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第2章:絶望の奈落


俺の心が絶望に沈むのと歩調を合わせるかのように、ダンジョンの景色はさらに陰鬱さを増していく。


俺たちが今いるCランクダンジョン『嘆きの迷宮』は、その名の通り、壁や床から絶えず水が染み出し、まるで迷宮そのものが嘆き、涙を流しているかのような陰湿な場所だ。空気は重く、カビと腐臭が混じったような淀んだ匂いが鼻をつく。時折、遠くから聞こえる魔物の呻き声のような反響音が、壁を伝って不気味に響き渡る。


パーティー「ブレイジング・エッジ」は、この迷宮の十階層、深層と呼ばれるエリアに足を踏み入れていた。Cランクパーティーが挑むには、やや背伸びした選択だ。それは、リーダーである赤城の功名心と、Bランクへの昇格を焦る気持ちの表れだった。


「おい、譲。さっきのホブゴブリンの魔石、まだ回収してないのか? 早くしろよ」


最後尾を歩く俺に、赤城が振り返りもせずに吐き捨てる。彼の声は、この湿ったダンジョンの中でもやけに乾いて、苛立ちを隠そうともしない。


「は、はい。ただいま……」


俺は小走りで戦闘跡地に戻り、転がっていた青黒い魔石を拾い上げる。そして、すぐに【ゴミ箱】スキルを発動し、価値のないガラクタ――折れた剣の破片や、汚れた布切れ――をスキルの中に放り込んでいく。この作業に、もう感情はない。ただ、プログラムされた機械のように、指先が動くだけだ。


俺がパーティーにいることで、彼らは戦闘後の面倒な後処理を一切する必要がない。価値のあるドロップ品だけが、まるで自動で選別されるかのように彼らの懐に入り、残りのゴミはすべて俺というブラックホールに吸い込まれて消える。


「ちっ、遅えんだよ。だからお前はダメなんだ」


姫野玲奈が、俺を追い抜きざまに嘲るように言った。彼女の指先には、次の戦闘に備えて小さな火の玉が揺らめいている。彼女のスキル【火炎魔法】は強力だが、燃費が悪く、精密操作には向かない。戦闘で周囲に飛び散ったアイテムを、彼女の魔法は容赦なく燃やしてしまうため、戦闘後のドロップ品回収は、彼女にとっても厄介な作業のはずだった。俺がいなければ。


岩間は、黙って俺を睨めつけるだけだ。その視線が、「お前のせいで歩みを止められた」と雄弁に物語っている。


彼らの態度は、俺の心をじわじわと蝕んでいく。だが、俺はもう、何も言い返せない。言い返すだけの気力が、とっくの昔に枯渇してしまっていた。


やがて、パーティーは巨大な石造りの扉の前にたどり着いた。このダンジョンの十階層フロアボスがいる部屋だ。

扉には、苦悶の表情を浮かべた鬼の顔が彫刻されており、その威圧感だけで並の探索者なら足がすくむだろう。


「よし、準備はいいか」


赤城が、両手剣を握り直し、不敵な笑みを浮かべた。彼の目には、目の前のボスへの警戒心よりも、これを倒して手に入れるであろう名声と富への欲望がぎらついている。


「当たり前よ、武。さっさと終わらせて、ギルドに戻って祝杯をあげましょ」

玲奈が赤城に媚びるように言い、岩間もこくこくと頷く。


「譲、お前はいつも通り、邪魔にならないように後ろにいろ。ボスがドロップするレアアイテムを、一つ残らず回収しろよ。いいな?」


「……はい」


俺は、ただ頷くことしかできなかった。これから始まる死闘の気配に、俺の心臓は恐怖で早鐘を打っている。だが、それ以上に、彼らの俺に対する無関心さが、心を冷たく凍らせていた。



ギギギ……と重い音を立てて石の扉が開かれると、そこには広大なドーム状の空間が広がっていた。

そして、その中央に、奴はいた。


「グルオオオオオオッ!」


咆哮だけで、空気が震える。身長は三メートルを優に超え、岩肌のようにゴツゴツした灰色の皮膚を持つ巨体。手には、俺の胴体ほどもある巨大な棍棒が握られている。Cランクダンジョンのフロアボス、『オーガロード』だ。

その威圧感は、これまで戦ってきたどの魔物とも比較にならない。オーガロードの周囲には、数体のホブゴブリンが侍るように控えている。


「ちっ、取り巻きまでいやがるのか。岩間、前に出ろ! ボスのヘイトを稼げ! 玲奈、雑魚から焼き払え! 詠唱開始!」


赤城が、焦りの色を滲ませながらも的確に指示を飛ばす。さすがにCランクパーティーのリーダーだけのことはある。戦闘が始まる瞬間の判断力は、決して低くはない。


「応!」


岩間が雄叫びを上げ、巨大な戦斧を構えてオーガロードへと突進する。彼のスキルは【剛力】。その名の通り、身体能力を大幅に向上させるシンプルなスキルだが、タンク役の彼とは最高の相性だ。彼の分厚い胸板と鋼の鎧が、パーティーの盾となる。


「燃え尽きなさい、雑魚ども! 【ファイアボール】!」


玲奈の詠唱が完了し、彼女の手から放たれた灼熱の火球が、ホブゴブリンの群れに着弾する。轟音と共に爆炎が上がり、ホブゴブリンたちが断末魔の叫びを上げて炭化していく。


その隙に、赤城が動く。

「喰らいやがれ! 【剛剣・一閃】!」


赤城の両手剣が、赤いオーラをまとって輝く。彼のスキル【剛剣】は、剣に魔力を込めて破壊力を増す、典型的なアタッカータイプだ。彼はオーガロードの懐に鋭く踏み込み、その巨大な脚に深々と斬りつけた。


「グギャアアアッ!」


オーガロードが苦痛の叫びを上げる。さすがの赤城だ。Cランクとはいえ、その一撃は確かに強力だ。


俺は、その後方で固唾を飲んで戦況を見守っていた。俺にできることは何もない。ただ、彼らが勝利し、俺がドロップ品を回収する、その瞬間を待つだけだ。戦闘の邪魔にならないように、それでいて、アイテムがドロップした瞬間に駆けつけられる絶妙な距離を保つ。それが、俺に許された唯一の立ち回りだった。


戦闘は、一見すると優勢に進んでいるように見えた。

岩間がオーガロードの重い一撃を戦斧で受け止め、玲奈が残った雑魚を魔法で牽制し、赤城が着実にダメージを与えていく。理想的な連携だ。このままいけば、多少の消耗はあっても、ボスを倒せるだろう。


だが、俺は見てしまった。赤城の顔に浮かんだ、焦りと傲慢が入り混じった歪んだ笑みを。


(まずい……赤城さん、焦ってる……)


彼は、この格上のボスを相手に、自分の力を誇示しようとしている。Bランク昇格のためには、圧倒的な戦果が必要だ。彼はそう思い込んでいる。だから、安全策を取るのではなく、より派手な手柄を立てようと、無謀な大技を狙っているのだ。


「武、いけるわ! 次で決めちゃって!」

玲奈の甘い声が、赤城の功名心をさらに煽る。


「おう! 見てろよ、玲奈! こいつは俺の一撃で沈める!」


赤城が、オーガロードから距離を取り、両手剣を天に掲げた。彼の全魔力を剣に集中させる、スキル【剛剣】の最大奥義の構えだ。


「やめろ、赤城! 無茶だ!」


盾役の岩間が、オーガロードの猛攻を受け止めながら叫ぶ。彼の戦斧は、先ほどからの一方的な防戦で、すでに刃こぼれが目立っていた。彼の言う通り、今、アタッカーである赤城が攻撃の手を止めれば、タンクである岩間への負担が集中しすぎる。


だが、赤城の耳には届いていなかった。

「うおおおおお! 喰らえ、これが俺の実力だ! 【剛剣・メテオブレイク】!」


赤城の剣から、隕石のような赤い魔力の塊が放たれる。それは確かに、オーガロードの肩に直撃し、肉を抉り、骨を砕く凄まじい破壊力を見せつけた。


「グオオオオオオオオオッ!」


オーガロードが、これまでで最大の苦悶の咆哮を上げる。だが、それは致命傷には至らなかった。そして、その一撃は、獣の怒りに火をつけただけだった。


オーガロードの目が、血のように赤く染まる。――暴走バーサーク状態だ。


「しまっ――」


赤城がそう呟いた瞬間、暴走したオーガロードの棍棒が、常軌を逸した速度で岩間に叩きつけられた。


ゴシャアッ!という、聞きたくない音が響き渡る。


岩間が構えていた戦斧は、まるでガラス細工のように粉々に砕け散った。彼の自慢の鋼の鎧は、粘土のようにひしゃげ、その巨体は紙切れのように宙を舞い、ドームの壁に叩きつけられた。


「が……はっ……」


壁からずり落ちた岩間は、口から血を吐き、ピクリとも動かなくなった。


「い、岩間さんっ!」


俺は思わず叫んでいた。普段、俺をあれだけ虐げていた男だ。だが、目の前で仲間が倒れる光景は、俺の心を激しく揺さぶった。


その声が、油断していたオーガロードの注意を引いてしまった。

血走った目が、俺を捉える。


「グルルル……」


オーガロードが、次の獲物として俺を認識した。その巨体が、地響きを立てて俺に向かってくる。


「ひっ……!」


死が、目の前に迫っていた。頭では理解しているのに、恐怖で体が硬直して動かない。まるで金縛りにあったかのように、足が地面に縫い付けられた。オーガロードの棍棒が、風を切り、死の匂いを撒き散らしながら、俺の頭上へと振り下ろされる。


(死ぬ……!)


俺が固く目をつぶった、その瞬間だった。


「邪魔だ、どけぇっ!」


強い力で、俺は突き飛ばされた。尻餅をついた俺の目の前を、オーガロードの棍棒が通り過ぎ、床を粉砕する。轟音と衝撃波が、俺の体を襲った。

間一髪、命拾いした。俺を救う意図はなかったのだろうが、赤城に突き飛ばされ救われた。


だが、彼から発せられた次の言葉は、俺の心を、砕け散った床よりもさらに深く、奈落の底へと突き落とした。



「おい、クソ野郎! てめえのせいだ!」


赤城が、鬼の形相で俺の胸ぐらを掴み上げた。その瞳には、焦りと恐怖、そして、それらを糊塗するための醜い怒りが渦巻いていた。


「俺が……? 俺のせい……?」


理解が追いつかない。俺はただ、そこに立っていただけだ。恐怖で動けなかったのは事実だが、戦況を悪化させたのは、無謀な大技を放った赤城自身のはずだ。


「そうだ! お前がウロウロして、俺の集中を乱した! お前がもっと早くドロップ品を回収していれば、足場が確保できて、岩間だってやられなかったんだ!」


支離滅裂だ。戦闘中に、まだドロップ品など一つも発生していない。だが、パニックに陥った赤城には、そんな理屈は通用しなかった。彼には、自分の失敗を押し付けるための「的」が必要だったのだ。


「そ、そんな……」


「武の言う通りよ! あんたみたいな外れスキル持ちが、同じパーティーにいるだけで不愉快なのよ! あんたのその存在自体が、不運を呼び込んでるの!」


魔法の詠唱をしていた玲奈までもが、憎悪に満ちた声で俺を罵る。彼女の額には汗が浮かび回焦りが、俺への憎悪に転嫁されているのが見て取れた。


「グオオオオッ!」


オーガロードが、体勢を立て直した俺たちに向かって、再び突進してくる。


「くそっ! こうなったら仕方ねえ……」


赤城は忌々しげに舌打ちすると、俺をゴミでも払うかのように突き飛ばした。


「譲、お前はもう用済みだ。いや、お前は最初から、俺たちのパーティーには必要なかったんだ」


その言葉は、ダンジョンの冷気よりも冷たく、俺の心に突き刺さった。


「え……?」


頭が真っ白になる。用済み? この、ボスモンスターが暴れ狂う部屋で?

冗談だろう? 冗談だと言ってくれ。


「お前の装備も、持ってるアイテムも、全部置いていけ。どうせお前には使いこなせない。俺たちが有効活用してやる」


赤城はそう言うと、俺が背負っていたなけなしの装備が入ったリュックを乱暴に引きちぎり、腰のポーションポーチまで奪い取った。俺がなけなしの金で買い、けして使わずに大事に持っていた、最後の命綱であるポーションが、無造作に彼の手に渡る。


「じゃあな、歩くゴミ箱。せいぜい、魔物の餌にでもなって、俺たちが逃げる時間を稼げよ」


玲奈が、心の底から軽蔑しきった、冷たい笑みを浮かべた。その目は、もはや汚物を見る目ですらなかった。存在しないもの、価値のないものを見る目だった。


壁際で倒れていた岩間が、かすかに身じろぎした。彼は、朦朧とする意識の中で俺を捉え、かすれた声で言った。

「お前の……せいだ……」

その憎悪に満ちた一言が、俺の心を完全に打ち砕いた。


「ま、待ってください! 赤城さん! 玲奈さん! 岩間さん!」


俺は必死に懇願した。声が震える。喉がひきつる。この地獄の釜の底のような場所で一人になれば、死は確実だ。


「俺を置いていかないでくれ! 今まで、ずっとパーティーのために……!」


「うるせえ! 黙って死ね、ゴミが!」


赤城は、オーガロードの注意を俺に向けるように、俺の体を強く蹴り飛ばした。俺はなすすべもなく床を転がり、暴走した巨獣の目の前に晒される。


赤城と玲奈は、その隙に一目散に出口へと向かう。岩間の腕を担ぎ、引きずるようにして。彼らの背中が、あっという間に石の扉の向こうの闇に消えていく。


俺の叫びは、ダンジョンの暗闇に虚しく響くだけだった。

扉が、ギシリと音を立てて閉まっていく。俺の視界から、彼らの姿が、そして生き残るための最後の光が、完全に消え去った。



「グルオオオオ……」


目の前には、血走った目で俺を睨みつけるオーガロード。

背後には、固く閉ざされた石の扉。


全てを奪われ、一人、ダンジョンの最悪の場所に置き去りにされた俺。周囲からは、オーガロードの荒い息遣いと、俺自身の恐怖に満ちた心臓の音だけが聞こえてくる。

冷たいダンジョンの空気が、薄いシャツを通り抜け、肌を刺す。体中の震えが止まらない。


(終わりだ……俺の人生、こんなところで……)


絶望が、俺の全身を支配した。

俺は、その場にへたり込み、膝を抱えた。リュックも、ポーチも、なけなしの武器も、ポーションも、何もかも奪われた。残されたのは、薄汚れた服と、この忌まわしい外れスキル【ゴミ箱】だけ。


「なんで……なんで俺だけ……」


声にならない嗚咽が漏れる。

これまで、どれだけ理不尽な扱いを受けても、耐えてきた。

「外れスキルだから仕方ない」

「俺にはここしかない」

そう自分に言い聞かせ、彼らの罵倒に耐え、搾取に甘んじてきた。

だが、その結果がこれだ。

自分のミスを押し付けられ、命の盾として、ゴミのように捨てられる。


俺は、彼らにとって、本当に「ゴミ」以下の存在だったのだ。


オーガロードが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。その一歩一歩が、俺の死へのカウントダウンのように響く。

もう、抵抗する術はない。

俺は、ただ死を待つだけの存在。


(ああ、そうか……俺は、最初から「ゴミ」だったんだ……)


自己肯定感の低さが、さらに俺を追い詰める。

【ゴミ箱】というスキルを与えられた時から、俺の運命は決まっていたのかもしれない。

誰からも必要とされず、誰からも顧みられない。

そんな「ゴミ」のような存在。


冷たい石の床に、熱い涙がこぼれ落ちた。

遠い昔の記憶が蘇る。両親の落胆した顔。ブラック企業の上司の罵声。そして、今、俺を見捨てていった仲間たちの軽蔑の目。

全てが一本の線で繋がり、俺という存在がいかに無価値であるかを証明しているようだった。


オーガロードが、俺の目の前で立ち止まり、巨大な棍棒を振り上げた。

その影が、俺の全身を覆い尽くす。


もう、逃げる気力も、立ち上がる力も残っていない。

俺の人生は、このダンジョンの暗闇の中で、ひっそりと終わりを告げるのだろう。

誰にも知られることなく、誰にも惜しまれることなく。

まるで、最初から存在しなかったかのように。


俺の心は、ダンジョンの奥底よりもさらに深く、暗い絶望の海に沈みきっていた。

このまま、意識が途絶えてしまえば、どれだけ楽だろう。

そんな思考が、頭の中を支配する。


しかし、死への恐怖だけが、まだ俺の意識をこの場に繋ぎ止めていた。

生きたい。

このまま、こんな形で終わりたくない。


だが、どうすればいい?

何もできない。

何も持たない。


俺は、ただの「ゴミ箱」だ。


この絶望の淵で、俺はただ、振り下ろされる死を待つしかなかった。

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