第31話 賢人たちの布告と、世界の息吹
ペンタゴンでのあの歴史的な、そして悪魔的な密議が終わってから、丸二日が経過した。
世界は、まだ何も知らなかった。
自分たちの文明の根幹を、その常識の地平を、永遠に書き換えてしまうほどの巨大な嵐が、水平線の向こうで、静かに、しかし確実にその勢力を増していることなど、夢にも思わずに。
人々は、いつもと同じ朝を迎え、いつもと同じコーヒーを飲み、いつもと同じ満員電車に揺られ、いつもと同じ日常を生きていた。
だが、そのあまりにも穏やかで、あまりにもありふれた日常の水面下では。
七人の政治の王たちと、十数人の信仰の王たちが、水面下の白鳥のように、必死でその足を動かしていた。
人類史上最も巨大で、最も危険な記者会見の準備のために。
そして、運命の三日目の朝。
世界は、かつて誰も経験したことのない、奇妙で、そして不可解な出来事に包まれた。
その最初の一石が投じられたのは、世界のカトリック教徒たちの魂の故郷。
バチカン市国だった。
【バチカン・サンピエトロ広場】
その日、サンピエトロ広場は、何の前触れもなく、世界中から集まった数十万の信者と観光客で、埋め尽くされていた。
前日の深夜。
バチカン広報局から、全世界のカトリック教会に向けて、一本の極めて異例のメッセージが発信されたのだ。
『――明日正午。教皇聖下によります、緊急の『ウルビ・エト・オルビ』が執り行われます』
ウルビ・エト・オルビ。
「ローマと全世界へ」を意味するこの教皇の特別な祝福は、通常、クリスマスとイースターの年に二回しか行われない、極めて神聖な儀式。
それが、何の特別な祝祭日でもない、この平穏な一日に、突如として行われる。
その異常事態に、世界中のカトリック教徒たちがどよめいた。
何か、よほど重大なことが起きようとしている。
その漠然とした、しかし確信に満ちた予感だけが、人々をこの聖なる広場へと引き寄せたのだ。
そして正午。
サン・ピエトロ大聖堂の中央のバルコニーに、ローマ教皇が、その白の僧衣を纏った荘厳な姿を現した。
広場を埋め尽くした数十万の群衆から、嵐のような歓声が巻き起こる。
だが、教皇は、いつものように穏やかな笑みを浮かべてはいなかった。
その深い皺の刻まれた顔には、これから自らが語るべき言葉の、あまりにも巨大な重みに耐えるかのような、悲壮なまでの覚悟の色が浮かんでいた。
彼は、ゆっくりとその手を上げた。
広場の喧騒が、嘘のように静まり返る。
そして、彼の静かな、しかし広場の隅々まで染み渡るような声が、響き渡った。
「――我が愛する、全世界の兄弟姉妹たちよ」
「……本日、私がこの場所に立ったのは。……皆様に、一つのお願いと、そして一つの約束をするために、他なりません」
その、謎めいた前置き。
群衆は、固唾を飲んで次の一言を待った。
「……今から七十二時間後。……日本時間の午後九時。……アメリカ、ワシントンD.C.より、全世界に向けて、G7の指導者たちによる、緊急の共同記者会見が行われます」
G7? 政治の話か?
群衆の間に、わずかな戸惑いが広がった。
だが、教皇の次の一言が、その戸惑いを驚愕へと変えた。
「――そして、その歴史的な会見の場に。……この私、ローマ教皇も、そしてイスラム教、ユダヤ教、仏教、世界の全ての主要な宗教の指導者たちと共に参加し、G7の指導者たちと肩を並べて立つことを、ここに宣言いたします」
そのあまりにも、信じがたい告白。
広場は、水を打ったように静まり返った。
G7とバチカンが?
政治と宗教が?
キリスト教と、イスラム教と、ユダヤ教が?
共に、同じ舞台に?
そんな、歴史上一度もありえなかった光景。
それは、何を意味するのか。
「……皆様に、お願いがあります」
教皇は続けた。
「……どうか、七十二時間後、その会見を必ず見てください。……仕事や家事の手を止め、家族と、友人と、あるいは一人で、静かにその歴史の証人となってください。……なぜなら、その日語られることは、あなた方一人一人の人生と、そして我々人類という家族の未来そのものを、永遠に変えることになるからです」
そのあまりにも、重い言葉。
広場は、もはや沈黙すら失い、ただ呆然と、その言葉の意味を理解しようとしていた。
「……そして、約束します」
教皇は、その慈愛に満ちた瞳で、広場の人々を見渡した。
「……その日、あなた方は、おそらく大きな衝撃を受けるでしょう。……混乱し、戸惑い、あるいは恐怖を感じるかもしれません。……ですが、決して恐れることはありません。……なぜなら」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、その腕を天に向かって高く突き上げた。
「――その日こそが! 我々人類が! 全ての国家、民族、そして信仰の違いを乗り越え! ……真に一つの家族となる、記念すべき第一歩の日となるのですから!」
その力強い、そしてどこか悲壮なまでの希望の宣言。
それは、バチカンから発信された一つの小さな波紋として、瞬く間に全世界へと広がっていった。
【世界の反応 I:熱狂と憶測の奔流】
教皇の、あの謎に満ちた演説から数時間後。
世界は、かつて経験したことのない情報と憶測の津波に、飲み込まれた。
カイロのアズハル・モスクから、大イマームが。
エルサレムの嘆きの壁から、首席ラビが。
そして、ダラムサラの僧院から、ダライ・ラマ法王が。
まるで示し合わせたかのように、次々と、同じ内容のメッセージを発信し始めたのだ。
『――七十二時間後、G7との共同記者会見に臨む』
『――全人類の信者に告ぐ。必ずその歴史の瞬間を見届けよ』
『――その日、我々は一つになる』
政治と宗教。
西と東。
数千年間、互いに対立し、時には殺し合ってきた者たちが。
今、一つの声で、同じメッセージを世界に向かって叫んでいる。
そのあまりにも異常で、そしてあまりにも劇的な光景。
世界中のメディアが、狂乱した。
《ニューヨーク・CNN本社 ニューススタジオ》
「――信じられません! G7と世界の全宗教が、共同で記者会見!? いったい、何が起きているというのでしょうか!? ホワイトハウスは、完全に沈黙を守っています! ジョン、何か情報は!?」
看板女性アンカーのジュディ・スミスが、興奮で声を上ずらせながら、ワシントンの特派員に問いかける。
『――ジュディ、こちらホワイトハウス前! 何も分かりません! 文字通り、五里霧中です! ただ一つだけ言えるのは、これは我々がこれまで報道してきた、いかなるニュースとも次元が違うということです! これは、戦争でも、テロでも、経済危機でもない! もっと根源的な何か……我々人類の存在そのものに関わる何かが、起きようとしている! その予感だけが、このワシントンの空気を支配しています!』
スタジオに、画面が戻る。
コメンテーターとして招かれていた国際政治学の権威、デヴィッド・アイゼンバーグ教授が、腕を組み、難しい顔で唸っている。
「……考えられる可能性は、いくつかある。……一つは、最悪のシナリオ。……地球の存亡に関わる、何らかの巨大な脅威が迫っているという可能性だ。……例えば、制御不能の小惑星の衝突コースが確認されたとか。……あるいは、人類を滅ぼしかねない、未知のウイルスが発見されたとか。……そうでもなければ、これほど全世界が一致団結する理由が、説明できない」
その終末論的な予測に、スタジオが凍りついた。
「……もう一つは」と、アイゼンバーグは続けた。
「……もっと希望に満ちた可能性だ。……だが、こちらは、あまりにも荒唐無稽に聞こえるかもしれんがね。……例えば、そうだな。……人類が、ついに『不老不死』の技術を手に入れたとか」
そのSFのような言葉に、アンカーが思わず笑いかけた。
だが、アイゼンバーグの顔は真剣そのものだった。
「……笑い事ではない。……日本の、あの空間拡張技術。……あれ以来、我々の常識は、もはや何の役にも立たないのだよ。……科学が、神の領域に踏み込んだのだとしたら? ……その時、その是非を問うために、政治家たちが宗教家たちの助けを求める。……その構図は、ありえなくはないだろう?」
そして彼は、最後にぽつりと呟いた。
「……あるいは、そのどちらでもなく。……我々の貧弱な想像力を、遥かに超えた何かが……」
憶測が、憶測を呼ぶ。
世界中のニュース番組が、二十四時間、この話題だけで埋め尽くされた。
インターネットのSNSは、お祭り騒ぎだった。
『#人類結束の日』
『#72時間後に何が起きる』
『#神々の記者会見』
といったハッシュタグが、瞬く間に世界のトレンドを独占した。
人々は、恐怖と、期待と、そして野次馬的な好奇心に胸を躍らせ、その運命の瞬間を待ちわびていた。
《北京・中南海》
その世界の熱狂を、冷え切った氷のような目で、見つめている者たちがいた。
中国共産党の最高指導部は、この西側世界の奇妙な茶番劇を、最大限の警戒心をもって分析していた。
「……馬鹿馬鹿しい」
国家主席は、吐き捨てるように言った。
「……G7と宗教? ……水と油が混ざり合ったとでも、言うのか。……ありえん。……これは、我々を欺くための、壮大な心理戦だ」
彼の前に立つ国家安全部のトップが、頷いた。
「はっ。……我々の分析でも、同様の結論に至っております。……おそらくは、G7、特に日本とアメリカが、何か我々の理解を超えた新型の戦略兵器を完成させた。……そして、その配備を正当化するために、宗教という権威を利用し、世界的な合意形成を図ろうとしている。……そう考えるのが、最も合理的かと」
「……だろうな」
主席は、頷いた。
「……奴らの言う『人類の結束』とは、すなわち、『我々中国とロシアを排除した結束』のことだ。……断じて、許すわけにはいかん。……諜報機関を、総動員しろ。……奴らが何を隠しているのか、その尻尾を必ず掴み出せ。……そして、軍は最高レベルの警戒態勢を維持しろ。……奴らが化けの皮を剥がしたその瞬間に、即座に対応できるようにな」
《CIST地下本部 & 月面観測ステーション》
その世界中の喧騒と憶測を。
二つの場所から、静かに見守っている者たちがいた。
富士の樹海の、地下深く。
的場俊介は、巨大なスクリーンに映し出される世界中の熱狂を、胃の痛む思いで見つめていた。
(……始まった……。……もう、後戻りはできない……)
自分たちが仕掛けた、この人類史上最大の情報操作。
そのあまりにも巨大なうねりを前に、彼は自らの無力さを痛感していた。
自分は、本当にこの奔流を、正しい方向へと導くことができるのだろうか。
そして、月の上。
相馬巧もまた、同じ光景を眺めていた。
彼の顔には、もはやいつもの苦悩や恐怖の色はなかった。
あるのは、巨大なプロジェクトのローンチを見守る、プロジェクトマネージャーの冷徹な表情だけだった。
『――計画通りですわね、マスター』
イヴの静かな声が、響いた。
『全世界の注目度は、予測値を120%も上回る数値を記録しております。……完璧な舞台設定です』
「……ああ」
巧は、短く応えた。
「……だが、問題は幕が上がった後だ。……観客が、この前代未聞の芝居を、拍手喝采で迎えてくれるか。……それとも、怒号と罵声で舞台に石を投げてくるか。……そればっかりは、お前のシミュレーションでも分からんだろう?」
『はい。……人間の集団心理のカオス的遷移は、予測不能の領域です。……ですが、マスター』
イヴは、静かに続けた。
『どのような結果になろうとも。……私は、あなたの傍に』
「……分かってるさ」
巧は、イヴの言葉を遮った。
そして、彼はゆっくりと立ち上がった。
そして、コントロールルームの窓の向こうに浮かぶ、青い故郷の星をまっすぐに見据えた。
「――さてと。……そろそろ時間だな」
彼は、まるでこれから最も重要なプレゼンに臨むサラリーマンのように、一度だけ、擬体の首のネクタイを締めるような仕草をした。
「……行くか、イヴ。……俺たちの本当の仕事が始まる」
その静かな号令と共に。
地球では、運命の瞬間が刻一刻と近づいていた。
ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワ、北京、東京。
全世界の人々が、息を止める。
テレビの画面に映し出されたカウントダウンの時計が、ゼロを指し示す。
そして、ワシントンD.C.のホワイトハウスの会見場の、重い扉がゆっくりと開かれた。
そこに現れたのは。
七人の政治の王たちと、十数人の信仰の王たち。
人類の歴史上、ありえなかった光景。
全世界が、その異様な、しかし荘厳な一団に、釘付けになった。
何が起きるんです?
その全世界の無言の問いに答えるために。
アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソンが、ゆっくりと一歩前に進み出た。
彼の背後には、人類全ての希望と絶望が、渦巻いていた。
世界の息吹が、止まった。
人類の、長い長い夜が、明けようとしていた。