第26話 神々の不在証明と、聖者たちの帰還
その日、ペンタゴンは歴史上最も奇妙で、最もありえない訪問者たちを迎え入れていた。
バチカンから飛来した専用機が、アンドルーズ空軍基地に静かに着陸し、そのタラップを降りてきたのは、白の僧衣を纏ったローマ教皇その人だった。SPとスイス衛兵に厳重に警護されながら、彼は待機していた黒塗りの防弾リムジンへと乗り込む。その数分後には、カイロから到着した便から大イマームが、エルサレムから首席ラビが、そしてダラムサラからは特別な許可を得て、穏やかな笑みを浮かべたダライ・ラマ法王が、次々とその姿を現した。
プロテスタント諸派を代表する世界教会協議会の議長。ギリシャ正教の総主教。ヒンドゥー教の高僧に、仏教各宗派の管長。普段であれば、同じテーブルに着くことすら想像できない世界の主要な宗教の最高指導者たちが、まるで何かに引き寄せられるかのように、アメリカ合衆国という世俗の権力の象徴の、その心臓部へと秘密裏に集められていく。
彼らに伝えられていた召集の理由は、ただ一つ。『人類の精神的存続に関わる最高レベルの危機について』。そのあまりにも漠然とした、しかし有無を言わせぬ響きを持つ議題の前に、彼らはそれぞれの教団内部での激しい議論と反対を押し切り、この前代未聞の呼びかけに応じたのだ。彼らの胸に渦巻いていたのは、共通の重い予感だった。ジュネーブ宣言。G7が発表した、あの神の領域に踏み込むかのような、傲慢な科学技術の解放宣言。おそらくは、それに関わる何かだ。我々信仰の世界に対する、政治の世界からの最終通牒か、あるいは助けを求める悲鳴か。
彼らが案内されたのは、ペンタゴンの地下深く、地図には存在しない部屋、「タンク」。鋼鉄の壁に囲まれた窓一つないその部屋の異様な圧迫感と、そこに既に待機していたG7の指導者たちの、まるで葬儀にでも参列しているかのような厳粛な表情を見て、宗教指導者たちは、自分たちの予感が後者であったことを悟った。
円卓を挟んで、政治の王たちと信仰の王たちが向かい合う。
人類の歴史を、物質的な側面と精神的な側面からそれぞれ支配してきた二つの権力が、今この密室で、初めて本当の意味で対峙した。部屋の空気は、まるで嵐の前の静けさのように、張り詰めていた。
重苦しい沈黙を破ったのは、この異様な会合の主催者、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソンだった。
「――皆様。本日は、我々の突然の、そして無礼な呼びかけに応じていただき、心から感謝を申し上げる」
彼の声は低く、そしてひどく疲弊していた。その顔には、世界の覇者としての自信や威厳は、どこにも見当たらなかった。あるのは、自らの手に余るあまりにも巨大な重荷を背負い、押し潰されそうになっている、一人のか弱い人間の苦悩の色だけだった。
「……本日、皆様方、信仰の世界の指導者たちにお集まりいただいたのは、他でもありません。……我々、政治の世界の人間が、もはや我々だけの力では到底抱えきれなくなった一つの、あまりにも巨大な『真実』について皆様にご報告し、そして我々と共に、その重荷を背負っていただきたいと、そうお願いに上がった次第です」
そのあまりにも殊勝な、そして助けを求めるかのような前置き。
宗教指導者たちの間に、訝しげな、そしてわずかに警戒を含んださざ波が広がった。この傲慢な政治家たちが、我々に助けを? いったい何が。
トンプソンは、一度目を閉じた。そして、まるで自らの罪を告白する懺悔者のように、その究極の真実を語り始めた。
「……皆様は覚えているでしょう。我々G7が数ヶ月前、『ジュネーブ宣言』を発表した時のことを。我々はあの時、遺伝子改変とクローン技術という、神の領域とも言うべき禁断の扉を開きました。……あの時皆様方は、我々を激しく非難なされた。『神への冒涜だ』と。『人間の驕りだ』と。……ええ、その通りです。我々は、その非難を甘んじて受け入れました。……ですが」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、深い、深い悲しみの色が宿っていた。
「……ですが皆様。……我々には、そうするしかなかったのです。……なぜなら」
彼は、一度言葉を切った。
そして、人類の歴史を永遠に変えてしまうその一言を、宣告した。
「――我々人類は、もはやこの宇宙で唯一の知的生命体では、なくなったからです」
その言葉が投下された瞬間。
タンクの中の、時間が止まった。
宗教指導者たちは、誰一人としてその言葉の意味を理解できなかった。
唯一の知的生命体ではなくなった?
それは、何を意味する?
トンプソンは、その完全な沈黙に包まれた部屋で、静かに続けた。
「……全ての始まりは、日本でした。彼らが、あの『空間拡張技術』を発表したあの日。……我々も当初は、彼らが独自の技術でそれを開発したのだと、そう信じておりました。……ですが、真実は違ったのです」
彼は、手元のコンソールを操作した。
部屋の壁面が、巨大なスクリーンへと姿を変える。
そしてそこに、あの介入者の神々しい姿が、大写しになった。
銀色の長髪。
夜空の瞳。
光のローブ。
その、人間とは明らかに異質な、しかし見る者を畏怖の念で打ちのめす、絶対的な存在感。
「――彼が、その技術を日本に『授けた』のです」
トンプソンのかすれた声が、響いた。
「……我々が『介入者』と呼んでいる、地球外より来たりし知的生命体。……彼が、我々人類の前にその姿を現したのです」
もはや、部屋に空気は存在しなかった。
宗教指導者たちは、呼吸をすることも忘れ、ただ目の前のスクリーンに映る、ありえない、しかし否定のしようのない現実の映像に、釘付けになっていた。
ローマ教皇は、その唇からほとんど無意識に祈りの言葉を漏らした。「……おお、主よ……」。
大イマームは、その顎鬚をわなわなと震わせた。
ダライ・ラマは、その穏やかな笑みを消し去り、深い、深い瞑想に入るかのように、目を閉じた。
「我々は、彼から告げられました。……この宇宙には、『銀河コミュニティ』と呼ばれる無数の星間文明の共同体が存在すると。……そして、我々地球文明は、その偉大な文明社会から見れば、まだ言葉も話せぬ揺りかごの中の赤ん坊に過ぎないのだと」
トンプソンは、淡々と、しかしその言葉の一つ一つに、自らが受けた衝撃を滲ませながら語り続けた。
「そして、彼らは我々に言いました。……あなた方がいつか我々の仲間入りをするためには、まずその価値観をアップデートする必要があると。……あなた方が禁断の領域として恐れている遺伝子改変やクローン技術も、我々銀河コミュニティでは、ごくごく標準的なテクノロジーなのだと」
そのあまりにも、衝撃的な告白。
それは、彼らが数千年間築き上げてきた、信仰という名の巨大な伽藍を、その土台から根こそぎ破壊する巨大な地震のようだった。
我々が、神の子として特別な存在なのではなかったとしたら?
我々の道徳も倫理も、この宇宙ではただの地方の風習に過ぎなかったとしたら?
そして、我々が祈りを捧げてきた唯一絶対の神とは、一体何だったのか?
宗教指導者たちは、皆頭を抱え、深く、深く項垂れた。
その姿は、まるで最後の審判の日に、自らの罪を認め、ひれ伏す哀れな罪人のようだった。
彼らは、悩んでいた。
苦しんでいた。
自らの信仰と、目の前の絶対的な現実との間で、その魂を引き裂かれそうになっていた。
その地獄のような沈黙が支配する部屋の中で。
不意に、アメリカ大統領ジェームズ・トンプソンの声のトーンが変わった。
先ほどまでの、苦悩に満ちた懺悔者の声ではない。
それは、どこか吹っ切れたような、そしてほんの少し皮肉と嫌味を含んだ声だった。
「――いやー……」
彼は、まるで他人事のように言った。
「……ジュネーブ宣言の時は、本当に辛かったですよ、皆様」
そのあまりにも、場違いな言葉。
項垂れていた宗教指導者たちが、はっと顔を上げた。
「……我々はこのとんでもない真実を胸の内に隠し持ったまま。……あなた方、宗教界の皆様方から、『神への冒涜者だ』、『人間の驕りだ』と、それはもう激しく非難されて。……いやはや、本当に悲しかったですなあ」
その声には、悲しみなど微塵も感じられなかった。
むしろ、その逆。
まるで、長年の恨み言をここぞとばかりにぶちまけているかのような、粘着質な響きがあった。
「我々は、この人類の存亡に関わる重大な秘密を、ただ一人で背負い込んで。……世界がパニックに陥らないようにと、必死で嘘に嘘を塗り重ねて。……その我々の苦労も知らないで、あなた方はただ高みから我々を断罪するだけ。……ああ、我々はなんて孤独で、なんて不幸な存在なんだろうと、そう毎晩枕を濡らしておりましたよ」
そのあまりにも子供じみた、そして悪意に満ちた嫌味。
宗教指導者たちは、呆然とその言葉を聞いていた。
そして、理解した。
これは、懺悔ではない。
これは、復讐なのだと。
自分たちが今まで彼ら政治家たちに投げつけてきた、正論という名の石つぶてに対する、徹底的な報復なのだと。
「――ですが、もう違いますね」
トンプソンは、にやりと笑った。
その顔は、もはや苦悩する指導者のものではない。
自らが仕掛けた罠に、獲物がかかったのを愉しむ、狡猾な狩人の顔だった。
「もう我々だけが、この地獄の苦しみを味わうのは終わりにしましょう。……そうでしょう? 皆様。……これからは、みんなで悩みましょうよ。ねえ?」
彼は、まるで長年の友人に語りかけるかのように、親しげに言った。
「我々政治家には、もう分かりません。……この新しい時代に、人々が何を信じ、何を支えに生きていけばいいのか。……我々の神は、一体どこへ行ってしまわれたのか。……我々哀れな子羊たちを導いてくれる羊飼いは、どこにいるのか」
そして彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、頭を抱えて項垂れたままの宗教指導者たちを、一人一人見下ろしながら、その最後の、そして最も残酷な一撃を放った。
「――ほら、皆様。……顔を上げてください」
その声は、どこまでも優しく、そしてどこまでも無慈悲だった。
「あなた方は、信仰の導き手ではありませんか。……どうか、こんなくだらない政治家たちではなく。……道に迷った我々全人類を、お導きくださいよ。……さあ、どうぞ。……我々は、あなた方のありがたい神のお言葉を、お待ちしておりますよ……?」
そのあまりにも丁寧な、そして悪魔的なまでの皮肉。
それは、彼らの存在意義そのものを問い質す、究極の踏み絵だった。
お前たちは、神の代理人なのだろう?
ならば、この神が不在となった世界で、お前たちに一体何ができるのだ?
さあ、示してみせろと。
宗教指導者たちは、もはや何も言えなかった。
彼らは、完全に閉じ込められたのだ。
このペンタゴンという、鋼鉄の檻の中に。
そして、G7という名の七人の悪魔たちが仕掛けた、論理の罠の中に。
彼らが今この場で立ち上がり、「それは偽りの神だ! 我々を惑わす悪魔だ!」と叫んだところで、何になる?
目の前には、動かぬ証拠がある。
彼らがこの部屋を出て、世界に真実を暴露したところで、何になる?
世界は、ただパニックに陥るだけだ。
彼らは、もはやG7の計画の批判者ではいられなくなった。
彼らもまた、この人類の魂の危機を、共に背負わなければならない「当事者」にされてしまったのだ。
ローマ教皇が、ゆっくりと顔を上げた。
その皺の刻まれた顔には、深い、深い絶望と、そしてそれ以上に、遥かに巨大な慈愛の色が浮かんでいた。
彼は、震える声で言った。
「…………分かりました……」
彼は、トンプソンではなく、その遥か向こう、天にいる本当の神に語りかけるかのように言った。
「……これもまた、主が我々にお与えになった試練なのでしょう。……我々は、逃げません。……この苦しみを、あなた方政治家だけには背負わせはしません。……我々も、共に参りましょう。……この人類の、最も暗い夜を越えるために」
そのあまりにも気高い、自己犠牲の宣言。
それが、この混沌とした会議の最終的な結論となった。
王たちは、聖者たちを自らの地獄へと引きずり込むことに成功した。
だが、聖者たちは、その地獄を自らが人々と共に歩むべき煉獄として、受け入れたのだ。
トンプソンは、静かに席に戻った。
彼の顔には、もはや皮肉な笑みはなかった。
あるのは、自らが呼び覚ましてしまったこの気高き魂たちへの、深い、深い畏敬の念だけだった。
彼は、理解した。
自分たちが今始めたこのゲームは。
自分たちが思っていたよりも、遥かに大きく、そして遥かに尊いものになるのかもしれないと。
人類の歴史上、最も奇妙で、そして最も重要な共同体が、産声を上げた。
政治と宗教。
現実と信仰。
その、決して交わることのなかった二つの力が、今初めて、一つの目的のために手を取り合った。
――来るべき、真実の公表の日に備えるために。
人類の本当の夜明けは。
この絶望的な、しかしどこか希望に満ちた共犯関係の成立から、始まったのかもしれない。




