第21話 鋼鉄の福音と賢人たちの沈黙
富士の樹海の地下深く、外界から完全に隔絶されたCIST(対地球外知的生命体コンタクト及び交渉に関する特命対策室)の本拠地は、人類の知性が到達しうる最高の熱量で沸騰していた。ジュネーブ宣言というパンドラの箱が開かれて以来、ここに集められた日本の、いや、世界の頭脳たちは、寝食すら忘れ、神々が投げ与えた新たなパズル――遺伝子工学とクローン技術という禁断の領域に、その魂ごと没入していた。
巨大なメインコントロールルームの壁という壁は、もはやホワイトボードとしての原型を留めていなかった。複雑な遺伝子配列の図、タンパク質の立体構造モデル、そしてまだこの世の誰にも理解できない理論式が、狂気のタペストリーのように隙間なく描き殴られている。床には栄養補助食品の空き袋と、カフェイン飲料の缶が、まるで激しい戦闘の跡のように散乱していた。
その狂騒の中心で、室長である的場俊介は、日に日に深くなる目の下の隈を指で押さえながら、山のように積まれた報告書の山を睨みつけていた。G7-ATCIの本部となったジュネーブ、そしてワシントンの同盟国から、毎日、矢のように催促と問い合わせの通信が届く。世界は、CISTの、そして日本の次の一手を、固唾をのんで見守っていた。だが、的場自身、次の一手をどこに踏み出すべきか、深い霧の中を彷徨っているような心地だった。
我々は、本当にこの道を進んで正しいのだろうか。この先に待っているのは、輝かしい未来か、それとも種の変質という名の、緩やかな破滅か。
「――大臣。お時間です」
秘書官の静かな声に、的場ははっと我に返った。壁の時計が、厳粛な時刻を指し示している。月に一度、介入者と行われる定例会見の時間だった。
「……ああ、分かっている」
的場は重い腰を上げ、メインコントロールルームの中央に設えられた対話用の円卓へと向かった。彼の動きに気づいた科学者たちが、次々と作業を中断し、固唾をのんでその様子を見守る。彼らにとって、介入者は神であり、教師であり、そして畏怖の対象だった。あの神々しい存在から、次はいかなる神託が下されるのか。期待と緊張が、部屋の空気を張り詰めさせていた。
【仮想対話空間 "静寂の間"】
約束の時刻、寸分の狂いもなく。
的場と、CISTの中核を担う十数名の科学者たちの意識は、月面の観測ステーションが生成する仮想空間へと転送された。
光を飲み込むマットブラックの無限空間に、白く輝く円卓と椅子が浮かぶ、静謐な空間。だが、今日の的場たちには、この空間がいつもと少しだけ違って見えた。以前は、ただただ荘厳で、神聖な場所だと感じていた。だが、アークとの接触を経験した今、この空間が、ある一つの高度な文明の美意識によってデザインされた「人工物」であることが、明確に理解できた。神の聖域だと思っていた場所が、ただの応接室に見えてくる。その感覚の変化は、彼らがこの数ヶ月で、いかに急激な成長(あるいは変質)を遂げたかの証左だった。
彼らが着席して数秒後。
円卓の中央に、光の粒子が舞い降り、介入者がその神々しい姿を現した。銀色の長髪が、無重力のように揺らめき、夜空を溶かし込んだような蒼い瞳が、静かにそこにいる人間たちを見下ろしている。
だが、今日の介入者の佇まいは、いつもとどこか違っていた。これまでは、常に人類の教師として、どこか超越的で、評価するような視線を彼らに向けていた。だが、今日の彼は、もっと穏やかで、親しげですらあった。まるで、重要な取引先に、新しい大型案件を持ちかけてきた、凄腕のビジネスマンのような雰囲気を漂わせていた。
『――どうも、的場室長。CISTの諸君。まずは、ジュネーブ宣言の見事な成功を、祝福しよう』
介入者の声が、全員の脳内に直接響く。
『あなた方は、人類という種が抱える最もデリケートな倫理の壁に、見事な一撃を加えてくれた。世界は今、痛みと共に、新たな時代へと産声を上げようとしている。その勇気と決断に、まずは敬意を表する』
「……お言葉、感謝いたします。ですが、我々はまだ、その扉を開いたに過ぎません。この先に何が待っているのか、今はまだ……」
的場が慎重に答える。
『うむ。その謙虚さこそが、君たちの最大の美徳だ。……さて』
介入者は、芝居がかった仕草で、本題へと切り出した。
『実は先日、私の方で、古くからの友人と、少し話をする機会があってね』
友人と? その、あまりにも人間的な言葉に、CISTの誰もが耳を疑った。神に、友人がいるというのか。
『その友人は、銀河でも指折りの、穏健派平和主義を貫く、極めて理知的で、そして心優しいサイボーグ化文明でね。名を、『統合知性体アーク』というのだが』
介入者は、さらりと、とんでもない情報を開示した。
『彼らと、様々な話をしたのだが、その中で、君たち地球文明の話題になりましてね。私が後見している、非常に若く、才能に溢れ、しかしどこか危なっかしい、可愛い教え子がいるのだと。……そうしたら、彼らが、非常に君たちに興味を示してくれてね。ぜひ、自分たちのテクノロジーを、君たちの平和的な発展のために、有効活用してほしい、と、そう申し出てくれたのだよ』
その言葉の意味を、CISTの誰もが、すぐには理解できなかった。
異星文明が? 地球に? 技術を? しかも、無償で?
それは、国家間の援助や技術協力などという生易しい話ではない。星と星とが、初めて結ぶ友好の証。あまりにも巨大な、歴史的な申し出だった。
科学者たちの間に、熱に浮かされたような、どよめきが広がる。
『もちろん、いくら友人の申し出とはいえ、その安全性を確認せずして、君たちに渡すわけにはいかない。一応、私の方で、彼らが提供してくれた技術データを、徹底的にチェックさせてもらった』
介入者は、自信に満ちた笑みを浮かべたように見えた。
『結論から言おう。……その技術は、完全にクリーンだ。バックドアも、トラップも、君たちの知らない意図も、何一つ仕込まれてはいない。純粋な、善意の塊だ。……いや、善意というよりは、未来への投資、と言った方が正確かもしれんがね。とにかく、私がその安全性を、完全に保証しよう。……だから今日は、その素晴らしい贈り物を、君たちにお持ちしたというわけだ』
介入者は、すっと白い指を上げた。
『では、映像をどうぞ』
その言葉を合図に、「静寂の間」の黒い壁面が、巨大なスクリーンへと変わった。
そして、そこに、一本の映像が映し出された。
それは、いかなるプロパガンダ映画よりも、いかなるCMよりも、人々の魂を直接揺さぶる、あまりにも美しく、そしてあまりにも感動的な映像だった。
最初に映し出されたのは、病院のベッドの上で、窓の外を虚ろな目で見つめる、車椅子の少女だった。テロップには、『サラ・ミラー、8歳。交通事故により両下肢を切断』とある。窓の外では、同じ年頃の子供たちが、緑の芝生の上を、楽しそうに駆け回っている。少女は、その光景から目を逸らすように、ぎゅっと唇を噛み締めた。その瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
場面が切り替わる。
サラは、CISTの研究室のような場所にいた。彼女の前に、一人の白衣を着た技術者が、そっと、一対の美しい義足を差し出す。それは、無骨な機械ではなかった。まるで未来の彫刻作品のように、滑らかで、流線型で、白鳥の羽を思わせるような、優美なデザイン。
サラは、おそるおそる、その義足に、自分の体を預ける。
最初は、戸惑っていた。何度も、転びそうになる。だが、彼女の脳と直結した義足は、彼女の意志を瞬時に学習し、その動きを最適化していく。
数時間後。
彼女は、自らの足で、立っていた。
そして、一歩、また一歩と、確かめるように、歩き出す。
その顔に浮かぶのは、驚愕と、信じられないという戸惑い、そして、堰を切ったように溢れ出す、純粋な、歓喜の涙だった。
最後のシーン。
サラは、あの、病院の窓から見つめていた、緑の芝生の上に立っている。
彼女は、太陽に向かって、満面の笑みを浮かべると、次の瞬間、まるで解き放たれた若鹿のように、全力で、大地を蹴った。
風を切って走る彼女の姿。その背景に、優しいピアノの旋律と共に、一つのメッセージが浮かび上がる。
『失われた翼を、もう一度。』
映像は、そこで終わらない。
次に映し出されたのは、薄暗いコンサートホールの舞台袖で、頭を抱える、年老いた男性だった。『マエストロ・ジュリアン・オーベル、72歳。かつて世界最高のピアニストと謳われたが、変形性関節症により、その指はもはや鍵盤を叩くことができない』。
彼の前に、アタッシュケースが差し出される。中には、黒曜石のように輝く、一対の義手が入っていた。それは、人間の指よりも遥かに細く、しなやかで、その一本一本に関節が何十にも仕込まれている、異形の、しかし究極的に美しい手だった。
彼は、その手を、自らの腕に装着する。
そして、震える足で、ステージの中央、一台のグランドピアノの前へと歩みを進める。
観客は、いない。
彼は、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、そして、その鋼鉄の指を、鍵盤の上に、そっと置いた。
数秒間の、沈黙。
そして。
奏でられたのは、人間業とは思えないほどの、超絶技巧に満ちた、しかし、どこまでも深く、どこまでも魂に響く、美しい旋律だった。それは、喜びと、悲しみと、そして絶望の淵から這い上がってきた男の、再生の叫びそのものだった。
彼の目から、涙が、鍵盤の上に、ぽたぽたと落ちていく。
『奏でられなかった神の曲を、その手に。』
最後に映されたのは、集中治療室のベッドで、か細い呼吸を繰り返す、幼い少年だった。『レオ・ウィルソン、5歳。先天性の心臓疾患により、余命数ヶ月と宣告』。ガラス越しに、両親が、泣き崩れている。
場面は、手術室へ。
少年の胸が、開かれる。そこには、弱々しく拍動する、小さな心臓。
医師の手によって、一つの小さな、しかし力強く脈動する、銀色の人工心臓が、その隣に置かれる。それは、永久機関とも言うべき小型のエネルギー炉を内蔵し、外部からのエネルギー供給なしに、数百年以上も動き続ける、奇跡の臓器だった。
数ヶ月後。
レオは、野山を駆け回っていた。彼の胸には、手術の痕跡すらない。彼は、友達と笑い合いながら、坂道を、息一つ切らさずに駆け上っていく。その元気な姿を、両親が、涙ながらに、しかし満面の笑みで見守っている。
『止まらない鼓動を、永遠の愛を。』
映像は、ゆっくりとフェードアウトしていった。
後に残されたのは、絶対的な、静寂だけだった。
「静寂の間」にいる、CISTの誰もが、言葉を失っていた。
何人かの、若い科学者は、嗚咽を堪えるように、口元を押さえている。チームの最年長である湯川教授ですら、その老いた顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、眼鏡の奥の瞳を、赤く潤ませていた。
それは、あまりにも、ずるい映像だった。
理屈ではない。倫理でもない。ただ、人間の、最も柔らかく、最も根源的な感情に、直接訴えかけてくる、あまりにも強力なメッセージ。
病に苦しむ人々を救いたい。失われたものを取り戻したい。愛する人に、一日でも長く生きていてほしい。
その、誰も否定することのできない、純粋な願い。
その全てを、この技術は、叶えることができるのだと。
介入者は、その感動の余韻が支配する空間に、静かに、しかし、悪魔のように巧みな言葉を、投げかけた。
「――そして、なんと言っても、この技術の最大のポイントは」
彼の声は、まるで優しい福音のように響いた。
「万が一、このサイボーグ化が、気に入らない、あるいは、自分の身体に合わないと感じた場合には、いつでも、元の生身の肉体へと戻ることが可能である、という点です」
その一言が、科学者たちの意識を、感傷から現実へと引き戻した。
なんだと? 元に、戻れる?
「アークが開発した、この『治療用ナノマシン』は、サイボーグ化されたパーツを、原子レベルで完全に分解し、体外へと排出します。それと同時に、あなたの遺伝情報を元に、失われた肉体を、細胞の一つ一つに至るまで、完璧に再生してくれるのです。もちろん、厳密に言えば、それは『人口的に建設された肉体』です。生まれたままのオリジナルではありません。ですが、機能も、感覚も、全てが元のあなたと寸分違わぬ、正真正銘の生身の肉体です。……その、『いつでも生身に戻れる』という安心感は、何物にも代えがたいとは、思いませんか?」
その言葉は、人類がサイボーグ化に対して抱く、最も根源的な恐怖――「一度変質してしまったら、もう二度と元の人間に戻れない」という恐怖を、木っ端微塵に打ち砕く、究極の殺し文句だった。
もはや、この技術を拒絶する、論理的な理由が、どこにも見当たらなくなっていた。
介入者は、そのCISTのメンバーたちの、完全な沈黙を、満足げに見回した。
そして、最後の、そして最も巧みな一手を、打った。
「――どうですかな? この、アークからの、心温まる提案を」
彼の声には、一切の強制力も、圧力もなかった。ただ、純粋な善意の提案者のように、穏やかだった。
「もっとも、私としては、この技術を実施するかどうかは、完全に、あなた方地球文明の自由意志に、任せようと思っています。これは、あなた方の、身体と、魂の、あり方に関わる、極めて重大な決断です。私が、外部から口を出すべきことではない」
彼は、まるで隣人に語りかけるかのように、軽く肩をすくめてみせた。
「統合知性体アークも、その点は同じ意見です。彼らは、ただ、良き隣人として、自分たちの庭で採れた、美味しい果実を、お裾分けしたいだけなのです。もし、あなた方が『結構です』と断ったとしても、彼らが気分を悪くするようなことは、決してありません。ですから、どうぞ、お好きに」
その、究極の、突き放し。
「決めるのは、あなた方ですよ」という、絶対的な、決定権の委譲。
それは、どんな命令よりも、どんな脅迫よりも、重い、重い、選択の自由という名の、十字架だった。
しばらくの、沈黙。
その場にいる誰もが、このあまりにも巨大すぎる提案を、自らの頭の中で、必死に咀嚼しようとしていた。
最初に、我に返ったのは、室長である、的場だった。
彼の顔は、蒼白だった。そして、その額には、玉のような汗が、びっしりと浮かんでいた。
「…………マジかよ……」
彼の口から、ほとんど無意識に、そんな、公人としてあるまじき言葉が、漏れ出た。
それは、CISTの全員の、偽らざる心の声だった。
彼は、慌てて咳払いをすると、震える声で、続けた。
「……い、いや……その……。す、凄い……。凄い技術であることは、疑いようもありません……。ですが……」
彼は、必死で、言葉を探した。
この、神の福音としか思えない提案の、どこかに潜む、悪魔の罠を。
だが、見つからない。
あまりにも完璧で、あまりにも魅力的で、そして、あまりにも、人道的。
断る理由が、見つからないのだ。
彼は、助けを求めるように、円卓に座る、日本の最高峰の頭脳たちを見回した。
科学者たちは皆、同じように、呆然と、あるいは、恍惚とした表情で、スクリーンに映し出されたままのイメージ映像の残像を、見つめていた。
もはや、彼らの心は、決まっていた。
科学者として、この未知の扉を開けないという選択肢は、ありえなかった。
的場は、観念した。
これは、もはや、自分一人の、あるいは、この十数人の科学者だけの判断で、決められる問題ではない。
国家の、いや、人類全体の、未来の形を、決定する、究極の選択だ。
「…………介入者殿」
的場は、椅子から立ち上がると、深々と、頭を下げた。
「……誠に、申し訳ありませんが……。このご提案、あまりにも、あまりにも重大すぎます。……どうか、一度、我々に、持ち帰らせていただいても、よろしいでしょうか……?」
それは、彼の、最大限の、誠意と、苦悩の表明だった。
その、あまりにも人間的な反応に。
介入者は、初めて、その神々しい顔に、穏やかな、慈愛に満ちた笑みを、浮かべたように見えた。
『――ええ。良いですよ』
その声は、どこまでも、優しかった。
『どうぞ、ごゆっくり、お考えください。……あなた方人類が、どのような未来を選択するのか。我々も、そして、アークの友人たちも、楽しみに、待っているのですから』
その言葉を最後に、介入者の姿は、すうっと光の粒子へと変わり、消え去った。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、あまりにも巨大な宿題を抱え、呆然と立ち尽くす、賢人たちだけだった。
仮想空間との接続が、切れる。
CISTのコントロールルームに、科学者たちの意識が戻ってくる。
だが、誰一人として、声を発することができない。
彼らの目の前の、現実のテーブルの上には、介入者が残していった、一つのデータ結晶が、まるで聖遺物のように、淡い光を放っていた。
タイトルは、『鋼鉄の福音』。
その、あまりにも甘美で、あまりにも危険な光を、見つめながら。
的場俊介は、これから始まるであろう、人類史上、最も困難で、最も激しい議論の嵐を予感し、ただ、静かに、奥歯を、強く、噛み締めていた。




