第4話 502号室 その4
「ーーーー近寄れなかった?! …………そんなに凄まじいのか…………その、ただの警告って、珀山って人がそう言ったのか?」
珍しく兄の武彦から掛かってきた電話。仕事中の裕二は、掛けて来たのが兄だと知り、これは只事ではないと、通話ボタンを押しながら外に出て話し始めたのだ。
極端に無口な武彦は、裕二が物心つく頃からやはり無口だった。そんな兄と長年共に生活をし、そして成長してきたのだ。武彦の妻、裕二にとっては義理の姉である未空よりも、武彦との会話が成り立つ。それこそ武彦が喋る1を聞いて10までは解らないまでも、大よそ5程度くらいは解る。そんな裕二なのだが流石に今はイラつく。なんでもっといっぱい喋んねぇんだ。いちいち聞き返すのがまどろっこしいわ、クッソ~。そんな苛立ちを口には出さずに懸命に話を聞き出した裕二。
「ーーーーええ? 寝込んだ?? もしかしたら一緒に行った未空姉さんが寝込んじまったのか? その……珀山って人みたいに未空姉さんも警告されたってことか? ……………え? きっと違うって? だったら………瘴気に当てられたってことか」
裕二は、義理の姉である未空が母さんに似てると思っていた。要はチョっと鈍いところがあると思っていて、そんな未空が瘴気に当てられたとなると、超ニブイ母さんであっても心配になってきた。それにソッチ系の瑞山珀山という人が何もできずに血まみれにされ、それが本人の言う通り、ただの警告だとすると、あの病院にナニが巣くっているのか知らないが、尋常じゃない。まさか、悪魔。
「ーーーーーーーえ? なに? …………勝てるヤツがいるって? 珀山さんがそう言ったのか? ………うん、うん、この管内って………俺たちが今住んでる管内ってことか? ……………いや……そんなスゲーヤツがいるなんて聞いた事ないけど………神父か牧師かな?」
裕二の頭の中では、以前DVDで観たエクソシストという映画がリピートされた。
「とっ、とにかく珀山さんには大至急……その~勝てるヤツを探してくれって兄貴から念押して………病院には俺が行って泊まり込む。兄貴は、未空姉さんが寝込んじまってんだから子供の世話だってあるだろうし、うん、うん、俺が行くから………電話切るぞ」
時刻は午後の4時を少し回った頃だった。外で携帯電話で喋っていた裕二は、社内に駆け戻り、上司の課長に「兄貴から電話で、お袋が倒れたみたいだから早退します。もしかしたら明日も……」と告げると、課長も慌てて立ち上がり、「わかった、直ぐに行ってやれ。仕事のことは気にすんな」と送り出してくれた。
自宅に戻った裕二。2階の自分の部屋に駆けあがり、本棚を漁った。
「あった!! これとこれだ。十字架もどっかにあったはず………」
裕二は幼い頃、幼稚園はカトリック幼稚園で、そして小学生になると日曜日毎にルーテル教会に通った。それは近所に住む2つ年上の可愛い女の子がルーテル教会に通っているのを知ったからで、決してクリスチャンでもなければ、カトリックの教えに不満を持ったからでもない、いわば、ちょっとマセた子供の、あの子と友達になりたいという行動なのだが、聖書は、旧約、新約の2つとも持っていてーーー内容は殆ど読んだ事がないからサッパリ解らないのだが捨てる事も出来ずに本棚の肥やしになっていた。その2つの聖書を脇に、使った覚えのない学習机の引き出しを漁り始めた。
「おおおお、あった………すげ~~まだちゃんと持ってたんだ」
引き出しの奥から見つかったネックレス状の十字架。それはイエスキリストの像がついていないシンプルな、十字架だけの十字架。おそらくルーテル教会に通っていた時のものだろうが、そんな事ーーーカトリックとプロテスタントの違いなど知りもしない裕二は、2つの聖書と十字架を紙袋に入れ、再び車に乗り込んだ。
外来看護婦の大井友里恵は家路を急いでいた。冗談じゃない、午前中で早退すればよかった。あれっていったいナニ? なんだったの? 男も女も血まみれだった。整形外科の外来ナースの友里恵は出血は見慣れてはいた。だけどアレは違う。全然違う。あの2人は絶対に5階に行った。5階……安奈と同じだ。壊された安奈。ウチの病院には精神科とか心療内科はない。だからよその病院に回され、入院させられたらしい。何があって、何を見たのか聞きようがない。……いや、聞きたくない。関わりたくないのにアノ2人が来た。無視してしまえばよかった。なのに気になり、エレベーターの前で下りてくるのを待ってしまった。凄い出血だった。鼻血らしい。あんな鼻血ってある? それが病院から離れたら止まったって………主任看護婦の藤堂さんが言っていた。もう決まりだ。この病院にはナニかがある。疑いようがない。502号室……ダメ、考えたらダメ。安奈みたいに呼ばれてしまう。もう嫌だ。次にやられるのはきっと私だ。こんな病院にはいられない。速攻で辞めてやる。
「…………サトル! もう家についた? ………えええ……まだなの………」
友里恵は大井聡に電話を掛けた。新婚一ケ月の夫なのだが、これが病院を出てから3度目の電話で、いくら新婚だと言っても、電車通勤の聡は、周りの乗客の目もある。それでもウンザリしながらも電話に出てくれた。そんな聡の声には明らかに怒気が含まれていたが今の友里恵には通じない。とにかく病院でのことを忘れたい。思い出したくない。その為にはセックスしか思いつかない友里恵は電話口で「今すぐにしたい!」と何度も口走った。
502号室には、入院している今泉良子、それと良子の妹の嘉藤和子、更には和子の次男の嘉藤裕二の3人がいた。良子はさっき夕食を食べ終え、和子と裕二は交代で外に食いに行き、それぞれが戻り、今はテレビを観ている。
「あははははは……面白いね~~このはるな愛って男なんだよね? ほんと女の子みたい………あははははは」
そんな上機嫌な和子の様子を見ている裕二。おかしい。いくら鈍い母さんだと言っても能天気すぎる。叔母さんの話だと昨日の晩にすぐ傍の廊下で凄い悲鳴があったらしく、それがこの病院の看護婦でションベン漏らしながらニタニタ笑ってたという。そんなの普通あるか? どう考えたって何かに出くわしちまって悲鳴を上げたんだろう。っでその出くわしたものが自分の許容範囲を超えていて、それでプッチン。それなのに、なんでそんなに笑っていられる? すぐそこで起きたんだぜ。
「母さん………母さん……母さんって!!」
「うるさい!! 聞こえないだろ!!」
「なっ………」
たかがお笑い芸人だろ。一語一句聞き逃せないものか? 母さんらしくねぇ。どうなってんだ?
「あーーーーーっははははははははははははははは」
「母さん……」
「裕二君」
小さな声だが、良子に呼ばれた裕二。見ると首を横に振っていた。
それから裕二は母親の様子を注意深く見ていた。ずっと何かを食べている。こんなに間食をする人だったか? 確か太るのを気にして夜の8時以降は何も食べないと徹底していたはず。それがもう9時になろうとしているのに、見舞の品をかたっぱしから食ってる。夕飯だって食ったきたはずなのに。
「あはははは……なにこの男、バッカじゃないの、笑っちゃう、あははははは」
テレビはバライティではなくドラマに変わっていた。それもサスペンスドラマで、決して出来の良いドラマではないが笑える内容でもない。
「ねぇ和子………今日は帰って家で寝たらいいよ。裕二君が泊ってくれるって言うし、あんたも疲れたろ」
「なに言ってんの!! あんたが泊って欲しいっていうから泊ってやってんだろうが! 今更ふざけたこと言うな!!」
「母さん!!」
その裕二の声に驚いたのか、和子が我に返ったようだ。
「え………あっ………ごっ、ごめんなさい……私、どうしちゃったんだろう?」
「いいさ、ムリ言って泊ってもらったのは私の方だから、和子も疲れてんだって」
「うん、叔母さんの言う通りだって、母さん、今日は帰った方がいいって」
「………うん……疲れてるのかな~~………でももう9時だから………夜は車の運転ちょっと怖いし、泊まってく」
「そうかい?」
変だ、あんな母さん初めて見た。この病院なのか病室なのか分からないが、ここに入院してたらダメだ。明日、なんとしても別の病院に転院させる。こんなところにいたら皆おかしくされる。うちの会社の社長は確か市議会議員にツテがあったはずだ。頼んでみよう。
寝込んでしまった未空。熱がある訳でもなく、咳や鼻水も出ない。それなのに身体が異様に怠い。服が血まみれになった瑞山珀山をそのまま帰す訳にも行かず、自宅に連れて来た頃から身体に力が入らないのだ。夫の武彦の携帯に電話をした。仕事中なのは分っていたが、立っているのも辛い。これはアノ病院での出来事に関係しているのかもしれない。そんなバカな事が、と否定する自分がいるが、本能のようなものが否定するなと訴えた。直ぐに電話に出てくれた武彦に「身体がおかしいの、辛くて動けない」とだけ言った。それをどう思い、そして詳細を訊ねることもしない夫は「すぐに帰る」とだけ告げて電話は切れた。この時ほど男は無口が良い、と思ったことはない。
真っ暗な室内。時刻は定かではない。真夜中だ。
……ん? ここは? 頭の中でそう思ったのは裕二。そして、叔母が入院している病室に自分も泊ったのだと思い出した。3人掛けのソファーで寝た裕二。病院の消灯時間は10時だ。そんな時間から眠れるだろうかと思ったが、どうやら直ぐに眠ったみたいだ。
ーーーなに? ……なんだ? 動けない。
裕二は自分の身体が動かないのを知った。金縛り……か? 金縛りという現象。それを誰かに聞いたり本で読んだ事はあるが、実際に自分がなったことはなかった。ウソだろ。これって夢?
身体のどの部分もーーー指先ですら動かせない。そんな状況でーーもしかすると夢かもしれないと思いながらも、目がだんだんと暗闇に慣れてきた。そして、僅かながらも見えることで愕然となった。目玉すら動かせない。瞬きもムリだ。落ち着け、落ち着け、落ち着くんだ。………天にまします我らの父よ願わくはお救いください。すっかり忘れていた「主の祈り」を頭の中で唱えていた。
ーーーえ? なんで? どうして見える? こんなこと……
病室の一番向こう側には叔母の良子が備え付けのベットで寝ている。その隣には武彦が持って来てくれた脚付きのマットレス。それらが薄っすらとだが見えていた。ウソだ。そんなはずがない。俺はどっちを向いて寝てるんだ? 壁際に置かれた3人掛けのソファー。その上で裕二は窓側を頭に、足を入口に向けて寝ており、叔母や母親のベットは裕二にとって右側だ。その右側が全て見えるだけではなく、左側のソファーの背もたれ、そしてその背もたれの後ろの壁までが見えた。更には、足元の向こう側の出入り口の戸、寝ている頭の向こうにある窓のカーテン、全部が見えた。もちろん天井もだ。裕二は仰向けに寝た状態で前後左右180度が見えている。こんなの夢だ、夢にきまってる。起きろ、起きろ、なんで目が覚めない。そうだ、声を出せば………叫べ、叫べ。夢か現実なのか分からない中で裕二は必死に声を出そうとするが、まるで声の出し方を忘れたように何もできない。
ーーーえ………? 誰? あれは誰だ?
寝ている叔母の顔を覗き込んでいるナニかがいる。人だ。叔母も頭を窓側にして寝ている。病院のベットは柵が付いていて、その柵越しに立つ者が、僅かに首を垂れ、叔母の顔を覗き込んでいた。そこで裕二は気づいた。兄の武彦が持って来た脚付きのマットレスには誰も寝ていないことを。母さん? 母さんなのか? なにしてる?
一つの灯りもない病室でハッキリとは見えないが、間違いなく人が立っていて、その人は寝ている叔母を見ている。そして母親が寝ていたはずのマットレスには誰もいない。母さん!! 叫んだはずの裕二。だが声は出なかった。しかしその人影がこっちを向いた。そして笑った。暗闇のせいで誰なのかも定かではなく、表情など見えるはずもないが、裕二にはその人影ーーー母親が笑ったと解った。いままで見たことの無い、下品で、嫌らしい、ねばつくような笑み。そしてソイツは笑いながら指をさした。寝ている叔母の右側の壁を。
ーーーなんだアレは?
何かがでゆっくりと出て来た。壁から。……手? 壁がまるで粘土でできているかのように、手が、一本の腕が、壁からヌルっと、音もなく出てきた。それは異様に細く、骨に皮だけが張り付いた右腕。それが肘、そして肩、次に頭部が続いた。呆気に取られる裕二はただ見ていた、ソレを。全身を表したソレは、細く、骨ばった老婆。衣服を一切身に着けておらず、垂れ下がった乳房でソレがかろうじて女であることが分かる。ソレは叔母が寝ているベットに立った。叔母をの身体を両脚で跨ぐように。
良子も同じだった。裕二と同様に目は開いているが身体の何一つ動かせず、病室の全てが見えた。そして裕二が動けずこっちを見ていることも知っていた。そんな良子の寝ている傍の壁から出て来たバケモノ。コイツだった。502号室にはナニかあると最初から分かっていた。だがこんなバケモノだなんて。自分が突き止め、なんとかしてやるとの強気な思いは全て吹き飛んだ。コイツはなに? いったいナニ? 妖怪? 悪霊? 魑魅魍魎? とても人間であったとは思えない姿の老婆。いや、老婆にすら見えないナニかが壁から出て来て、動けないでいる自分を跨いで立っている。灯りの無い暗闇のはずが何故かソイツの全てが見える。酷く萎んで垂れ下がった乳房、股間は自分と同じ女のモノが。女であるのはそれだけだ。とても生きているとは思えない骨だけの裸体。胸まである髪の毛は暗闇でも汚らしい白髪だと解り、そして薄く、頭部の地肌が見えた。そして何よりも恐ろしいのはソイツの顔だ。眉がない、そして瞼が無いのか眼球が零れ落ちるくらいに全部が露出しており、唇も無いのか歯茎が信じられないほどに見え、異様に長い歯は数本しか残っていない。ソイツを例えて言うなら腐りかけのミイラだ。そのミイラ、腰を屈め、良子に顔を寄せて笑った。強烈な悪臭を伴った息が良子の顔に掛かり、そして唇がないせいか、開いたままの口から糸を引いた唾液がダラリと零れ落ちてた。生きてる、こいつは生きてる。悪霊なんかじゃない。だったらナニ?
大声で叫びたい。今すぐに逃げ出したい。助けて、誰か助けて、婆ちゃん助けに来て。
命乞いをするがいい、ムダだけどな。グフフフフ………お前は死ぬ………ゆっくりと、苦しみもがいて、死ぬ。どうだ、お前の死にざま、そこの妹が笑いながら見てる………目にしっかりと焼き付けて死ね。心配はいらん。妹もすぐに逝く。グフフフフ………息子が見てる前で窓から飛ぶさ。息子は……そうさな……首でも括らせるか。理由だ? くっくっく………死んで欲しいからさ。他に理由が必要か?
それは壁から現れた老婆が喋ったのではなく、頭の中に直接響いて来た。良子の頭と、裕二の頭に。
異様にヌメリのある唾液を顔に滴らせられている良子。瞬きすら出来ずに、今度は息が詰まった。裕二には動かない良子に何一つ変化がないように見えるが、のたうち回るほどの苦しみに放り込まれた。微動だに出来ないまま数十秒が経つ。苦しいせいか意思を失うことすらできない。もういい、殺せ、早く殺してくれ、お願いだ、楽にしてくれ。
なに! 誰だ!!
老婆がなにかに驚いたように裕二の方を見た。
お前は誰だあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
老婆が見たのは裕二ではなく、寝ている裕二の側の壁だ。その壁から圧倒的な光の束が一直線に走り、良子に跨って立っていた老婆を飲み込み、反対側の壁ーーー老婆が抜け出てきた壁に消えて行った。
朝だった。なにやら廊下が騒がしく目が覚めた3人。「なにかしら? ちょっと見てくる」と言って502号室を出て行ったのは和子だ。そんな和子を見送った良子と裕二は互いの顔を見て、ゆっくりと頷いた。どうやら何も覚えていないのは和子だけのようだ。
和子が戻って来た。
「隣の501号室に入院してたお婆さん、朝になったら死んでたみたい」
「ふ~ん、そうかい、やっぱりかい」
「え? やっぱりって……なんで?」
「ん? あんたに言っても解んないだろうから、いいの。そんなことよりチョっと出てくる。……いいから私一人で行くからいいの」
一緒に行こうとする和子や裕二を押しとどめ、良子は一人で車いすに乗って出て行った。向かったのは503号室。良子がノックすると直ぐに戸が開けられた。
「お隣の今泉良子さんですね。どうぞ、お入りください」
そう言って503号室に招き入れてくれたのは、ちょっとキツイ目をした若い女性なのだが、その目の奥には温かいナニかを感じさせる光があった。
車椅子で中に入ると、ベットには一人の女の人が眠っていた。近寄ると、白粉を塗ったような真っ白な肌が目を引いた。肩ぐらいまでの長さのオカッパに髪を切り揃えた、まるで日本人形のような女の子。
「あなたの妹さん?」
「いえ、違いますよ。ふふふ……誰もがそう言いますけど同い年なんです。二人共が二十歳」
「ああ、二十歳………てっきり中学生か高校生かと……」
「皆そう言います。私はどういう訳か20代後半か30くらいに見えるみたいで……」
その頃、武彦の携帯に瑞山珀山から電話が掛かってきた。まだ朝の7時前だというのに。そして武彦といい勝負なほどに無口な珀山にしては極めて珍しく、けっこう喋った。
「解ったぞ!! 例のヤツに勝てるヤツ。503号室にいる」
その503号室では、
「私は丹波ユキと申します。そしてこちらは権藤彩音。彩音に用があって来たんですよね? 目は覚めていませんが、聞こえてます。話し掛けてあげてください」
頷いた良子は車椅子を彩音の傍に寄せた。
「彩音ちゃん、あんたなんだね………ありがとう。ほんとうにありがとう」
そう言った良子の目からは涙が溢れていた。
数日後のことだ。503号室に泊まり込んでいる丹波ユキの携帯電話が鳴った。
「待ってたんだからね、あんたからの電話。遅いっちゅーの」
そう言って丹波ユキは携帯電話を彩音の耳元に持っていった。
「アヤーーーーーーー!! いつまで眠ってんだ!! とっとと起きやがれ!! クソったれが!!」
権藤彩音が目覚めた。




