第3話 502号室 その3
「外来の佐々木安奈………壊れたって」
「え? 壊れた? どういうこと?」
「オシッコ漏らして、よだれダラダラさせながら笑ってたみたい」
「えええええええ……なにそれ? いつの話?」
「昨日の夜、8時過ぎらしいよ。5階で凄い悲鳴があったらしくて、5階の入院患者さんたちみんな飛び上がったって。っで何人かのナースが駆け付けたんだけど、制服じゃなく私服で外来のナースだから、最初は頭のおかしな人が入り込んだのかと思ったみたい」
「5階って……うちの病院でってこと?! ………あああああ、それでか。4階の患者さんから、何かあったのかい、って何度も聞かれた。私、昨日一昨日と休みだったからそんなの全然知らなくて……でもさ、今朝のミィーティングの時にそんな話し無かったよね」
「うん、無かった。私だって昨日は日勤だったから今朝聞いてビックリ。でもなんで外来の佐々木安奈が5階に行ったんだろう? それも仕事終わってから」
「………まさか………違うよね?」
「え………? …………502語室ってこと? いやそれはちょっと………」
「あなた達! なにやってるの!!」
3階の非常階段の横で喋り続けていた2人の看護婦は飛び上がった。突然現れ2人を怒鳴りつけたのは看護師長の沢口清美だ。
「さっさと仕事に戻りなさい!! あなた達のことは看護部長に報告しますからね!!」
「はっ、はい!!」
慌てて駆け出した2人の看護婦は、3階の入院患者のバイタルサイン測定の途中だった。3階は小児病階で入院患者数が多いのだが、重症患者がいないこともあってか2人共が弛んでいた。廊下の角を曲がって看護師長の姿が見えないのを確認すると、歩き始めた2人。
「ほんとムカツク、紐ババー。………紐ババーってさ~ガードル絶対穿かないよね」
看護師長の沢口清美は一部の看護婦の間では紐ババーと呼ばれていた。
「Tバックのパンツ穿いてるって解らせたいんでしょ、きっと」
「でもアレって紐パンだよ。お尻の割れ目に食い込んじゃって、どんなピッチピチのズボン穿いたって分んないって」
どうやら紐パンツを穿いてるから紐ババーらしい。
「ところでさ~、看護婦長たちの更衣室って別でしょ。入ったことある?」
「うん、何度かあるけど………」
「あたしさ~~、紐ババーが着替えてるとこ入っちゃってさ~………そしたら全裸だった」
「なっ、なんで全裸?」
「パンツもなんもかも着替えてんだわ。いわば完全勝負服」
「………」
「っでⅤIO処理完璧だった。そんで全裸のクセに堂々と腕組んで、なに! って睨まれた」
「…………私、看護婦長の更衣室、もうぜったい行かない」
二人の看護婦はそんなクダラナイ話をしながらバイタルサイン測定に戻っていった。昨日の晩、5階のフロアーで悲鳴を上げた佐々木安奈のことなど、どうでもいいというように。
「どうだった? なにか分かった?」
502号室に戻って来た和子にそう聞いたのは良子だ。
昨日の晩、廊下で物凄い悲鳴が上がり、502号室にいた良子と和子は顔を見合わせた。あの悲鳴は只事ではない。そしてすぐさま動いたのは妹の和子だった。入り口に駆け寄り鍵を閉め、携帯電話でこの病院の外線に電話をしたのだ。だが時間が遅いせいで代表電話は繋がらず、和子は鍵を閉めた入口の戸に耳を寄せ、廊下の様子を窺った。すると、ややもすると廊下が騒がしくなり、そこで502号室から顔を出した和子だったが、「病室に戻って!!」という看護婦の声に、廊下に出れずに見ていると、他の病室からも大勢の入院患者が見ていた。何人かの看護婦に引きずられるように連れて行かれた一人の女の姿を。
ーーー誰だろう? 誰かのお見舞いに来た人?
病室内で姉妹二人で顔を見合わせていてもらちが明かないと、和子は何があったのか聞いて来ようと、姉の良子の車椅子を押してナースステーションに向かったが、結果は同じで、病室に戻って、と追い返されたのだ。
和子はなかなか眠れなかったが気づくと朝だった。すると珍しく先に目が覚めていたらしい良子が言ったのだ。「あんた、昨日のアレ……気になるよね? ちょっと情報仕入れて来て」と。あれほど502号室に独りでいるのを嫌がった良子なのに、今日は不思議と違った。
502号室に戻って来た和子。
「うん、昨日、引きずられるように連れて行かれた女の人って、どうやら外来の看護婦で佐々木安奈って子らしいわ」
「へ~~、よく分かったね。口が軽い看護婦でもいたのかい?」
「う~うん。流石に看護婦は、普段は口が軽くても喋ってくれないでしょ。511号室に入院してる上野って若い子が覚えてたの。あの連れて行かれたのって外来の佐々木安奈って看護婦だってこと。すごく背が高くてモデルみたいな身体してるから目立つらしくて、それで覚えてたみたい。確かに昨日は私服だったから………あれ何ていうのかな~~、すごく短いホットパンツ………そんなの穿いてて、随分と脚が長い女の人だな~って思って見てたんだけど、まさか看護婦さんだとは思わなかったな~。今どきの若い看護婦って派手だね~………っでね、その上野さんが見てる前を通って行ったらしくて、股が濡れてたって。………うん、オシッコ漏らしちゃったんだろうって。それなのに笑ってたって」
「え?? 笑ってたって……そのオシッコ漏らした子が笑ってたの?」
「うん、そう。だからさ~………間違いないと思う。あの悲鳴はその佐々木安奈って看護婦だよ」
和子は、その看護婦が気がふれたと言いたいのだろう。和子の話しを聞いた良子もそう思ったが、いったい何を見たんだ? 良子は502号室の四隅に置いた盛塩に目をやり、そして入口の傍に貼った魔除けの札にも目をやった。別にかわった様子はない。
「最近の子ってメンタル弱い人が多いっていうし、もともと精神的にまいってたんだろうね。そんなことよりお腹すいちゃった。近くの喫茶店でモーニング食べてきたいんだけど、いい?」
「ええ? …………おなか空いた? あっ、ああ、いいよ、行っておいで」
妹の和子は昨夜の出来事を大して気にしていないらしい。それには姉の良子も流石に驚いたが、そんな能天気な妹に良子の懸念している事を口に出したところで、「はいはい、そうですね~」と返ってくるのがオチだ。それに今日は朝から晴天で、窓から差し込む日の光が部屋の全てを殺菌してくれているようで、独りでもなんともないような気がするし、そんな明るい部屋が、私が突き止めなんとかしてやるんだ、という気持ちを強くした。
それにしてもおかしい。昨日の晩にあんな悲鳴を聞いたのに、どういう訳か眠れた。夢すら覚えてないし、おしっこに目が覚める事もなかった。そう言えば一昨日だって夜中に一度もトイレに起きなかった。いつもは1回は必ず行くのに。
内科の外来では佐々木安奈が急に抜けた為に朝から大忙しだった。そんな中、整形外科の外来ナースの大井友里恵のところにまで昨夜の噂が聞こえてきた。なんで安奈が5階に行ったの? 私がアノ話をしたから? 違う、絶対に違う。臆病な安奈がわざわざアノ話の真相を確かめに行くはずがない。だったら何故? まさか呼ばれた? いや、行った理由なんてどうでもいい。とにかく5階で悲鳴をあげたのは事実。そしてオシッコを漏らしながら笑ってたらしい。なにを見たの? 友里恵は自分の腕に鳥肌がたっていることに気づいた。怖い、この病院はどうしようもなくヤバイ。1秒だって居たくない。新婚の夫の傍にいたい。そうすればきっと忘れる。
「す、すいません………」
友里恵は整形外科の外来主任看護婦に、体調が悪いので早退を申し出ようと思った。夫も早退させて家でセックスしよう。そしてそのままこの病院を辞めてしまおうか………
「大井さん、なにボーっとしてるの! 次の患者さん、中の待合室に案内して」
「はっ、はい」
午前の診療が始まったばかりで早退など言い難いところにもってきて、気勢を制しられたような恰好の友里恵は、早退を言いそびれ、次から次へと流れて来る仕事に埋没し、気付けば昼休憩だった。が食欲が無い。外の空気を吸えば気分も変わるだろうと正面出入口を出た所で、男と女の二人連れが目に留まった。女の方はオシャレで可愛い奥さんという感じでチョっと目立つのだが、男の方は2~3度会ったくらいでは記憶に残らない、嘘のように特徴が無いというか陰の薄い男。その男の方に友里恵は何故か気を取られた。患者さんだろうか? それとも見舞客? そんな男が立ち止まって病院を見上げた。隣の女は男が立ち止まった事に気づかず、傍にいると思い喋り続けている。
「お仕事、忙しいのでしょう? わざわざ休みまで取って来て頂いて………うちのパパとは大学の時に……え?」
喋っていたのは武彦の妻:未空だ。男が傍にいないと知り、慌てて戻っている。
未空は話し好きで、無口の夫がたた相槌を打っているだけでもかまわず喋り続ける女で、夫婦仲は極めて良い。そんな未空なのだが、夫に負けず劣らずの無口な男にはいささか閉口した。なんせほとんど初対面に近いのだ。未空が運転する車でJR駅まで迎えに行き、そしてこの病院まで連れてきたのだが、男の方からは何一つ喋らない。だから未空の方から話し掛けるのだが、話題が続かず、車の中でも「お仕事、忙しいのでしょう、わざわざ休みまでとって……」と話しかけていた。男の名前は瑞山珀山。武彦の弟:裕二に言わせるとソッチ系の人間。
もう……立ち止まるならそう言って欲しい。独りで喋ってて私バカみたいじゃん。え? ナニ? ナニ見てるの?
「なんか見えます?」
そう問われても口を開こうしない珀山。眉間に皺を刻み、病院の上部を睨んでいる。その異様に厳しい表情に気づいた未空は、それ以上は訊ねようとはしなかった。
立ち止まって見上げている珀山。両手を胸の前で複雑に絡め始め、印を結んだ。
ーーーナニかがいる。そいつは俺が来たのを知ってる。こっちを見てる。
「行きましょう」
珀山が初めて自分から喋った。きっと未空に言ったのだと思うが、未空の返事を待つこともなく一人で病院の正面玄関に向かって歩いて行く。
「………え? ちょっと待って」
玄関前でそんな2人を見ていた大井友里恵の目の前を珀山が通り過ぎ、そしてそれを小走りで追いかける未空が病院内に入って行った。
エレベーターに乗った2人。見舞客なのか他に3人が既に乗っており、4階のボタンと5階のボタンが光っていた。
エレベーターが動き始め3階を越えた。階を示す表示板を見ていた未空だが何の気になしに足元に目をやると、隣に立つ珀山の足元に水滴が落ちているのに気が付いた。ん……? なんだろう? するとポタリとそこに水滴が落ちた。顔を上げた未空。珀山の顔面から滝のような汗が滴り落ちていた。
「だっ、だいじょうぶですか……」
4階で開いたエレベーター。顎からボタボタと汗を滴らせる珀山を気味悪そうにーーーまるで何かの伝染病患者でも見るように、エレベーターの端に身体を寄せながら降りて行った2人連れの女性。エレベーターには珀山と未空、それと見ず知らずの中年男性が残り、そして扉が閉まった。その男性も出来うる限り扉の傍に立って珀山から離れている。再び動き始めたエレベーター。なにがどうしたのか未空にはまるで解らなかったが、異変が起きているのは確かだ。
「瑞山さん、いったん戻った方が………あっ!」
珀山の鼻から、ツーーーっと赤い液体が流れた。最初は片方の鼻の穴からだったのが、すぐにそれは両方の鼻の穴からとなり、気づいた珀山が両手で鼻を覆うと、その覆った手の指の隙間から、まるで何かが破裂したように飛び散った血。
5階に止ったエレベーターの扉が開き、転げるように、逃げるように出て行った中年男。
「ダメだ………これ以上は行けない…………戻ろう」
1階のエレベーター前で大井友里恵は見ていた。さっきの2人が乗り込んだエレベーターの表示板を。4階と5階に止った。乗り込んだのは5人。あの2人はきっと5階で下りたはず。どうした訳か友里恵にはそう思えた。そのエレベーターが下がって来た。4階、3階、2階、どの階にも止まった様子はなく、友里恵の目の前でチンと鳴ったエレベーター。扉が開いた瞬間に友里恵の目に飛び込んで来たのは、胸を真っ赤に染めた男と、頭から血を浴びた女だった。
「ひっ…………」
悲鳴すら上げられなかった。
「看護婦さん!! 助けて!!」
腰を抜かし座り込んでしまった友里恵に、未空が腕を伸ばし、そう怒鳴った。後ろの方で誰かが悲鳴を上げた。直ぐに駆けつけてきた数名の看護婦。だがエレベーターからヨロヨロと出て来た血まみれの男と女には近寄れず、呆然と立ち尽くしている。
「大丈夫だ………この病院から離れれば………」
その珀山の言葉は駆けつけた看護婦たちには理解できない。なに言ってるの? 病院から離れれば大丈夫って、錯乱してる。それは未空も同じだったが、なぜ珀山がこの病院に来たのかを武彦から知らされており、半信半疑でありながらも、これってソノ件に関係してるの? と思わずにはいられなかった。
「吐血? それとも外傷? ちょっと見せなさい!!」
一人の看護婦が珀山の手を取り、出血箇所を確認しようと覗き込む。
「ちっ、違う……鼻血だから………」
「鼻血?! どこかに強くぶつけた? ………殴られたの?」
傷害事件の可能性すらあると思った看護婦は、傍にいる未空に目をやった。
「とっ、とにかく外に行かせてくれ」
「ちょっ………待ちなさい! そんな出血でどこに行くつもり……あっ」
看護婦の手を払い除け、一刻も早くこの病院から出ようと小走りの珀山は、床にボタボタと血を滴らせ凄い目で正面を見据えている。
午前の診療時間が終わった病院内には外来患者の姿は少ないが、それでも午後からの受付を早めに取ろうとする人と、見舞客らしき人の往来があるが、それらの人は珀山の姿を見るなり、一様に恐れ、正面入り口まで道が空いた。
未空の肩を借りながら外に出た珀山。その2人にくっついて離れない3人の看護婦は繰り返していた。
「止めさい! いう事を利いて!」
「そんな出血で動くのは禁物だってことが分からないの!!」
「とにかく病院に戻って!!」
木製のベンチに座り込んだ珀山。そこは病院の敷地内ではあるが建物からは十数メートルは離れていた。3人の看護婦は未空を押しのけ珀山の顔を覗き込んだ。
「………本当に鼻血?」
「ああ、確かに鼻からの血の跡があるけど………止まってる」
あれだけ鼻血を、それこそ噴き出すように巻き散らしたのが嘘のように止まっていた。
「あなた、今すぐ精密検査受けて! どう考えたってまともじゃないから。見なさい! 隣の彼女! あなたの鼻血を頭から被っちゃって真っ赤になってる。こんな鼻血、普通じゃ有り得ない。直ぐに病院に戻って精密検査受けなさい!」
だが頭を振る珀山は「いや、原因は分かってるから……」と立ち上がり、駐車場に向かって歩いて行く。一緒に来た未空は、精密検査を受けた方が、と思いながらも、先に行った珀山を小走りで追った。後ろで騒いでる看護婦の声を聞きながら。
結構な量の鼻血を頭から被った未空。こんなに沢山の血が出ても大丈夫なのかと心配する一方、どうして珀山は大量の鼻血を出したのか? それが嘘のように止ったのはなぜ? 全てがあの病院、502号室のせい? そんなことってあるの? あるとしたらナニ? 呪い? 祟り? 頭の中が整理できない未空は、自分の身体が血生臭く、頭から顔、そして胸など、ホラー映画の出演者なみの惨状だということに気づきもしなかった。行き交う人はそんな未空と珀山を見て、腰を抜かさんばかりに驚き、近寄ることを恐れ、逃げるように距離を取った。
「瑞山さん!! ………瑞山珀山さん!! 説明して!! これってどういうこと? 502号室のおばさんのとこには行かないってことなの?」
立ち止まって振り向いた珀山が口を開いた。
「行けない………ムリだ」
「…………もっと解るように言って!!」
「凄すぎる……」
喋らない男は夫の武彦で慣れていた。質問すれば答えるのだが、その答えは相手に理解させるという配慮に欠ける。だからこっちが補足をして更に聞き返すを繰り返し、ようやっと理解できる。類は友を呼ぶというが、武彦の数少ない友人もこれか、と未空はウンザリした。
「凄すぎるって………瑞山さんって祓ったりできるのよね? その……祓うとかでこの病院の502号室に入院してる叔母さんのとこに行って欲しいって頼まれたのよね? その~~祓う相手が凄すぎるってこと?」
「そう」
簡潔すぎる答えにムっとした未空だが、それも慣れていた。
「さっきの鼻血もそうなの?」
「そう」
「………よく解んないんだけど、そいつが攻撃してきたってこと?」
「いや、ただの警告」
「警告って………だったら本気で攻撃してきたら?」
「ムリだ」
「あのねーーーー!! ムリって何がムリなの? ちゃんと解るように言って!!」
「俺じゃムリだ。祓えない。近寄ることもできない」
ようやっとチョッとだけ長い台詞を吐いた。
「瑞山さん、悪いんだけどウチのパパに直接言ってくれないかな~。私じゃ上手く説明できそうもないから」
そう言って車に乗り込んだ未空はルームミラーに映る自分の顔を見て悲鳴を上げた。
「なっ……なにこれ?!」
バックからハンカチやら濡れテッシュを取り出し、頭や顔を盛んに拭き始めた未空の隣で、珀山は武彦に電話をしていた。その内容は、自分の手に負える相手ではない、だけど勝てるヤツはいる。そいつには会ったことはないがこの管内に住んでいるという噂だ。調べてみる、というものだった。