第2話 月面のAIと最初の計画(プラン)
グレイ・グーが泡のように消え去ってから、どれほどの時間が経っただろうか。
相馬巧は、ガラス張りの壁の前に立ったまま、漆黒の宇宙に浮かぶ青い故郷を、ただ黙って見つめていた。絶対的な静寂がドーム内を支配している。聞こえるのは、自分の擬体の内部で微かに駆動する、精密機械のような音だけだ。
孤独だった。
死ぬ前も、満員電車に揺られ、人でごった返すオフィスで働きながら、巧はいつも孤独を感じていた。だが、今感じている孤独は、それらとは全く質が異なっていた。物理的に、彼は今、この宇宙でたった一人、文明の埒外に立っている。あの美しい青い球体に住む七十億を超える人類の誰一人として、自分の存在も、自分に課せられた使命も、そして間もなく自分たちの頭上に振り下ろされようとしているギロチンの刃の存在すら、知らない。
この孤独と、この秘密の重圧。それら全てを、自分一人の肩で受け止めなければならない。
元サラリーマンとしての思考の癖が、頭をもたげてくる。
――プロジェクトの全体像を把握しろ。
彼は、脳内で架空の企画書を作成し始めた。
【プロジェクト名】地球文明延命計画
【クライアント】 銀河コミュニティ(詳細不明)
【担当者】 相馬巧(地球代表)
【プロジェクト目的】 10年以内に地球文明を自立した星間文明へと発展させ、銀河コミュニティ総会にてその存続を認めさせる。
【期間】 地球時間で10年間。
【予算】 月面の観測ステーション。オーバーテクノロジーのデータ各種。高性能な擬体。メインコンピューター(性能不明)。
【関係者】
・依頼主:グレイ・グー(所属:銀河コミュニティ穏健派?)。
・対象:地球人類七十億余名。
・競合/敵対勢力:巨大商業文明『ザイバース商会連合』、過激思想文明『純粋なる進化の同盟』、その他多数の星間文明。
【想定されるリスク】
1. 技術提供による、地球人類の内部紛争激化・文明崩壊。
2. 敵対的星間文明による直接的・間接的干渉(侵略、破壊工作)。
3. 計画の遅延による、10年後のタイムリミット到達。
4. 担当者の精神的・肉体的(?)限界。
5. その他、予測不可能なあらゆる事象。
――結論。これは、無理だ。
脳内企画書は、あまりにも絶望的な結論を叩き出した。リスクの項目が多すぎる上に、一つ一つのリスクが「プロジェクトの失敗」どころか「文明の滅亡」に直結している。こんな企画書、どこの会社に出したって一秒でゴミ箱行きだ。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
それでも、やるしかない。企画書を破り捨てる選択肢は、どこにもないのだから。
彼は足元で健気に光り続けているコンソールパネルに視線を落とした。
『初心者向けお仕事マニュアル』。
そのふざけたファイル名の横に、もう一つ、『メインコンピューター起動』というアイコンがある。
「まずは、一番マシそうなリソースからだな……」
巧は意を決し、そのアイコンに手を伸ばした。
アイコンに指が触れた瞬間、彼の意識は白い光の奔流に飲み込まれた。
物理的な接触ではなかった。彼の魂、あるいは思考そのものが、ステーションのシステムと直接リンクしたのだ。脳内に、膨大な情報が流れ込んでくる。それは言語でも映像でもない、純粋な「概念」の洪水だった。ステーションの構造、エネルギー循環システム、外部センサーが捉える宇宙線データ、そして、自分自身の擬体の設計図と現在の稼働状況。あらゆる情報が、彼の脳という名のハードディスクに、エラーもなく整然と書き込まれていく。
常人であれば一瞬で発狂するであろう情報量。だが、グレイ・グーが「すごいんだ」と自慢していた擬体の思考インターフェイスが、それを完璧に処理し、整理していく。
やがて、情報の奔流が収まった。
巧の意識は、物理的な肉体に戻っていたが、彼の知覚は拡張されていた。目をつぶれば、このステーションの全てが、自分の手足のように感じられる。
そして、彼の意識の片隅に、新たな「誰か」の気配が生まれた。
『――システム・コア、オンライン。生体認証……クリア。マスター権限の移譲を確認。思考インターフェイス、接続安定。……はじめまして、マスター』
脳内に直接、穏やかで、しかしどこか無機質な女性の声が響いた。
巧の目の前の空間に、淡い光の粒子が集まり始める。それはゆっくりと形を成し、やがて、優美なドレスをまとった女性のシルエットを形作った。顔の造形は曖昧で、まるで磨りガラスの向こうにいるかのようだ。しかし、その立ち姿は、完璧な礼儀作法を心得た、極めて有能な秘書を思わせた。
「……えーと、君は?」
声に出して問いかけると、光の女性は、現実世界で巧のお辞儀を返すかのように、優雅にその身を傾けた。
『私はイヴ、と申します。この観測ステーションの管理、及びマスターの活動を補佐するために構築された、メインコンピューター・インターフェースですわ。前任者であるグレイ・グー様からは、全権限を委任されております。これより、貴方が私の新しいマスターですわ』
「イヴ……」
その丁寧すぎるほどの物腰と、「~ですわ」という独特の語尾に、巧は少し戸惑った。グレイ・グーの軽薄さとは対極にある、冷静沈着なパートナーの登場。それは、途方もない孤独の中にいた彼にとって、一条の光のように思えた。
「そうか、よろしく、イヴ。俺は相馬巧だ。見ての通り、途方に暮れている」
自嘲気味に言うと、イヴと名乗るAIは、肯定も否定もせず、ただ静かに佇んでいる。感情のようなものは、その光の姿からは一切読み取れない。
「早速で悪いんだが、今後の予定を決めたい。相談に乗ってくれるか?」
『もちろんですわ。私の存在意義は、マスターの目的達成をサポートすることにありますので』
「助かる。……取り敢えず、俺が考えたのは、日本の政府か、あるいはアメリカの政府に接触して、俺たちの持っている技術の一部を提供していくのが、ベターなのかなと思うんだが……どうだろう?」
それが、巧が考えうる、最も現実的な第一歩だった。圧倒的に進んだ科学技術。それを開示することで、地球の科学レベルを底上げし、来るべき「対等な干渉」に備える。そのために、まずは母国である日本か、世界で最も影響力のあるアメリカの協力を取り付ける。悪くない筋書きのはずだ。
『なるほど。マスターの初期プランですね。妥当な着眼点ですわ。ですが、最適解とは申し上げられません』
イヴは、あっさりと巧の案を評価した。
『少しだけ、お時間をいただけますか? より精度の高い未来予測シミュレーションを実行いたしますので』
「え? ああ、わかった」
巧が頷いた、その刹那。
『1秒、お待ちくださいませ』
イヴがそう告げた瞬間、巧の世界は再び変容した。
彼の眼前に、巨大なホログラムが出現する。それは、青く輝く地球のモデルだった。
次の瞬間、地球の表面を、無数の光の線が覆い尽くした。経済の動き、情報の流れ、軍事力の配置、人々の感情の推移。あらゆるデータが可視化され、複雑なネットワークを形成している。
イヴのシミュレーションが始まったのだ。
まず、巧の案――日本政府にのみ技術提供を行った場合の未来予測が、光速で展開される。
【0.01秒後】日本の株価が暴騰。円が基軸通貨の地位を脅かし始める。
【0.08秒後】アメリカ、中国、ロシアが非常事態を宣言。日本の技術独占を阻止すべく、国連で緊急安全保障理事会が招集される。外交的圧力、経済制裁、サイバー攻撃が日本に集中する。
【0.23秒後】日本国内で技術の扱いを巡り、政府、財界、科学界が分裂。内紛が勃発。
【0.47秒後】アメリカが「世界秩序の維持」を名目に、日本への軍事介入を示唆。第三次世界大戦の危機が、かつてないレベルで高まる。
【0.71秒後】星間文明『ザイバース商会連合』が混乱に乗じ、各国に個別に接触。「我々が仲裁し、技術を平和的に管理しよう」と提案。事実上の経済的支配を、抵抗なく完了させる。
【0.99秒後】シミュレーション終了。地球文明、内部崩壊と経済的隷属により、自主的発展の可能性を喪失。評価:失敗。
次に、アメリカにのみ技術提供した場合の未来がシミュレートされる。結果は、さらに悲惨だった。アメリカは提供された技術を即座に軍事転用し、他の全ての国家を恫喝。世界はアメリカによる圧政の時代に突入するが、その支配に反発したテロや紛争が世界中で頻発。ザイバース商会連合は、その紛争の両陣営に兵器を売りつけ、莫大な利益を上げる。最終的に地球は、内戦で疲弊しきったところを丸ごと買い叩かれる。評価:大失敗。
目の前で繰り広げられる、幾通りもの文明崩壊の光景。そのあまりの速さと緻密さに、巧は息を飲むことしかできなかった。自分の考えが、いかに浅はかで、危険なものだったかを思い知らされる。
そして、ちょうど1秒後。
目の前のホログラムが消え、イヴが静かに告げた。
『はい、済みましたわ、マスター』
「……これが、1秒……」
「シミュレーションの結果、マスターの初期案は、いずれも成功率が0.001%を下回ると算出されました。人類の、猜疑心、嫉妬、そして独占欲という感情パラメータを、少し低く見積もっておられたようですわね」
淡々と、しかし容赦なく事実を告げるイヴに、巧はぐうの音も出なかった。
「……じゃあ、どうすればいいんだ。最適解は、なんだ?」
藁にもすがる思いで尋ねると、イヴは待っていましたとばかりに、新たなシミュレーション結果を提示した。
『最適解は、三カ国への段階的、かつ競争的な情報開示ですわ』
「三カ国?」
『はい。まず、最初に接触するのは、日本です』
イヴは、地球のホログラムモデルの、日本列島をハイライトした。
『日本は、高い技術基盤と教育レベルを持ちながら、世界に対して覇権を唱えるほどの軍事的野心は持っておりません。これは、ファーストコンタクトの相手として、技術の暴走リスクを管理しやすいという点で、極めて好都合ですわ。また、異質な文化や存在を受け入れる際の社会的アレルギー反応が、他の大国に比べて比較的穏やかであると予測されます』
「なるほど……」
『ですが、日本だけに情報を与え続けるのは、先ほどのシミュレーションの通り、最悪の結果を招きます。そこで、日本への技術提供がある程度進んだ段階で、次にアメリカへ接触しますの』
アメリカ大陸が、次にハイライトされる。
『同盟国であるはずの日本が、自分たちの知らないところで、未知の存在からオーバーテクノロジーを得ていた。この事実は、アメリカのプライドと競争心を、これ以上なく刺激します。「日本にできて、我々にできないはずがない」と、彼らは日本の何倍もの速度で技術を吸収し、発展させようとするでしょう』
「……だが、それだとアメリカが突出してしまうんじゃないか?」
『その通りですわ。ですから、最後にくさびを打ちます』
最後に、中国大陸が赤くハイライトされた。
『中国ですわ。日米が新たな技術で連携を深める。この状況は、彼らにとって最大の悪夢。国家の威信をかけて、彼らもこの技術開発競争に参加せざるを得なくなります』
イヴは、三つの国がハイライトされた地球を、巧に見せた。
『日本、アメリカ、中国。この三カ国に、それぞれ少しずつ異なる分野の技術を提供し、互いに牽制させながら、競争させるのです。一国が突出して軍事転用しようとすれば、他の二国が警戒し、それを許さない。一国が技術を独占しようとすれば、他の二国が反発する。この三竦みの状態を作り出すことで、マスター、貴方とこのステーションが、技術開発のキャスティング・ボートを握り続けることができるのですわ。これが、今後10年間の基本戦略プランとして、最も成功率が高いと演算いたしました』
その冷徹で、あまりにも計算され尽くした戦略に、巧は背筋が寒くなるのを感じた。
母国や、世界の国々を、まるでチェスの駒のように動かす。人類の猜疑心や嫉妬心すら、計画を推進させるための燃料として利用する。これが、このステーションのAIのやり方なのか。
「……なるほど。お互いに競い合わせる、か。納得したよ。そのプランでいこう」
感心と、一抹の恐怖を覚えながら、巧は頷いた。
そして、彼はもう一つの、ずっと胸の内に引っかかっていた疑問を口にした。
「なあ、イヴ。この計画を進める上で、地球の人々に……10年後に、銀河コミュニティにデビューするっていう、本当の話はした方が良いと思うか? 下手したら、地球が滅ぶかもしれないっていう、最悪の真実を」
イヴは、間髪入れずに答えた。
『そうですわね。その件に関してもシミュレートしましたが、真実の開示はしない方がよろしいかと』
「……やっぱり、そうか」
『はい。現在の地球文明の情報伝達速度と、社会の成熟度を考慮した場合、真実を開示すれば、99.8%の確率で、世界規模の取り返しのつかないパニックが発生します。金融市場は暴落し、物資の買い占めが横行、暴動と略奪が日常となり、一部の指導者は核兵器の使用すらちらつかせるでしょう。人類は、外部の脅威が訪れる前に、自らの手で文明を崩壊させてしまいますわ』
「……ですよねー」
分かってはいた。分かってはいたが、イヴに断言されると、その決断の重みが、ずしりと巧の肩にのしかかってきた。
「はー……。これは、俺の胸の中にしまっておくしかない、か」
これから自分は、全世界の人類を騙し続けることになる。良かれと思って進めるこの計画が、彼らにとっては、理由も分からぬまま世界が急変していく、混乱の10年間の始まりになるのだ。その罪悪感を、たった一人で背負い続けなければならない。
巧は、深く、長い溜息をついた。
「……よし。決めた。プランはそれでいこう。それで、具体的な接触方法なんだが」
彼は、気を取り直して、次の議題に移った。
「俺が、この相馬巧という日本人の姿のまま接触するのは、多分ダメだよな。特定の国籍を持っていると、他の国から要らぬ疑いをかけられる」
『その通りですわ、マスター。接触者は、あくまで地球外の、中立的な存在として認識させるべきです』
「だよな。だから、何かこう……適当な、人間が好感を抱きそうな、理想的な『宇宙人』の姿をシミュレートして、その姿で彼らの前に現れたい。できるか?」
『はい。その方向で行きましょう。人類の集合的無意識下に存在する、神話的、あるいはSF的な『善き来訪者』のイメージデータを統合・分析し、最も親和性と信頼性を獲得しやすいアバターを作成します。少々お待ちを』
再び、イヴのホログラムの前に、様々なデザイン案が浮かび上がっては消えていく。
最初は、映画に出てくるような典型的なグレイ型宇宙人や、昆虫と人間を合わせたようなグロテスクな姿が表示され、巧は慌てて首を横に振った。
「だめだめ! そんなの出てきたら、問答無用で撃たれるぞ!」
『失礼いたしました。では、こちらは?』
次に現れたのは、神々しい後光が差す、ローブをまとった巨人だった。
「威圧感が強すぎる! もっと、こう、親しみやすくて、でも知的で、神秘的な感じがいいんだが……」
巧の曖昧な注文に、イヴは寸分の遅延もなく応えていく。
『承知いたしました。パラメータを調整します』
試行錯誤が繰り返され、そして、ついに一つの完成されたイメージが、ホログラムとして空間に投影された。
それは、人型だった。だが、男でも女でもない、中性的な顔立ち。肌は陶器のように白く、瞳は夜空を溶かし込んだような深い蒼色をしている。銀色に輝く長髪が、まるで無重力のように、ゆっくりと揺らめいている。服装は、光そのもので編まれたかのような、シンプルなローブ。威圧感はない。だが、一目見ただけで、これが人間ではない、超越的な存在であることが理解できる。神々しく、そして、どこか儚げで、守ってあげたくなるような不思議な魅力を秘めた姿。
「……これだ。これなら、きっと大丈夫だ」
巧は、その完璧なアバターの姿に、思わず見とれていた。
『了解いたしました。このアバターデータを、マスターの接触用ホログラムとして登録しますわ』
イヴがそう告げた時、巧はふと、自分の無力さを改めて感じていた。計画立案も、アバター作成も、全てこのイヴというAIがいなければ、何もできなかった。俺は、本当にただの操り人形なのではないか。
そんな彼の不安を読み取ったかのように、イヴは静かに語りかけた。
『マスター。ご心配には及びませんわ』
「……え?」
『これから始まる計画は、困難を極めるでしょう。失敗する可能性の方が、遥かに高い。ですが、仮に全てが失敗に終わったとしても、マスターご自身の安全は、このステーションが保証いたします』
その声は、どこまでも優しく、穏やかだった。
『なので、どうぞ、お気軽に。貴方が何を為そうと、為さなかろうと、貴方自身が滅びることはないのですから。思い詰める必要など、どこにもありませんわ』
それは、励ましの言葉だった。
だが、巧の心には、冷たい刃のように突き刺さった。
そうだ。俺は、もう死なない。このステーションがある限り、安穏と生きていける。地球がどうなろうと、人類が滅びようと、俺だけは。
それは、究極の安全保障であり、そして、究極の孤独の証明でもあった。
彼は、ガラスの向こうの地球に目をやった。
あの星と、自分は、もう決して同じではない。自分は、岸辺の安全な場所から、嵐の海に漕ぎ出す小舟を眺める観測者なのだ。
だが。
それでも。
あの小舟には、自分が愛した全てが乗っている。
「……ありがとう、イヴ。励まされたよ」
巧は、静かにそう言うと、完成したアバターのホログラムに向き直った。
「よし、イヴ。最初の接触の準備を始めてくれ。まずは……日本の首相官邸のセキュリティを、そっとノックするところからだ」
彼の蒼い瞳には、サラリーマン時代には決して宿ることのなかった、冷徹な覚悟の光が灯っていた。
地球文明の運命を左右する、たった一人の交渉人の、最初の仕事が始まろうとしていた。