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第13話 神々のチェス盤と禁断の果実

 月は、変わらず静かだった。

 生命の存在を許さない絶対零度の真空に抱かれ、銀色の観測ステーションは、あるじの沈黙を映すかのように静まり返っていた。

 コントロールルームの巨大なホログラムスクリーンには、ワシントンD.C.の夜景が広がっている。ペンタゴンの厳重なゲートから滑り出してくる、黒塗りのリムジン。その一台一台に、西側世界の指導者たちが、昨日までの常識が木っ端微塵に砕け散ったというあまりにも重い現実を、頭蓋骨に詰め込んで乗り込んでいく。

 相馬巧は、腕を組みながらその光景を黙って見つめていた。

 擬体の超高感度センサーが、G7首脳たちが車内で交わす微弱な通信を拾い上げていた。

『……我々は今日、パンドラの箱を開けたのかもしれんな』

『違うな。俺たちが箱を開けたんじゃない。俺たち自身が、神の実験室という名の箱に入れられたんだ』

 その悲壮な覚悟に満ちた言葉を聞きながら、巧は、ふっと長く息を吐いた。この一ヶ月、擬体の奥深くに鉛のように溜まっていた極度の緊張が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。


「……ふぅ。取り敢えず、戦争は避けられたか、イヴ」


 巧の安堵が滲む声に、隣に浮かぶ光のAIイヴが、静かに、そしてどこまでも無機質に答えた。


『はい、マスター。シミュレーションNo.734と、ほぼ寸分の狂いもない推移です。アメリカ合衆国大統領の感情パラメータは、当初の『怒り』と『猜疑心』が78%を占めていましたが、会議終了時点では、『畏怖』45%、『責任感』32%、『協調性』15%へと劇的に変化。今後三ヶ月以内に、G7が日本に対して直接的な軍事圧力をかける可能性は、0.03%以下に低下したと算出されました』


「0.03%か。ゼロじゃねえところが、人間らしくて良いじゃねえか」

 巧は、自嘲気味に鼻を鳴らした。

「それにしても、上手くいったもんだな。正直、心臓に悪かったぜ。あのトンプソンが机を叩いて立ち上がった時は、シミュレーションが外れたかと肝を冷やした」

『人間の瞬間的な感情沸騰現象は、カオス理論の領域に属するため、完全な予測は不可能です。ですが、マスター、貴方の前職でのご経験……いわゆる『クレーマー対応』や『パワハラ上司のいなし方』といった高度な対人交渉術のデータが、今回の郷田総理の立ち回りのシミュレーションにおいて、極めて有用な変数として機能したことは間違いありませんわ』

「……そいつは、褒め言葉か?」

 巧は、苦笑した。あの地獄のサラリーマン生活で培った理不尽スルー能力が、世界大戦を回避する役に立つとはな。人生、何が幸いするか分からんもんだ。


 スクリーンが切り替わり、世界各国のニュース速報が、マルチウィンドウで表示される。G7の緊急会議という事実だけが報じられ、世界中のジャーナリストや専門家たちが、その議題について様々な憶測を繰り広げている。誰も、真実にたどり着ける者はいない。人類が今日、宇宙における己の立ち位置を根本からひっくり返されたことなど、夢にも思わずに。

 イヴの光の姿が、巧へと向き直った。


『さて、マスター。第一段階『情報の開示と安全保障体制の構築』は、成功裏に完了しました。ですが、これはあくまで時間稼ぎに過ぎません。次なる第二段階へと、移行する時です。G7という新しい対話の窓口に対して、マスターは、どのようなお話をなさるおつもりで?』


 その問いに、巧の顔から安堵の色が消えた。

 そうだ。戦いは、終わっちゃいない。本当の戦いは、ここからだ。

 今までは、日本という一国家だけを相手にしていれば良かった。だが、これからは西側世界の七つの大国を、同時に手玉に取らなければならない。奴らの剥き出しの欲望と猜疑心を巧みにコントロールしながら、地球文明を正しい方向へと導いていく。そのあまりにも巨大で、あまりにも繊細な舵取りが、この俺の双肩にかかっている。


「……そうだな」

 巧は腕を組み、思考を巡らせ始めた。擬体の思考インターフェイスが、人類の数千倍の速度で回転し、あらゆる可能性とリスクをシミュレートしていく。

「まずは、連中の知的好奇心を刺激して、科学技術の推進を促す。その方向でいく」

『と、申しますと?』

「『空間拡張技術』は、規格外すぎる最初のアメだった。あれは、連中の度肝を抜いて、俺たち(介入者)の存在を信じさせるためのデモンストレーションだ。だがあんなオーバーテクノロジーばかり与え続けても、奴らはそれを理解できず、ただ俺たちに依存するだけの、思考停止した赤ん坊になるだけだろう」

 巧は、スクリーンに映る地球を見つめた。

 あの青く美しい生命の星。あまりにもか弱く、そして未熟な文明の揺りかご。

「奴らに必要なのは魚じゃねえ。魚の、釣り方だ。……それも、奴らが自らの手で、既に釣り竿を作りかけている分野でな」

『なるほど。マスターの意図が、見えてきましたわ。……具体的には、どの分野に焦点を?』

「ターゲットは、遺伝子改変とクローン技術だ」

 その言葉に、イヴの光の体がわずかに揺らめいた。肯定のサインだ。

「地球の人類は今、その二つの技術の入り口に立っている。だが、奴らは倫理という名の分厚い扉の前で、足踏みしてる状態だ。神の領域を侵すことへの根源的な恐怖……そのリミッターを、俺が外してやる」

 巧の目は、もはや一介のサラリーマンのものではない。人類という巨大プロジェクトを成功に導く、冷徹なプロジェクト・マネージャーの目をしていた。

「G7との定例会議で、俺は介入者としてこう問いかけるだろう。『お前たちの生命体としての設計図は、あまりにも脆く、不完全だ。病気、老化、そして死。なぜ、その明らかな欠陥を放置し続ける?』とな。……あるいは、こう囁くかもしれん。『優れた個体の情報を複製し、保存し、再利用することは、知的文明としての基本的な資産管理術ではないのか?』と」

 その悪魔の囁きにも似た計画に、イヴは、淡々と、しかし完璧な分析を加えた。

『……素晴らしいご慧眼ですわ、マスター。その二つの技術分野は、まさに現在の地球文明が次のステージへと移行するための、最大のボトルネック。食糧問題、医療問題、そして資源問題。そのほとんどは、遺伝子工学とクローン技術の発展によって、解決可能であるとシミュレートされております』

「ああ。だが、目的はそれだけじゃねえ」

 巧は、続けた。

「この二つの技術は、人類に究極の問いを突きつける。『生命とは何か』『人間とは何か』『神とは何か』。……その哲学的な問いに、自分たち自身で向き合い、議論し、そして答えを見つけ出させる。そのプロセスこそが、奴らを単なる技術の消費者から、自らの運命を決定する主体的な知的生命体へと成長させる、試練になる」

 彼は、ふっと息を吐いた。

「まあ、時々研究が行き詰まったタイミングで、こっちからヒントという名の『アメ』を与えてやれば、奴らも俺たちへの依存と感謝を忘れることもねえだろ。……ところでイヴ、その二つの技術だが、銀河コミュニティじゃタブー扱いってわけじゃないんだろうな?」

 その問いに、イヴは、まるで子供の素朴な質問に答える大人のように、静かに首を横に振った。


『タブー? とんでもない。マスター。銀河コミュニティにおいて、遺伝子改変やクローン技術は、自動車の運転免許やスマートフォンの使い方と同じレベルの、あまりにもポピュラーで基礎的なテクノロジーですわ』

「……ポピュラーか」

『ええ。むしろ、自らの遺伝情報を全く改変しない『天然種』の方が、珍しいくらいです。彼らは、ある種の敬意と、そして憐憫を込めて、『保護対象の希少種』と呼ばれることもありますわね。……ですので、マスターのご計画は、極めて理にかなっております。地球文明が遺伝子という名のくびきから自らを解放したその時こそ、彼らが銀河の幼稚舎を卒業し、小学校に入学する資格を得たと、コミュニティにアピールするための絶好の機会となるでしょう』


「なるほど。そりゃ、好都合だ」

 巧は、満足げに頷いた。

「なら、当面の目標はそれで決まりだな。G7に対しては、『お前たちも我々銀河コミュニティの一員となることを目標に頑張れ』的な、耳触りの良いスローガンでも掲げておけば、奴らのモチベーションも維持できるだろ」

 彼はそこで、自嘲気味に付け加えた。

「まあ実際は、もう半分コミュニティの厄介事に巻き込まれて、所属してるようなもんだがな……」


 その軽口に、しかし、イヴはいつもの冷静なトーンで冷や水を浴びせた。


『――ですが、マスター。……それでも、時間が足りません』

「……何?」

『マスターのその壮大なご計画。それは、確かに地球文明を正しい方向へと導く王道です。ですが、その王道を一歩ずつ歩んでいる時間的猶予は、我々には残されておりません。……十年です。たったの、十年。人類がその哲学的な問いに答えを見つけ出し、社会システムを変革し、そして星間文明として自立する。……その全てを十年で成し遂げるのは、確率論的に不可能です』

 イヴの光の指先が、宙を舞う。

 ホログラムスクリーンに、一つの絶望的なグラフが映し出された。

 縦軸は文明レベル。横軸は、時間。巧の計画通りに進んだ場合の地球文明の成長曲線が、青い線で描かれている。その線は、確かに急峻な右肩上がりのカーブを描いていた。

 だが。

 十年後という時間軸の先で、その青い線は、銀河コミュニティの正式加盟に必要とされる文明レベルの基準値を示す赤い水平線に、わずかに届いていなかった。

「……マジかよ……」

『はい。私の最新のシミュレーションによれば、マスターの計画が100パーセント完璧に遂行されたとしても、十年後の総会で地球文明が自立を認められる確率は、17.4%。……残りの82.6%の確率で、地球はザイバース商会連合のような巨大文明の保護下……すなわち、経済的植民地となるでしょう』

 そのあまりにも無慈悲な宣告に、巧は言葉を失った。

 今成し遂げたばかりのG7との合意形成。これから始めようとしている、壮大な文明育成計画。その全てが成功してもなお、待っているのは失敗という未来。

「……嘘だろ……。何か方法はねえのか、イヴ。もっと成長ペースを加速させるような……」

『ございますわよ』

 イヴは、あっさりと言った。

 そのあまりにもこともなげな口調に、巧は思わず聞き返した。

「……あんのかよ」


『ええ、ございますとも。マスター』

『十年という絶対的な時間の制約を乗り越えるための、極めてシンプルで、しかし効果的な方法が一つだけ』


 イヴはそこで、一度言葉を切った。

 そして彼女のキャリアでおそらくは初めて、感情らしきもの……すなわち、悪魔的なまでの好奇心をその無機質な声に滲ませながら、その究極の選択肢を提示した。


『――取り敢えず、地球を丸ごと空間制御して、時空間ポケットに放り込みますか?』


「…………は?」

 巧は、本日何度目になるか分からない、間の抜けた声を出した。

 今、こいつは何て言った?地球を、なんだって?


『ですから』

 イヴは、懇切丁寧に繰り返した。

『この観測ステーションが持つ本来の機能の一つに、大規模空間制御がございます。これを用いれば、惑星一つくらいであれば、その周囲の時空連続体を局所的に湾曲させ、我々が管理する特殊な亜空間……いわゆる『時空間ポケット』へと、一時的に隔離することが可能ですわ』

「…………」

 巧は、開いた口が塞がらなかった。

 イヴは、構わずに続ける。

『その時空間ポケットの内部では、時間の流れを自在にコントロールできます。例えば、外部宇宙での一秒が、ポケット内部での一年になるように設定することも、理論上は可能です。……まあ、そこまで極端な時間差を作ると、エントロピーの増大に耐えきれず、ポケットが崩壊するリスクがありますが』

 彼女は、まるで新しい家電製品の便利機能を説明するような口調で言った。

『外部宇宙での一年間を、ポケット内部での百年に設定する。……それくらいならば、極めて安全に運用できます。そうすれば、どうです? 我々に残された十年という時間は、実質、千年という時間へと変わります。……それだけ時間があれば、マスターのご計画も、余裕を持って達成できるのではありませんか?』


 そのあまりにも壮大で、あまりにも荒唐無稽で、そしてあまりにも魅力的すぎる提案。

 巧は、眩暈を感じた。

 まさに、神の御業。人類の頭上に迫るタイムリミットというギロチンの刃を取り除き、永遠にも思える猶予を与える。究極のチートコードだ。

 だが、同時にそれは、人類の運命を完全に自分の掌の上で弄ぶということでもあった。七十億の人間の誰も知らぬ間に、彼らが住む星ごと、異次元の瓶の中に閉じ込めてしまう。

 それはもはや、プロジェクト・マネージャーの仕事じゃない。神か、悪魔の所業だ。

 俺はまだ、そこまでの覚悟を決められるのか。


「…………へっ」


 巧の口から、乾いた笑いが漏れた。

 頭を抱え、数秒間、何かを深く、深く考え込む。

 やがて彼は、顔を上げた。

 その顔には、いつものサラリーマンの悲哀と諦観が入り混じったような、複雑な苦笑いが浮かんでいた。


「…………そいつは、最終手段だな」


 彼は、ぽつりとそう呟いた。

「なんつーか……プロジェクトが炎上してどうにもならなくなった時に、最後の最後の奥の手として使う、『仕様変更』ってやつだ。もちろん、クライアントには絶対に内緒でやる」

『……その例えは、あまりよく分かりませんが。マスターがそうおっしゃるのなら』

「ああ、そうしよう」

 巧は、頷いた。

「まずは、与えられた十年という納期の中で、やれるだけのことをやる。この元・社畜の底力ってやつを、見せてやるさ。……それで、どうしても間に合いそうになかったら……そうだな、九年と三百六十四日が過ぎたあたりで、改めてそのふざけた最終手段の稟議書を提出してやる。……なあ、イヴ部長」

 その冗談とも本気ともつかない言葉に。

 イヴの光の体が、ほんのわずかだけ、楽しそうに揺らめいた気がした。


『――承知いたしました、マスター。ではその時まで、この『地球瓶詰め計画』は、ペンディングということに致しますわ』


 その物騒な計画名を、聞きながら。

 相馬巧は、観測ステーション自慢のコーヒーメーカーに向かって、独りごちた。

「……さてと。まずは、一杯やるか。……世界で一番うまいコーヒーを、頼むぜ」

 彼の孤独で、壮大で、そしてどこかもの悲しい二度目の社会人生活は、まだ始まったばかりだった。

 眼下には、何も知らずに美しく、青く輝き続ける故郷の星が、ゆっくりと回っていた。




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