第12話 賢人たちの部屋
その日、世界の空は、目に見えない無数の航跡で、密かに編み上げられていた。
ワシントンD.C.から大西洋を越えてヨーロッパへ。そして、太平洋を横断し、極東の島国へ。各国首脳が搭乗する政府専用機や、所属不明機として登録されたプライベートジェットが、通常の航空路を外れ、最短距離で一つの目的地へと向かっていた。
アメリカ合衆国バージニア州、アーリントン。
ポトマック川のほとりに、巨大な五角形の城として君臨する国防総省本部庁舎――ペンタゴン。
世界最強の軍事組織の中枢であるその場所に、西側世界の指導者たちが、鉄片が磁石に吸い寄せられるかのように集結しつつあった。
表向きの理由は、「緊急対テロ・サイバーセキュリティ合同首脳会議」。日本政府からの、極めて緊急性の高い重大な安全保障上の情報提供の要請を受け、アメリカ大統領が急遽G7のリーダーたちを招集したという筋書きだった。
だが、その不自然なまでの物々しさに、各国首脳は飛行中の機内から、それぞれの情報機関のトップに矢継ぎ早に問いを発していた。
「一体何が起きているんだ? 日本が、第三次世界大戦の引き金にでもなるような情報を掴んだとでもいうのか?」
「これは、中国に対する軍事的な最後通牒の事前通告か?」
「あるいは、ついにあの『空間拡張技術』の軍事転用が完了したというデモンストレーションか……?」
憶測が、憶測を呼ぶ。どの国の情報機関も、この異常なまでの秘密主義で塗り固められた会議の真の議題を、掴むことはできなかった。ただ一つだけ、確かなことがあった。
世界は今、重大な歴史の分岐点に立たされている。
そして、その分岐点の鍵を握っているのは、間違いなくあの極東の奇跡の島国、日本なのだと。
ペンタゴンの、地下深く。
そこには、地図には存在しない一室がある。
国家軍事指揮センター、通称「タンク」。核戦争勃発の際、大統領と統合参謀本部議長が最終指令を下すために作られた、究極の意思決定の間。壁、床、天井、その全てが、核爆発の衝撃波にも耐えうる分厚い鉛と特殊合金で覆われている。外部とは、完全に物理的にも電子的にも遮断された、鋼鉄の棺桶。
その本来であれば人類最後の数分間を司るはずの部屋の中央に、巨大な円卓が、この日のためだけに運び込まれていた。
そしてそこに、西側世界の最も権力を持つ七人の男女が、硬い表情で顔を突き合わせていた。
アメリカ合衆国大統領、ジェームズ・トンプソン。世界の警察官としての自国のプライドと、日本のこの謎めいた主導権の握り方に、苛立ちを隠せないでいる。
ドイツ連邦共和国首相、アンゲラ・シュミット。常に冷静沈着で、科学的合理性を何よりも重んじる鉄の女。彼女は、この非論理的な状況に、深い知的な探究心と警戒心を同時に抱いていた。
フランス共和国大統領、ジャン=リュック・デュボワ。ド・ゴール主義の末裔を自認する彼は、アメリカ主導のこの会議の進め方そのものに不快感を示しながらも、日本の真意を探ろうと鋭い視線を送っている。
イギリス、カナダ、イタリアの各首脳もまた、それぞれの国家の思惑とプライドをその胸に秘め、固唾をのんでこの異様な会議の始まりを待っていた。
そして、その七人の視線の中心に。
二人の日本人が、座っていた。
内閣総理大臣、郷田龍太郎。
そして、科学技術政策担当大臣であり、特命対策室『CIST』室長、的場俊介。
郷田は、まるで近所の町内会の会合にでも出席したかのように穏やかな、しかしその目の奥に一切の感情を読み取らせない、老獪な笑みを浮かべていた。
対照的に的場は、そのあまりの重圧に顔面を蒼白にさせ、テーブルの下で固く拳を握りしめていた。彼の双肩には今、自国の、いや、この星の未来そのものがのしかかっているのだ。
「――さて、皆様。この私の無茶な呼びかけに、即座に応じていただいたこと、まずは心から感謝を申し上げる」
重苦しい沈黙を破ったのは、会議のホストであるトンプソン大統領だった。彼の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。
「だが、率直に言わせてもらう。郷田総理。……これは一体、何の真似かね? 我々を、世界の指導者たちを、まるで駒のようにこのワシントンの地下室に呼びつけて……もし君がこれから話すことが、我々の貴重な時間を無駄にするようなくだらない内容であった場合、日米同盟がかつてないほどの深刻な危機に瀕することになると……そう覚悟してもらって構わん」
それは、最後通牒に等しい脅しだった。
だが、郷田は動じなかった。
彼はゆっくりと、その老獪な笑みをさらに深くした。
「……まあ、そう急かれなさるな。ミスター・プレジデント。私がこれからお話しすることは、あなた方が想像しているいかなる安全保障上の危機よりも、遥かに重大で、そして根源的な問題についてなのですから」
郷田はそこで一度言葉を切ると、隣に座る的場に、静かに顎をしゃくった。
「的場君。……始めたまえ」
「……は、はい」
的場は、震える手で手元のタブレットを操作した。
次の瞬間、その鋼鉄の会議室の壁一面が、巨大なホログラムスクリーンへと姿を変えた。
「――皆様。私がこれからお見せするものは、我が国が直面し、そして今や皆様方、人類全体が直面することになった、ある未知との遭遇に関する記録です」
的場の静かな、しかし覚悟の決まった声が、部屋に響く。
スクリーンに、あのCISTの地下実験場で撮影された例の映像が、大音量と共に映し出された。
青白い閃光。歪む空間。そして、ありえない内部容積を持つ鉄の箱。
そのあまりにも有名な映像に、各国の首脳たちは再び眉をひそめた。
「……郷田総リ。これは一体、どういうことかね?」
ドイツのシュミット首相が、冷徹な声で問い質した。
「我々は、この奇妙な映像を見せられるために、わざわざ大西洋を越えてきたのではありません。我々が知りたいのは、この奇跡の技術の『正体』です。日本が、どうやってこれを開発したのか。その科学的な根拠を、我々は求めている」
そのあまりにも当然の問いかけに。
郷田は、待っていましたとばかりに、静かに首を横に振った。
「――シュミット首相。そして皆様。……本日、我々が皆様にお伝えしなければならない第一の、そして最も衝撃的な真実は、そこにあります」
彼はゆっくりと、その場にいる全ての指導者たちの目を、一人一人まっすぐに見つめた。
そして、宣告した。
「――この空間拡張技術は。……我が国が開発したものでは、断じてありません」
その一言が、部屋の空気を完全に変えた。
「え」と、誰かが間の抜けた声を漏らした。
トンプソン大統領が、身を乗り出す。
「……なんだと? 日本が開発したのではない、だと? ……では一体、どこの国の仕業だというのだ! 中国か!? ロシアか!? 彼らが、我々の知らないところでこんなとんでもない技術を……!?」
「いいえ」
郷田は、その憶測を静かに、しかし完全に否定した。
「この技術は、この地球上のいかなる国家、いかなる組織、いかなる人間が生み出したものでもありません」
彼はそこで、究極の間を作った。
そして的場に、再び目配せをした。
的場は頷くと、タブレットを操作する。
壁面のホログラムスクリーンが、切り替わった。
そこに映し出されたのは。
銀色に輝く、長髪。
夜空を溶かし込んだような、深い蒼色の瞳。
男でも女でもない、神々しいほどに整った中性的な顔立ち。
光そのもので編まれたかのような、シンプルなローブ。
介入者のあの非現実的なまでに美しい姿が、鋼鉄の会議室の壁一面に、大きく、大きく映し出された。
「…………な……」
誰かが、息を飲む音がした。
フランスのデュボワ大統領が、椅子から半分腰を浮かせている。
「……なんだ……これは……? CG……か? 何かの……冗談だろう……?」
郷田は、その呆然とする世界の指導者たちを、まるで無知な子供たちを諭す賢者のように見下ろしながら、静かに告げた。
「――皆様。……ご紹介いたします」
「彼こそが、我々日本政府にこの空間拡張技術を『授けた』……我々の理解を、遥かに超越した場所におられるお方」
「我々が、『介入者』と呼んでいる……」
「――地球外より来たりし知的生命体、そのご本人です」
…………。
……。
絶対的な、沈黙。
それはもはや、静寂という生易しい言葉では表現できない何かだった。
まるで宇宙空間に放り出されたかのような、音も、光も、時間すら存在しないかのような完全な無。
世界の指導者たちは、誰一人として声を発することができなかった。
彼らはただ、目の前の壁に映る、ありえないほど美しく、そしてありえないほど異質な存在の姿に、その魂ごと釘付けになっていた。
彼らが今まで築き上げてきた現実という名の常識が、価値観が、そして世界観そのものが、音を立てて粉々に砕け散っていく音を、自らの頭蓋骨の内側で聞いていた。
数秒か。
あるいは、数分か。
永遠にも感じられたその沈黙を最初に破ったのは、意外な人物だった。
ドイツの、シュミット首相。
彼女は、その鉄の女と呼ばれた冷静な仮面をかなぐり捨て、まるで初めて見る美しい蝶に心を奪われた少女のような、純粋な科学者としての好奇心に満ちた目で、スクリーンを見つめていた。
「……美しい……」
彼女は、恍惚とした表情で呟いた。
「……なんと、なんと美しい生命体なのだろう……。この左右対称の完璧なフォルム……。我々人類が持つ、生物学的な不完全さがどこにも見られない……。これは、進化の一つの究極の形なのか……?」
そのあまりにも場違いな、しかしあまりにも本質的な呟きが、まるで魔法を解いたかのようだった。
他の首脳たちも、次々と我に返っていく。
そして、その我に返った彼らの口からほとばしり出たのは、たった一つの言葉だった。
「――オー・マイ・ゴッド……」
アメリカのトンプソン大統領が、力なく椅子に崩れ落ちるように、深く背もたれに体を預けた。彼の顔は、蒼白を通り越して土気色になっている。
「……信じられん……。こんなことが……こんなことが、現実にありえるというのか……」
イギリスの首相が、頭を抱えている。
「我々は……我々は今日まで、一体何と戦ってきたのだ……? 経済危機? テロ? 国家間のちっぽけな覇権争い? ……馬鹿馬鹿しい……。全てが……全てが、子供の砂遊びに見えてくる……!」
混乱。
狂乱。
そして、畏怖。
その賢人たちの部屋が、阿鼻叫喚の地獄へと変わる寸前。
郷田が、パン、と一度だけ乾いた音で手を叩いた。
「――ご静粛に」
その静かな、しかし有無を言わさぬ声に、首脳たちははっと我に返り、郷田に視線を集中させた。
「皆様のご混乱は、痛いほどお察しいたします。我々日本政府も、一ヶ月前、皆様と全く同じ衝撃を受けたのですから。……ですが、感傷に浸っている時間はありません。我々は指導者として、このあまりにも巨大な現実を直視し、そして次の一手を考えねばならんのです」
郷田はそこで、再び的場に視線を送った。
的場は頷くと、介入者との接触の経緯、CISTの設立、そして彼らとの対話の内容を、可能な限り客観的な事実として、淡々と説明し始めた。
そのあまりにもSF映画のような、しかし否定のしようがないリアリティに満ちた報告に、首脳たちはただ黙って聞き入るしかなかった。
そして、的場の報告が終わると。
当然の疑問が、トンプソン大統領の口から発せられた。
「……なるほど。話は分かった。信じがたいが……信じるしかない、ということなのだろう」
彼は、郷田をまっすぐに睨みつけた。
「だが、そうなると話は全く変わってくる。郷田総理。……これはもはや、日本一国の問題ではない。人類全体の問題だ。……であるならば、その介入者とやらが授けたという空間拡張技術もまた、人類全体の資産として、我々G7が共同で管理し、その恩恵を分かち合うべきではないのかね?」
それこそが、彼らが最も聞きたい核心だった。
技術を、よこせ。
その剥き出しの要求。
会議室の空気が、再び張り詰める。
誰もが、郷田の答えを固唾をのんで見守っていた。
この日本の老獪な狐が、この絶体絶命の要求をどうかわすのかと。
郷田は、少しだけ悲しそうな顔を作ってみせた。
それは、友の無理な頼みを断らなければならない、苦悩に満ちた完璧な演技だった。
「……ミスター・プレジデント。そして、G7の友人の皆様」
彼は、ゆっくりと語り始めた。
「あなたのおっしゃることは、痛いほどよく分かります。我々も、できることならばそうしたい。この奇跡の技術を、長年の友好国である皆様方と分かち合い、共に輝かしい未来を築いていきたい。……その気持ちに、嘘偽りは一切ありません」
郷田はそこで、一度言葉を切った。
そして、深く、深く息を吐き出した。
「……ですが……できないのです。今の我々には、それがどうしてもできない」
「……なぜだ!」
トンプソンが、声を荒らげた。
「理由を、聞かせてもらおうか!」
郷田は、その問いを待っていたかのように、的場に視線を送った。
的場は頷くと、静かに、しかしはっきりと、その科学的な、そして誰も反論のしようがない言い訳を口にした。
「皆様。……先ほど私は申し上げました。介入者が我々に与えてくれたのは、あくまで基礎理論と設計図だけです。我々CISTの科学者たちは、この一ヶ月、寝る間も惜しんでその神の聖書とも言うべき資料を解読し、そしてようやく現象を『再現』することに成功したに過ぎません」
彼は、そこにいる首脳たちを一人一人見つめた。
「ですが、我々はまだその根本原理を、何一つ理解してはいないのです。なぜ、そうなるのか。どのような物理法則が、働いているのか。我々はただ、神のレシピ通りに料理を作っているだけの、哀れな猿に過ぎません」
そのあまりにも率直な自己評価に、ドイツのシュミット首相が深く頷いた。科学者でもある彼女には、その苦悩が痛いほど理解できたのだ。
的場は、続けた。
「そのような状況で、我々が皆様方にこの技術をお教えすることができるでしょうか? 仕組みも分からぬまま又聞きで教えることが、どれほど危険なことか。それは、洞窟で初めて火を手にした原始人が、隣の村の者に『この赤くて熱いものは便利だぞ』と、たいまつを一本渡してやるようなものです。彼らはその火で暖を取るかもしれない。だが、誤って森を焼き尽くしてしまうかもしれない。……我々は、そんな無責任な真似は断じてできないのです」
その、あまりにも完璧な比喩とロジック。
会議室は、静まり返った。
誰も、反論できない。
なぜなら、それが恐らくは真実そのものだからだ。
無理やり技術を奪ったところで、自分たちにはそれを使いこなせない。
それどころか、暴走させて世界を破滅に導いてしまうかもしれない。
その恐怖が、首脳たちの欲望に冷たい水を浴びせた。
「……なるほどな」
トンプソンが、ようやく重い口を開いた。
彼の顔には、もはや怒りや苛立ちはなかった。あるのは、この途方もない問題の本質を理解した指導者としての、深い苦悩だけだった。
「……つまり君たちは、神と人類の間に挟まれた、哀れな中間管理職というわけか」
そのあまりにも的確な表現に、的場は思わず苦笑いを浮かべた。
郷田は、その空気を見逃さなかった。
「――ご理解いただけましたかな、ミスター・プレジデント」
彼は、最後の、そして最も重要な提案を切り出した。
「我々日本は、この重すぎる宿命を、決して一人で背負うつもりはありません。我々は、この危機と、そして好機を、G7の皆様方と共に分かち合いたいと考えている」
彼は、手を差し伸べるように言った。
「我々は、皆様方に提案したい。介入者との公式な対話の窓口を、我々G7が共同で設立し、共に彼らと向き合っていこうではありませんか。日本は、その唯一の経験者として、皆様と介入者の間を取り持つ、誠実な仲介役を務めることをお約束いたします」
その、あまりにも寛大で、友好的な提案。
首脳たちの顔に、安堵と、そして感謝の色が浮かんだ。
そうだ。
技術は、手に入らないかもしれない。
だが、神の存在という究極の情報を共有し、共に対話のテーブルに着くことができる。
日本は、敵ではなかった。
彼らは、このありえない危機を共に乗り越えようとする、信頼できるパートナーだったのだ。
「……ううむ……」
トンプソンは腕を組み、深く考え込んでいた。
そして彼は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。郷田総理。……君の、そして日本の誠意は理解した。……危険な賭けにはなるだろう。だが、もはや我々にはその舟に乗る以外の選択肢は、ないようだ」
彼は、他の首脳たちを見回した。
「……皆様、異論はないかな?」
誰も、首を横には振らなかった。
ドイツのシュミットが、フランスのデュボワが、イギリスの首相が、次々と重々しく頷いていく。
ここに、G7の総意は固まった。
彼らは日本と連携し、未知なる介入者との対話に臨む。
その歴史的な瞬間に、郷田は、その老獪な顔の内側で勝利の笑みを浮かべていた。
(……かかったな)
全ては、思惑通り。
日本は、G7という最強の盾を手に入れ、そしてその盾の内側で、神との唯一のホットラインを独占し続ける、絶対的な優位性を確保したのだ。
「――ありがとう、友よ」
トンプソンが立ち上がり、郷田の前に歩み寄った。
そして、その手を固く握りしめた。
「……君たちが、このとんでもない真実を我々に打ち明けてくれた、その勇気と誠実さに、心から敬意を表する。……よく話をしてくれた、日本よ。……これから我々は、運命共同体だ」
その言葉に、他の首脳たちも次々と立ち上がり、郷田と、そして的場の周りに集まってきた。
彼らの顔には、もはや疑心暗鬼や嫉妬の色はない。
あるのは、人類の代表として、共に未知の領域に足を踏み入れる同志としての、固い連帯感だけだった。
その歴史的な握手を、交わしながら。
的場は一人、この鋼鉄の部屋の遥か上空、そしてそのさらに先にある漆黒の宇宙を思っていた。
月にいる、あの観測者は、この光景をどう見ているのだろうか。
人間の愚かさを、嘲笑っているのか。
それとも、そのか弱くも必死な団結に、わずかな希望を見出しているのだろうか。
答えは、誰にも分からない。
ただ一つ、確かなことは。
人類は今日この日、初めて一つの星の住人として、その小さな舟を未知なる宇宙の大洋へと漕ぎ出したのだ。
その羅針盤を、ただ一人の日本人、的場俊介に託して。
彼の、あまりにも孤独で、あまりにも壮大な航海が、今まさに始まろうとしていた。