第32話 神々の不在証明と、人類の黎明
アメリカ合衆国ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
そのイーストルームは、本来、国家の賓客を招いた華やかな晩餐会や、大統領による重要な法案への署名式が行われる、栄光と権威の象徴の空間だ。だが、今日、この部屋を埋め尽くしているのは、祝祭の熱気ではなかった。世界中のあらゆるメディアから選抜された、数百人の記者たち。彼らが発する無数のカメラのフラッシュと、抑えきれない緊張感が、まるで真夏の積乱雲のように凝縮し、部屋の空気を、爆発寸前の臨界点まで押し上げていた。
壇上には、ただ一つの演台だけが、ぽつんと置かれている。
その後ろには、G7と、そして世界の主要な宗教を象徴する、十数個の紋章が荘厳に並べられていた。星条旗とユニオンジャックの隣に、バチカンの交差した鍵の紋章が。日章旗と、トリコロールと、三色旗の隣に、イスラムの三日月の紋章が。そして、ダライ・ラマ法王の法輪の紋章が。
そのあまりにも奇妙で、あまりにもありえない光景。
それだけで、この会見が尋常でないことを、雄弁に物語っていた。
世界中の何十億という人々が、テレビやスマートフォンの画面の向こう側で、固唾を飲んで見守っている。
人類史上、最も多くの人々が同時に目撃する歴史の転換点。
その秒針が、刻一刻と近づいていた。
やがて、予定時刻。
部屋の後方の、重い扉がゆっくりと開かれた。
最初に姿を現したのは、この会見の主催者、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソンだった。
だが、彼は一人ではなかった。
彼の右には、日本の郷田総理が。左には、ドイツのシュミット首相が。そして、その後ろに、フランスのデュボワ大統領、イギリス、カナダ、イタリアの首相たちが、まるで一枚岩の城壁のように、肩を並べて続いていた。
G7の指導者たち。
だが、それだけでは終わらなかった。
彼らの、さらに後ろから。
白の僧衣を纏った、ローマ教皇が。
ターバンを巻いた、大イマームが。
黒い帽子を被った、首席ラビが。
そして、えび茶色の袈裟を身につけた、ダライ・ラマ法王が。
次々と、その荘厳な姿を現した。
政治の王たちと、信仰の王たち。
この小さな惑星の上で、人類の歴史を動かしてきた全ての権力が、今、この場所に集結していた。
そのあまりにも、非現実的な光景。
記者席から上がったのは、もはやどよめきではなかった。
それは、声にならない息を飲む音の集合体だった。
世界が、息を止めた。
トンプソンを先頭に、その歴史上のいかなる王の行列よりも荘厳な一団は、ゆっくりと壇上へと進み、そして横一列に並んだ。
その姿は、まるでこれから始まる未知の航海に、共に臨む巨大な船の乗組員のようだった。
トンプソンが、ゆっくりと演台の前に進み出た。
彼の顔には、いつもの自信に満ちた政治家の笑みはなかった。
あるのは、これから自らが口にする言葉の、あまりにも巨大な重みに押し潰されそうになっている、一人の人間の苦悩と、そして覚悟の表情だけだった。
彼はマイクの前に立つと、まず全世界の視聴者にではなく、自らの背後に立つ聖者たちに、向き直った。
そして、深々と、そして長く頭を下げた。
その予想外の行動。
記者たちが、一斉にざわめいた。
「――まず、始めに」
トンプソンは、ゆっくりと顔を上げた。
そして、その潤んだ瞳で、教皇を、大イマームを、そして全ての宗教指導者たちを見つめた。
「……本日、この歴史的な場所にお集まりいただいた、世界の信仰の指導者の皆様に。……G7を代表し、そして全世界の政治指導者を代表し、心からの、深い、深い感謝を捧げます」
そのあまりにも真摯な、そして謙虚な言葉。
それは、この会見の空気を決定づけた。
「我々政治家は、この数ヶ月、深い闇の中を彷徨っておりました。……我々の知恵だけでは、到底乗り越えることのできない巨大な壁の前で、ただ立ち尽くしておりました。……我々が、今日この場所に立つ覚悟を決めることができたのは。……ひとえに、皆様方が、その深い信仰と慈悲の心をもって、我々迷える子羊の手を取り、進むべき道を照らし出してくださった、その賜物です。……あなた方のその勇気がなければ、我々は、今もなお真実の前で怯え、沈黙を続けるしかなかったでしょう。……本当に、ありがとうございました」
その前代未聞の、政治から宗教への全面的な感謝の表明。
それは、これから語られる言葉が、単なる政治的な発表ではないことを、世界に無言のうちに告げていた。
トンプソンは、ゆっくりと正面を向き直った。
その視線の先には、無数のカメラのレンズ。そして、そのレンズの向こう側にいる、七十億の人類。
彼は、一度目を閉じた。
そして、大きく息を吸い込んだ。
「――我が親愛なる、世界の市民の皆さん。……地球という一つの家に住む、全ての兄弟姉妹たちよ」
彼の声が、震えた。
「……今、この映像を見ている全ての人々に、伝えなければならないことがあります。……それは、我々人類の歴史観、世界観、そして我々自身の存在の意味そのものを、永遠に変えてしまう、一つの揺るぎない真実です」
そのあまりにも、荘厳な前置き。
ニューヨークのタイムズスクエアで。
東京の渋谷のスクランブル交差点で。
ロンドンの、トラファルガー広場で。
世界中の人々が足を止め、街頭の巨大なスクリーンを見上げた。
家々のリビングで、家族が肩を寄せ合った。
世界が、一つの巨大な耳となって、彼の次の一言を待っていた。
トンプソンは、ゆっくりと、その究極の言葉を紡ぎ出した。
「――我々人類は。……この広い宇宙で……孤独な存在では、ありませんでした」
その一言が、世界に放たれた瞬間。
時が、止まった。
タイムズスクエアの喧騒が、消えた。
渋谷の雑踏が、沈黙した。
世界中の全ての音が、まるで掃除機に吸い込まれたかのように、消え失せた。
人々は、ただ、呆然と、その言葉の意味を理解しようとしていた。
孤独では、なかった?
それは、何を意味する?
「――そうです」
トンプソンは、断言した。
その声は、もはや震えてはいなかった。
あるのは、歴史の真実を告げる、証人としての揺るぎない覚悟だけだった。
「本日、この瞬間をもって。……我々G7、及び世界の主要な宗教組織は、ここに共同で……地球外知的生命体の存在を、公式に認めます」
その言葉が、引き金だった。
止まっていた世界の時間が、再び動き出す。
だが、それは、もはや昨日までの世界ではなかった。
記者席から上がったのは、もはやどよめきではない。絶叫だった。
タイムズスクエアの群衆が、一斉に天を仰いだ。
渋谷の若者たちが、スマートフォンの画面を食い入るように見つめ、そして隣の見知らぬ誰かと、顔を見合わせた。
『……マジ?』
そのたった一言が、全世界の人々の心の声を、代弁していた。
トンプソンは、その世界が発する巨大な衝撃波を全身に浴びながら、さらに核心へと踏み込んでいく。
「……そして、その我々の隣人たちは。……我々地球文明に対して非常に友好的であり、我々の平和的な発展を助けるために、様々な技術付与を申し出てくれています。……皆様がご存知の、我が日本の友人たちが成し遂げた、あの奇跡の『空間拡張技術』も、また。……彼ら介入者と名乗る、その気高き隣人から授けられた、技術の一つなのです」
嘘では、なかった。
あれは、本物だったのだ。
その事実が、人々の脳髄に焼き付けられる。
トンプソンは、そこで一度言葉を切った。
そして、その腕を、まるで全世界の人々を抱きしめるかのように、大きく広げた。
その顔には、もはや苦悩の色はなかった。
あるのは、新しい時代の扉を開いた、指導者の輝かしい希望の表情だけだった。
「――今日、この日をもって宣言いたします!」
彼の声が、世界中に響き渡った。
「我々地球は、もはや孤独な存在ではありません! この宇宙には、星の数ほどの文明があり、我々がまだ知らぬ多くの隣人たちが、存在しています! そして、彼らは、我々地球文明に、深い興味と好意を持ってくれているのです!」
彼は、カメラの向こうの七十億の同胞たちに、語りかけた。
「恐れることはありません! むしろ、喜びましょう! 我々の世界は、今日この瞬間、何倍も、何十倍も、広く、豊かになったのですから! ……我々は、これから彼ら星々の隣人たちと手を取り合い、共に学び、共に成長していく、新しい時代へと足を踏み入れるのです!」
そのあまりにも力強く、そして希望に満ちた演説。
それが終わった瞬間。
壇上のローマ教皇が、一歩前に進み出た。
そして、トンプソンの隣に立つと、その手を固く握りしめた。
「……主の御業は、我々の想像を遥かに超えて偉大でした。……これは試練ではなく、祝福です。……恐れることなく、顔を上げなさい。……そして、新たなる隣人を愛しなさい。……アーメン」
その静かな、しかし絶対的な肯定の言葉。
それに続くように。
大イマームが、首席ラビが、ダライ・ラマが。
次々と、一歩前に進み出た。
そして、G7の指導者たちと、固く、固くその手を握り合った。
政治と宗教が。
科学と信仰が。
東と西が。
その全ての垣根を越えて一つになった、その光景。
それは、人類の歴史上、最も美しく、そして最も感動的な瞬間だった。
フラッシュが、嵐のように焚かれる。
記者席から、嗚咽が漏れた。
タイムズスクエアの群衆が、抱き合った。
渋谷の交差点で、見知らぬ者同士がハイタッチを交わした。
世界が、一つになった。
少なくとも、その瞬間だけは。
《CIST地下本部》
「…………始まった……」
的場俊介は、その歴史的な光景を、CISTの巨大なスクリーンで見つめながら呟いた。
彼の隣では、湯川教授が、その老いた顔をぐしゃぐしゃにしながら、静かに涙を流していた。
「……我々は、とんでもない時代の扉を開けてしまいましたな……」
「ええ……。ですが、先生。……もう後戻りはできません」
「……分かっておりますよ。……進むしかないの、ですな。……この新しい海へと」
《月面観測ステーション》
「…………結果オーライ、か」
相馬巧は、その全世界が感動と興奮に包まれる様を、静かに見つめながら、独りごちた。
自分の仕掛けた壮大な情報操作が、結果として、人類にかつてない一体感をもたらしている。
その皮肉な事実に、彼は乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
『シミュレーションでは、世界各地で小規模なパニックが発生する確率は34.8%と予測されていました。……ですが、宗教指導者たちの参加により、その確率は2.3%まで低下。……マスター。……これは、大成功ですわ』
イヴの、冷静な分析。
「……ああ、そうだな。……大成功なんだろうよ。……今のところは」
巧は、そう呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
そして、窓の向こうの青い星を見つめた。
人々は、今、希望に満ち溢れている。
だが、彼らはまだ知らない。この美しいおとぎ話の裏側で蠢く、神々の打算と、そして銀河の冷徹な現実を。
そして、その全ての脚本を書いたのが、月の上にいる、たった一人の孤独な社畜であることを。
人類の、黎明。
その輝かしい光の下で。
最も深く、そして最も暗い影を背負いながら。
相馬巧の本当の戦いは、今、まさにその幕を上げたのだった。