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第34話 祭りの後の王たちと、龍の視線

 人類が、その孤独の終わりを祝福する未曾有の祭りが始まってから、五日が経過した。

 世界は、まだ熱に浮かされていた。テレビをつければ、どのチャンネルも、宇宙と未来に関する希望に満ちた特集番組を、延々と流し続けている。インターネットは、新たなる隣人への歓迎のメッセージと、子供たちが描いた可愛らしい宇宙人のイラストで、溢れかえっていた。株価は、天井知らずの上昇を続け、世界経済はかつてないほどの好景気に沸いていた。

 だが、そのあまりにも楽観的で、あまりにも幸福な狂騒の震源地である日本。

 その政治の中枢、首相官邸の一室だけは、まるで台風の目のように、冷え切った静寂と極度の緊張感に支配されていた。


「――ふぅ。……やれやれ。取り敢えず、最悪の事態は避けられたというわけですな」


 官邸の地下深く、内閣危機管理監執務室。重厚な木のテーブルを囲みながら、外務大臣の犬養が、心の底から安堵のため息を漏らした。彼の目の前の巨大なホログラムスクリーンには、世界中の熱狂の光景が、マルチウィンドウで映し出されている。暴動も、パニックも、宗教戦争も起きなかった。世界は、G7と宗教指導者たちが共に差し出した、そのあまりにも美しいおとぎ話を、驚くほど素直に受け入れたのだ。


「ええ。ネガティブにならずに済んで、本当に良かった」

 財務大臣の大蔵も、満足げに頷いた。

「市場の反応も、予想以上です。我が国の円は、もはやドルと並ぶ世界の安全資産として、認識されつつある。……このお祭り騒ぎがもたらす経済効果だけでも、計り知れないものがありますぞ」


 その楽観的な空気に水を差したのは、一人の若い秘書官が、おずおずと差し出した一枚の報告書だった。

「……総理。……各国の大学、及び研究機関からの公式な問い合わせリストです」

 その場にいる閣僚たちが、そのリストを覗き込む。

 そして、誰もが息を飲んだ。


『――マサチューセッツ工科大学(MIT):空間拡張技術の基礎物理理論に関する、共同研究の申し入れ』

『――ケンブリッジ大学:CISTへの若手研究者の長期派遣留学の許可願い』

『――マックス・プランク研究所:日本国内での代替装備技術の臨床試験への、オブザーバー参加要請』

『――欧州原子核研究機構(CERN):……』


 リストには、世界中の最高学府と最先端の研究機関の名前が、まるで星の数ほどびっしりと並んでいた。その全てが、頭を下げて「どうか我々に、その神の知識の一端をお授けください」と、そう懇願してきていた。


「…………これは……」

 科学技術担当大臣であり、CISTの室長でもある的場俊介が、呆然と呟いた。

「……凄いな……。図らずとも、日本の学術的な地位が、一夜にして世界の頂点に立ってしまった……」


 そうだ。

 もはや、日本はただの経済大国ではない。

 人類の知の中心地。

 科学のメッカ。

 世界中の最も優れた頭脳たちが、今、この極東の小さな島国に、羨望と、嫉妬と、そして畏敬の念を込めた、熱い視線を注いでいるのだ。


「……ええ。日本は今や、『最初に宇宙人に選ばれた国』として、世界の注目の的です」

 今まで黙ってそのやり取りを聞いていた、郷田龍太郎総理が、静かに口を開いた。

 彼の声は、いつものように穏やかだった。

 だが、その目の奥には、この祝祭の熱狂に浮かれる他の閣僚たちとは、全く質の違う冷徹な光が宿っていた。

 彼は、ゆっくりと葉巻の煙を吐き出した。

 そして、その灰を、まるで何かを振り払うかのように、灰皿に落とした。


「――だが諸君。……油断するな」


 その静かな、しかし氷のように冷たい一言。

 部屋の楽観的な空気が、一瞬にして凍りついた。

 郷田は、その鋭い目で、閣僚たちを一人一人見回した。

「……祭りはいずれ終わる。……そして、祭りの後には、必ず請求書が回ってくるものだ。……我々は、今、そのあまりにも巨大な請求書の支払いに備えなければならん」

 彼は立ち上がった。

 そして、ホログラムスクリーンに映し出される世界中の人々の無邪気な笑顔を、まるで嵐の前の静けさを見るかのように、見つめた。


「――これからが、正念場だぞ」


 その声には、もはや穏やかさはなかった。

 あるのは、幾多の修羅場を乗り越えてきた、老獪な政治家だけが持つ、絶対的な危機感だけだった。


「……我々が手に入れた、この圧倒的な注目と地位。……それは、同時に何を意味するか分かるかね? ……それは、我々が、世界中の羨望と、そしてそれと同じだけの憎悪を一身に集める、的になったということだ」

 郷田は、スクリーンに映る世界地図のある一点を指差した。

 ユーラシア大陸の東端。巨大な龍のように横たわる、赤い国。

 そして、その北に広がる、白い熊の国。


「……特に、G7の輪から外された中国やロシアのヘイトは、これから日に日に高くなっていくはずだ。……いや、もう既に始まっているだろう」

 その言葉を裏付けるかのように、内閣情報調査室の長官が、重い口調で報告を始めた。

「……はっ。……総理のご懸念の通りです。……過去七十二時間で、CIST及び関連省庁のサーバーに対するサイバー攻撃の試行回数は、平常時の約一万倍に達しております。……その発信元の大半は、人民解放軍のサイバー部隊と関連が深いと思われる、ハッカー集団です」

「……やはりか」

 郷田は、吐き捨てるように言った。

 情報調査室長官は続けた。

「……また、人的な動きも活発化しています。……我が国の在外公館の周辺で、明らかに中国及びロシアの諜報員と思われる人物の活動が、急増。……彼らの狙いは一つ。……CISTに所属する科学者、及びその家族のリストの入手。……そして、彼らへの直接的な接触です」

 そのあまりにも、生々しい報告。

 部屋の空気が、さらに重くなる。


「……彼らも、喉から手が出るほど欲しいはずだからな」

 郷田は言った。

「……我々と同じ……介入者様との伝手を」

 そうだ。

 それこそが、今、この地球上で最も価値のある、究極の戦略資産。

 神とのホットライン。

 中国もロシアも、今、国家の全ての力を結集して、そのホットラインを自らの手中に収めようとしているのだ。

 盗聴、ハッキング、買収、脅迫。ありとあらゆる手段を使って。


「……ここで油断して、『友好国だと思っていたドイツの科学者に情報を漏らされて、中国に介入者とのチャンネルを全部持っていかれました』などという間抜けな事態にだけは、絶対になってはならんのだ」

 郷田は、静かに、しかしその言葉の一つ一つに鋼鉄の意志を込めて言った。

「……我々は、これから始まる静かなる戦争に備えねばならん。……情報の全てを独占し、そして守り抜くための徹底的な防衛体制を、今この瞬間から構築する」

 彼は、その鋭い視線を防衛大臣の鬼塚に向けた。

「……鬼塚君。……CISTの物理的な警備レベルを、今日からさらに三段階引き上げろ。……あの地下施設は、もはやただの研究所ではない。……我が国の未来そのものが眠る、最重要の軍事拠点だ。……必要とあらば、陸上自衛隊の特殊作戦群を投入することも許可する。……一匹の鼠たりとも、中に入れるな」

「……はっ! 御意!」

 鬼塚は、その武骨な顔を引き締め、力強く頷いた。


「そして……」

 郷田は、次に的場に向き直った。

 その目は、先ほどとは打って変わって、どこか労わるような色を宿していた。

「……的場君。……君には、最も困難で、そして最も汚れる仕事を、してもらうことになる」

「……と、申しますと?」

「……CISTの、内部の守りだ」

 郷田は、静かに言った。

「……どんな堅牢な城壁も、内側から崩れる時が一番脆い。……君の部下である、あの優秀な科学者たち。……彼らは今、人類の英雄として、世界中から賞賛を浴びている。……だがな、的場君。……英雄とは、最も堕落しやすい存在でもあるのだよ」

 そのあまりにも、冷徹な人間観察。

 的場は、息を飲んだ。

「……金、名誉、女、あるいは思想。……敵は、必ずそこを突いてくる。……『君のその偉大な頭脳は、日本という小さな国のためだけにあるべきではない。全人類のために使うべきだ』などと、甘い言葉で囁きかけてくるだろう。……君の仕事は、その悪魔の囁きから君の部下たちを守り抜くことだ。……時には彼らを監視し、時には彼らのプライバシーを侵害し、そして時には……」

 郷田は、そこで一度言葉を切った。

「……時には、国を裏切る可能性のある者を、非情に切り捨てる覚悟を決めることだ。……分かるかね? 君は、もはやただの研究室の室長ではない。……君は、この聖域を守るための、冷徹な番人でなければならんのだ」


 そのあまりにも重く、そしてあまりにも孤独な任務の宣告。

 的場は、唇を固く結んだ。

 そうだ。

 分かっていた。

 自分はもう、後戻りのできない場所に来てしまったのだと。

 科学者としての純粋な探究心だけでは、もはや生きていけない世界に。

「…………覚悟は、できております」

 彼は、静かに、しかし力強く答えた。

 その目には、もはやかつての人の良い学者の面影はなかった。

 あるのは、国家の最高機密をその双肩に背負う、指揮官としての冷徹な光だけだった。


「……うむ」

 郷田は、満足げに頷いた。

「……では諸君。……祭りの時間は終わりだ。……ここからは、仕事の時間だ。……それぞれの持ち場で、抜かりなく頼むぞ」

 その静かな号令と共に。

 王たちの短い安息の時間は、終わりを告げた。

 閣僚たちは、皆、引き締まった顔で立ち上がり、それぞれの戦場へと戻っていく。

 後に残されたのは、郷田と的場の二人だけだった。


「……総理」

 的場が、口を開いた。

「……一つだけ、よろしいでしょうか」

「なんだね」

「……我々は本当に、このまま全ての情報を独占し続けるべきなのでしょうか。……介入者様やアーク様は、我々に協調の重要性を説いておられたはずです。……G7の友人たちに、いつまでも嘘をつき続けるのは……」

 そのあまりにも、誠実な問い。

 郷田は、ふっとその老獪な顔を和らげた。

 そして、まるで出来の悪い、しかし可愛い息子に語りかけるかのように言った。

「……的場君。……君は、優しい男だな。……その優しさこそが君の最大の長所であり、そしてこの世界で生きていく上での、最大の弱点だ」

 彼は、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。

「……いいかね。……外交とは、究極の腹の探り合いだ。……手の内を全て見せた瞬間、そのゲームは終わる。……我々は、今、神から与えられた最強のカードを手にしている。……だが、このカードの本当の価値は、それを使うことではない。……それを『持っている』という事実、そのものなのだよ」


 彼は、的場の肩をポンと叩いた。

「……安心したまえ。……俺も、G7の友人たちを永遠に騙し続けるつもりはない。……だが、今はまだその時ではない、というだけだ。……我々が、彼らと本当の意味で対等に渡り合えるだけの力を手に入れる、その時まではな」


 そのあまりにも遠大な、そして冷徹な国家戦略。

 的場は、もはや何も言えなかった。

 彼は、ただ深々と頭を下げることしかできなかった。

 部屋を出た的場の耳に、まだ外で続く祭りの喧騒が、遠くに聞こえた。

 その無邪気な歓声が、今の彼には、まるで別の世界の出来事のように感じられた。

 そうだ。

 自分は、もうあちら側には戻れない。

 自分は、この祭りの裏側で、その祭りを守るために、静かに汚れ仕事をこなす番人なのだ。

 その覚悟を胸に、彼は自らが守るべき地下の聖域へと、その重い足を進めた。

 日本の、そして世界の本当の正念場は、まだ始まったばかりだった。



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