第3話 介入者(メディエーター)
相馬巧の意識は、二つに分かれていた。
一つは、月面の観測ステーションで、巨大なホログラムスクリーンを見つめる「観測者」としての意識。そこには、日本の政治の中枢、首相官邸の内部が、まるで神の視点のように映し出されている。
そしてもう一つは、今まさにその権力の中枢に、光の使者として降り立とうとしている「実行者」としての意識。イヴが作り上げた、銀髪蒼眼の神秘的なアバター『介入者』と、彼の意識は完全にリンクしていた。自分の手足のように、いや、それ以上に完璧に制御できる、もう一つの身体。声のトーン、瞬きのタイミング、指先の微かな動き一つに至るまで、全てが彼の意志の下にあった。
「イヴ、準備はいいか」
『いつでも。マスターの指示をお待ちしておりますわ』
ステーションで呟く巧の声に、脳内に直接イヴの冷静な返答が響く。ホログラムスクリーンには、ターゲットである会議室の様子が複数のアングルで表示されていた。総理大臣をはじめ、外務、防衛、財務、そして科学技術政策担当大臣など、日本の安全保障と未来を担う主要閣僚が、一つのテーブルを囲んでいる。議題は、年々巧妙化する周辺国からのサイバー攻撃への新たな防衛戦略について。これ以上なく閉鎖的で、機密性の高い会合だ。
「完璧なタイミングだな」
『彼らのスケジュール、健康状態、そして心理的傾向を分析し、議題が最も膠着して集中力が途切れ始めるタイミングを算出いたしました。介入の成功率は99.99%ですわ』
「残りの0.01%は?」
『誰かが心臓発作を起こさない、という保証はできかねますので』
淡々と告げるイヴに、巧は苦笑するしかなかった。これから自分がやろうとしていることは、まさに選ばれし老人たちの心臓に、最大級の負荷をかける行為なのだから。
「よし。……行くぞ」
『承知いたしました。第一段階、情報インフラの完全掌握を開始します』
イヴがそう宣言した瞬間、スクリーンに表示された官邸のシステム図が、青い光に侵食されていく。
まず、外部との通信網が遮断された。電話線、インターネット、衛星通信、全ての回線が、誰にも気づかれぬまま、ステーションの支配下に置かれる。
次に、内部のセキュリティシステム。何重にも張り巡らされたファイアウォールは、イヴの演算能力の前では溶けて消える氷壁に等しかった。侵入を検知するはずのセンサーは沈黙し、異常を知らせるはずの警報システムは、心地よい子守唄でも聴いているかのように静まり返っている。監視カメラの映像は、数分前のループ映像に差し替えられた。官邸は、今や外界から完全に切り離された、巨大な箱庭と化した。
『第二段階、物理的干渉へ移行。会議室の電子ロックを掌握。室内の全電子機器の制御権を奪取します』
スクリーンの中で、会議室のドアのロックを示すアイコンが、赤から青に変わった。室内にいる人間は、もう誰一人として外には出られない。
「……サラリーマンが、国のトップを監禁、か。笑えない冗談だ」
『マスター。貴方はもはや、ただのサラリーマンではございませんわ』
イヴの静かな声に、巧は目を閉じた。そして、再び目を開いた時、彼の意識は、完全に『介入者』へと切り替わっていた。
さあ、始めよう。
宇宙で最も孤独で、最も無茶な、新規クライアントへの飛び込み営業を。
日本の政治を動かす者たちが集う、首相官邸の地下会議室。
重厚な木のテーブルを囲み、国家の最高指導者たちの間で、熱を帯びた議論が交わされていた。
「――だから、現行の防衛システムでは、量子コンピュータを用いた次世代のサイバー攻撃には対抗できんと言っているんだ!」
いかにも武人然とした、厳つい顔つきの防衛大臣が、テーブルを叩かんばかりの勢いで声を荒らげる。
「しかし、大臣。その新システムの導入には、天文学的な予算が必要になる。現在の財政状況を考えれば、それは……」
神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げながら、財務大臣が反論する。
「国の守りを金で測るのか!」
「金がなければ国は守れん!」
堂々巡りの議論。それを、テーブルの上座に座る男が、静かに、しかし鋭い眼光で制した。現職の内閣総理大臣、郷田龍太郎。齢七十を超えるが、その眼光は未だ衰えを知らず、数々の政治的荒波を乗り越えてきた歴戦の政治家としての威厳を漂わせている。
「双方、落ち着きなさい。この件は、一度持ち帰り、再度……」
郷田が、議論を一旦打ち切ろうとした、その時だった。
異変は、唐突に訪れた。
バツン、と不快な音を立てて、会議室の全ての照明が一度消え、非常灯だけが赤い光を投げかけた。同時に、テーブルの中央に鎮座していた巨大なディスプレイモニターが、議論の資料を表示していた状態から、一瞬で砂嵐の画面へと切り替わる。
「な、なんだ!?」
「停電か? いや、非常電源はどうした!」
閣僚たちが色めき立つ。部屋の隅に控えていた秘書官が、慌ててインターフォンに駆け寄るが、何の反応もない。分厚い防音扉に駆け寄ったSPの一人が、絶望的な表情で振り返った。
「総理! ドアが開きません! 電子ロックが……!」
「何!?」
テロか。あるいは、敵性国家による大規模なサイバー攻撃か。その場にいた全員の脳裏を、最悪のシナリオがよぎった。屈強なSPたちが、即座に総理の周囲を固め、銃器に手をかける。会議室は、一瞬にしてパニックと緊張のるつぼと化した。
その、喧騒のただ中で。
砂嵐を映していたモニターが、不意に静かになった。ノイズが消え、漆黒の画面の中央に、一つの人影が、すうっと浮かび上がった。
いや、人影ではなかった。
それは、光そのものだった。
銀色に輝く長髪、夜空を溶かし込んだような深い蒼色の瞳。男とも女ともつかぬ、神々しいほどに整った中性的な顔立ち。光の繊維で織られたかのようなシンプルなローブをまとい、その存在は、現実の人間が持つ生々しさから、完全に超越していた。
モニターの中の『それ』は、ゆっくりと蒼い瞳を開くと、パニックに陥る権力者たちを見回し、そして、静かに、しかし部屋の隅々まで染み渡るような、鈴の音にも似た声で告げた。
『――静粛に』
たった、その一言で。
会議室の喧騒が、嘘のように静まり返った。誰もが、モニターに映し出された非現実的な存在に、言葉を奪われて釘付けになっている。
ざわめきが完全に消えたのを確認し、『それ』はゆっくりと続けた。
『こんにちは。初めまして、地球の指導者の皆様。私は、あなた方の文明の、次の段階への移行を助けるために参りました。私のことは、こうお呼びください。――介入者、と』
介入者。
その言葉を理解できた者はいなかった。だが、その声が持つ不可思議な説得力に、誰もがただ聞き入るしかなかった。
最初に我に返ったのは、血気盛んな防衛大臣だった。彼は、SPが構える銃の向こうから、モニターに向かって怒鳴りつけた。
「なんだ貴様は!? テロリストか! 敵国のエージェントか! ふざけた真似はよせ!」
介入者は、その怒声にも、表情一つ変えない。ただ、悲しむように、わずかに蒼い瞳を伏せた。
『いいえ、テロではありません。あなた方が言うところの、敵でもありません。私は、あなた方の物差しでは測れない場所にいる者です。強いて言うならば、そう……あなた方の言葉で言うところの、異星人、とでも解釈していただくのが、最も近いでしょう』
異星人。
その言葉に、会議室は再び失笑と嘲笑、そして困惑の入り混じったざわめきに包まれた。
「何を馬鹿なことを!」
「新型のサイバー攻撃だな! 映像を合成して我々を混乱させる気か!」
だが、介入者は、その反応すら予測していたかのように、静かに続けた。
『私は、あなた方の星、地球に干渉し、その技術発展を助け、やがて来るべき大きな波から、あなた方が生き延びるための手助けをしたいと思い、こうして挨拶に参りました。これは、脅迫でも、取引でもありません。ただの、ささやかな提案です』
その言葉は、あまりにも荒唐無稽だった。だが、この異常な状況と、目の前の存在が放つ得体の知れない威厳が、ただの悪戯やサイバー攻撃として片付けることを許さない。
混乱が極まる中、この国の最高責任者、郷田総理が、SPの制止を振り払い、一歩前に出た。彼は、モニターの中の介入者を、その鋭い眼光でまっすぐに見据えた。
「……済まないが、君が何者であれ、その言葉を、証拠もなしに信じることはできん」
それは、この国のトップとしての、当然の、そして最も冷静な返答だった。
「我々を、そして我が国を、愚弄しているというのなら、相応の覚悟をしてもらうことになる。もし、君の言葉に真実があるというのなら……まずは、それを証明してもらいたい」
郷田の言葉に、介入者は、初めてかすかな笑みを浮かべたように見えた。それは、幼い子供の純粋な問いに、大人が答える時のような、慈愛に満ちた、しかしどこか超越的な微笑みだった。
『ええ。それは、承知しております』
介入者は、静かにそう言うと、モニターの中から、現実の会議室へと視線を移した。いや、まるで、モニターの向こうから、すぐそこにいるかのように、テーブルの中央、郷田総理の目の前の空間を、じっと見つめている。
『言葉だけでは、信じられぬのも無理はありません。あなた方の認識体系は、観測可能な物理法則の上に成り立っている。ならば、それを超越した事象を、今、この場でお見せいたしましょう』
介入者が、モニターの中で、すっと白い指を上げた。
そして、その指先が、テーブルの中央を指し示した、その瞬間。
何もなかったはずの空間が、陽炎のように揺らぎ始めた。
「なっ……!?」
誰かが息を飲む。
空間の揺らぎは、徐々に激しくなり、やがてその中心で、バチッ、バチバチッ、と青白いプラズマの火花が迸り始めた。空気が焦げるような、微かなオゾンの匂いが立ち込める。
それは、雷光ではなかった。まるで、空間そのものが悲鳴を上げているかのような、異常な放電現象。
そして。
キィン、という甲高い金属音と共に、空間に、一本の黒い亀裂が走った。
それは、比喩ではなかった。文字通り、何もない空間が、裂けているのだ。亀裂の向こうは、完全な闇。光すら飲み込む、絶対的な無が広がっている。
その場にいた誰もが、目の前で起きている物理法則を完全に無視した現象に、思考を凍り付かせた。科学技術担当大臣は、腰を抜かしたように椅子に崩れ落ち、「そん、な……空間、転移……ワームホールだとでも、いうのか……」と、意味をなさない言葉を呟いている。
空間の亀裂が、ゆっくりと広がっていく。
そして、その闇の向こうから、一つの物体が、音もなく、滑るようにして姿を現した。
それは、一台のドローンだった。
しかし、地球上のどんなドローンとも似ていない。全長五十センチほどの、流線型の美しいフォルム。継ぎ目も、溶接の跡も、ネジの一本すら見当たらない、完璧な一体成型。表面は、鈍い銀色に輝く未知の金属でできており、周囲の光を奇妙な具合に屈折させている。
ドローンは、何のプロペラも、ジェット噴射もなく、ただ静かに、会議室のテーブルの三十センチ上で、空中に浮かんでいる。まるで、見えない糸で吊られているかのように、微動だにしない。
やがて、空間の亀裂は、来た時と同じように音もなく閉じ、青白いプラズマも消え去った。後には、ありえない静寂と、ありえない物体だけが、そこにあった。
『これは、我々が用いる、ほんの基礎的な技術の一つ、空間転移です。あなた方の文明では、まだなし得ないことのはずです』
モニターの中から、介入者の静かな声が響く。
『これで、信用していただけますね?』
もはや、誰も口を開く者はいなかった。
目の前にある、物理的な証拠。それは、どんな言葉よりも雄弁に、彼我の間に横たわる、絶望的なまでの文明レベルの差を物語っていた。テロでも、サイバー攻撃でもない。これは、本物だ。自分たちの理解を、常識を、そして科学を、遥かに超越した、未知の存在との、遭遇。
郷田総理は、しばらくの間、空中に浮かぶ銀色のドローンと、モニターの中の神々しい姿を、交互に見比べていた。彼の額には、脂汗が滲んでいる。だが、その瞳の奥には、恐怖や驚愕だけでなく、政治家としての、未知への強い好奇心と、そして国家の指導者としての、重い責任感が宿っていた。
やがて彼は、震える息をゆっくりと吐き出し、そして、重々しく、しかしはっきりと頷いた。
「……ううむ。信じられないが……信じる、しかない、ようだ」
その一言は、日本の、いや、地球の歴史が、新たなステージへと突入したことを告げる、号砲のようだった。
『ありがとうございます。話が早くて助かります』
介入者は、満足げに頷いた。
『では、本題に入らせていただきます。先ほども申し上げた通り、我々は、あなた方の文明の発展をサポートしたい。そのために、まずは、あなた方日本政府と、我々との間に、公式な対話の窓口を立てていただきたいのです』
「窓口……」
『はい。今後の技術供与や、様々な情報開示は、その窓口を通して、機密裏に行われます。誰を、どのような組織を、その窓口として指定するかは、あなた方にお任せいたします。ですが、これは、この国の、ひいては、この星の未来を左右する、極めて重要な役職となります。慎重に、そして迅速に、人選を行っていただきたい』
介入者は、そこで一旦言葉を切ると、最後の要求を告げた。
『あなた方に与える時間は、一日です。地球時間で、二十四時間。それまでに、公式な窓口を設立し、我々からの次の接触に備えてください』
「い、一日だと!? 無茶だ!」
財務大臣が、思わず叫んだ。こんな国家を揺るがす重大事を、たった一日で決めろというのか。
だが、介入者は、その抗議を、蒼い瞳で静かに制した。
『無茶かどうかは、あなた方が決めることではありません。これは、あなた方の決断力と対応能力を、我々が見定めるための、最初のテストでもあります。この程度の速度で対応できなければ、これからの激動の時代、あなた方は生き残ることはできません』
その言葉は、もはや交渉ではなかった。それは、圧倒的な上位者からの、通告だった。
『時間になれば、こちらから、指定された窓口にコンタクトを取ります。では――』
介入者は、静かにそう告げると、その光の身体が、すうっと薄れていった。
モニターの画面が、再び砂嵐に戻り、そして、元のニュース番組の映像に切り替わる。
同時に、消えていた照明が再び灯り、止まっていた時計が動き出した。
ガタン、と大きな音を立てて、会議室のドアのロックが解除される。
「総理! ご無事ですか!」
待ち構えていたSPたちが、雪崩れ込むように部屋に入ってくる。
だが、彼らが見たのは、呆然と立ち尽くす総理と閣僚たち、そして――
会議室のテーブルの真ん中に、物理的な証拠として、ただ一つ。
音もなく、静かに浮遊し続ける、銀色の未知のドローンだけであった。
郷田は、まるで貴重な美術品に触れるかのように、震える手で、そっと、その冷たい金属の塊に、指先で触れた。
これから、この国は、この世界は、どうなってしまうのか。
彼の脳裏には、先ほどの介入者の、神々しくも、どこか冷徹な蒼い瞳が、焼き付いて離れなかった。