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第27話 煉獄の共有と、聖者たちの問い

 ペンタゴンの地下司令室、「タンク」。

 その鋼鉄の壁に閉ざされた空間は、もはや単なる会議室ではなかった。それは、人類の魂が、その信仰が、そして数千年の歴史の中で培ってきた神との関係が、絶対的な現実の前に無慈悲に審判される、煉獄の法廷と化していた。


 ローマ教皇が、震える声で、しかし揺るぎない覚悟をもってG7との「共犯関係」を受け入れたあの瞬間。それは、この場にいる全ての人間にとって、一つの時代の終わりと、そして全く新しい未知の時代の始まりを告げる、静かなゴングの音だった。

 政治の王たちは、自らが仕掛けた罠に獲物がかかったことに安堵しつつも、その獲物が、自分たちが想像していたよりも遥かに気高く、そして遥かに重い魂を持っていたことに、畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

 そして、信仰の王たちは。

 自らの足元が根底から崩れ去るという究極の絶望の淵で、それでもなお、己が導くべき子羊たちのために、その十字架を自ら背負うことを決意した、悲壮な聖者たちの顔をしていた。


 そのあまりにも重く、そしてあまりにも神聖な沈黙が、部屋を支配していた。

 誰もが、次に何を語るべきか分からずにいた。

 その張り詰めた糸を、最初に自らの手で断ち切ったのは。

 この会合の主催者であり、先ほどまで悪魔的なまでの皮肉屋を演じていた、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソン、その人だった。


 彼は、ゆっくりと席を立った。

 そして、円卓を囲む宗教指導者たちに向かって、深々と、そして長く頭を下げた。

 それは、G7という七つの国家の傲慢さの象徴としてではなく。

 ただ一人の、道に迷い、救いを求める人間としての、心からの謝罪だった。


「――すみません」


 彼の絞り出すような声が、静かな部屋に響き渡った。

「……本当に、すみません。……皆様をこのような形でこの場所にお呼びし、そして皆様の信仰とその尊厳を、土足で踏みにじるかのような真似をしたことを。……このジェームズ・トンプソン、そしてG7の指導者一同を代表し、心からお詫び申し上げます」


 そのあまりにも真摯な謝罪。

 先ほどまでの彼を知る者からすれば、信じられないほどの態度の変化。

 宗教指導者たちは、驚きに目を見開いた。

 トンプソンは、ゆっくりと顔を上げた。

 その顔には、もはや狩人の獰猛な笑みも、皮肉屋の冷笑もなかった。

 あるのは、この人類という巨大な船の舵を共に握ることになった新たな仲間に対する最大限の敬意と、そして共に地獄を渡る覚悟を決めた、同志としての真剣な眼差しだけだった。


「……いや、我々も悩んだのです」

 彼は、まるで自らの心の内側をさらけ出すかのように、その苦悩に満ちた議論の経緯を語り始めた。

「皆様がジュネーブ宣言を非難された時、我々の心は、正直、深く傷つきました。……ですが、我々は何も言い返すことができなかった。……このあまりにも巨大な真実を隠しながらでは、あなた方に本当の事情を説明することなど、できはしなかったのですから」

 彼の言葉は、嘘ではなかった。

 それは、この場にいる全てのG7指導者たちの、偽らざる本音だった。

「我々だけで、この問題を抱え込もうとしました。……ですが、無理だった。……我々政治家という俗物には、あまりにもこの荷は重すぎた。……我々は、国家を、経済を、軍事を動かすことはできるかもしれない。……だが、我々には人々の魂を導くことはできない。……そのことに、我々は嫌というほど気づかされたのです」


 彼は、円卓を囲む聖者たちの、一人一人の顔を見つめた。

「……そして、我々は結論に至りました。……この人類の魂の危機を乗り越えるためには。……我々政治家の力だけでは、絶対に無理なのだと。……あなた方、信仰の世界の指導者たちの、その深い叡智と慈悲のお力添えがなければ、我々人類は、この新しい時代を乗り越えることはできないのだと」


 そのあまりにも率直な、そして全面的な助けの要請。

 それは、もはや政治的な駆け引きではなかった。

 それは、世俗の権力が初めて自らの限界を認め、精神世界の権威にその救いを求めた、歴史的な瞬間だった。


「……そして本日。……我々は、皆様にもう一つの新たなる難問を、ご相談せねばならなくなりました」

 トンプソンは、手元のコンソールを操作した。

 スクリーンに、あの『鋼鉄の福音』のプレゼンテーション資料が映し出される。

「……我々の後見人である介入者様は、先日、我々に新たな文明からの接触があったことを告げられました。……名を、『統合知性体アーク』。……彼らは、我々人類との友好の証として、一つの驚くべき技術を提供してくれたのです」


 彼は宗教指導者たちに、あの感動的なイメージ映像を見せた。

 車椅子の少女が再び大地を駆け、指の動かなくなったピアニストが再び神の旋律を奏で、死の淵にいた少年が、再び生命の輝きを取り戻す。

 その、奇跡の光景。


「……ですが皆様。……これは、ただの医療技術ではありません。……これは、『サイボーグ化技術』なのです。……それも、ただのサイボーグ化ではありません。……万が一の場合には、いつでも元の生身の肉体に戻ることができるという、究極の安全装置がついた技術なのです」


 その、信じがたい説明。

 そして、その無限の可能性。

 宗教指導者たちは、再び言葉を失った。

「……この技術は、まさしく福音です。……この地上から、病と障害の苦しみを根絶しうる、奇跡の力です。……ですが、同時に、これは我々人類が人間であることの定義そのものを、根底から揺るがしかねない、あまりにも危険な劇薬でもあります」

 トンプソンは続けた。

「そして、ここに我々の最大の問題があります。……仮に、我々がこの技術を人道目的で限定的に使用することを決断したとして。……このあまりにも奇跡的な技術を、我々は民衆にどう説明すれば良いのでしょうか?」


 彼は、その究極の問いを投げかけた。

「……『我々人類の科学技術の進歩によって、ついに実現しました』と、そう嘘をつくべきか。……ですが、そんな子供騙しのような嘘が、いつまでも通用すると思われますか? ……いつか必ず、民衆は気づくでしょう。『この技術は、どこから来たのか?』と」


 その言葉は、重く、重く部屋の空気にのしかかった。

「……ですので、我々G7は、あの悪夢のような議論を再び繰り返すことになったのです。……介入者様の、そして宇宙人の存在を、この際全て公表してしまうべきかどうかと」


 彼はそこで、一度言葉を切った。

 そして、その場にいる全ての宗教指導者たちに、深々と頭を下げた。


「――我々だけでは、もう決められません。……どうか、皆様のお知恵をお貸しください。……我々が進むべき道をお示しください。……我々は、宗教界の皆様のご意見が聞きたいのです」


 そのあまりにも、真摯な問い。

 それは、彼らを単なる相談相手としてではなく、この人類の運命を決定する最高意思決定機関の、正式な一員として迎え入れるという宣言に、他ならなかった。


 しばらくの沈黙。

 その重い、重い沈黙を破ったのは、ローマ教皇だった。

 彼は、ゆっくりと顔を上げた。

 その深い皺の刻まれた顔には、もはや驚愕も絶望もなかった。

 あるのは、自らが導くべき数億の子羊たちの魂の行方を案じる、羊飼いとしての深い、深い慈愛と、そして覚悟の色だけだった。


「…………分かりました。……ミスター・プレジデント」

 彼の静かな、しかし揺るぎない声が響いた。

「……あなた方のその苦悩。……そして、我々信仰の世界に寄せるその信頼。……しかと、受け止めました」

 彼は、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、円卓を囲む他の宗教指導者たちを、一人一人見回した。

「……我が兄弟姉妹たちよ。……我々は、今、人類の歴史上誰も直面したことのない、重大な岐路に立たされております。……これは、もはや政治の問題でも、科学の問題でもありません。……これは、我々人間一人一人の、魂のあり方が問われる、究極の信仰の問題です」

 彼の言葉に、大イマームが、首席ラビが、ダライ・ラマが、静かに頷いた。

「……我々宗教指導者は、これまであまりにも長く、互いに背を向け合ってまいりました。……自らの教義の正しさだけを主張し、他の信仰に耳を傾けることを怠ってまいりました。……ですが、もはやそのような時代は終わったのです」

 教皇は、その腕をゆっくりと広げた。

 それは、まるで全世界の人々を抱きしめるかのような仕草だった。

「……今こそ、我々は一つになる時です。……キリスト教も、イスラム教も、ユダヤ教も、仏教も、ヒンドゥー教も。……その全ての垣根を越えて。……我々人類の魂のために、共に祈り、共に悩み、そして共に答えを見つけ出す時なのです」


 そのあまりにも気高い、そして歴史的な宣言。

 それは、数千年間続いてきた宗教間の対立の歴史に、終止符を打つ号砲のようだった。

「……ミスター・プレジデント。……そして、G7の皆様」

 教皇は、政治の王たちに向き直った。

「……あなた方が我々に問いかけたその究極の問い。……『公表すべきか、否か』。……その答えを、今この場で出すことは、できません。……それは、あまりにも軽率に過ぎましょう」

 彼は、静かに提案した。

「……我々に、少しだけ時間をいただけませんか。……我々世界の宗教指導者たちは、このペンタゴンを離れ、どこか静かな場所で、数日間合宿を行いたい。……そこで、我々はそれぞれの信仰の叡智を持ち寄り、夜を徹して語り合い、そして祈りましょう。……人類が進むべき道について」

 そのあまりにも真摯で、そして建設的な提案。

 トンプソンは、深く、深く頷いた。

「…………分かりました。……教皇猊下。……我々は待ちます。……あなた方の、その聖なる合議の結果を」


「そして、我々は約束します」

 教皇は続けた。

「……我々がどのような結論に至ったとしても。……その結論を携えて、我々は再びこのテーブルに戻ってまいります。……そして、その時は、もはや政治と宗教という垣根はありません。……我々は、ただの『人類の代表』として、共にこの難局に立ち向かう、一つのチームとなるのです」


 その力強い、連帯の誓い。

 それは、この絶望的な状況の中に差し込んだ、一筋の、しかし確かな希望の光だった。

 G7の指導者たちは、皆椅子から立ち上がった。

 そして、その場にいる全ての宗教指導者たちに、深々と頭を下げた。

 それは、もはや謝罪ではなかった。

 それは、これから始まる未知の航海の羅針盤を託された賢人たちへの最大限の敬意と、そして自らの運命を託すという、覚悟の表明だった。


 人類の歴史上、最も奇妙で、そして最も重要な共同体が、産声を上げた。

 政治と宗教。

 現実と信仰。

 その、決して交わることのなかった二つの力が、今、初めて、一つの目的のために手を取り合った。

 ――人類の魂の、進むべき道を見つけ出すために。

 王たちの苦悩は、終わらない。

 だが、彼らはもはや孤独ではなかった。

 その暗い煉獄の道を共に歩む聖者たちの存在が、彼らの心を静かに照らし始めていたのだから。

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