第24話 王たちの決断と人類の夜明け
ペンタゴンの地下深く、鋼鉄の棺桶「タンク」。
その円卓を囲む西側世界の七人の指導者たちの間に生まれた亀裂は、もはや誰の目にも明らかだった。フランスのデュボワ大統領が投下した「真実を公表すべきだ」という禁断の爆弾は、この秘密の会合を、人類の未来を左右する究極の討論の場へと変貌させたのだ。
「――正気か、デュボワ! 君は、世界を焼き尽くす気か!」
アメリカ大統領ジェームズ・トンプソンの怒声が、分厚い防音壁に跳ね返った。彼の顔は、怒りと信じられないという思いで、赤黒く染まっている。
「我々が今、かろうじて保っているこの世界の秩序が、どれほど脆いガラス細工の上にあるか、君が知らないはずがないだろう! そのガラスの床の下には、宗教的対立、民族紛争、経済格差という、煮えたぎるマグマが渦巻いているのだ! そこに、『神は存在せず、我々は宇宙人の被造物かもしれない』などという、究極の真実を叩きつけたらどうなる!? ガラスは粉々に砕け散り、我々は皆、そのマグマの中に真っ逆さまだ!」
それは、世界の警察官を自認する超大国の指導者としての、あまりにもリアルな恐怖の叫びだった。彼の脳裏には、エルサレムで、メッカで、バチカンで、自らの信仰の根幹を揺るがされた数億の信者たちが暴徒と化す光景が、鮮明に映し出されていた。金融市場は暴落し、都市機能は麻痺し、国家という枠組みそのものが、意味をなさなくなる。その混沌の果てに待っているのは、無政府状態と、終わりなき内戦だ。
だが、フランスのデュボワは、一歩も引かなかった。彼の瞳には、革命家の理想と、哲学者の狂気が、危ういバランスで同居していた。
「違うな、ミスター・プレジデント! 君が見ているのは、恐怖に支配された、最悪の未来だけだ! だが、私には見える! 別の未来が!」
彼は、まるで演説台にでも立つかのように、その場にいる全員に語りかけた。
「考えてもみてくれ! 我々が今日まで、どれほど多くの血を流してきた? 国家のため、宗教のため、イデオロギーのため。その全てが、この小さな青い星の上だけで繰り広げられてきた、哀れで、ちっぽけな兄弟喧嘩に過ぎなかったと、全人類が知った時、何が起きる? ……私は、そこにこそ、希望があると思うのだ!」
デュボワの声が、熱を帯びる。
「我々は、初めて、同じものを見上げることになる。星々の海を。そして、我々以外の、圧倒的な知性を。その、大いなる存在の前で、我々がアメリカ人だの、フランス人だの、キリスト教徒だの、イスラム教徒だのといった違いに、一体何の意味があるというのだ!? 我々は、ただの『地球人』になるのだ! この、広大な宇宙に浮かぶ、孤独で、か弱い、一つの家族として! ……それこそが、我々が、次のステージへと進むために、絶対に越えなければならない壁なのではないのかね!?」
その、あまりにも青臭く、しかし、魂を揺さぶる理想論。
会議室は、二つの巨大な意見のプレートがぶつかり合う、プレートテクトニクスの中心地と化した。
「理想論だ!」
トンプソンが、再び吼えた。
「君の言うことは、美しい詩だ! だが、我々は政治家だ! 詩人で、国は守れん! 民衆というものは、君が思うほど、理性的ではない! 彼らは、未知を前にすれば、希望よりも先に、恐怖を抱く! そして、その恐怖は、必ず、最も分かりやすい敵を探し出す! 『宇宙人は悪魔だ』と叫ぶ狂信者が現れ、『政府は悪魔と手を結んだ』と民衆を扇動するポピュリストが現れる! 君が夢見る『地球家族』とやらが誕生する前に、世界は、魔女狩りの炎に包まれることになるぞ!」
「その恐怖を乗り越えさせ、民衆を導くことこそが、我々指導者の、本当の責務ではないのか!」
デュボワが、叫び返した。
「いつまでも子供扱いして、不都合な真実から目を逸らさせ続けるのは、指導者ではない! それは、ただの、独裁者だ! 私は、私の国民を、信じたい!」
二人の激論に、他の指導者たちも、次々と参戦していく。
「……私も、公表には、反対だ」
イギリスの首相が、重々しく口を開いた。
「経済的な観点から言わせてもらえば、その影響は、計り知れない。いや、破壊的というべきだろう。全ての産業構造の前提が、覆るのだ。エネルギー、資源、そして不動産。これらの価値が、一夜にして無に帰す可能性すらある。我々は、世界大恐慌どころではない、文明規模の経済崩壊を、自らの手で引き起こすことになるかもしれんのだぞ」
「ですが!」
今度は、ドイツのシュミットが、反論した。
「我々が、この真実を隠蔽し、『我々の科学技術の成果だ』と偽り続けた場合の、長期的なリスクを、お忘れですか? その嘘は、いつか必ず、露見する。そして、その時、我々政府に対する信頼は、完全に地に落ちるでしょう。『彼らは、神の存在すら、我々に隠していた』と。……そうなれば、我々は、国民から、永遠に、その正統性を疑われることになる。嘘で塗り固められた国家など、砂上の楼閣に過ぎません」
賛成、反対、賛成、反対。
議論は、完全に、平行線を辿っていた。
どちらの意見も、正論だった。
どちらの未来予測も、現実になる可能性を、十分に秘めていた。
それは、もはや、論理や理屈で、答えの出せる問題ではなかった。
それは、指導者一人一人が持つ、人間観、世界観、そして、自らの国民に対する、信頼の度合いを問う、究極の、踏み絵だった。
会議が始まってから、既に、六時間が経過しようとしていた。
タンクの中の空気は、男たちの熱気と、二酸化炭素と、そして、結論の出ない不毛な議論への、苛立ちで、重く、淀んでいた。
誰もが、疲弊しきっていた。
このままでは、朝まで議論しても、結論など出はしないだろう。
この、人類の歴史上、最も重要な会議が、ただの罵り合いの場として、終わってしまうのか。
誰もが、そう思い始めた、その時だった。
「――皆様。……もう、よろしいのでは、ございませんか」
その、静かな、しかし、不思議なほどよく通る声が、部屋の喧騒を、まるで鋭利な刃物で切り裂くかのように、断ち切った。
声の主は、日本の総理大臣、郷田龍太郎だった。
彼は、会議が始まって以来、ほとんど口を開かず、ただ、腕を組み、目を閉じて、その激しい議論の行方を、静かに、聞き続けていた。
その、まるで嵐の目の中にいるかのような、不可解なまでの静けさに、誰もが、知らず知らずのうちに、畏敬の念を抱いていた。
郷田は、ゆっくりと、その老いた、しかし、少しも衰えを見せない、鋭い目を開いた。
「……トンプソン大統領。デュボワ大統領。そして、皆様。……あなた方の、その国を、世界を、そして人類を思う、その熱い情熱と、深い苦悩。……この郷田、感服いたしました。……あなた方のような、優れた指導者たちと共に、この歴史の転換点に立ち会えることを、私は、心から、誇りに思います」
その、あまりにも丁寧な、そして、老練な政治家としての、完璧な口上。
誰もが、息を飲んで、彼の次の一言を、待った。
郷田は、まるで、複雑に絡み合った知恵の輪を、一本ずつ、解きほぐしていくかのように、静かに、語り始めた。
「……皆様。我々は、もはや、同じ場所を、ぐるぐると、回り続けているだけのように、思えます。……なぜなら、我々が議論しているのは、未来という名の、誰にも見えぬ、闇の中のことだからです。……公表すれば、パニックが起きるかもしれない。……隠蔽すれば、不信が生まれるかもしれない。……どちらも、可能性の話。……どちらに、どれだけのリスクがあるのか、正確に計算できる者など、この部屋には、一人もおりますまい」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
そして、その視線を、テーブルの上に置かれた、水のグラスに向けた。
「……ですが、皆様。……一つだけ、確実なことがあります。……それは、我々が、今、この瞬間も、前に進み続けている、ということです。介入者様は、我々に、空間拡張技術を、お与えくださった。そして、アーク様は、我々に、サイボーグ化技術を、ご提案くださった。……これで、終わりでしょうか?」
郷田は、ゆっくりと、顔を上げた。
その目は、もはや、目の前の指導者たちではなく、その遥か向こう、星々の海を見つめているかのようだった。
「……いいえ。終わりではありますまい。……これから、我々は、第二、第三の、神の福音を、手にすることになるでしょう。……もしかしたら、来月には、不治の病を根絶する、医療技術がもたらされるかもしれない。……半年後には、地球のエネルギー問題を、完全に解決する、新たな動力源が、もたらされるかもしれない。……そして、一年後には……そう、ワープ航法が、もたらされる、やもしれません」
その、あまりにも壮大で、しかし、否定のしようがない、未来の可能性。
指導者たちは、ゴクリと、喉を鳴らした。
「……その度に。……その、奇跡が、我々の手にもたらされる、その度に。……我々は、今日と同じように、この薄暗い地下室に集まり、『これを、民衆に、どう説明するのだ』と、そう、頭を抱え、罵り合い、そして、時間を、無為に、浪費し続けるので、ありましょうか?」
その、静かな、しかし、刃物のように鋭い問い。
それは、この議論の、本質そのものを、容赦なく、えぐり出していた。
そうだ。
問題は、サイボーグ技術、一つではない。
これは、これから永遠に続くであろう、神々との対話の、ほんの、入り口に過ぎないのだ。
「……不毛だとは、思いませんか? 皆様」
郷田は、静かに言った。
「……我々が、この地下で、不毛な議論を繰り返している間にも、時間は、過ぎていく。人類が、真に、次のステージへと進むべき、貴重な時間が、失われていく。……我々が、本当に議論すべきは、『公表するか、しないか』などという、目先の、小さな問題ではない。……我々が、議論すべきは、『この、新しい時代を、どう生きるか』という、もっと、大きな、問題なのでは、ありませんかな?」
その、あまりにも達観した、そして、本質を突いた言葉。
会議室は、水を打ったように、静まり返った。
トンプソンも、デュボワも、もはや、何も言えなかった。
彼らは、気づかされたのだ。
自分たちが、いかに、小さな問題に、固執していたかを。
自分たちが、いかに、未来から、目を逸らしていたかを。
「……郷田総理……」
トンプソンが、かすれた声で、呟いた。
「……では、君は、どうすべきだと、言うのだ……?」
その、全世界の覇者からの、助けを求めるかのような問いに。
郷田は、初めて、ふっと、その表情を和らげた。
それは、まるで、迷える子羊に、道を指し示す、老いた羊飼いのような、穏やかな笑みだった。
「――決めるのですよ。……皆様」
彼は、静かに言った。
「……もう、決めましょう。……どちらの道が、正しいかなど、誰にも分かりはしない。ならば、我々が、今、この瞬間に、一つの道を選び、そして、その道が、正しかったのだと、未来の歴史に、証明してみせようでは、ありませんか。……それこそが、我々、指導者に、課せられた、唯一の、責任なのでは、ありますまいか」
そして、彼は、ゆっくりと、続けた。
「……どちらを選んでも、地獄かもしれない。……だが、私は、こう思うのです。……嘘で塗り固められた、偽りの平穏という名の地獄よりも。……真実と向き合う、混沌とした、しかし、希望のある、地獄の方が、……いくらかは、マシなのではないかと」
その、あまりにも詩的で、そして、あまりにも、政治家離れした、覚悟の言葉。
それは、この場にいる、全ての指導者たちの、魂を、鷲掴みにした。
そうだ。
もう、迷っている暇はない。
決めるのだ。
今、ここで。
トンプソンは、ゆっくりと、天を仰いだ。
そして、長く、深く、息を吐き出した。
それは、一つの時代の終わりと、そして、新たな時代の始まりを、告げる、溜息だった。
「…………ははっ」
彼の口から、乾いた、自嘲するような笑いが、漏れた。
「……完敗だ、ゴウダ。……君の、勝ちだ」
彼は、ゆっくりと、顔を、下ろした。
その顔には、もはや、怒りも、苛立ちもなかった。
あるのは、自らの運命を、受け入れた男の、静かな、しかし、揺るぎない、覚悟の表情だけだった。
「……分かった。……公表、しよう。……この、とんでもない、真実を。……世界に、伝えてやろうじゃないか。……我々人類は、もはや、孤独ではないのだと」
その、鶴の一声。
それに、呼応するように。
デュボワが、シュミットが、イギリスの、カナダの、イタリアの首相が。
次々と、重々しく、頷いていった。
「……私も、賛成する」「異論はない」「それが、我々の、運命なのだろう」。
ここに、G7の、総意は、固まった。
彼らは、人類の歴史上、最も重く、そして、最も危険な、サイコロを、自らの手で、振ることを、決意したのだ。
「――まあ、なんとかなるだろ……!」
誰かが、そう、呟いた。
その声は、希望に満ちた、力強い宣言ではなかった。
むしろ、これから待ち受けるであろう、想像を絶する困難を前に、自らを鼓舞するかのような、どこか、投げやりな、悲壮な響きを、帯びていた。
だが、その、投げやりな一言こそが、この瞬間の、彼らの、偽らざる、本音だったのかもしれない。
そうだ。
なんとかなる。
いや、なんとか、するしかないのだ。
自分たちの、手で。
「よし。……決まったな」
トンプソンは、パンと、一度だけ、力なく手を叩いた。
「……では、諸君。……ここからが、本当の、地獄の始まりだ。……この、人類史上、最大の発表を、どのように、いつ、誰が、行うのか。……その、具体的な、計画を、今から、立てるぞ」
指導者たちの顔に、新たな、そして、より深刻な、苦悩の色が浮かんだ。
そうだ。
決断は、終わりのない、新たな仕事の、始まりに過ぎない。
王たちの、眠れない夜は、まだ、始まったばかりだった。
彼らは、もう、後戻りのできない、歴史の奔流へと、その身を、投じたのだから。