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第1章:歩くゴミ箱


十年前に、それは現れた。

世界中の空が歪み、まるで神の悪戯のように、突如として『ダンジョン』と呼ばれる異次元の迷宮が世界各地に出現したのだ。後に『大侵攻ファースト・インパクト』と名付けられたその日を境に、俺たちの日常は、ゲームのようにレベルやステータスが存在する非日常へと塗り替えられた。


物理法則を無視した構造のダンジョンからは、ファンタジー小説から飛び出してきたかのような魔物が溢れ出し、既存の兵器はほとんど意味をなさなかった。人類は滅亡の淵に立たされた。

だが、神は人類を見捨ててはいなかったらしい。あるいは、もっと大きな厄災と共に、ささやかな希望を与えたのか。ダンジョンの出現と時を同じくして、一部の人間に『スキル』と呼ばれる超常の力が覚醒したのだ。


炎を操る者、鋼の肉体を持つ者、傷を癒す者。

スキルに目覚めた彼ら『探索者』は、魔物に対抗できる唯一の存在として、人類の希望となった。


そして十年が経った今、世界は新たな秩序と価値観の上に成り立っている。

ダンジョンから産出される『魔石』は新たなエネルギー資源となり、魔物の素材は新薬や工業製品に応用された。ダンジョン攻略は、富と名声を生み出す現代の錬金術であり、探索者は子供たちの憧れの的、一攫千金を夢見る若者たちの目標となった。


俺、相田譲あいだ ゆずるも、そんな夢追い人の一人だった。


「……すげえ」


安アパートの古びたテレビ画面に映し出されるのは、国内最高ランクであるSランク探索者、『剣聖』と呼ばれる男の特集番組だ。彼が振るう一閃は、高層ビルほどもあるドラゴンをいとも容易く屠り、その一振りで稼ぎ出す金額は、俺がかつて勤めていたブラック企業の年収を軽く超える。


俺は、大学を卒業して入った営業会社で、心身をすり減らすだけの日々を送っていた。理不尽なノルマ、上司からのパワハラ、連日の深夜残業。そんな灰色の毎日から抜け出したくて、一発逆転を夢見て、俺は探索者の道を選んだ。十五歳の時に授かった、たった一つのスキルを携えて。


だが、現実は甘くなかった。

テレビの華やかな光は、俺のいる薄暗い六畳一間の部屋には届かない。


「おい、譲! 何突っ立ってんだ、さっさと回収しろよ!」


その声で、俺は現実へと引き戻される。



薄暗いダンジョンの通路に、魔物の血と土埃の匂いが混じり合う。俺は、パーティーの最後尾で、仲間たちが倒した魔物のドロップ品――彼らにとっての「ゴミ」――を見逃さないよう、常に足元に視線を落としていた。


「おい、譲! 何突っ立ってんだ、さっさと回収しろよ!」


先頭を行くリーダー、赤城武あかぎ たけるの苛立った声が響く。赤城は、Cランクパーティー「ブレイジング・エッジ」を率いる【剛剣】スキルの剣士だ。その名の通り、力任せの剣技を得意とするが、性格は傲慢そのもの。彼は両手剣を肩に担ぎ、いかにも強者然とした態度で俺を振り返った。その顔には、俺への侮蔑がはっきりと浮かんでいる。


「は、はい! すみません、すぐに!」


俺は慌てて駆け寄り、ゴブリンの死骸の傍らに転がる汚れた銅貨と、使い古された革の小袋を拾い上げた。そして、自身のユニークスキル【ゴミ箱】を発動させる。視界の端に半透明のウィンドウが開き、拾い上げたアイテムが音もなく吸い込まれていく。


【ゴミ箱】。

それが、十五歳の時に俺が授かった、たった一つのユニークスキルだった。

能力は、視界内のアイテムを、容量の許す限りスキル内の亜空間に「捨てる」こと。ただ、それだけ。一度捨てたものは二度と取り出せない、不可逆的な消去スキル。戦闘能力は皆無。鑑定眼もなければ、アイテムを生成する能力もない。


この世界では、十五歳になると誰もが天性のスキルを授かる。それは、その人間の魂に刻まれた本質のようなものだと言われている。後天的にスキルを得るには、ダンジョンで稀にドロップする『スキルオーブ』を使うしかないが、それは市場に出回れば数千万、時には億を超える値がつく代物だ。庶民には到底手が届かない。だからこそ、最初に授かるスキルが、その人間の人生を大きく左右する。


そして俺に与えられたのが、【ゴミ箱】だった。

名前を聞いた役所の担当官が、気の毒そうな顔で俺の肩を叩いた日のことを、今でも時々思い出す。


「ったく、トロいんだよ。お前みたいな外れスキル持ちは、せめてそれくらいは役に立てよな」


魔術師の姫野玲奈ひめの れなが、鼻で笑いながら吐き捨てる。彼女のスキルは【火炎魔法】。プライドが高く、赤城に好意を寄せているため、彼が侮蔑する俺を、彼女はそれ以上に徹底的に見下している。彼女の腰で揺れる高価そうな魔導書も、俺が必死に集めたドロップ品を換金した金で買われたものだ。


「玲奈の言う通りだぜ、譲。俺たちが命懸けで戦ってんだ。お前はせめて、そのゴミ箱スキルで俺たちの邪魔にならないようにしろよ」


戦斧使いの岩間剛いわま ごうが、ごつい腕を組みながら威圧的に言った。脳筋タイプの彼は、赤城の言葉を鵜呑みにし、俺への暴力的な言動も厭わない。


彼らの言葉に、俺はもう何も感じなくなっていた。いや、感じることをやめた、と言うべきか。

根がお人好しで気弱な俺は、「ゆずる」という名前の通り、何でも他人に譲ってしまう癖があった。そして、長年の経験からすり込まれた低い自己肯定感が、「【ゴミ箱】という外れスキルしか持たない自分には価値がない」と、彼らの言葉を真実として受け入れてしまっていた。


俺のパーティーでの役割は、戦闘後のドロップ品を素早く回収するための「歩くゴミ箱」。

ダンジョンでは、魔物を倒すと様々なアイテムがドロップする。中には高値で売れる素材や武具もあるが、その大半は換金価値のないガラクタ、いわゆる「ゴミドロップ」だ。しかし、これらを放置すると戦闘の邪魔になったり、貴重なドロップ品と混ざって回収効率を落としたりする。

俺には戦闘能力はないが、元ブラック企業で培われたのか、妙に真面目で観察眼に優れており、アイテムの価値を瞬時に判断する能力だけはあった。だから、戦闘が終わると同時に、俺はドロップ品を一つ一つ確認し、価値のあるものだけをリュックに詰め、それ以外の文字通りの「ゴミ」は即座に【ゴミ箱】に捨てていく。


例えば、今しがた倒した『ポイズン・スパイダー』。こいつのドロップ品である『毒袋』は、下手に触れれば毒に侵される厄介な素材だ。俺がいれば触れずに【ゴミ箱】に捨てることができる。


「譲、あれ捨てとけ。邪魔だ」

「はい」


俺は赤城に言われるがまま、【ゴミ箱】で紫色の毒袋をスキル内に転送する。それは何の危険もなく、一瞬でこの場から消え去った。

このおかげで、「ブレイジング・エッジ」の探索スピードは、他の同ランクパーティーと比べて明らかに速かった。無駄な回収作業を省略し、危険物を即座に処理できるのだから当然だ。

だが、彼らがその事実を口にすることは決してない。俺の貢献を認めることは、彼らのプライドが許さないのだ。


俺の存在価値は、彼らにとって都合のいい「ゴミ処理係」、それだけだった。



ダンジョン探索は、常に危険と隣り合わせだ。一歩間違えれば命を落とす。だからこそ、探索者たちは互いに協力し、背中を預け合う。それが、パーティーというものだ。

しかし、「ブレイジング・エッジ」には、そんな信頼関係は微塵もなかった。彼らにとって、俺はただの道具。使い捨ての、便利な「ゴミ箱」でしかなかった。


「おい、譲! これ、邪魔だから捨てとけ!」


赤城が、使い古したポーションの空き瓶を俺の顔に投げつけてくる。中身はとうに空っぽで、べたつく液体が少し残っていた。俺は反射的に顔を背け、床に落ちた空き瓶を黙って拾い上げる。


「は、はい……」


【ゴミ箱】に空き瓶を放り込む。赤城は、俺の無抵抗な反応を見て、満足そうに鼻を鳴らした。


「ったく、気が利かねえな。お前、本当に使えねえな」


玲奈が、俺の横を通り過ぎざまに、わざとらしくため息をつく。彼女の視線は、まるで汚物を見るかのようだった。


「すみません……」


俺は、ただ謝ることしかできない。反論すれば、さらに罵倒されるか、岩間から突き飛ばされるのがオチだ。


彼らの理不尽な要求は、ダンジョンの中だけではなかった。

数時間の探索を終え、俺たちは探索者ギルドへと向かう。ギルドは、探索者の登録、ランク管理、クエストの仲介、そしてドロップ品の買い取りを行う巨大な組織だ。吹き抜けになった広々としたエントランスには、多くの探索者たちが行き交い、活気に満ちている。高価そうな装備に身を包んだパーティーが、仲間たちと笑い合いながら今日の戦果を語っている。その光景は、俺たちがいる場所とはまるで別世界のように見えた。


換金カウンターで、俺は今日の収穫である魔石や素材を提出する。

「はい、本日の買い取り合計は25万円になります」

受付の女性が、にこやかに告げる。Cランクパーティーの一日の稼ぎとしては、まずまずの額だろう。

だが、その金が俺の手に渡ることはない。


「おう、ご苦労」

カウンターの横で待っていた赤城が、ひったくるように金の入った袋を受け取る。そして、中から数枚の紙幣を抜き取ると、無造作に俺に押し付けた。

「ほらよ、お前の分だ」

「……ありがとうございます」

渡されたのは、わずか1万円。25万のうちの、たった1万。


「お前は外れスキルなんだから、これくらいで十分だろ? パーティーの維持費や、俺たちの装備新調にも金がかかるんだ。俺たちが稼いでやってるんだから、感謝しろよな」


赤城は、いつもそう言って笑った。その笑顔は、俺の心を深く抉る。

俺だって、命懸けでダンジョンに潜っている。魔物の気配に怯え、いつ襲われるかと常に神経を尖らせている。ドロップ品を回収するのも、危険と隣り合わせの作業だ。なのに、俺の努力は、彼らにとっては「外れスキル持ちの当然の義務」でしかなかった。


ギルドの壁に貼られたランク表が目に入る。俺たちの「ブレイジング・エッジ」はCランク。その上にはB、そしてA、さらにその上にはSランクが輝いている。彼らは、一度の探索で数百万、数千万という金を稼ぎ出す。同じ探索者なのに、何が違うのだろう。

いや、分かっている。スキルだ。全ては、スキルで決まる。


(俺は、本当に価値がないのか……?)


ギルドを後にし、とぼとぼと帰路につく。

夜、安アパートの薄暗い部屋で、俺はいつも自問自答した。

15歳のあの日、スキルを授かった日。俺のスキルが【ゴミ箱】だと両親に告げた時の、あの静まり返った空気と落胆した顔。憐れみと、侮蔑が入り混じった視線。

「譲は、昔から何をやってもダメだったからな……」

そう呟いた父親の言葉が、今も耳にこびりついている。


ブラック企業に就職した時もそうだった。

「相田は根性がない」「お前みたいなのがいると迷惑だ」

上司にそう言われ続け、俺は自分が本当にダメな人間なのだと思い込むようになった。


そして、今。

「お前は外れスキル持ちだ」

「お前はゴミ箱だ」

赤城たちの言葉は、過去の呪いの言葉と重なり合い、俺の自己肯定感を完全に破壊していた。


「【ゴミ箱】という外れスキルしか持たない自分には価値がない」


いつしか、それは揺るぎない俺の真実となっていた。

だから、パーティーからの理不尽な搾取やパワハラにも耐え続けた。俺には、ここ以外に居場所がない。そう、思い込まされていたのだ。


今日もまた、ダンジョン深層への道のりは、譲にとって精神的な拷問だった。魔物との戦闘よりも、パーティーメンバーからの心ない言葉と視線が、彼の心を深く抉る。


(俺は、ただのゴミの入れ物、本当にゴミ箱なんだ……)


拾い集めたドロップ品がスキルの中に吸い込まれていくのを見つめながら、譲は心の中で呟いた。このスキルがなければ、自分はここにいる価値すらない。そう、彼はずっと信じ込まされてきたのだ。


パーティーはさらに奥へと進む。譲は、彼らの背中を追うしかなかった。このダンジョンを抜ければ、また少しだけ金が手に入る。そして、そのほとんどは、彼らの懐に消えていく。そんな日常が、いつまで続くのだろうか。


譲の心は、ダンジョンの奥底のように、深く、暗い絶望に沈んでいた。まるで、鎖に繋がれた犬のように、ただ主人の後をついていくだけの、意思のない存在になり果てていた。

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