生。……お伺いします。……この神の御業。……実際、我々人類の技術で、再現することはできるのですか?」
そのあまりにも現実的な、そしてあまりにも重い問い。
その場の全ての科学者たちの狂騒が、ぴたりと止まった。
彼らは、一斉に我に返り、的場と湯川の方へと向き直った。
そうだ。
忘れていた。
我々は、ただの観客ではない。
この奇跡を自分たちの手で再現するという、使命を帯びた当事者なのだと。
その全員の視線を一身に浴びながら。
最初に答えたのは、CISTの中でも最も若く、そして最も血気盛んな、量子物理学の天才だった。
彼は、まるで愚かな質問を聞かされたとでもいうかのように、呆れた顔で言った。
「――はあ?」
そのあまりにも、素っ気ない一言。
的場は、一瞬言葉に詰まった。
若き天才は続けた。
その声には、悪意はなかった。
ただ、純粋な科学者としての、あまりにも正直な感想が込められていただけだった。
「……大臣。……何を、おっしゃっているのですか? ……無理に、決まっているじゃありませんか」
「……なっ……!?」
「だって、そうでしょう? ……あれは、神の御業ですよ? 我々人間が、神の真似事などできるはずがない。……我々が今やるべきは、再現などという傲慢な考えを持つことではありません。……ただ、この神が残してくださった聖遺物を隅から隅まで観察し、その完璧な造形を愛で、その奇跡の一端に触れられたことに感謝し、そして祈りを捧げることなのです!」
彼は、再び恍惚とした表情で宙に浮かぶ義眼を見つめた。
そして、叫んだ。
「――いやー、凄いなこの義眼!! 完璧だ! 美しい! 神は、実在したんだ!」
そのあまりにも狂信的な、しかし科学者としてはあまりにも正直な反応。
それが、この場にいるほとんどの科学者たちの、偽らざる本音だったのかもしれない。
彼らは、もはや科学者ではなかった。
彼らは、新たな宗教の、最初の信徒となっていたのだ。
『介入者教』とでも言うべき、新しい信仰の。
的場の心に、冷たい絶望が広がった。
(……ダメだ……。……こいつらでは、話にならない……)
政治家として、彼はこのプロジェクトを前に進めなければならない。
郷田総リに、G7の指導者たちに、具体的な成果を報告しなければならないのだ。
「不可能でした」などという報告が、許されるはずがない。
その絶望的な空気を救ったのは、やはり湯川教授だった。
彼は、その若き天才の肩を優しく叩いた。
「……まあ、落ち着きたまえ、田中君。……君の興奮は分かる。……だが、大臣はそういう情緒的な話が聞きたいのではないのだよ」
そして、彼は的場に向き直った。
その老いた顔には、いつもの穏やかな笑みが戻っていた。
「……大臣。……先ほどのご質問ですが」
彼は、一度言葉を切った。
そして、その答えを待つ全ての人間たちに語りかけるように、静かに言った。
「……田中君の言う通り、この義眼を寸分違わず『完全に再現する』ことは……おそらく、今の我々には不可能です。……それには、おそらく百年、いや二百年の時間が必要でしょう」
その、絶望的な宣告。
的場の顔が、蒼白になった。
だが、湯川の言葉はまだ終わってはいなかった。
「……ですが」
彼は、続けた。
「……大臣。……それは、果たして我々が目指すべきゴールなのでしょうかな?」
「……と、申しますと?」
「……一つ、例え話をいたしましょう」
湯川は、その皺の刻まれた目を細めた。
「……もし、我々が蒸気機関というものを全く知らないアイザック・ニュートンの時代にタイムスリップし、彼の目の前に一台の完璧な蒸気機関車をプレゼントしたとしたら。……ニュートンは、それを再現できると思われますか?」
「……いや、それは無理でしょう」
「その通りです。……彼は、その鉄の塊がなぜ動くのか、その原理すら理解できないでしょう。……ですが、彼は科学者だ。……彼は、その蒸気機関を分解し、観察し、そして考え始めるはずです。『この水を熱した時に生まれる力は、何なのだ?』と。『熱とは、エネルギーとは、一体何なのだ?』と」
湯川の声が、熱を帯びる。
「……彼は、蒸気機関車そのものをコピーすることはできない。……ですが、その研究の過程で、彼は必ずや新しい物理法則を発見するはずです。……我々が『熱力学』と呼んでいる、全く新しい学問を、彼はたった一人でゼロから築き上げることになるでしょう。……そして、その新しい学問こそが、彼の時代を次のステージへと導く、本当の革命となるのです」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、宙に浮かぶ義眼を指差した。
「――我々が今、手にしているものは、これと全く同じです」
「…………!」
「……この義眼は、単なる完成品ではありません。……これは、我々がまだ知らない未来の物理法則の塊。……我々がまだ目にしたことのない、新しい学問の生きた教科書なのです。……我々の仕事は、これをただ猿真似のようにコピーすることではない。……この聖遺物から新たな知識を学び取り、我々自身の科学を次のステージへと革命させること。……それこそが、介入者様が我々に与えてくださった、本当の試練なのではありますまいかな」
そのあまりにも本質的で、そして希望に満ちた言葉。
それは、狂信的な熱に浮かされていた科学者たちの頭を急速に冷却させ、そして同時に、彼らの心の奥底に眠っていた本当の探究心の炎を、再び燃え上がらせた。
そうだ。
我々は、信者ではない。
我々は、科学者なのだ。
祈るのではない。
解き明かすのだ。
この神の御業を、我々人間の知性で。
「…………先生……」
的場は、そのあまりにも偉大な老科学者の言葉に、ただ感動していた。
「……では先生。……我々は、この教科書から、具体的に何を学ぶことができると、お考えですか?」
その問いに、湯川はにやりと子供のような笑みを浮かべた。
「……全てですよ、大臣」
彼は、興奮に声を弾ませた。
「……この義眼の外殻を構成する、未知の合金。……これを解析すれば、我々の材料工学は百年は進歩するでしょう。……その内部で自己完結している、エネルギー源。……その秘密を解き明かせれば、エネルギー問題は過去のものとなるやもしれません。……そして、何よりもこの義眼と人間の脳を繋ぐ、ニューラル・インターフェイス。……これこそが、聖杯です。……この技術の一端でも理解できれば、AI、情報科学、そして医学。……人類の知の全ての分野が、爆発的な進化を遂げることになる。……我々は、今、その全ての可能性の扉の前に立っているのです」
そのあまりにも、壮大なビジョン。
的場は、ようやく理解した。
自分たちが手にしたものの、本当の価値を。
これは、ただの便利な道具ではない。
これは、人類の未来そのものなのだと。
彼の胸に、新たな、そしてより巨大な覚悟の炎が灯った。
「…………分かりました、先生」
彼は、頷いた。
「……ですが、そのためには、途方もない時間と予算が必要になります。……今のCISTの規模では、到底足りない。……そして何よりも、この熱狂が冷めてしまった後の政治家たちを、説得し続けなければならない」
「ええ。……ここからは、科学の領域ではありません。……政治の領域ですな」
湯川は、静かに言った。
「……大臣。……あなたの本当の戦いは、これからですぞ」
「……覚悟は、できております」
的場は、頷いた。
「……先生。……一つ、お願いがあります。……この壮大な研究計画の全体像と、そのロードマップを描き出してはいただけませんか。……私が、あの官邸の狐や狸たちと渡り合うための、最強の武器として」
「……お任せください」
湯川は、その老いた顔に、生涯で最高の喜びの色を浮かべた。
「……この湯川、老骨に鞭打って、人類史上最高の研究計画書を、あなたに捧げましょうぞ」
祭りの時間は、終わった。
後に残されたのは、一つの神の遺物と、それを解き明かそうとする賢人たちの、静かな、しかし燃え盛るような情熱。
そして、その情熱の炎を守り抜くために、これから始まる長く孤独な政治闘争へと、その身を投じる覚悟を決めた、一人の男の姿だった。
人類の、本当の意味での科学革命は。
この絶望的なまでの技術格差を直視し、それでもなお一歩前に進もうと決意したこの瞬間から、始まったのかもしれない。