第16話 ジュネーブ宣言
その日、世界は、テレビやスマートフォンのスクリーンに映し出された一人の老女の言葉に、息を止めた。
舞台は、スイス、ジュネーブ。国連欧州本部の、最も大きな会見場。
G7各国によって設立された新組織、『G7先進技術協調イニシアチブ(G7-ATCI)』の紋章が掲げられた演台に、初代事務総長であるノーベル賞科学者、エヴリン・リード博士が立っていた。
彼女の背後には、G7各国の科学技術大臣が、まるで彼女を守護する壁のように、固い表情で並んでいる。その中には、日本の科学技術政策担当大臣として、この歴史的瞬間に立ち会う的場俊介の姿もあった。彼の顔は蒼白で、その胃は、これから世界に放たれる衝撃の重さで、鉛を飲み込んだかのようにきりきりと痛んでいた。
世界中の人々は、固唾をのんでこの発表を待っていた。
あの日、G7が「ワシントン共同宣言」で日本への全面的な支持を表明して以来、世界は新たな時代に突入していた。それは、日本というたった一つの国が、技術的特異点として世界の中心に君臨する時代。そして、その日本をG7という最強の城壁が守り、それ以外の国々が、嫉妬と警戒の目でその城壁を睨みつける、新たな冷戦の時代だった。
誰もが、知りたがっていた。G7は、日本のあの奇跡の技術を、どう扱うつもりなのか。そして彼らは、次にどこへ向かおうとしているのか。
リード博士は、その全世界からの無言の問いに答えるかのように、静かに、しかし凛とした声で語り始めた。
「――本日、G7-ATCIの設立を宣言すると共に。我々がこれから進むべき道筋についての基本方針、『ジュネーブ宣言』を発表するために、皆様にお集まりいただきました」
「皆様もご存知の通り、我々人類は今、歴史上誰も経験したことのない、重大な転換点に立っております。日本の友人たちが成し遂げた、空間拡張技術の発見。それは、アインシュタインの相対性理論の発見にも匹敵する、いや、それを遥かに凌駕する、科学史上の、そして文明史上の大事件です。それは、我々人類の知性の可能性が、我々自身が思っていたよりも遥かに広大であることを、証明しました」
彼女はそこで、一度言葉を切った。その深い知性に満ちた瞳が、カメラの向こう側にいる全世界の人々を見つめる。
「我々は、この日本が開いてくれた新たな扉の前で、立ち尽くしているわけにはいきません。この新しい時代にふさわしい、新たな覚悟と、新たな倫理を、我々は手にしなければならない。その強い決意の元、我々G7-ATCIは、人類の科学技術開発における新たな指針を、ここに提言いたします」
「本日、我々は、これまで人類が自らに課してきたいくつかの科学的なタブーを、解き放つことを宣言します。……もちろん、それは無秩序な開発を意味するものではありません。これから私が申し上げる全ての研究開発は、このG7-ATCIが主導して策定する厳格な国際的監視と、共通の倫理規定の元で行われる『秩序ある開発』であることを、まず固くお約束いたします」
そして彼女は、パンドラの箱の蓋に、静かに手をかけた。
「第一に。我々は、ロボット工学と人工知能(AI)に関するあらゆる研究開発を、全面的に推進します。労働力不足、高齢化社会、そして危険な宇宙空間への進出。これらの課題を克服するためには、彼らの力は不可欠です。それと同時に、我々は、『人工知能の人権に関する憲章』の起草委員会を設立します。我々が生み出す新たな知性に対して、我々は創造主として、どのような責任を負うべきなのか。その哲学的な問いに、正面から向き合う時が来たのです」
第一の宣言。それは衝撃的ではあったが、まだ許容範囲だった。
だが、リード博士が次に口にした言葉は、人々の足元を揺るがす、巨大な地震のようだった。
「第二に。我々は、ヒト遺伝子に対する改変技術の研究を、解禁します」
会見場が、大きくどよめいた。SNSのタイムラインが、瞬時に爆発的な数の投稿で埋め尽くされる。
リード博士は、その動揺を静かに手で制した。
「まずは、治療を目的とした分野からです。ハンチントン病、筋ジストロフィー、血友病……現在我々が不治の病として諦めている数多の遺伝性疾患を、この星から根絶する。それが、我々の第一の目標です。……そして、その先にある課題。すなわち、『治療』と『強化』の境界線を、どこに引くべきか。その極めて困難な問いから、我々はもう目を背けません。G7-ATCIの元に、世界中の哲学者、宗教家、科学者、そして市民の代表を集め、人類全体のコンセンサスを形成するための恒久的な議論の場を設けます」
そして彼女は、最後にして最大の爆弾を投下した。
「第三に。……我々は、ヒトクローン技術に関する基礎研究の凍結を、解除します」
もはや、どよめきすら起きなかった。
会見場は、絶対的な静寂に支配された。人々は、あまりの衝撃に、声も思考も奪われていた。
「これもまた、まずは再生医療への応用が、主目的です。事故で失われた手足を再生する。病に侵された臓器を、自らの細胞から作り出す。移植医療のドナー不足という悲劇を、過去のものとする。そのための研究です」
彼女はそこで一度目を伏せた。そして顔を上げた彼女の目には、涙が浮かんでいるように見えた。
「ですが、我々は知っています。この技術の行き着く先に、何があるかを。一個の人間をまるごと複製するということ。その倫理的な是非について、今ここで結論を出すことはできません。ですが、我々は宣言します。仮に、万が一そのような形で生み出された命があったとして、そのクローンは、我々と全く同じ尊厳と権利を持つ一人の人間として、扱われるべきであると。我々は、そのための法整備を進めることを、お約束します」
三つの、禁断の果実。
ロボット、遺伝子改変、そしてクローン。
リード博士は、その全てを人類の食卓の上に差し出した。
彼女は最後に、震える声で締めくくった。
「……日本が我々に示してくれたように。人類の可能性は、無限です。その可能性の扉を開けることを、恐れてはなりません。……我々は今日、神の領域へと足を踏み入れます。その道は険しく、そして多くの痛みを伴うでしょう。ですが、我々は進まねばなりません。我々がこの広大な宇宙で生きていく覚悟を決めた今。我々はもう、昨日までの子供のままではいられないのですから」
演説が終わっても、誰一人として拍手をする者はいなかった。
人々はただ呆然と、今、自分たちの目の前で人類の歴史が、そして人類という種の定義そのものが、永遠に変わってしまったという事実を、噛み締めることしかできなかった。
【世界の反応】
《バチカン・サン・ピエトロ広場》
ローマ教皇は、そのジュネーブ宣言の全文を受け取ると、自室にこもり、長く、深く祈りを捧げた。
数時間後、サン・ピエトロ広場に面したバルコニーに現れた彼の顔は、深い悲しみと苦悩に満ちていた。
「……我が愛する兄弟姉妹たちよ。今日、人類は、大きな罪を犯そうとしています」
その声は、拡声器を通じて全世界へと届けられた。
「人間の驕り。自らを、神と同じ場所に置こうとするその傲慢さ。それは、かつて我々を楽園から追放した、原罪そのものです。生命は、神が与え給うた神聖な贈り物です。それを、人間の都合で改変し、複製するなど、断じて許されることではありません」
それは、G7に対する全面的な宣戦布告だった。カトリック教会だけではない。イスラム教、ユダヤ教、世界中のあらゆる宗教、宗派が一斉に、G7の宣言を非難する声明を発表した。
科学と宗教。人類の精神史を支えてきた二つの巨大な柱が、今、正面から激突しようとしていた。
《マサチューセッツ工科大学(MIT)・人工知能研究所》
「……見たか、ジェシカ! 見たかよ、今の宣言を!」
研究所のサーバー室で、一人の若い大学院生が、椅子から飛び上がり、歓喜の雄叫びを上げていた。
「AIに人権!? 遺伝子改変も、クローンも、解禁!? クソッ! 夢じゃねえのか!? 俺たちが今までSFの中でしか語れなかった未来が、今、目の前で始まろうとしてるんだぞ!」
科学界は、熱狂のるつぼと化した。倫理という名の足枷が、今日、外されたのだ。世界中の大学や研究所で、これまで埃をかぶっていた禁断の研究計画書が、次々と金庫の奥から引っ張り出されていく。
人類の知性は今、解き放たれた猛獣のように、これまで誰も見たことのない未来へと、猛スピードで駆け出そうとしていた。
《中国・北京》
「……G7の猿どもめ。ついに、狂ったか」
国家主席は、ジュネーブ宣言の全文を読み終え、吐き捨てるように言った。
「これは、陽動だ。奴らは、この倫理的な騒乱を隠れ蓑にして、その裏側で、我々だけを出し抜く何かを企んでいる。……日本が空間拡張技術の次に手に入れようとしているのは、この三つの技術なのだろう。そしてG7は、その日本の独走を正当化するために、世界中を巻き込んだ茶番劇を演じているに過ぎん」
彼の分析は、的確だった。公の情報だけを見れば、そうとしか考えられない。
「……我が国の研究は、どうなっている?」
「はっ。我が国では既に、党の厳格な管理の元、これらの分野の非公式な研究を進めております。G7がこれから議論を始めるというのなら、我々は、既に彼らの五年は先に進んでいるかと」
「……五年か。足りん」
主席は、冷たく言い放った。
「……十年だ。いや、二十年。奴らが倫理だの人権だの、くだらん議論に明け暮れているその間に、我々は、圧倒的な技術的優位を確立する。全てのリミッターを外せ。予算も、人材も、全て無制限に投入しろ。これはもはや、研究ではない。戦争だ。種の存続を賭けた、究極の代理戦争なのだ」
G7の宣言は、皮肉にも、彼らの最大のライバルである国家の禁断の研究を、極限まで加速させる引き金となってしまった。
《CIST地下本部 & 月面観測ステーション》
「……イヴ。……俺は、とんでもないマッチを擦ってしまったようだな」
月の上で、相馬巧は、世界中が熱狂と混乱の炎に包まれていく様を、ホログラムスクリーンで眺めながら独りごちた。
人類の倫理観という巨大な火薬庫に、自ら火を放ったのだ。
『シミュレーション通りですわ、マスター』
イヴの声は、どこまでも冷静だった。
『世界の社会構造は、一時的に不安定化しますが、そのカオスの中から、新たな秩序と価値観が生まれます。そして何よりも、技術の進歩速度は、これまでの予測値を1200%も上回る、驚異的な加速を見せるでしょう。文明の成長には、痛みが伴うものです』
「……分かっているさ。分かっては、いるがな」
巧は、ぎゅっと目を閉じた。
自分が今やっていることは、本当に正しいことなのか。人類を救うためという大義名分の元に、彼らの魂を根底から揺るがし、世界を分断し、新たな争いの種を蒔いている。自分は、救世主なのか。それとも、ただの独善的な破壊者なのか。
同じ、その時。
CISTの地下本部で、的場俊介もまた、同じ重圧に苛まれていた。
ジュネーブから帰国した彼の前には、CISTの全科学者を代表して、湯川教授が立っていた。その老教授の目は、これまでに見たこともないほど、真剣な光を宿していた。
「――大臣。我々に、許可をください」
「……許可?」
「はい。……我々CISTも、この歴史的な潮流に乗り遅れるわけにはいきません。いえ、我々こそが、その先頭に立つ義務があります。ジュネーブ宣言の理念を、世界に示すためにも、我々に遺伝子改変とクローン技術の基礎研究の開始を、ご許可いただきたい」
そのあまりにも直接的な要請に、的場は息を飲んだ。
自分たちがその引き金を引いた狂乱のレースに、自分たち自身もまた、参加者として加わる。その覚悟が、自分にはあるのか。
「……先生。……それは……」
「分かっております」
湯川は、的場の葛藤を見透かしたように言った。
「我々が足を踏み入れようとしているのが、どれほど危険な領域であるか。ですが、大臣。我々がここで躊躇すれば、誰がこの暴走し始めた世界の科学の、手綱を握るのですか? 秩序ある開発。それを、身をもって世界に示すことこそ、最初にあの奇跡を目撃した我々の責務ではないのですかな」
その言葉は、あまりにも重く、そしてあまりにも正しかった。
的場はしばらく天を仰ぎ、そしてゆっくりと、頷いた。
「…………分かりました。……許可します」
彼は、震える声で言った。
「……ですが、先生。約束してください。……我々は、決して神になってはならない。我々は、最後までただの人間として、このあまりにも重い課題に、向き合い続けるのだと……」
「……無論です」
湯川は、深々と頭を下げた。
パンドラの箱は、再び開かれた。
今度、その中から飛び出してきたのは、希望か、それとも厄災か。
その答えを求めて、人類の長く、そして苦難に満ちた新たな旅が、今、静かに始まった。




