第16章:黒鉄の市場
空間転移の眩暈が収まると、俺たちの鼻をついたのは血の匂いと、濃厚な魔力の残滓だった。
そこはスタンピードの中心地から数キロ離れた港湾地区の巨大な廃倉庫だった。
俺たちが倉庫の中に足を踏み入れると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
倉庫の中央に巨大な魔法陣が描かれ、その中心には祭壇のようなものが設置されている。
そしてその祭壇の周りには、数十人の黒ずくめのローブを着た人間たちが倒れていた。
彼らは皆一様に胸に短剣を突き立てて自決していた。
『黒鉄の市場』の下級構成員たちだろう。計画が失敗したことを悟り、情報を守るために命を絶ったのだ。
「……ここまで徹底するか」
雫が忌々しげに呟く。
だが俺が注目したのはそこではなかった。
俺が見ていたのは、彼らが命を賭してまで起動させようとしていたであろう、中央の魔法陣だ。
その魔法陣は屍竜に使われていた術式とよく似ていた。だが規模も複雑さも比較にならないほど巨大で禍々しい。
「……これは一体何をするための……」
俺が魔法陣に近づこうとした、その時だった。
「――そこまでだ、相田譲」
倉庫の奥の暗闇から静かな声が響いた。
その声に雫がハッと体を硬直させる。
ゆっくりと暗闇から姿を現したのは一人の男だった。
あの日、俺たちのアトリエを襲撃したリーダー格の男。
雫の兄と瓜二つの顔を持つ男だ。
「……兄さん……!」
雫が絞り出すような声で叫ぶ。
男はそんな彼女には一瞥もくれず、ただまっすぐに俺だけを見ていた。
その瞳には何の感情も浮かんでいない。まるでガラス玉のように冷たく無機質だった。
「驚いたぞ。まさかあの屍竜をゲートごと消滅させるとはな。君のスキル【万象再構築】は、我々の想定を遥かに超える可能性を秘めているらしい」
男はまるで研究対象を観察するような目で俺を見た。
「貴様ッ! 一体何者だ! なぜ兄さんと同じ顔をしている!?」
激情に駆られた雫が杖を構える。
男はそんな彼女を初めて見たかのようにゆっくりと視線を向けた。
「……ああ、お前か。雫、だったな」
その呼び方はあまりにも冷たく他人行儀だった。
「お前の兄、高遠 湊は三年前に死んだよ。我々の実験の過程でな。私は彼の身体と記憶を受け継いだだけの存在だ」
「……な……」
雫が絶句する。その顔から血の気が引いていく。
「さて、相田譲。余興はここまでだ」
男は再び俺に向き直った。
「君には感謝している。君が派手に立ち回ってくれたおかげで、我々は目的の物を手に入れることができた」
男がそう言うと、彼の足元の影が蠢き、そこから一つの禍々しい箱が浮かび上がってきた。
その箱は脈動する心臓のようにドクン、ドクンと不気味な音を立てている。
「それは……!?」
「『混沌の心臓』。かつてこの国を滅ぼしかけた邪神の遺物だ」
男は恍惚とした表情でその箱を撫でた。
「我々の目的はこれの回収だった。屍竜もスタンピードも全てはそのための陽動に過ぎない」
「……貴様ら、そんなものを手に入れて一体何をするつもりだ……」
「世界の再構築だよ」
男は狂信的な光をその瞳に宿して言った。
「この腐った世界を一度無に還し、我らが『主』の手によって新しく創り変える。そのために君の力が必要なのだ、相田譲。『創造』の力を持つ君がな」
男は俺に向かって手を差し伸べた。
「さあ、我々と共に来い。そして新しい世界の創造主の一人となるがいい」
その誘いを俺は鼻で笑った。
「断る、と言ったら?」
「残念だ」
男は心底残念そうに肩をすくめると、その姿がゆっくりと影の中に沈んでいく。
「だが、いずれ君は我々の元へ来ることになる。君がどれだけ抗おうとも運命からは逃れられない」
「待てッ!」
雫が魔法を放とうとするが、もう遅かった。
男の姿は完全に消え、倉庫には不気味な静けさが戻っていた。
後に残されたのは、自決した信者たちの死体と巨大な魔法陣、そして俺たちの心に刻み込まれた戦慄すべき真実だけだった。
『黒鉄の市場』の真の目的。
世界の破壊と再創造。
「……譲……」
雫が震える声で俺の名前を呼んだ。
彼女の瞳からは光が消えていた。兄の残酷な真実を突きつけられ、彼女の心は完全に壊れてしまっていた。
俺はそんな彼女の肩を強く抱いたが、その言葉はもう彼女には届いていなかった。
彼女は俺の腕の中で糸が切れた人形のように静かに意識を失った。
俺は唇を強く噛み締めた。
怒りが、憎しみが、俺の全身を焼き尽くす。
だが今は感傷に浸っている場合ではない。
俺は意識を失った雫を抱え上げると、静かに空間転移を発動させた。
帰るべき場所へ。
そして来るべき戦いに備えるために。
俺は倉庫の中央にある巨大な魔法陣を一瞥し、その構造を完全に記憶に焼き付けた。
「……待ってろよ、『黒鉄の市場』」
俺の瞳には怒りでも絶望でもない、ただ冷徹な復讐の炎が燃え盛っていた。
「お前たちの計画も野望も全て、俺が残さずリサイクルしてやる」
俺たちの本当の戦いは今、まさに始まろうとしていた。