第28話 沈黙の山の会議と、聖者たちの本音
スイスアルプス山脈の奥深く。
俗世から完全に隔絶され、何世紀もの間、ただ雪と風と神の沈黙だけを聞いてきた、古びた修道院。その場所が、人類の魂の運命を決定するための、歴史上最も神聖にして最も異端な会議の舞台として、選ばれた。
ペンタゴンの鋼鉄の檻から解放された世界の宗教指導者たちは、G7が用意した所属不明の航空機で、一人、また一人と、この人里離れた「沈黙の山」へと集結した。彼らは、自らが纏う豪華な法衣や袈裟を脱ぎ捨て、誰もが質素なローブ一枚という、同じ格好をしていた。それは、この会議の場では、教皇も、大イマームも、首席ラビも存在しないという、暗黙の合意の証だった。ここにいるのは、ただ道に迷い、答えを求める、十数人の老いた求道者たちだけだった。
修道院の、最も古い礼拝堂。
ステンドグラスの代わりに、分厚い石壁に穿たれた簡素な窓から青白い月光が差し込み、何百年もの間、無数の修道士たちの祈りを受け止めてきた石の床を、静かに照らしている。暖炉で燃える薪の、ぱちぱちと爆ぜる音だけが、唯一の物音だった。
そのあまりにも荘厳で、あまりにも原始的な空間の中央に、巨大な節くれだったオーク材の円卓が置かれている。そのテーブルを囲み、世界の賢人たちは、ただ黙して座っていた。
彼らが、この沈黙の山に籠ってから、既に丸一日が経過していた。
彼らは、語り合わなかった。
ただ、それぞれの方法で祈り、瞑想し、そして自らが仕える、あるいは自らが探求する超越的な存在との、内なる対話を続けていた。
ペンタゴンで突きつけられた、あのあまりにも巨大な現実。
宇宙人。銀河コミュニティ。神々の不在証明。
その魂を根こそぎ揺るがすような衝撃を、自らの信仰の数千年の歴史の中で、どう位置づけるべきなのか。
彼らは皆、そのあまりにも重い問いの答えを探していた。
長い、長い沈黙。
その聖なる静寂を、最初に破ったのは。
誰からともなく漏れた、一つの深いため息だった。
「――まあ、宇宙人の存在が本当だったとは……まいったなぁ……」
そのあまりにも人間臭い、そしてどこか気の抜けたような本音。
声の主は、プロテスタント諸派を代表する世界教会協議会の老議長だった。彼は、まるで長年信じてきた隣人が、実はとんでもない秘密を抱えていたと知ったかのように、困惑しきった顔で天井を仰いだ。
その一言が、まるでダムの小さな亀裂のように、この場に固く閉ざされていた賢人たちの心の扉を、こじ開けた。
「……まいった、どころの話ではありませんな」
今度は、ユダヤ教の首席ラビが、その白い豊かな顎鬚をしごきながら応じた。
「我々の物語は、全て、あの日アブラハムが唯一の神の声を聞いた、あの荒野の出来事から始まっております。……ですが、その神の声が、もし唯一ではなかったとしたら? ……この広大な宇宙のあちこちで、様々な神々が、様々なアブラハムたちに語りかけていたのだとしたら? ……我々の『契約』は、一体どうなってしまうのか。……正直、頭が真っ白ですじゃ」
その信仰の根幹に関わる、告白。
それに呼応するように、イスラム教の大イマームが重々しく口を開いた。
「……クルアーンは、最後の、そして完全なる啓示である。……我々の信仰は、その絶対的な確信の上に成り立っている。……ですが、あの介入者とやらが、我々の預言者たちと同じように、あるいはそれ以上に高度な叡智をもたらしたとしたら? ……我々は、それをどう受け止めれば良いのか。……あれは、アッラーの新たな使徒なのか? ……それとも、我々の信仰を試すために遣わされた、大いなる幻惑なのか……?」
次々と吐露されていく、それぞれの信仰の指導者としての苦悩。
それは、もはや教義の違いを超えた、共通の魂の叫びだった。
自分たちが、生涯をかけて守り、そして説いてきた物語が、今、目の前で崩れ去ろうとしている。
その途方もない恐怖と、喪失感。
「――いやー、どうしよう……。どう説明する? 信者たちに」
最初の老議長が、再び頭を抱えた。
「……実は、うちの教派では昔から言われておったのですよ。『神の愛は普遍なり。もし、異星に知性ある兄弟がいたとしても、主は彼らをも等しくお救いになるだろう』と。……だから、個人的には、異星人を洗礼する準備はできておった。……だから、うちの教義的には、まあ、セーフです! ……と、強弁することもできんではないのですが……」
そのどこかユーモラスで、しかし悲壮なまでの言い訳。
礼拝堂に、初めて乾いた笑いが漏れた。
そうだ。
我々は、皆同じなのだ。
数千年の歴史を持つそれぞれの教義という名の鎧を、必死で繕い、この新しい現実の矢から、身を守ろうとしている。
その張り詰めた空気を和らげるかのように、ダライ・ラマ法王が、その穏やかな瞳をゆっくりと開いた。
彼は、この一日、一言も発することなく、ただ静かに瞑想を続けていた。
「……皆様。……少し、よろしいでしょうか」
その静かで、しかし心の芯まで染み渡るような声に、誰もが耳を傾けた。
「……私が思うに。……問題は、我々の教義が正しいか、間違っているか、ということではないのでは、ないでしょうか」
彼は、ゆっくりと続けた。
「……我々仏教には、創造主という概念はありません。……この世界は、ただ縁起によって成り立っている。……原因があり、結果がある。……ただ、それだけです。……ですから、私にとっては、宇宙人様がおられようと、おられまいと、それは驚くべきことではありません。……彼らもまた、我々と同じように、輪廻の中にある一つの衆生。……ただ、それだけのことです」
そのあまりにも、達観した宇宙観。
他の指導者たちは、息を飲んだ。
「……私が恐れるのは、唯一つ。……この新しい知識が、人々の心に、より多くの苦しみを生み出してしまわないか、ということです。……信仰を失う苦しみ。……自らの存在が、ちっぽけであると知る苦しみ。……そして、新たな隣人(宇宙人)に対する、恐怖と憎しみが生まれる苦しみ。……我々が今考えねばならないのは、教義の整合性をどう取るか、などという小さな問題ではなく。……この新たな苦しみの時代を生きる人々を、どう救うかという一点に尽きるのではないでしょうか?」
そのあまりにも本質的な、そして慈悲に満ちた問い。
それは、神学論争に陥りかけていたこの場の空気を、一変させた。
そうだ。
我々は、神学者である前に、羊飼いなのだ。
我々が守るべきは、教義という名の書物ではなく。
今、この瞬間も迷い、苦しんでいる、生身の人間の魂なのだ。
そのダライ・ラマの言葉を引き継ぐように、ローマ教皇がゆっくりと口を開いた。
「……法王様の、仰る通りです。……我々は、道を見失いかけておりました。……我々の主は、かつてこう仰いました。『汝の隣人を愛せよ』と。……その隣人が、たまたま別の星から来たというだけで、その教えの本質が変わるわけでは、ありますまい」
彼の顔には、もはや苦悩の色はなかった。
あるのは、この新たな試練を乗り越える覚悟を決めた、指導者の静かな威厳だけだった。
「……私は、こう考えます。……これは、危機ではなく、むしろ好機なのではないかと」
「……好機、ですと?」
首席ラビが、訝しげに問い返す。
「ええ」と、教皇は頷いた。
「……我々の信仰を、より広く、より深くする好機です。……我々の神は、我々が思っていたよりも、遥かに偉大で、遥かに壮大な計画をお持ちだった。……この地球という小さな揺りかごだけでなく、この広大な宇宙そのものを、愛で満たそうとしておられた。……我々は、その神の本当の御心の大きさを知る、最初の世代となったのです。……なんと、光栄なことではありませんか」
そのあまりにも雄大で、そしてポジティブな解釈の転換。
それは、絶望の淵にいた指導者たちの心に、一条の光明を差し込んだ。
そうだ。
これは、終わりではない。
始まりなのだ。
我々の信仰が、本当に普遍的なものであるかを試される、新たな始まり。
「……なるほど……」
プロテスタントの老議長が、深く頷いた。
「……つまり、我々は、この新しい真実を、我々の物語に取り込んでしまえば良いと。……そういうこと、ですかな?」
「その通りです」と、教皇は微笑んだ。
「……むしろ、この機会に、我々の教えを広める、またとない好機と捉えるべきです。……そうでしょう? 皆様。……異星人にも、我々の神の愛を説きましょう、ではありませんか。……彼らの魂をも救うことこそ、我々に課せられた、新たな使命なのですよ」
そのあまりにも大胆不敵な、そしてどこかユーモラスですらある宣言。
それが、この重苦しい会議の空気を、完全に変えた。
そうだ。
嘆いていても、始まらない。
悩んでいても、答えは出ない。
ならば、前に進むしかない。
この新しい現実を、武器として利用してでも。
「――それは、あまりにも楽観的過ぎるのではありませんかな?」
その祝祭的な空気に冷や水を浴びせたのは、今まで黙して語らなかった、イスラム教の大イマームだった。
彼の鋭い眼光が、部屋の隅々までを射抜いた。
「……教皇猊下の、その気高いお志には敬意を表します。……ですが、物事には光があれば、必ず影がある。……あなた方は、その影の部分をあまりにも軽視しては、おられませんか?」
彼は、静かに、そして冷徹な現実を突きつけた。
「……あなた方は、『我々の宗教を異星人に広げれば良い』と、そう仰る。……ですが、その逆のパターンを、お考えになられましたかな?」
「……逆のパターン?」
「ええ。……異星人の宗教が、この地球に入ってくるという可能性です」
その一言が、部屋の空気を再び凍りつかせた。
そうだ。
誰も、考えていなかった。
そのあまりにも当たり前で、そしてあまりにも恐ろしい可能性を。
「……介入者様は言っておられた。『銀河には無数の文明がある』と。『肉体を捨てた機械文明もあれば、神秘主義的な文明もある』と。……彼らが、我々とは全く違う神を信じていたら? ……我々の理解を遥かに超えた、宇宙観、生命観、死生観を持っていたとしたら? ……そして、その思想がこの地球に持ち込まれた時、我々の信者たちは、どうなる?」
大イマームの言葉は、まるで予言者のそれのように、重く響いた。
「……インターネットが、世界をどう変えたか、思い出してみなさい。……異国の文化、思想が瞬時に世界中に広まり、若者たちは自国の伝統を捨て、新しい価値観に飛びついた。……我々は、今、それとは比較にすらならぬ、究極のカルチャーショックに直面しようとしているのです。……それは、もはや文化交流などという生易しいものではありません。……魂の侵略です。……我々の数千年の歴史と信仰が、異星の圧倒的な思想の前に、赤子の手をひねるように無力化されてしまう、危険性があるのですよ」
そのあまりにもリアルな、そして説得力のある警告。
楽観的な空気に浮かれかけていた指導者たちの顔が、再び蒼白になった。
そうだ。
我々は、与えられるだけではない。
奪われる可能性も、あるのだ。
「……我々が今下すべき結論は、一つしかありません」
大イマームは、断言した。
「……それは、守りを固めるということです。……我々は、まず、我々の信者たちを、この未知なる思想の津波から守らねばならない。……そのためには、我々全ての宗教が、その教義の違いを乗り越え、一つの強固な防波堤と、ならねばなりません」
彼は、ローマ教皇に向き直った。
「……教皇猊下。……私は、あなたと同じ結論に至りました。……ですが、その理由は全く逆です。……我々は、攻撃に出るのではない。……我々は、団結して防御に徹するのです。……それこそが、我々が今取るべき唯一の道だと、私は信じます」
攻撃か、防御か。
希望か、恐怖か。
楽観か、悲観か。
議論は、再び振り出しに戻ったかに見えた。
だが、違った。
彼らの心の中には、既に一つの共通のコンセンサスが、生まれていた。
――我々は、団結せねばならない。
その目的が、布教であれ、防衛であれ。
もはや、一つの宗教だけで、この新しい時代を乗り越えることはできない。
その絶対的な事実の前に、彼らは皆立っていた。
「……分かりました」
教皇が、静かに頷いた。
「……大イマーム様の、ご懸念、しかと受け止めました。……あなた様の仰る通り、我々はあまりにも楽観的に過ぎたのかもしれない。……まずは、足元を固めることが肝要ですな」
そして彼は、円卓を囲む全ての賢人たちに語りかけた。
「――皆様。……我々の議論は、尽きません。……ですが、我々にはもう時間がありません。……G7の王たちは、我々の答えを待っています。……我々は、今ここで、一つの共同声明を起草しようではありませんか。……我々世界の宗教界が、この歴史的な事態にどう向き合うのか、その最初の、そして統一された意思を、世界に示すために」
その提案に、もはや反対する者はいなかった。
彼らは皆、静かに頷いた。
数千年間、互いに異端として、時には敵として憎しみ合ってきた者たちが。
今、初めて、同じテーブルで同じペンを取ろうとしている。
そのペンの先に生まれる言葉が。
人類の魂を、救うのか、それとも新たな混乱へと導くのか。
その答えを求めて。
聖者たちの、長く、そして苦難に満ちた共同作業が、今、静かに始まろうとしていた。
修道院の古びた礼拝堂に差し込む月光が、まるでスポットライトのように、彼らの覚悟の決まった横顔を照らし出していた。