失彩病
色が見えなくなる病、それを「失彩病」と呼ぶ。
最初は赤が消える。
次に青、黄、緑、紫……
最後にすべての色が失われ、世界は灰に染まる。
「ねぇ、私の髪って……まだ、赤い?」
そう言った彼女の目は、もう俺のセーターの緑色を認識していなかった。
彼女の名前は唯。
色を愛し、絵を描くことに命をかけていた少女。
学校の屋上で毎日スケッチブックを広げ、空の青を追いかけていた。
「世界って、こんなに綺麗なんだって、君と会って知ったんだ」
そう笑った日、彼女の頬には、まだ温かな桃色があった。
でもそれは、三週間前のことだった。
「残念ですが、確定です。唯さんは、失彩病です」
医者の声が耳に残る。
色彩を失うのは、神経の異常か、精神的な崩壊か。原因はまだ解明されていない。
ただ一つ言えるのは、この病に完治例はない。
「灰色しか見えないって、どんな気持ちなんだろ?」
唯がつぶやいた。
俺には、何も言えなかった。
そして、再度診断の日。
「唯さんは最終段階......もう色が見えなくなるでしょう」
その日の夜、彼女が塗りかけたキャンバスには、灰色の花が咲いていた。
それでも、彼女は毎日屋上へ通った。
そんな彼女を元気づけるため、色とりどりの果物、色鉛筆、絵本、風船を持って俺も通った。
だが彼女に見せたところで、もう意味はない。それでも、彼女はかすかに笑ってくれた。
「君って、馬鹿だね」
「知ってる」
「でも、その馬鹿さが、好きだよ」
そして少しの間。つい先日まではこの間も心地良かったのに、今ではただただ気まずい空気が流れる。
そんな中、
「灰色しか見えないって、どんな気持ちだと思う?」
唯はつぶやいた。
また俺には、何も言うことができなかった。
「世界はまだ、あるのに。色がないだけで、全部が終わった気がする」
ある日、彼女は俺に手紙をくれた。
「もしも、最後の色が消える時、私はこの世界を去ると思う」
「でも君が見せてくれた“色の記憶”は、消さずにいられるかもしれない」
「どうか、覚えていて。私がどんな色を描いたかを」
それはまるで、遺書だった。
失彩病の最終段階——無彩状態。
全ての色を失い、視界は完全な灰白世界となる。
記憶すらも、色を伴うものから先に失われるという。
その日、唯は静かに言った。
「もう、本当に、なにも……見えない」
彼女の瞳には、すでに光すら映っていなかった。
数日後、唯は姿を消した。
屋上には、最後のスケッチブックだけが残されていた。
開いてみると、そこには、色鉛筆で描かれた一枚の人間の絵。
灰色の中に、”ほんのかすかな赤”だけが、かすれて残っていた。
それは、俺の頬を染めた赤だった。
唯が、最後まで見ていた色。
俺は、彼女が描いたすべての色を、心の中で繰り返した。
赤、青、黄、緑、橙、紫、ピンク、空色。
世界は色を失っても、記憶は色を捨てない。
だから俺は今日も、ユイが残した絵の前で、語り続ける。
「ねぇ、今日の空は、ちゃんと青いよ」
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