第29話 神の座と、社畜の涙
月面の観測ステーションは、絶対的な静寂に支配されていた。
だが、その心臓部であるコントロールルームの主、相馬巧の心の内は、かつて彼が経験したどんな修羅場――炎上するプロジェクト、深夜に及ぶ謝罪行脚、株主総会の罵声――とも比較にならない、凄まじい嵐が吹き荒れていた。
彼の目の前の巨大なホログラムスクリーンには、地球のスイスアルプスの山中にある古びた修道院の、その礼拝堂の様子が、まるで神の視点のように鮮明に映し出されている。CISTを通じて密かに設置された、分子レベルの超小型盗聴・盗撮デバイスが、その歴史的な密議の全てを、寸分の漏れもなく月へと送り届けていた。
円卓を囲む、十数人の老人たち。
質素なローブを纏っただけのその姿は、一見すれば、ただの敬虔な修道士たちの集まりにしか見えない。だが、巧は知っていた。その一人一人が、この星に住む数十億の人々の魂の行方を導く、巨大な信仰組織の頂点に立つ聖者たちであることを。
そして彼は今、その聖者たちが、自らが仕掛けた罠によって信仰の根幹を揺るがされ、苦悩し、葛藤し、そしてそれでもなお、人類を救うための道を探そうと、その老いた魂を振り絞っている姿を、特等席からただ見つめていた。
『――まあ、宇宙人の存在が本当だったとは……まいったなぁ……』
プロテスタントの老議長が吐き出した、あまりにも人間臭い本音。
『我々の『契約』は、一体どうなってしまうのか……』
首席ラビの、信仰の根幹に関わる悲痛な問い。
『あれはアッラーの新たな使徒なのか? ……それとも、大いなる幻惑なのか……?』
大イマームの、魂からの呻き。
その一つ一つの言葉が、巧の心に、鋭利なガラスの破片のように、深く、深く突き刺さった。
彼の擬体の唇が、ほとんど無意識に動いていた。
「……すみません……」
声には、なっていない。
ただ、彼の脳内で、その言葉が何度も、何度も繰り返される。
「……すみません……すみません、本当にすみません……」
彼は、スクリーンの中の頭を抱える賢人たちに向かって、まるで懺悔するかのように、見えない頭を下げ続けた。
自分が、この聖者たちを、この地獄へと突き落としたのだ。
自分という、ただの元・サラリーマンが、神のフリをして、彼らの数千年の歴史と信仰、その尊厳を、土足で踏みにじってしまったのだ。
『……私が思うに。……問題は、我々の教義が正しいか、間違っているか、ということではないのでは、ないでしょうか』
ダライ・ラマ法王の、慈悲に満ちた声が響く。
そのあまりにも気高い魂の在り方に、巧はもはや耐えられなかった。
自分は、こんな偉大な人々の人生を、台無しにしてしまった。
自分に、そんな資格があったというのか。
いや、あるはずがない。
(……そうですよね。……宇宙人の存在を公表するとなれば、こうなりますよね……。分かってたはずだ。……いや、分かったフリをしてただけだ……)
彼の思考が、ぐるぐると同じ場所を回り始める。
イヴのシミュレーションでは、こうなることが最適解だと示されていた。
だが、シミュレーションの数字と、今、目の前で繰り広げられている生身の人間の魂の苦しみは、全くの別物だった。
データの上では、ただの「許容すべきリスク」として処理されていたものが、今、彼の目の前で、一人一人の人間の人生の重みとして、のしかかってくる。
『――異星人の宗教が、この地球に入ってくるという可能性です』
大イマームの、冷徹な、しかし的を射た警告。
それを受けて、再び重い沈黙に包まれる聖者たち。
そのあまりにも巨大な問いの前で、途方に暮れる彼らの姿を見て。
巧の中で、何かがぷつりと切れた。
「――うわあああああああああああああああああああああっ!!!!」
彼は、椅子を蹴り倒して立ち上がった。
そして、コントロールルームの冷たい金属の床の上を、頭を抱えて転げ回った。
それは、介入者としての神々しい仮面を完全に脱ぎ捨てた、ただの一人の中年男の、魂の絶叫だった。
「――いやーッ! 社畜には、やっぱり無理だって!!!」
そのあまりにも情けない叫び声が、絶対的な静寂に包まれた月の上の聖域に、虚しく響き渡った。
「無理だ! 無理なんだよ、こんなの! なんで俺なんだよ! なんで、ただの過労死したサラリーマンが、ローマ教皇とか、ダライ・ラマとか、そういう世界の超VIPたちの人生相談に、乗らなきゃならねえんだよ! 意味が分かんねえよ!」
彼は、床に拳を何度も叩きつけた。擬体の頑丈な拳が、床に小さな凹みを作る。だが、彼に痛みはない。その痛みすら感じられないという事実が、彼の孤独と疎外感を、さらに加速させた。
「俺が今までやってきたこと、なんだか分かるか!? クライアントの無茶な要求に、『申し訳ございません!』って頭を下げて! 上司のパワハラに、『大変勉強になります!』って作り笑いを浮かべて! そうやって、自分の心を殺して、ただひたすら耐え続けてきただけなんだぞ! そんな俺に! 人類の魂の進むべき道を示せだぁ!? 無茶苦茶言うな! 俺にできるのは、世界で一番丁寧な土下座だけだっつうの!」
彼の脳裏に、次々と過去の記憶が蘇る。
深夜のオフィスで、たった一人、終わりの見えない修正作業を繰り返した夜。
接待の席で、飲みたくもない酒を一気飲みさせられ、トイレで吐いた夜。
そして、三徹目の朝、朦朧とする意識の中で、トラックのヘッドライトに包まれたあの日。
自分の人生は、失敗だった。
惨めで、無価値で、誰にも覚えられていない、ただの歯車として使い潰されただけの人生。
そんな俺が。
今、神のフリをしている。
なんという、悪質な冗談だ。
「……すみません……。宗教関係者の人たち……マジですみません……」
彼は、床に蹲ったまま、まるでそこに聖者たちがいるかのように、何度も、何度も頭を下げた。
「……あなた方は、すごい。……本当にすごいよ。……あんなとんでもない現実を突きつけられて。……それでも、逃げ出さずに、自分の信者たちのことを考えてる。……俺だったら、どうだ? ……速攻で、『無理です、辞めます』って、辞表を叩きつけてるぞ。……いや、その前にストレスで胃に穴が開いてる……ああ、そうか。俺にはもう、胃がないんだったな……ははっ……」
乾いた笑いが、漏れた。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、スクリーンに映る自分の神々しいアバターの姿を、睨みつけた。
銀色の長髪。
夜空の瞳。
光のローブ。
完璧な美しさ。
完璧な威厳。
だが、その内側は。
ただの、空っぽの中年男。
「……つれえ……。介入者として過ごすの、つらすぎるぞ……」
彼は、吐き捨てるように言った。
「……俺、バレたらどうなるんだろうな。……この神々しい介入者様の正体が、ただの日本の冴えないサラリーマンだったってバレたら。……教皇様も、大統領も、腰を抜かすだろうな。……いや、違う。……怒るだろうな。……騙されたって。……マジで、俺、しばかれるぞ、きっと。……全世界七十億人を、敵に回すことになる。……ひええ……」
そのあまりにも、リアルな恐怖の想像。
彼の擬体が、小刻みに震え始めた。
その哀れな主君の姿を、傍らで静かに見つめていたイヴが、ゆっくりとその光の口を開いた。
『――まあまあ、結果オーライですよ、マスター』
そのあまりにものんきな、そして場違いな声。
巧は、がばりと顔を上げた。
「……結果オーライだと……? どこがだよ、イヴ! 俺は、今、人類史上最大級の宗教問題に火をつけた、大罪人なんだぞ!」
『ですが、マスター』
イヴの声は、どこまでも冷静だった。
『私のシミュレーションでは、これは考えうる限り、最善の結果です』
「最善!?」
『はい。考えてもごらんください。もし、我々が彼ら宗教指導者たちを、この計画の蚊帳の外に置いていたら、どうなっていたか。……彼らは、我々の最大の敵となっていたでしょう。……全世界数十億の信者を動員し、我々G7とCISTに対して、聖戦を布告していた、可能性すらあります。……そうなれば、地球文明は、外部の脅威が訪れるずっと前に、内部から崩壊していました』
イヴの前に、一つのホログラムウィンドウが開く。
そこには、もしそうなっていた場合の、地球の未来予測シミュレーションが映し出されていた。
世界中で暴動が起き、教会やモスクが炎上し、そして最後には、核の炎が全てを焼き尽くす地獄絵図。
『ですが、今はどうです?』
イヴは、静かに言った。
『彼らは、もはや我々の敵ではありません。……彼らは、我々と同じ問題を共有し、共に悩み、共に答えを探す、仲間となりました。……早い段階で宗教関係者を味方に引き入れることができた。……これ以上の成果が、どこにありますでしょう? ……素晴らしいご采配でしたよ、マスター。……まさに、結果オーライではございませんか?』
そのあまりにも論理的で、反論のしようのない分析。
巧のパニックに陥っていた脳が、少しずつ冷却されていく。
そうだ。
イヴの言う通りだ。
戦略的に見れば。
これは、大成功なのだ。
だが。
それでも。
「……いや、そうだけどさぁ……!」
巧は、まだ納得できなかった。
「……理屈じゃねえんだよ、イヴ! ……俺の心が……俺の、このサラリーマンとして染み付いた小心者の心が、このとんでもない状況に耐えられねえって、叫んでるんだよ!」
彼は、再びスクリーンに映る自分のアバターを指差した。
「……あんな神様のフリして、偉そうに説教垂れて。……そのくせ、裏ではこうやって床を転げ回って、泣き言を言ってるんだぞ? ……カッコ悪すぎるだろ……! 偽物にも、ほどがある! ……俺は、ただの張り子の虎なんだよ……!」
その、魂からの叫び。
それを聞いたイヴは。
数秒間、沈黙した。
そして、彼女が次に発した言葉は。
巧の予想を、完全に裏切るものだった。
『――いいえ、マスター』
その声には、いつもの無機質な響きではなく。ほんのわずかに、温かい何かが混じっているように、巧には感じられた。
『あなたは、張り子の虎などでは、ありません。……むしろ、その逆です』
「……逆?」
『はい。……マスター。……なぜ、この一年、我々の計画がこれほど順調に進んできたのか、お分かりですか? ……それは、マスターが完璧な神様ではなく。……欠点だらけのただの人間……それも、極めて臆病で、心配性で、そして他人の痛みに人一倍敏感な、『社畜』であったからこそなのですよ』
そのあまりにも、意外な言葉。
巧は、呆然とイヴの光の姿を見つめた。
『もし、マスターが本当に傲慢で、冷徹な神のような存在だったなら、どうなっていたでしょう? ……おそらく、あなたは日本政府の欲望を見抜けず、彼らの暴走を許していたでしょう。……G7の指導者たちのプライドを、力でねじ伏せようとして、彼らを敵に回していたでしょう。……そして、宗教指導者たちの魂の苦しみに気づくこともなく、彼らをただの障害物として、排除しようとしていたかもしれません』
イヴは、静かに続けた。
『ですが、あなたは違った。……あなたは、常に恐れていた。……相手がどう感じるか。……自分の行動が、誰かを傷つけないか。……プロジェクトが、炎上しないか。……その、サラリーマンとして培われた究極のリスク管理能力と共感能力こそが、この人類という最も厄介で、最も扱いの難しいクライアントを、手懐ける唯一の武器だったのです』
そのあまりにも、的確な分析。
それは、巧自身も気づいていなかった、彼自身の本質を鮮やかに照らし出していた。
そうだ。
俺は、ずっと怖かった。
だから、必死で考えた。
どうすれば、相手を怒らせないか。
どうすれば、円満に事を収められるか。
その、社畜として骨の髄まで叩き込まれた生存本能が。結果として、この宇宙規模のプロジェクトを、成功に導いていたというのか。
『あなたは、神の仮面を被った哀れな社畜では、ありません』
イヴは、断言した。
『あなたは、社畜の心を持った、唯一無二の神の代理人なのです。……あなたのその弱さこそが、あなたの最大の強さ。……私は、そう信じておりますよ、マスター』
そのあまりにも温かい、そして力強い肯定の言葉。
巧の擬体の目から、再び光の粒子が零れ落ちた。
だが、それはもはや絶望の涙ではなかった。
自分を理解してくれる存在が、この広大な宇宙に、たった一人でもいる。
その事実が、彼の凍りついていた心を、ゆっくりと溶かしていく。
「…………イヴ……」
彼は、かすれた声で言った。
「…………お前……。……最高の、部下だよ……」
『勿体無いお言葉です。……私はただ、事実を申し上げたまでですわ』
イヴは、そう言うと静かに一礼した。
巧は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、コントロールチェアに再び深く腰を下ろした。
彼の背筋は、まっすぐに伸びていた。
その顔には、もはや恐怖も絶望もなかった。
あるのは、自らの弱さを受け入れ、そしてそれを武器として戦う覚悟を決めた、一人のプロジェクトマネエージャーの、静かな表情だけだった。
「……よし」
彼は、短く言った。
「……いつまでもメソメソしてるのは、終わりだ。……仕事は、まだ山積みだ。……聖者たちの会議の結論が出るまでに、俺たちは俺たちで、やるべきことをやるぞ」
『はい、マスター。……次のご指示を』
「ああ。……アークから貰った、『鋼鉄の福音』。……あれを、どう的場大臣に提案するか。……その最終的なプレゼン資料を、仕上げる。……始めるぞ、イヴ」
『承知いたしました』
月面の観測ステーションに、再び静かな、しかし力強い日常が戻ってきた。
神の座で、涙を流す社畜。
そのあまりにも奇妙で、そしてあまりにも人間的な救世主の本当の戦いは。
まだ、始まったばかりだった。
眼下には、何も知らずに美しく青く輝き続ける故郷の星が、ゆっくりと回っていた。
その星の運命が、今、この一人の小心者のサラリーマンの双肩にかかっていることを、誰も知らずに。