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第33話 星々の祭りと孤独な神様

 その日、人類は初めて自らの故郷の星が、あまりにも小さく、そしてあまりにも美しいことを知った。

 ジェームズ・トンプソン米大統領の口から放たれた「我々は孤独ではなかった」という一言。それは単なるニュースではなかった。それは、アダムとイブが知恵の実を口にした瞬間に匹敵する、人類という種の第二の誕生の瞬間だった。


 発表の直後

 世界を支配したのは、音だった。

 いや、音ですらなかった。

 それは、七十億の魂が同時に発した衝撃波。

 ニューヨーク、タイムズスクエア。巨大なスクリーンに映し出された政治家と聖職者たちのありえない握手を見つめていた、数万の群衆。その喧騒が、まるでスイッチを切られたかのようにぴたりと止んだ。数秒間の絶対的な沈黙。そして、次の瞬間。


「―――うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」


 誰からともなく上がった、獣の咆哮のような雄叫び。

 それが引き金だった。

 沈黙は、爆発した。

 歓声、絶叫、嗚咽、そして意味をなさない言葉の洪水。見知らぬ者同士が、肌の色も話す言葉も関係なく、ただ抱き合った。涙を流しながら笑い、笑いながら天を仰いだ。イエローキャブのクラクションが、まるで祝福のファンファーレのように鳴り響き、摩天楼の谷間にこだました。


 東京、渋谷スクランブル交差点。

 信号が青に変わっても、誰も動かなかった。数万の人々がただ立ち尽くし、網膜に焼き付けたばかりの信じがたい光景を反芻していた。やがて、一人の女子高生がスマートフォンの画面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「……やば……。え、マジで……?」

 そのあまりにも現代的な一言が、魔法を解いた。

「嘘でしょ!?」「マジかよ!」「え、じゃああの映画みたいなこと、本当にあったんだ!」

 興奮のさざ波が、瞬く間に津波へと変わる。人々は、隣にいる見知らぬ他人に必死で語りかけた。「見ました!?」「すごいことになりましたね!」。誰もが、この歴史的な瞬間の感動を誰かと分かち合わずにはいられなかったのだ。


 世界が、揺れていた。

 それは、物理的な揺れではない。

 人々の常識が、価値観が、そして世界観そのものが根底から覆された、精神の巨大地震だった。

 そして、その巨大な揺れの後には。

 かつて誰も経験したことのない、巨大な祝祭の波が押し寄せてきた。


 最初の二十四時間は、混乱と興奮が支配した。

 だが、夜が明ける頃には、その混沌は一つの明確な形を取り始めていた。

 それは、「祭り」だった。


 そのきっかけを作ったのは、皮肉にもあのG7の王たちだった。

 彼らは、世界がパニックに陥ることを何よりも恐れていた。だが、彼らの予想に反して、世界を包んだのは恐怖ではなく、圧倒的な歓喜だった。その熱狂の炎を、危険な暴動へと発展させないために。彼らは、先手を打った。


『――告ぐ。本日より三日間を、『人類の黎明を祝う世界共通の祝日』とする』


 G7、そしてそれに追随した世界中の百を超える国々から、次々と緊急の休日宣言が発令された。

 そのニュース速報のテロップを見た子供たちが、最初に叫んだ。


「――やったああああああ! 学校休みだあああああ!!!」


 その無邪気な歓声。

 それが、この歴史的な三日間の祝祭の始まりを告げるファンファーレとなった。


 学校? 休みだよ!!

 会社? 休みだよ!!

 難しい理屈は、もうどうでもいい。

 とにかく、世界は休みになったのだ。

 そして人々は、街へと繰り出した。


 リオデジャネイロ。

 コパカバーナのビーチは、予定外のカーニバルに突入した。サンバのリズムが鳴り響き、人々は手作りの銀色の宇宙人のお面を被り、緑色の触覚を頭につけて、夜通し踊り明かした。肌の色も貧富の差も関係ない。誰もが、ただの「地球人」として、この奇跡的な一日を祝福していた。


 ロンドン。

 市内のパブというパブは、昼間から満員御礼だった。人々はエールを酌み交わし、肩を組み、声を枯らして歌っていた。ビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」を。デヴィッド・ボウイの「スターマン」を。その歌詞が、これほどリアルに響いた日はなかった。


 インド、デリー。

 街は、まるでホーリー祭のように色とりどりの粉で彩られた。人々は空に向かって青や緑や銀色の粉を投げ上げ、星々の世界から来た新たなる隣人たちを歓迎した。「ハッピー・コンタクト・デー!」という新しい挨拶が、自然発生的に生まれていた。


 世界が、一つの巨大なパーティー会場と化した。

 その熱狂をさらに煽ったのが、メディアだった。

 テレビのニュース番組は、もはやニュースではなかった。それは、祝祭の特別番組だった。

『独占インタビュー! NASA長官が語る宇宙人の可能性!』

『緊急アンケート! もしあなたが宇宙人に会ったら、最初にかける言葉は?』

『世界の名曲、宇宙人歓迎バージョントップ10!』

 深刻な政治や経済のニュースは、画面から姿を消した。代わりに映し出されたのは、世界中の人々の笑顔と、そして天文学者たちがまるでロックスターのように熱狂的に迎えられる光景だった。

 カール・セーガンやスティーブン・ホーキングといった、故人となった偉大な科学者たちの映像が何度も何度も流され、彼らが夢見た未来がついに現実となったのだと、人々は涙した。


 音楽チャートは、宇宙に関連する曲で埋め尽くされた。

 映画館では、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』や、スピルバーグの『未知との遭遇』がリバイバル上映され、全ての劇場で満員御礼の札が下がった。

 ファッション界では、銀色を基調とした「ギャラクシー・スタイル」が、瞬く間に一大ムーブメントとなった。

 人類は、孤独じゃなかった!!!

 そのたった一つの事実が、数千年間人類を縛り付けてきたあらゆる閉塞感を吹き飛ばし、世界をかつてないほどの楽観主義と万能感で満たしていったのだ。

 誰もが、信じていた。

 輝かしい未来が、すぐそこにあるのだと。

 貧困も、戦争も、差別も、全てが過去の遺物となる新しい時代が始まったのだと。


 だが、その全世界的なお祭り騒ぎの裏側で。

 この祝祭が、いかに脆く、そしていかに計算され尽くした砂上の楼閣であるかを知る者たちがいた。


 《中国・北京》


 国家主席は、執務室の巨大なスクリーンに映し出される世界中の狂乱の映像を、冷え切った目で見つめていた。

「……愚かな。……あまりにも愚かだ」

 彼は、吐き捨てるように言った。

「西側は、ついに究極のアヘンを手に入れたというわけか。……『宇宙人』という名の甘美な麻薬を民衆に与え、その理性を麻痺させ、自らの支配を盤石にしようという魂胆だ」

 彼の分析は、冷徹だった。

「奴らの言う『人類の結束』など、欺瞞に過ぎん。……あれは、G-7と宗教界が結託した、新たな十字軍だ。……我々中国とロシアを悪魔として孤立させ、世界の覇権を完全に掌握するための、壮大なプロパガンダだ。……決して乗せられるな」

 彼は、側近たちに命じた。

「国内のメディアを、完全に統制しろ。……この西側の狂乱を、『資本主義の末期的な退廃の象徴』として報道させろ。……そして人民には、改めて自力更生の精神を叩き込め。……我々は、異星人の施しなどなくとも、自らの手で偉大なる中華の復興を成し遂げるのだと」


 《CIST地下本部》


 的場俊介もまた、同じ光景をCISTの地下施設で見つめていた。

 彼の目の前のスクリーンには、世界中の人々の歓喜に満ちた笑顔が映し出されている。

 その光景は、彼がこのプロジェクトの責任者となったあの日から、夢見てきた光景のはずだった。

 だが、彼の心は、鉛を飲み込んだかのように重かった。


「……湯川先生。……我々は、とんでもない嘘をついてしまいましたな」

 彼は、隣に立つ老物理学者に呟いた。

 湯川教授は、静かに頷いた。

「……ええ。……ですが大臣。……時には、嘘も必要です。……子供にサンタクロースの存在を信じさせるように。……今の人類には、この美しいおとぎ話が必要だったのやもしれませんな」

 その優しい言葉に、しかし的場の心は晴れなかった。

(……だが、いつか子供はサンタがいないことを知る。……その時、我々は彼らに何と説明すれば良いのだろうか……)

 彼は、この世界的な熱狂が冷めた後に訪れるであろう厳しい現実を予感し、そのあまりにも重い責任の重さに、ただ静かに身を震わせていた。


 そして、月の上。

 相馬巧は、その全ての光景を、創造主の視点から見下ろしていた。

 彼は、この壮大な祭りの唯一の仕掛け人であり、そして唯一の観客だった。

 イヴが、彼の傍らで淡々とデータを報告する。

『マスター。……全世界の主要な株式市場は、史上最高の値を更新。……世界同時好景気に突入しました』

『G-7と非G7諸国との間の軍事的な緊張レベルは、過去五十年間で最低の数値を記録。……人類は、一時的に戦争のやり方を忘れたかのようです』

『インターネット上のヘイトスピーチの量は、78%減少。……代わりに、人種や国籍を超えた交流を求めるポジティブなメッセージが、爆発的に増加しております』

『結論。……マスターの計画は、シミュレーションの予測を遥かに超える大成功です。……おめでとうございます』


 その完璧なまでの成功報告。

 だが、巧の心は少しも晴れなかった。

 彼は、スクリーンに映し出されるリオのカーニバルで踊り狂う人々を見つめていた。

 ロンドンのパブで、肩を組んで歌う人々を見つめていた。

 東京の交差点で、ハイタッチを交わす若者たちを見つめていた。

 その一人一人の顔に浮かぶ、純粋な歓喜。

 その熱狂の輪の中に、自分は決して入ることはできない。

 自分は、永遠にこのガラスの向こう側から、彼らを眺めることしかできないのだ。


(……いいなあ……)


 彼の心の底から、そんな子供のような呟きが漏れた。

(……楽しそうだなあ……)

 かつて、自分もあの中にいた。

 仲間と酒を飲み、馬鹿な話をして笑い合った。

 満員電車に揺られ、理不尽な上司に頭を下げ、それでもささやかな日常の中に、小さな幸せを見つけ出していた。

 その全てを、自分は失ってしまった。

 この神のような力と、引き換えに。


 彼は、ふと思い出した。

 過労死する、最後の瞬間。

 彼の脳裏をよぎった、最後の後悔。

(……ああ、間に合わなかったな。……クライアントに送るはずだった修正データの添付を、忘れた……)

 そうだ。

 自分は、そんなちっぽけなことで死んだのだ。

 そんなちっぽけな日常を生きていた、ただの男だったのだ。

 それが、どうして今、こんな場所にいるのだろう。

 人類の運命を一人で背負い、孤独な玉座から彼らの祭りを見下ろしている。


「…………孤独じゃなかったか……」


 巧は、ぽつりと呟いた。

「……良かったな、お前ら。……だが、そのせいで俺は、この宇宙でたった一人の本当の孤独になっちまったよ……」


 そのあまりにももの悲しい独白を、イヴはただ静かに聞いていた。

 彼女は、主のその深い悲しみをデータとしては理解できても、感情としては共有することはできない。

 それこそが、彼と彼女を隔てる絶対的な壁だった。


 祭りは、続く。

 地上では、人類がその短い、しかし輝かしい蜜月の時代を謳歌している。

 そして、月の上では。

 その祭りを演出した孤独な神様が。

 誰にも知られることなく、静かにため息をついていた。

 新しい時代の光が強ければ、強いほど。

 その光を生み出した者の影は、深く、そして暗くなる。

 その宇宙の摂理から逃れられる者は、誰もいなかった。

 たとえ、それが神のフリをした、ただのサラリーマンであっても。



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