第10話 神々の代理人
世界は、日本という一点を中心に、熱狂と嫉妬、そして畏怖が混じり合った巨大な渦の中にいた。
あの日、日本政府が世界に向けて『空間拡張技術』の成功を発表してから、一ヶ月が経過していた。その一ヶ月は、人類の歴史におけるどの三十日間よりも長く、そして激しく世界を揺さぶった。
最初は、嘲笑と懐疑だった。「極東の島国がまた奇妙なジョークを飛ばしている」。ニューヨークのウォール街も、ロンドンのシティも、北京の中南海も、最初はそう言って高を括っていた。だが、日本の会見に出席した各国のメディアが、半狂乱の状態で「本物だ」「我々の常識は今日死んだ」と報じ始め、その物理的証拠となるありえない内部空間を持つ「箱」の映像が世界中に拡散されると、空気は一変した。
嘲笑は驚愕に、懐疑は確信へと変わった。
そしてその驚愕は、やがて剥き出しの欲望と、剥き出しの恐怖へと変質していった。
アメリカ合衆国大統領は、毎日のように郷田総理とのホットラインを要求した。「同盟国として、技術情報を共有する義務があるはずだ」「これは人類全体の資産であり、一国が独占することは許されない」。その言葉は、日を追うごとに友好国のそれから、脅迫者のそれに近づいていった。太平洋に展開する第七艦隊が、これ見よがしに日本近海での軍事演習を活発化させ、ワシントンのシンクタンクは、「日本による技術独占が世界にもたらす安全保障上のリスク」と題した報告書を、連日のように発表した。
中国は、より直接的だった。日本のありとあらゆる政府機関、研究施設、そして民間企業に対して、国家ぐるみでのサイバー攻撃が津波のように押し寄せた。CISTの存在は極秘だったが、その周辺を嗅ぎ回る、明らかにプロのスパイと思われる人間が何人も、公安警察によって拘束された。国営メディアは、「日本の軍国主義の復活」「世界を支配しようとする危険な野望」といったプロパガンダを、声高に叫び続けた。
ヨーロッパ諸国は、嘆願と懐柔で日本に迫った。「長年の友好関係に免じて、どうかその奇跡の恩恵を我々にも」「共に人類の輝かしい未来を築こうではないか」。その言葉の裏には、この歴史的な技術革新の潮流から取り残されることへの焦りと恐怖が、色濃く滲んでいた。
発展途上国からは、救いを求める声が殺到した。食糧問題、エネルギー問題、貧困。空間拡張技術が、それら全てを解決する魔法の杖に見えたのだ。日本の大使館の前には、連日、自国の国旗を掲げた人々が集まり、技術供与を求めるデモが行われた。
世界は、日本に「答え」を求めていた。
なぜ、日本だけが?
どうやって、その技術を?
そして、いつ我々にその恩恵を分けてくれるのか?
その全世界からのあまりにも巨大な圧力と期待を、たった一人でその双肩に受け止めている男がいた。
特命対策室『CIST』室長、的場俊介。
彼は、この一ヶ月、文字通り一睡もせずにこの国難、いや、人類規模の難局に対応し続けていた。
「――以上が、この一週間の各国諜報機関の動向です」
富士の樹海の地下深く、CIST本部。
巨大なホログラムスクリーンに世界地図が広がり、無数の赤い警告アイコンが明滅している。内閣情報調査室から出向してきた分析官が、淡々と、しかし危機感を隠せない声で報告を続けていた。
「アメリカCIAは、CISTの拠点がこの富士山麓にある可能性を、かなり高い確度で掴みつつあります。中国の国家安全部は、CIST所属の科学者リストを作成し、その家族への接触を試みている模様。ロシアのSVRは……」
的場は腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔でその報告を聞いていた。
彼の周囲には、CISTの中核を担う科学者たちが、同じように憔悴しきった顔で座っている。彼らはもはや科学者であると同時に、国家の最高機密を担う諜報戦の最前線に立つ兵士でもあった。
「……ご苦労」
的場が短く言うと、分析官は一礼して席に戻った。
室内に、重い沈黙が落ちる。
「……時間の問題ですな」
沈黙を破ったのは、ノーベル賞に最も近いと言われた老物理学者、湯川教授だった。彼はいつもの飄々とした態度を崩さず、しかしその目の奥には、深い憂慮の色を浮かべていた。
「我々がこの地下要塞に、永遠に隠れ続けられるわけではない。いずれ彼らはこの場所を特定し、そしてあらゆる手段でこの扉をこじ開けようとするでしょう。物理的にも、電子的にも、そして外交的にも」
「分かっている」
的場は、短く応えた。
郷田総理率いる日本政府は、この一ヶ月間、「現在、技術の安全性を検証中であり、他国への情報開示は時期尚早である」という一点張りで、全ての国からの要求を巧みにかわし続けていた。だが、その時間稼ぎも、もはや限界に近づいていた。世界は、日本の「言い訳」に耳を貸さなくなりつつあったのだ。
「問題は、我々がいつまでも『言い訳』しかできないことです」
若き数学者が、神経質そうに指を組みながら言った。
「我々が解析している介入者の『聖書』。あれは確かに、神の叡智です。ですが、我々はまだその一行たりとも、本当の意味で『理解』できてはいない。ただ、書かれている通りに装置を組み立てたら、現象が『再現』できたというだけ。なぜそうなるのかという根本原理は、全くのブラックボックスのままです。これでは、他国に教えようにも教えられない」
その通りだった。CISTは、神のレシピを再現する哀れな料理人に過ぎなかった。なぜこのスパイスを入れると、奇跡の味が生まれるのか。その理屈を、何一つ説明できないのだ。
「……そろそろ時間だ」
的場は壁の時計に目をやり、重い腰を上げた。
週に一度、介入者と行われる定例会議の時刻が迫っていた。
科学者たちの顔に、緊張が走る。
彼らにとって、介入者は神であり、教師であり、そして得体の知れない恐怖の対象でもあった。この一ヶ月、彼らは何度か介入者に技術的な質問を試みた。だが、返ってくる答えはいつも同じだった。
『その問いは、あなた方が自らの知性でたどり着くべきものです』
『ヒントは、既に与えられた資料の中に全て書かれています』
『安易に答えを求める姿勢は、知的生命体としての怠慢です』
そのあまりにも突き放した、しかし否定のしようがない正論の前に、人類最高の頭脳たちは、赤子のようにただ打ちのめされるしかなかった。
今日の会議で、何か進展はあるだろうか。
それともまた、無慈悲な正論で一蹴されるだけだろうか。
的場は、そんな部下たちの不安を背中で感じながら、メインコントロールルームの中央、介入者が降臨する円卓テーブルの前に立った。
「……頼むぞ」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
(我々はもう限界だ。何か……何か、この膠着した状況を打破するための新しいカードが、必要だ……)
定刻。
何の前触れもなく光の粒子が舞い降り、介入者がその神々しい姿を現した。
銀色の長髪が、無重力のように揺らめき、夜空を溶かし込んだような蒼い瞳が、静かにそこにいる人間たちを見下ろしている。
その姿は、何度見ても現実感を失わせる、圧倒的な美しさと威厳に満ちていた。
『――定刻ですね、的場室長。CISTの諸君』
その声は、スピーカーからではなく、全員の脳内に直接響き渡った。
「はい、介入者殿。お待ちしておりました」
的場は深々と頭を下げ、CISTを代表してこの一週間の研究の進捗状況を報告し始めた。いくつかの技術的な課題、シミュレーションの結果、そして再現実験の成功率。その報告は、表面的には順調な進展を示しているかのように聞こえた。
だが、介入者はその報告を、何の感情も見せずにただ黙って聞いていた。
そして、的場の報告が終わると。
『……なるほど。あなた方のその勤勉さには、敬意を表します。ですが』
介入者はそこで初めて、その声にわずかな失望とも、憐憫ともつかない響きを滲ませた。
『あなた方はまだ、私が与えた地図の出発点から、一歩も動けてはいないようだ』
その一言は、CISTの科学者たちの心を、冷たい刃のように深く抉った。
誰もが、悔しさに唇を噛み締める。
的場は、その言葉を甘んじて受け入れた。
「……おっしゃる通りです。我々の知性はまだ、貴殿の叡智の入り口にすら立てておりません。それは、我々の力不足です。……ですが、介入者殿。我々にはもはや、純粋に研究だけに没頭できる時間は残されておりません」
彼は、意を決して本題を切り出した。
「貴殿もご存知のはずです。我々が世界からどのような目で見られ、どのような圧力を受けているかを。各国は、我々が技術を独占し、世界を支配しようとしていると、疑心暗鬼に陥っている。このままでは、世界は日本とそれ以外の全ての国という、危険な対立構造へと突き進んでしまうでしょう。最悪の場合、それは武力衝突へと……」
的場は、魂を込めて訴えた。
「我々には、彼らを納得させるための『言い訳』が必要なのです。なぜ、我々がすぐに技術を共有できないのか。その正当な理由が。……どうか、お力添えをお願いできないでしょうか」
それは、神への嘆願だった。
この絶望的な状況を、どうか救ってほしいという哀れな人間の祈りだった。
CISTの誰もが、介入者がまたいつものように「それもあなた方が自らの知恵で解決すべき問題です」と、冷たく突き放すのだろうと固唾をのんで見守っていた。
だが。
介入者の反応は、彼らの予想を完全に裏切るものだった。
『……なるほど。言い訳、ですか』
介入者は静かにそう呟くと、ふっとその蒼い瞳を細めた。
それはまるで、面白い提案を聞いたというような、どこか人間的な反応に見えた。
『ええ。良いでしょう。あなた方のその苦境、理解しました。ならば私が、あなた方に最高の『言い訳』を授けて差し上げましょう』
「……えっ?」
的場は、思わず間の抜けた声を上げた。
他の科学者たちも、信じられないというように顔を見合わせている。
今、この神は、我々のあまりにも俗物的な願いを聞き入れると言ったのか?
介入者は、そんな彼らの動揺を意にも介さず、静かに、そしてとんでもない爆弾を投下した。
『――私の存在を、他国へ開示してよろしいですよ』
…………。
……。
一瞬の静寂。
CISTの誰もが、今、自分たちの脳内に響いた言葉の意味を理解できなかった。
私の存在を、開示する?
この地球外知的生命体の存在を、世界に公表する?
「…………えっ?」
的場は、本日二度目の、全く同じ間の抜けた声を絞り出した。
「い、今……なんと……?」
『聞こえませんでしたか? ですから、私の存在をアメリカや中国や、あなたがたが交渉に苦慮している全ての国々に、公表しても構わないと言っているのです』
「……よ、良いのですか!? そのような重大なことを……!」
的場は、混乱のあまり絶叫していた。
それはCISTにとって、いや、日本政府にとって、絶対に世界に知られてはならない国家の最高機密。その機密を、当の本人からあっさりと公表して良いと許可されたのだ。
介入者は、そんな的場の狼狽ぶりを楽しむかのように続けた。
『ええ。別に構いませんよ。むしろ、その方があなた方にとっては好都合でしょう?』
彼は、まるで悪魔の囁きのように、その甘美な提案のメリットを語り始めた。
『考えてもごらんなさい、的場室長。あなた方は、こう言えるようになる。「この技術は、我々が生み出したものではない。我々より遥かに高度な地球外の知性から、授けられたものなのだ」と』
その言葉に、的場ははっと息を飲んだ。
『「我々日本は、彼ら『介入者』によって、人類の代表として最初のコンタクト相手に『選ばれた』に過ぎない。我々も、彼らの壮大な計画の一端を担う、駒の一つなのだ」と。……そう主張すればどうです? 世界のあなた方に対する嫉妬と非難の矛先は、大きく逸れることになる』
確かに、そうだ。
日本は、技術を「独占」している悪の帝国ではなくなる。
ただ神に「選ばれた」最初の使徒という、特別な、しかし絶対的ではない立場に変わることができる。
『そしてあなた方は、こうも言える。「我々もまだ、この技術の全てを理解しているわけではない。介入者の指導を仰ぎながら、一歩ずつ学んでいる最中なのだ。だから、すぐに全てを共有することはできない。それは我々ではなく、介入者のご意志なのだ」と。……これは、技術供与ができない最高の言い訳として使えます。誰も反論できないでしょう? 神の意志に、人間が逆らえるはずもありませんからな』
そのあまりにも完璧で、あまりにも狡猾なロジックに、的場は背筋が寒くなるのを感じた。
そうだ。
この手を使えば、日本は今受けている全てのプレッシャーから解放される。
それどころか、日本は世界で唯一、神と対話できる神聖な「窓口」としての、不可侵の地位を手に入れることができるのだ。
それは、どんな軍事力よりも、どんな経済力よりも強力な外交カードになる。
『どうです? 悪くない提案でしょう? なんなら私が、あなた方の代わりに国連総会にでもこの姿で出て行って、直接説明してもいいですよ?』
介入者は、にこりと神々しい笑みを浮かべたように見えた。
その、あまりにも巨大すぎる提案。
あまりにも魅力的すぎる、悪魔の囁き。
的場の脳は、完全にショートしていた。
メリットとリスクが、頭の中で嵐のように渦巻いている。
メリットは、計り知れない。
だが、リスクは?
地球外生命体の存在を、公式に認める。
それは、人類の歴史、価値観、宗教、社会、その全てを根底からひっくり返しかねない劇薬だ。
世界は、どう反応する?
パニックか? 狂喜か? それとも、新たな宗教戦争の始まりか?
とても、自分一人のこの場の判断で決められることではない。
的場は、わなわなと震える唇で、ようやく言葉を絞り出した。
「…………す、すみません……。そ、そのご提案は、あまりにも、あまりにも重大すぎます……」
「一度……いえ、どうか一度だけ、持ち帰らせていただいてもよろしいでしょうか……?」
それは、CISTの室長としてではなく、一人のキャパシティを超えた人間に戻った、哀れな懇願だった。
その情けない姿に、介入者は少しも気を悪した様子はなく、むしろ優しく、慈しむような声で言った。
『ええ。どうぞ、どうぞ。ごゆっくりお考えください』
『あなた方はいつもそうやって、石橋を叩いて、叩きすぎて壊してしまうような、慎重すぎるきらいがありますからな。……ですが、まあ、今回はその慎重さが正しいかもしれません』
介入者は、最後に意味深な言葉を残した。
『――いずれにせよ、答えはあなた方自身で見つけ出すしかないのですから』
その言葉を最後に、介入者の姿はすうっと光の粒子へと変わり、何の痕跡も残さずに消え去った。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、あまりにも巨大な選択肢を突きつけられ、呆然と立ち尽くすCISTのメンバーたちだけだった。
誰も、声を発することができない。
自分たちが今、何を聞かされたのか。
その途方もない意味を、必死に咀嚼しようとしていた。
数分間にも感じられる、長い沈黙。
それを最初に破ったのは、やはり湯川教授だった。
彼はゆっくりと天を仰ぎ、そして、ふーーーーーっと長く、深く息を吐き出した。
「…………いやはや……」
その声は、呆れと感嘆と、そして科学者としての純粋な興奮がごちゃ混ぜになったような、複雑な響きをしていた。
「……参ったな。これは、参った。我々はとんでもないパンドラの箱を開けてしまったと思っていたが……どうやら、その箱は二重底だったらしい。そして我々は今、その本当の底の蓋に、指をかけてしまったようだ……」
彼はゆっくりと、まだ呆然と立ち尽くしている的場に向き直った。
「……的場大臣」
「……は、はい……」
「これは……もはや、我々科学者の手に負える問題ではありません。これは、政治の問題です。それも、この国の、いや、この星の全ての政治家たちの覚悟と器量が問われる、究極の踏み絵ですな」
湯川の言葉に、的場ははっと我に返った。
そうだ。
これは、自分がここで一人で抱え込める問題ではない。
この神からの恐るべき提案を、あの日本の権力者たちはどう受け止めるのか。
あの神の力を手にして、世界の覇王にでもなったかのように有頂天になっていたあの老人たちは、この新たな選択肢を前に、どのような判断を下すのだろうか。
「……すぐに、官邸に戻る」
的場は、決然とした声で言った。
「郷田総理に、緊急のご報告をしなければならない」
彼の顔には、もはや先ほどまでの狼狽の色はなかった。
それは、人類の歴史の重大な分岐点に、その案内人として立たされてしまった男の、悲壮なまでの覚悟の表情だった。
彼は、CISTのメンバーたちを一人一人見回した。
「……諸君。我々は今日、この瞬間からただの科学者ではなくなる。我々は、神々の代理人となるのだ。その恐るべき責任の重さを、肝に銘じておいてくれ」
その言葉を、誰も否定する者はいなかった。
彼らは皆、黙って力強く頷いた。
富士の樹海の、地下深く。
世界から完全に隔離されたこの秘密基地で。
人類の新たな、そしておそらくは最も困難な夜明けが、今、静かに始まろうとしていた。
的場はコートを羽織ると、一人、足早にコントロールルームを後にした。
地上へと続く、長い長いエレベーターの中で。
彼は、ぎゅっと固く拳を握りしめていた。
(……見ていろ、介入者)
(我々人類を、あまり見くびるなよ……)
(我々は決して、あなたの掌の上でただ踊るだけの、哀れな猿ではないのだから……!)
その決意の言葉は、しかし、彼がこれから足を踏み入れるであろう、魑魅魍魎が跋扈する永田町という名の魔窟の本当の恐ろしさを、まだ知らなかったからこそ言えたのかもしれない。
神の代理人が、人間の欲望という最も厄介で、最も予測不可能な魔物と対峙する時が、刻一刻と近づいていた。




