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第22話 神々の掌と王たちの饗宴

 永田町、首相官邸。

 その地下深くに存在する内閣危機管理監執務室は、もはや単なる会議室ではなく、人類という種の未来を鋳造するための、神聖にして冒涜的な工房と化していた。あの日、CISTの的場大臣からもたらされた介入者からの新たな神託――『鋼鉄の福音』に関する報告は、この国の権力の中枢に、かつてないほどの衝撃と興奮、そして底知れない畏怖の念を同時に叩きつけた。


 部屋の中央、重厚なマホガニーのテーブルを囲む男たちの顔には、この数日間、ほとんど眠っていないであろう深い疲労の色が刻まれている。だが、その瞳の奥で燃え盛っているのは、疲労とは真逆の、危険なまでの熱を帯びた光だった。彼らは今、歴史上いかなる王も、皇帝も、独裁者も手にすることのできなかった、究極の力を目の前にぶら下げられているのだ。


「――介入者様は、すげーな……」


 重苦しい沈黙を破ったのは、誰からともなく漏れた、そんな呟きだった。それは、この場にいる全員の、偽らざる本音だった。

 財務大臣の大蔵が、興奮を隠しきれない様子で、指先でテーブルを神経質に叩きながら続けた。

「いやはや、全くですな。我々がようやく『空間拡張技術』という神の御業に少しずつ慣れてきたというこのタイミングで、今度はこれだ。……正直、最初は『サイボーグ化技術』と聞いて、少しがっかりしたのですよ」

「ほう、がっかり、とは?」

 官房長官が、意外そうな顔で問いかける。

「ええ。空間を捻じ曲げるという、あの物理法則の根幹を覆すような奇跡に比べれば、身体を機械に置き換えるなど、どこか陳腐で、一段劣る技術のように聞こえた。……ですが、私は、完全に間違っていた」

 大蔵は、まるで懺悔するかのように、首を横に振った。

「『元に戻れるサイボーグ化』……。これこそが、本当の神の御業だ。空間拡張は、確かに凄まじい。だが、どこか我々の日常とはかけ離れた、遠い世界の魔法だ。しかし、これは違う。病に苦しむ人々、身体を失った人々。その一人一人の絶望に、直接手を差し伸べることができる。……これほど強力で、これほど民衆の心を直接掴む技術が、他にあるだろうか? いや、ない! やっぱり星間文明は、我々の想像を、遥かに、遥かに超えて凄まじい!」


 その熱弁に、他の閣僚たちも次々と頷く。そうだ。その通りだ。

 この技術は、単なる科学ではない。それは、希望そのものだ。そして、希望は、いつの時代も、国家を動かす最も強力な燃料となる。


「ええ、凄まじいですね。……そして」

 今まで黙って腕を組み、目を閉じていた防衛大臣の鬼塚が、ゆっくりとその猛禽類のような目を開いた。

「……この技術は、これ以上ないほど、軍事利用が容易だ」

 その一言が、部屋の空気を一変させた。先ほどまでの人道的な感動が、冷たい鋼鉄の匂いへと変わっていく。

「軍事利用、ですか」

 的場が、緊張した面持ちで問い返す。

「当たり前だろう」

 鬼塚は、まるで子供に言い聞かせるかのように、ゆっくりと、しかし、その言葉の一つ一つに、恐ろしいほどの熱量を込めて語り始めた。

「――サイボーグ化兵士だ」


 その単語が、部屋の温度をさらに数度下げた。

「考えてみろ。痛みを感じない兵士。恐怖を感じない兵士。睡眠も、食事も、休息も必要とせず、七十二時間、休むことなく戦い続けられる兵士。その眼は、暗闇の中でも数キロ先を見通す望遠スコープとなり、その腕は、戦車の装甲を素手で引き裂く油圧アームとなる。脳と直結した戦術ネットワークで、部隊全体が一つの生き物のように、寸分の狂いもなく動く。……そんな軍隊が、この世に誕生したら、どうなる?」

 鬼塚は、立ち上がった。そして、まるで世界地図でも見下ろすかのように、虚空を睨みつけた。

「核兵器の時代は、終わる。これからは、歩兵の質と数が、再び戦場の趨勢を決する時代が来るのだ。そして、その頂点に立つのは、誰だ? ……我々、日本だ!」


 彼の声が、震えた。それは、恐怖ではない。武人としての、純粋な歓喜の震えだった。

「介入者様から貰ったデータによれば、この技術の応用で、サイボーグ兵士を作るなど、赤子の手をひねるより簡単なことだ! 日本が! この、資源も持たず、戦後は牙を抜かれ続けた、哀れな島国が! 軍事においても、世界のトップを取れる時代が、すぐそこまで来ているのだ! もう、アメリカの核の傘に守ってもらう必要もない! 我々自身の力で、この国の平和と、尊厳と、そして国益を、守り抜くことができるのだ!」


 その、あまりにも雄弁で、あまりにも危険な演説。

 会議室は、水を打ったように静まり返っていた。誰もが、その恐るべき可能性に、言葉を失っていた。

 その、熱狂的な空気に、冷水を浴びせたのは、この国の最高権力者、郷田龍太郎だった。


「――こらこら、鬼塚君」


 その、まるで悪戯っ子を叱るような、穏やかな、しかし有無を言わさぬ声に、鬼塚ははっと我に返り、着席した。

 郷田は、ゆっくりと葉巻に火をつけ、その紫煙を天井に向かって吐き出した。

「……君の気持ちは、痛いほど分かる。その、鋼鉄の軍団が、我が国の空を、海を、陸を守る姿を想像すれば、武人ならずとも、心が震えるだろう。……だが、焦りは禁物だ」

 郷田は、その老獪な目で、鬼塚を諭すように見つめた。

「その、喉から手が出るほど欲しい軍事利用をしたいという気持ちは、一旦、その胸の奥に、深く、深く、仕舞っておきたまえ。……まず、我々が優先すべきは、介入者様が示してくださった道筋だ。すなわち、民間への、人道目的での適用が、何よりも先だ」

「しかし、総理!」

 鬼塚が、食い下がろうとする。

「考えてもみなさい」

 郷田は、静かに続けた。

「我々が、この技術を受け取った途端、真っ先にその軍事利用に飛びついたら、介入者様はどう思われるだろうか? 『やはり、地球の猿どもは、新しいオモチャを与えれば、すぐにそれで殴り合いを始める、救いようのない蛮族だったか』と、そう思われるのではないかね? ……そうなれば、我々は、介入者様の、愛想を尽かされることになるやもしれん。技術供与は、これが最後。あるいは、もっと悪い。我々が、彼の壮大な計画における『失敗作』として、静かに処理されてしまう可能性だって、ゼロではないのだぞ」


 その、あまりにも恐ろしい可能性の指摘。

 部屋の空気が、再び凍りついた。

 そうだ。

 我々は、常に、見られているのだ。

 あの、神の視点から、我々の一挙手一投足が、試され、評価されている。

 鬼塚は、ぐっと言葉を詰まらせた。


「……まあ、それは、確かに……。承知いたしました。……軽率な発言、お許しいただきたい」

 鬼塚は、不承不承ながらも、頭を下げた。

 郷田は、満足げに頷いた。

「うむ。分かってくれれば、よろしい。……だが、安心したまえ、鬼塚君。君が夢見るその日は、必ず来る。人道支援という名の元に、国民の間に、この技術へのアレルギーが完全になくなった、その時こそ。我々が、静かに、そして速やかに、その牙を研ぐ時なのだからな……」

 その、あまりにも冷徹で、長期的な視点に立った戦略。

 誰もが、この老獪な指導者の、底知れない深謀遠慮に、改めて戦慄した。


 議論が、一つの方向へと収束しかけた、その時だった。

 今まで、黙ってそのやり取りを聞いていた、外務大臣の犬養が、おそるおそる、といった様子で、手を挙げた。

「……あのう、総理。……よろしいでしょうか」

「なんだね、犬養君」

「……うーん、そもそも論になってしまうのですが……。この、あまりにも重大な問題を、我々日本政府だけで、独断で決めてしまって、本当に良いのでしょうか?」

 その、あまりにも根本的な問いかけに、閣僚たちの視線が、一斉に彼に集まった。

 犬養は、額の汗を拭いながら、続けた。

「この、サイボーグ化技術は、もはや日本一国の問題ではありません。介入者様のあの映像が示唆していたように、これは、全人類への福音となりうる、普遍的な可能性を秘めています。……我々が、ワシントンで、G7の友人たちと、何を誓い合ったか、お忘れではありますまいな?」

 彼の言葉は、熱に浮かされていた閣僚たちの頭を、急速に冷却させていった。

 そうだ。

 ワシントン共同宣言。

 我々は、G7という運命共同体になったはずではなかったか。


「あの時、我々は、『人類の宝を独占しない』と、そう誓ったはずです。それなのに、今度は、統合知性体アークなる、新たな宇宙人から、とんでもないお土産を貰ってきました、と。そして、それを、同盟国に何の相談もなく、勝手に使い始めます、と。……そんなことが、果たして許されるでしょうか? 我々は、G7の、そして全世界の信頼を、一夜にして失うことになりかねませんぞ」

 犬養の、魂からの叫び。

 それは、外交という、国家間の信頼関係を、何よりも重んじる男の、偽らざる本音だった。


「……それは、私も少し、思いましたな」

 今まで黙っていた官房長官が、重々しく口を開いた。

「我々日本政府だけで、この技術を『断る』か『受ける』かを決めてしまうのは、少し、早計に過ぎるかもしれません。……我々が断れば、人類全体の可能性の芽を、我々が勝手に摘み取ったことになる。我々が受ければ、先ほど犬養大臣が言われた通り、同盟国からの激しい反発は、避けられないでしょう。……どちらに転んでも、茨の道ですな」


 会議室は、重い、重い沈黙に包まれた。

 軍事利用という、国内の欲望。

 そして、同盟国との協調という、国外の現実。

 その、二つの巨大な壁に、挟まれて、身動きが取れなくなってしまったかのようだった。

 誰もが、この究極のジレンマに対する、答えを見つけ出せずに、ただ俯いていた。

 その、膠着した空気を、打ち破ったのは。

 やはり、この国の、老獪なる船頭、郷田龍太郎だった。

 彼は、葉巻の煙を、ゆっくりと、そして愉しむように、吐き出した。

 その顔には、一切の焦りも、迷いもなかった。

 まるで、この展開すらも、全て、彼の掌の上で転がされているに過ぎない、とでも言うかのように。


「……ふむ。お前たちの言うことは、よく分かった」

 彼は、まるで名優のように、一度、深く、悩むような仕草を見せた。

「確かに、難しい問題だ。……だがな、諸君。……視点を、少し変えてみてはどうかな?」

「……視点を、ですか?」

「うむ」

 郷田は、にやりと、いつもの狐のような笑みを浮かべた。

「お前たちは、この問題を、『断る』か『受ける』かという、二者択一で考えている。……だから、袋小路に迷い込むのだ。……だが、第三の道が、あるとしたら?」

 彼は、立ち上がった。

 そして、まるでチェスの名人が、最後の一手を指し示すかのように、静かに、しかし、有無を言わさぬ力強さで、その結論を告げた。


「――いいか。まず、我々日本政府は、このアークからの提案を、『受ける』。……だが、それは、我々が、この技術を、独占するためではない」

 彼は、外務大臣の犬養の目を、まっすぐに見据えた。

「我々が『受ける』のは、G7の、そして人類全体の代表として、この未知なる技術の安全性と、有効性を、最初に検証するという、『責任』と『義務』なのだ」


 その、あまりにも鮮やかな、論理のすり替え。

 部屋にいる全員が、息を飲んだ。


「そうだ。我々は、同盟国に、こう説明するのだ。『我々は、G7の誰よりも先に、この危険かもしれない未知の果実を、毒見する役目を、買って出るのだ』と。……これは、独占ではない。自己犠牲だ。人類の未来のために、我々が、最初に、そのリスクを背負うのだ、と。……そう言われて、文句を言う国が、どこにある?」


 もはや、誰も、何も言えなかった。

 それは、あまりにも完璧で、あまりにも狡猾な、大義名分だった。


「そして!」

 郷田は、続けた。

「その上で、こう提案するのだ。『この代替装備技術の、本格的な導入と、その国際的なルール作りについては、G7-ATCIの場で、共に、協調して決めていこうではないか』と。……どうだね? これならば、犬養君の懸念も、払拭されるのではないかな?」


 犬養は、呆然と、その言葉を聞いていた。

 そして、やがて、その顔に、深い、深い感嘆と、畏怖の色が浮かんだ。

「…………総理……。……恐れ入りました……」

 彼は、椅子から立ち上がり、深々と、郷田に向かって、頭を下げた。

「……その手がありましたか……。いや、はや……」


 そうだ。

 この手ならば、全てが丸く収まる。

 日本は、最初に技術を手に入れるという、最大の実利を得ながら。

 G7に対しては、協調と自己犠牲という、最大の貸しを作ることができる。

 そして、世界の指導者としての、日本の威信は、揺るぎないものとなる。

 まさに、一石三鳥。

 神がかった、政治的判断。


「――せめて、という言い方は、もうやめよう」

 郷田は、静かに言った。

「我々が、最初に、この技術を受けることを決め、そして、G7全体で、その恩恵を分かち合う道筋を作る。……これが、『ベター』な選択ではない。これが、唯一の、『ベスト』な選択なのだ」


 その、絶対的な自信に満ちた宣告に、もはや、この部屋で、異を唱える者は、一人もいなかった。

 彼らは皆、この郷田龍太郎という、稀代の政治家が描いた、壮大な設計図の前に、ただ、ひれ伏すしかなかった。

 郷田は、最後に、ずっと黙ってその議論の行方を見守っていた、的場に、その視線を向けた。

 その目には、全幅の信頼が、宿っていた。


「――的場君。……そういうわけだ」

「……はい」

「君には、再び、重荷を背負わせることになる。……次に、介入者様とお会いした時に、この、我々日本政府の、覚悟と、決意を、お伝えしたまえ。……そして、G-7の友人たちには、我々が、いかに彼らとの協調を重んじているかを、誠心誠意、説明するのだ。……骨が折れる仕事になるだろうが……」

「……覚悟は、できております」

 的場は、静かに、しかし、力強く、答えた。

 彼の心は、不思議なほど、凪いでいた。

 この、魑魅魍魎が跋扈する、権謀術数の世界で。

 自分は、いつの間にか、その濁流に、ただ流されるだけの存在ではなくなっていた。

 自らの意志で、その流れを、読み、そして、時には、その流れを、作り出すことすらできる。

 その、恐ろしくも、どこか陶酔的な感覚が、彼の魂を、静かに満たしていた。

 神々の掌の上で、踊らされていると思っていた。

 だが、いつの間にか、自分たちもまた、その掌の上で、自らの舞を、踊り始めていたのだ。


「――では、諸君。……日本の、いや、人類の、新たな一歩を、始めようではないか」


 郷田の、その静かな号令と共に。

 王たちの、新たな饗宴の、幕が、上がった。

 その饗宴のテーブルに、次に並べられるのが、甘美な果実なのか、それとも、猛毒の杯なのか。

 その答えを知る者は、まだ、誰もいなかった。

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