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第30話 聖者たちの帰還と、人類(チーム)の誕生

 スイスアルプスの「沈黙の山」での、三日三晩に及ぶ合議を終えた聖者たちが、再びペンタゴンの地下要塞「タンク」へと帰還した時、その部屋の空気は、彼らが去る前とはまるで別物になっていた。以前のそれは、政治家たちの焦燥と打算、そして聖者たちの苦悩と絶望が入り混じった、混沌のるつぼだった。だが、今の「タンク」を支配していたのは、判決を待つ被告人のような、あるいは神託を待つ古代の王のような、張り詰めた、しかしどこか神聖ですらある静寂だった。


 G7の指導者たちは、この三日間、ほとんど眠らずにここで待ち続けていた。彼らは、世界で最も権力を持つ七人の男たちでありながら、今や自分たちの手に余る運命の舵を、その魂の行方を、宗教という、自分たちがこれまでどこかで見下してきた古ぼけた権威の判断に、委ねるしかなくなっていたのだ。その屈辱と焦燥が、彼らの顔に深い疲労の色を刻みつけていた。


 円卓を挟んで、再び政治の王たちと信仰の王たちが対峙する。

 だが、聖者たちの顔には、もはやペンタゴンを去る前の、あの魂を引き裂かれるかのような苦悩の色はなかった。その顔に浮かんでいたのは、嵐の海を渡り終え、自らの進むべき航路を見出した船乗りのような、静かで揺るぎない覚悟の表情だった。


 アメリカ大統領ジェームズ・トンプソンが、その乾ききった唇をかろうじて開いた。

「……皆様。……お戻りを、お待ちしておりました。……我々は、あなた方の答えを聞く準備ができております」

 その声は、世界の覇者のものではなかった。ただ、運命の宣告を待つ、一人のか弱い人間の声だった。


 そのあまりにも真摯な問いに。

 世界の宗教指導者を代表して。

 ローマ教皇が、ゆっくりとその席を立った。

 彼の白の僧衣が、この鋼鉄の無機質な部屋の中で、唯一の清らかな光のように見えた。


「……ミスター・プレジデント。……そして、G7の指導者の皆様」

 教皇の静かな、しかし心の芯まで染み渡るような声が、響き渡った。

「……我々は、あなた方から託されたあまりにも重い問いの答えを見つけ出すために。……この三日間、それぞれの神に祈り、それぞれの経典に問い、そして何よりも、我々自身の魂と対話を続けてまいりました」

 彼は、一度目を閉じた。

 そして、その三日間の壮絶な精神の旅路を、語り始めた。

「……我々の合議は、困難を極めました。……ある者は、『これは神が我々の信仰を試すための最後の試練だ』と語りました。……ある者は、『これは我々がより大きな愛を知るための新たな福音だ』と語りました。……そしてある者は、『これは人類を滅ぼすために悪魔が仕掛けた巧妙な罠だ』と、そう嘆きました」

 彼の言葉は、この場にいない聖者たちの、生々しい苦悩と葛藤をありありと浮かび上がらせた。

「……我々は罵り合い、涙を流し、そして互いの無力さを認め合いました。……数千年の長きに渡り、我々がそれぞれに築き上げてきた、信仰という名の壁が、いかに脆く、そしていかに狭いものであったかを、嫌というほど思い知らされたのです」


 そのあまりにも、率直な告白。

 G7の指導者たちは、ただ息を飲んで、その言葉を聞き入るしかなかった。


「……ですが」

 教皇は、ゆっくりとその目を開いた。

 その深い皺の刻まれた瞳の奥には、もはや迷いはなかった。

 あるのは、一つの結論にたどり着いた者の、揺るぎない光だけだった。


「……ですが、我々は、その混沌の果てに、たった一つの共通の結論にたどり着きました。……それは、我々の教義がどうであるか、という問題ではありません。……我々の神が、本物か偽物か、という問題でもありません。……我々が至った結論。……それは」


 彼は、そこで一度言葉を切った。

 そして、この部屋にいる全ての人間、いや、カメラの向こう、月の上からこの光景を見つめているであろう神の代理人に語りかけるかのように、静かに、しかし力強く宣言した。


「――我々は、もはや逃げることはできない。……そして、逃げるべきではない、ということです」


 そのあまりにも、気高い覚悟の言葉。

 トンプソンの乾ききった唇が、微かに震えた。


「我々は、決めました。……介入者様のその存在を世界に公表するという、あなた方G7のその苦渋の決断を。……我々、世界の宗教界は、これを支持いたします」


 支持いたします。

 その一言が、G7の指導者たちの張り詰めていた精神の糸を、わずかに緩ませた。

 安堵のため息が、あちこちから漏れた。

 だが、教皇の言葉はまだ終わってはいなかった。


「――ただし。……一つだけ、絶対の条件があります」


 その静かな、しかし有無を言わさぬ響きを持った言葉。

 G7の指導者たちの顔が、再び緊張に引き締まった。

 条件?

 一体、何を要求してくるというのだ。

 この、絶妙なタイミングで。


「……我々は、あなた方が一方的にその真実を世界に発表することを、断じて認めません」

 教皇は、断言した。

「……もし、あなた方政治家だけが壇上に立ち、『我々は宇宙人と接触した』と、そう宣言したならば、世界はどうなるか。……人々は、それを『政治的なプロパガンダだ』と疑うでしょう。……あるいは、『科学が宗教に勝利した』のだとそう解釈し、我々信仰の世界は、ただ時代遅れの敗北者として、歴史の片隅に追いやられることになる。……そうなれば、我々はもはや人々の魂を導く力を失ってしまう。……それは、結果として、あなた方が最も恐れている世界の大混乱を招く、引き金となるでしょう」


 そのあまりにも的確な、政治的分析。

 G7の指導者たちは、ぐうの音も出なかった。

 そうだ。

 その通りだ。

 我々は、その最も重要な点に、気づいていなかった。


「……ですので、我々は提案いたします」

 教皇は、その最終的な、そして唯一の要求を突きつけた。

「……その歴史的な発表の場には。……我々、この場にいる世界の宗教指導者全員が参加し、あなた方G7の指導者たちと共に、肩を並べて壇上に立たせていただきたい」


 そのあまりにも予想外の、そしてあまりにも大胆な提案。

 部屋は、再び絶対的な静寂に包まれた。

 G7の指導者たちは、呆然とその言葉の意味を理解しようとしていた。

 宗教指導者たちが、共に壇上に?

 政治の王たちと、信仰の王たちが、同じ舞台に?

 そんな、歴史上一度もありえなかった光景。


「……我々は、世界に示さねばなりません」

 教皇は続けた。

「……この出来事が、単なる政治的な事件でも、科学的な発見でもないということを。……これは、我々人類という一つの家族が、初めて直面する共通の試練なのだと。……政治も、宗教も、科学も、その全ての垣根を越えて、今、一つにならねばならないのだと。……その歴史的な一致団結の姿を世界に見せることこそが、人々の心に広がるであろう恐怖と混乱を鎮める、唯一の方法だと、我々は信じます」


 そのあまりにも気高く、そしてあまりにも戦略的な提案。

 それは、もはや単なる要求ではなかった。

 それは、この人類の危機を乗り越えるための、唯一の、そして完璧な処方箋だった。

 トンプソンは、しばらく呆然と教皇の、その深い慈愛に満ちた瞳を見つめていた。

 そして、やがて彼の脳裏に、郷田がこの部屋で語ったあの言葉が蘇った。

『――仲間、もとい……我々と一緒に地獄に落ちてもらうのだ!』

 そうだ。

 この聖者たちは、ただ地獄に引きずり込まれるだけの、哀れな犠牲者ではなかった。

 彼らは、その地獄の釜の中で、我々と共に手を取り合い、そして共に天を目指そうと、そう言っているのだ。


「…………ははっ……」


 トンプソンの口から、乾いた笑いが漏れた。

 だが、それはもはや皮肉や諦観の笑いではなかった。

 それは、自分たちのちっぽけな計算や打算を遥かに超えた、気高い魂の在り方に触れた、人間の純粋な感嘆と、そして畏敬の念から生まれた笑いだった。


「…………分かりました。……教皇猊下」


 彼は、椅子から立ち上がった。

 そして、その場にいる全てのG7の指導者たちを代表して、深々と、そして心からの敬意を込めて、頭を下げた。


「……ぜひ、お願いしたい」


 その、たった一言。

 だが、その一言には、全てが込められていた。


「……あなた方の、そのあまりにも気高いご提案。……我々G7は、謹んで、そして感謝と共にお受けいたします。……いや、むしろこちらからお願いしたいくらいです。……我々政治家だけでは、あまりにも心許ない。……どうか、我々と共に立ってください。……そして、この人類の新たな船出を、共に世界に宣言しようではありませんか」


 その、歴史的な合意の瞬間。

 部屋の空気が、震えた。

 それは、もはや政治的な緊張ではなかった。

 それは、人類が初めて真の意味で一つの意志を持った瞬間の、産声のようだった。


 フランスのデュボワが、ドイツのシュミTットが、イギリスの首相が。

 次々と立ち上がり、そしてその顔には、もはや国家の指導者としての仮面はなかった。

 あるのは、ただこの壮大な物語の一員となれたことへの純粋な感動と、そしてこれから始まる未知の未来への、震えるような期待だけだった。

 日本の郷田は、その光景を静かに、しかしその老獪な目の奥に、熱いものを感じながら見つめていた。

(……これが……。これが、人類か……)

 彼が仕掛けた悪魔的な謀略は、結果として、彼自身も想像しえなかった、奇跡的な化学反応を生み出したのだ。


「――では、決まりですな」

 教皇が、静かに言った。

「……我々は、共に参ります」


 その言葉を合図に。

 大イマームが、首席ラビが、ダライ・ラマが。

 次々と立ち上がり、そして円卓を越えて、G7の指導者たちの方へと歩み寄った。

 そして、彼らは自然に手を取り合った。

 教皇が、トンプソンの手を。

 大イマームが、デュボワの手を。

 ダライ・ラマが、郷田の手を。

 肌の色も、信じる神も、話す言葉も違う者たちが。

 今、この鋼鉄の密室で、固く、固く結ばれた。

 それは、もはやG7でも、宗教界でもない。

 それは、人類という名の一つのチームが、産声を上げた瞬間だった。


 歴史的な、一致団結が起きようとしていた。

 いや、既に起きたのだ。

 彼らは、これから共に世界に語りかける。

 我々は、もはや孤独ではないと。

 そして、我々は、もはやバラバラではないと。

 その発表の舞台は、整った。

 残るは、その舞台の上で、主役たちがどのような言葉を紡ぐのか。そして、その言葉を受け取った世界が、どのような反応を示すのか。

 人類の運命を乗せた船は、今、静かに港を離れようとしていた。

 その先に待っているのが、新大陸なのか、それとも巨大な嵐なのか。

 その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。

 だが、彼らの心には、もはや孤独な恐怖はなかった。

 共にこの舟を漕ぐ、仲間がいるのだから。



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