第14話 神託のテーブル
その会議室は、この世のいかなる場所にも存在しなかった。
それは、CISTのサーバーの奥深く、そして月面の観測ステーションの演算能力によって生成された、仮想現実空間。介入者の神のごときテクノロジーによって構築された、完全無欠のセキュリティを誇る電子の聖域だった。
純白の大理石を、寸分の狂いもなく磨き上げたような床。天井という概念はなく、頭上には、まるでプラネタリウムのように静かに回転する天の川が広がっている。部屋の中央には、黒曜石を削り出したかのような巨大な円卓が一つ。物理法則を無視して、その中心から柔らかな光が放たれている。
そのあまりにも荘厳で非現実的な空間に、西側世界の七人の指導者たちが、高精細なホログラム・アバターとして姿を現した。
彼らは数時間前、ペンタゴンの地下で、人類の常識が根底から覆される瞬間に立ち会ったばかりだった。その衝撃と興奮、そして畏怖の念が、まだ生々しく、その表情に刻み込まれている。
「……信じられんな。我々は今、自国の執務室にいるはずなのに……まるで同じ部屋にいるかのようだ」
イギリスの首相が感嘆の声を漏らし、自らのホログラムの手を不思議そうに見つめている。肌の質感、衣服の皺、そのあまりのリアルさに、現実との境界が曖昧になっていく。
「日本の技術かね? いや、違うな。これもまた、あの『介入者』の力だというのか……」
フランスのデュボワ大統領が、苦々しげに呟いた。
彼らは理解していた。この会議室そのものが、自分たちと介入者との間に横たわる絶望的なまでの文明レベルの差を、無言のうちに物語っているのだと。
円卓には、それぞれの国の席次を示すかのように、国旗が淡く光で描かれている。
そして、そのG7の輪の中心、上座とも下座ともつかない絶妙な位置に、日本の郷田総理と的場大臣の二人が、静かに座っていた。彼らが、この歴史的な会合のホストであり、案内人なのだ。
アメリカのトンプソン大統領が、苛立ちを隠せない様子で郷田に問いかけた。
「郷田総理。……その介入者とやらは、いつ現れるのだ? 我々を、待たせるつもりか?」
「まあ、そう急かれなさるな。ミスター・プレジデント」
郷田は、いつもの老獪な笑みを浮かべた。
「神は、常に最も劇的なタイミングで、お姿を現すものですよ」
その言葉が、まるで合図であったかのように。
会議室の空気が、変わった。
天の川の輝きが一瞬強まり、その光の粒子が、雪のように静かに円卓の中央へと舞い降りてきた。
粒子は集まり、形を結んでいく。
銀色の長髪。
夜空の瞳。
光のローブ。
介入者が、何の前触れもなく、音もなくそこに「降臨」していた。
その神々しい姿を前に、G7の指導者たちは、息を呑んだ。
ペンタゴンで、映像としては見ていた。だが、こうして目の前に立体的な存在として現れたその威圧感、いや、神聖さは、映像とは比較にすらならなかった。
これが、宇宙人。
これが、神。
人類以外の、知性。
そのあまりにも重い事実が、現実として彼らの五感に突き刺さる。
『――どうも。私が介入者。……少なくとも、あなた方の星ではそう自称しています』
その声は、スピーカーからではない。
この仮想空間にいる全員の脳内に、直接、しかし決して不快ではない鈴の音のような響きとして、染み渡った。
その第一声に、指導者たちはただ圧倒され、言葉を失う。
介入者は、その世界の権力者たちの狼狽ぶりを意にも介さず、静かに続けた。
『この度は、我が同胞である日本政府の仲介を受け入れ、この歴史的な対話のテーブルに着いてくれたこと、まずは感謝します。あなた方は、人類という種が持つ知性と理性の代表として、ここにいる。……その自覚と責任を、忘れないでいただきたい』
その静かな、しかし有無を言わさぬ言葉は、彼らを国家の指導者から、ただの一種族の代表という立場へと引きずり下ろした。
誰もが、ゴクリと喉を鳴らす。
介入者は、ゆっくりと円卓を見回した。
その深い蒼色の瞳が、一人一人の指導者の魂の奥底までを、見透かすかのように射抜いていく。
『さて。……本日は初回ですので、難しい話はやめましょう。まずは、あなた方にお願いしたいことが、一つだけあります』
お願い。
そのあまりにも穏やかな言葉の響きに、しかし、誰も逆らうことなどできない。
それは神のお願い。すなわち、神託であり、絶対の命令だった。
『あなた方G7の指導者たちには、自国に戻り、そして全力で、科学技術の推進を図ることをお願いしたい』
「科学技術、ですか」
最初に口を開いたのは、ドイツのシュミット首相だった。科学者でもある彼女の知的好奇心が、恐怖を上回ったのだ。
「それはもちろん、我々も常に目指しているところです。……ですが、介入者殿。貴殿がおっしゃる科学技術とは、具体的にどの分野を指しておられるのですか?」
その問いに、介入者は待っていましたとばかりに答えた。
『具体的に言うと、遺伝子改変技術。……そして、クローン技術です』
その二つの単語が発せられた瞬間。
会議室の空気が、再び凍りついた。
それは、人類にとって最も扱いのデリケートな禁断の領域。
倫理と宗教が幾重にも張り巡らせた、決して踏み込んではならないタブーだった。
「……なんですと?」
フランスのデュボワ大統領が、顔を引きつらせた。
「介入者殿、あなたもご存知のはずだ。その二つの技術が、我々人類の社会にどれほどの混乱をもたらすかを。生命の設計図を弄り、人間のコピーを作り出す。……それは神への冒涜であり、我々が人間であることの根幹を揺るがす、危険な思想だ!」
その魂からの叫びに、他の首脳たちも次々と頷く。
だが、介入者はその人類のちっぽけな倫理観を、せせら笑うかのように静かに首を横に振った。
『神への冒涜? ……なるほど。面白い考え方ですね』
その声には、何の悪意もなかった。ただ純粋に、自分たちの理解を超えた原始的な風習を観察する、文化人類学者のような響きがあった。
『デュボワ大統領。そして皆様。……少しだけ、私の話を聞いていただけますか』
『あなた方は、銀河コミュニティという言葉を、日本の友人たちから聞いているはずです。この天の川銀河に存在する無数の星間文明が所属する、巨大な共同体、あるいは国連のような組織だと』
首脳たちが、頷く。
『その銀河コミュニティでは。……あなた方が今口にした遺伝子改変やクローン技術は、ごくごく一般的に使われている基礎的なテクノロジーなのです。……それこそ、あなた方が自動車を運転し、スマートフォンを使うのと同じレベルで』
「なっ……!」
誰もが、言葉を失う。
介入者は、続けた。
『我々星間文明の多くは、自らの肉体を環境に合わせて最適化します。宇宙空間で活動しやすいように放射線への耐性を高めたり。思考速度を上げるために脳神経の伝達効率を改変したり。……あるいは、不治の病に苦しむ同胞を救うために、その健康な時の遺伝情報を用いてクローンとして再生させたり。……それは我々にとって、倫理に反する行為ではありません。むしろ、生命という素晴らしいシステムをより良く維持するための、知性的な営みなのです』
その、あまりにも衝撃的な価値観。
首脳たちの脳は、完全にフリーズしていた。
介入者はそこで、さらに追い打ちをかけるように、とんでもない概念を彼らに提示した。
『ちなみに、銀河コミュニティの基本法では、クローンにも当然、完全な人権が認められています。そして、あなた方がAIと呼ぶ人工知能、あるいはロボットと呼ばれる機械知性体にも、我々と全く同等の人権が保障されています』
「ろ、ロボットに人権!?」
アメリカのトンプソン大統領が、素っ頓狂な声を上げた。
『ええ。知性を持つ全ての存在は、等しく尊重されるべきである、というのがコミュニティの基本理念ですので。……もちろん、文明の形態は様々です。遺伝子改変を良しとせず、あえて自然な進化の道を歩む哲学的な文明もあります。肉体を捨て、意識だけの集合知性体となった機械文明もあります。ロボットなど一切使わない、神秘主義的な文明もあります。……多様性こそが、宇宙の豊かさの源泉ですからな』
そのあまりにも壮大で、あまりにも豊潤な宇宙の現実。
G7の指導者たちは、自分たちがいかに狭く、閉鎖的な価値観の中で生きてきたかを、嫌というほど思い知らされていた。
自分たちの倫理観など、この広大な宇宙から見れば、小さな集落の奇妙な風習に過ぎなかったのだ。
介入者は、静かに告げた。
『――あなた方がいつの日か、銀河コミュニティの一員となるためには。まず、その生命に対する価値観をアップデートする必要がある。そのための第一歩として、私はあなた方に、この二つの禁断の果実を自らの手でもぎ取ることを、お願いしているのです』
それは、もはや反論のしようがない、絶対的な宣告だった。
会議室は、重い沈黙に包まれた。
指導者たちは皆俯き、自らの内なる価値観と、目の前の圧倒的な現実との間で、激しく葛藤していた。
その沈黙を破るように、介入者は、ふっとその声のトーンを和らげた。
『……まあ、少し難しい話をしすぎましたかな。……よろしい。本日の議題は、ここまでとしましょう。残りの時間は、あなた方からの質問にお答えします。……何か、聞きたいことはありますかな?』
その意外な提案に、首脳たちははっと顔を上げた。
質問。
聞きたいことは、山ほどある。
宇宙のこと、コミュニティのこと、そして何よりも、この介入者自身のこと。
最初に手を挙げたのは、イギリスの首相だった。
「……お伺いしたい。介入者殿。……貴殿はなぜ、数ある地球の国家の中から、最初に日本を選ばれたのですか? 我々イギリスも、アメリカも、フランスも、日本と同じ、あるいはそれ以上の先進国であると自負しておりますが」
それこそが、G7の誰もが心の奥底で抱いていた最大の疑問であり、嫉妬の源泉だった。
なぜ、日本だけが。
その問いに、介入者は少しも躊躇うことなく答えた。
『良い質問ですな。……私が日本を最初の接触相手として選んだ理由は、いくつかあります。ですが、最も大きな理由は、その成熟した政治と国民性です』
「……政治と、国民性?」
『ええ。あなた方の星の歴史を見れば、分かります。新たな力、新たな技術を手にした国家が、どうなるか。そのほとんどは、その力を軍事的に転用し、他国を支配しようとしてきました。……ですが、現代の日本は違う。彼らは過去の痛ましい経験から学び、自らの力を抑制する高度な政治システムを作り上げた。そしてその国民は、和を尊び、他者との協調を重んじる、極めて穏やかな性質を持っている』
そのあまりにも日本を買いかぶったような評価に、郷田と的場は思わず顔を見合わせた。
介入者は、続けた。
『もし私が最初に、あなた方アメリカやヨーロッパの国々に接触していたら、どうなっていたでしょうかな? あなた方はおそらく、私のこの力を軍事的に利用し、長年のライバルである中国やロシアを屈服させようと、考えたのではありませんかな? ……そうなれば、この星は全面核戦争の危機に瀕していたかもしれない。……私は、そのリスクを避けたかった。だからこそ、最も暴走の可能性が低い安全なパートナーとして、日本を選んだのです』
そのあまりにも的確な分析に、トンプソンもデュボワも、ぐうの音も出なかった。
図星だったからだ。
介入者はそこで初めて、とんでもない爆弾を投下した。
『――それに、これはまだ誰にも言っていませんが』
その前置きに、全員が息を呑む。
『現在の技術付与の計画では、日本がある一定の段階まで成熟した、その暁には……』
『――次に、アメリカ合衆国に技術を直接付与する予定です』
…………。
……。
その一言は、先ほどのどんな神託よりも巨大な衝撃をもって、会議室を揺るがした。
特にアメリカ大統領トンプソンは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、完全に固まっていた。
今、この神はなんと言った?
次に、アメリカにだと?
『……もっとも、これはあくまで予定は未定というやつですがね』
介入者は、悪戯っぽく付け加えた。
『今後のあなた方の対応、そして日本との協調関係の進展次第では、その順番が早まることも、あるいは永遠に来なくなることもありえます。……全ては、あなた方次第ですな』
それは、あまりにも巧みな外交術だった。
日本を選んだ理由を説明することでG7の嫉妬を鎮め。
そしてアメリカを次の候補として指名することで、最強の国家のプライドをくすぐり、そして手綱を握る。
これでアメリカは、日本の足を引っ張るどころか、むしろ日本の発展を全力でサポートするようになるだろう。
一日でも早く、自分たちの順番が回ってくるように。
トンプソンの顔が、驚愕から歓喜へと、そして剥き出しの野心へと劇的に変わっていくのを、誰もが見ていた。
彼は椅子から立ち上がると、まるで長年の友人に語りかけるかのように、介入者に満面の笑みを向けた。
「――おお! おお、介入者殿! それは……それはなんという、素晴らしいお申し出だ!」
「ぜひ! ぜひ、お願いしたいですな! 我々アメリカは、貴殿のその期待に必ずや応えてみせることを、お約束しよう! ……日本の次で構わない! いやむしろ、我々の偉大な同盟国である日本が最初に選ばれたことを、誇りに思う! 彼らが一日でも早くその大役を果たし、我々にバトンを渡してくれる日が来ることを、心から望むものです!」
その、あまりにも見事な手のひら返し。
他の首脳たちは呆気に取られながらも、理解した。
ゲームのルールが、完全に変わったのだ。
もはや、日本から技術を奪い取るというフェーズは終わった。
これからは、いかにして神のご機嫌を取り、次の祝福を受けるかという、新たな競争が始まったのだ。
郷田は、そのトンプソンの豹変ぶりを満足げに、そして内心では、介入者のその神がかり的な交渉術に畏怖の念を抱きながら、静かに眺めていた。
『――よろしい。では、本日はこれまでにいたしましょう』
介入者は、目的を果たしたと言わんばかりに、静かに告げた。
『今後の定例会議は、月に一度。日本の皆さんを通じて、ご連絡します。……それまでに、今日の私のお願いについて、G7としてどのような答えを出すのか、よく話し合っておいてください』
その言葉を最後に、介入者の光の体はすうっと薄れていき、何の痕跡も残さずに消え去った。
後に残されたのは、神が残していったあまりにも巨大な宿題と、そしてそれぞれの国家の新たな思惑に頭を悩ませる、七人の指導者たちだけだった。
仮想空間のホストである郷田が、静かに立ち上がった。
「――さて、皆様。……神は、お帰りになられました。……ここからは、我々人間の領域です。……どういたしますかな?」
その問いに、答える者はいなかった。
彼らはただ、これから始まる新たな時代の途方もない重圧に、静かに身を震わせるしかなかった。
神々のチェス盤の上で、哀れな人間たちの新たな一手は、まだ指されてはいない。
その一手一手が、天国へと続くのか、それとも地獄へと至るのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




