第2話 502号室 その2
「叔母さん、こんちわ~、お加減どうっすか?」
502号室に現れたのは、入院している今泉良子の甥ーー和子の次男の裕二だ。その裕二、扉を開けるなりの大声だ。そして良子の返事を待つこともせず、「うわ~広い部屋っすね~~。おおおおお、すっげーでかいテレビあんじゃん。これって地デジ対応?」と、テレビの裏側を見たりリモコンを調べている。
裕二は、無口な兄の武彦と違って人懐っこいというか、かなりのお喋りで、久しぶりに会った良子に対しても臆することなどしない性格だ。
「やっぱ地デジじゃん。50インチはあるよなコレ。母さん! うちも地デジテレビ買っちゃおうって。2011年にはアナログ放送終わるんだぜ」
兄の武彦は既に結婚して子供もいる37歳で、当たり前に両親とは別に暮らしているのだが、弟の裕二は28歳の独身で、地元の中小企業で正社員として働いてはいるが親元から通っていた。
「えええ? まだ3年先でしょ?」
そんな和子の返事など聞いていないのか、裕二はテレビのスイッチを入れ、調べるのに夢中た。
「おおおお、やっぱ画像が綺麗っていうか………クリアーだな。うん、いいわ。………あれ? チャンネル切り替えがちょっと鈍いか? でもそんなの大して問題じゃねーし、再来年にワールドカップあんだぜ。でっけーテレビで観ようって」
和子はワールドカップが何のことだか分からなかったが、大きいテレビというのが気になった。
「そんな大きいテレビって………高いんでしょ?」
「ん? そんなことないから。ちょっと前なら1インチ1万が相場だったから50インチなら50万もしたんだろうけど、今じゃかなり安くなってるって。だってよ~パイオニアが去年出した50インチのプラズマテレビですら50万だぜ。あそこまですげーテレビじゃなけりゃ、液晶とプラズマの競争でどんどん安くなってるから。どっちがいいかな~……でかいテレビならやっぱプラズマだな。ただ寿命が短いっていうし、電気も食うみたいだから……」
「そんなのダメに決まってるでしょ! 寿命が短いって壊れやすいってことよね。それに電気も食うってことは省エネじゃないんでしょ」
「なら液晶にしようや」
「え…………」
これ以上ここで裕二と喋っていると、今直ぐにでも地デジ対応の大きなテレビを買うハメになりそうだと、和子は「1階のコンビニで飲み物買って来るから」と502号室を後にした。話し好きの裕二がいれば姉の良子も退屈しないだろうし、と。これが無口の武彦だとそうもいかない。とにかく喋らないのだ。あれでよく結婚相手を見つけたものだと感心する。武彦がいきなり若い女性を連れて来て「この女と一緒になるから」と言われた時は、なにを言ってるか分からず、そして結婚するのだと分かった時には、本当にこんな喋らない男の嫁になってくれるのか? と心底驚き、そして泣くほど喜んだ。
その和子、5階のエレベーターに向かっている途中で一人の看護婦に声を掛けた。
「あの~すみません。502号室に入院している今泉良子の家族の者ですが……」
「ああ、泊まってくれた妹さん……でしたね」
その看護婦が首からぶら下げている名札に目をやった和子。看護師長:沢口清美 とあった。和子は「看護師長って婦長のことかしら?」と思ったが、昨日、自分が502号室に泊まると言った時に「ああ、そうしてください」と、ぶっきら棒に言った看護婦だとは覚えていなかった。
「っで、なにか?」
「え……あっ……はい……502号室の中にあるトイレのことなんですが、電気がチラチラ……点いたり消えたりして、電球が切れかかってるんじゃないかと……」
「え………また?!…………そっ、そうですか………LEDですから切れ難いんですが………分りました、後ほど総務課に見に行かせます」
「お願いします」
502号室では3人掛けのソファーに寝転んでる裕二が、自分で持ってきたお見舞いの和菓子を頬張っていた。
「おっ、これ美味いわ、叔母さんも食べな」
「ふふふ……あんた相変わらずだね。小っちゃい頃と全然変わってない。どれ、一つ頂戴。今日は仕事休みなのかい?」
「いや、叔母が危篤だって言って休んだ」
「えええええ? いやだね~~勝手に殺さないでよ」
「あはははは、ところでさ~、この部屋なんかあるね」
裕二は普通に、それこそ何でもない事のように言った。
「………あんたも解ったか」
「ああ、部屋に入る前に気づいた。っで入ったら盛塩はあるわ、魔除けの札はあるわ…………昨日、兄貴来たんだよね? なんか言ってた?」
「武彦君は何も言ってはいなかったけど、気付いてたね。きっつい目ぇして部屋を見渡してた」
「そっか………まぁ元々喋んないからね、うちの兄貴わ。後でちょっと兄貴に電話してみるわ。確か兄貴の知り合いにそっち系の人間いたはず」
「そっち系?」
「うん、祓える人のこと」
看護婦の有沢純は5階の廊下の端の方を見ていた。
向こうには一人部屋が3っつ並んでいる。その中の1つが例の502号室。さっき501号室からナースコールがあり別の看護婦行った。501号室だろうが503号室だろうが行きたくない。とにかく502号室には近寄りたくないのだ。こうして遠くから見ていても何だか空気がどんよりとしているような気がして、見ているだけで気分が悪くなる。こんな風に感じるのって何時からだろう? 以前はなんともなかったはず。そうだ。去年はどこかの社長夫人が502号室に入院していて、そのオバサンが凄く面白い人で、けっこうエッチで、お見舞いの品も随分あったから、仕事帰りに、大して用もないのに502号室に行ってはご馳走になってスケベ話に花を咲かせてた。それが今では近寄るだけで暗い気持ちになる。これってやっぱり今年になって落ちて死んだ入院患者が2人もいるから? きっとそうだ。そうに決まってる。
501号室に呼ばれた看護婦がこっちに向かって歩いてきた。高坂和泉、33歳。年齢的には純より7つも上だが、別の病院に勤めていたのを辞めて今年になってからこの病院に来たので、純にとっては先輩看護婦とは微妙に違う。それでも気さくな性格で独身ということもあり、来た当初から純と気が合った。
「純ちゃん、なにボーっと突っ立ってんの?」
「え………うん……ちょっとね………ところで501号室の婆さん、どうだった?」
「相変わらず。背中さすれだの、腕が痛いから揉めだの………いくらお金持ちだろうと、なんであんなの入院させてんだろう。70過ぎなのにどっこも悪くないはずよね。どこ治療すんの?」
「だよね。………ところでさ~和泉さんは何ともないの?」
「なにが?」
「うん………502号室」
「あ~~……まだ気にしてるの? 確かに入院患者が2人も、それも同じ病室で飛び降り自殺は珍しいけど、呪いだとかはちょっと笑っちゃう。だってさ~その手の噂って何処の病院でもあるって。私が前にいた病院なんてさ~、トイレで倒れて死んじゃった人が立て続けに3人出て、若い看護婦なんてみんなビビっちゃって、お坊さん呼んで呪いを解いてもらおうとか酷かったんだよ。そんなの気にしてたら病院勤務は務まらないって」
「そうなんだ………そうよね………病院だもんね」
502号室に和子が戻って来た。その和子から缶コーヒーを受け取った裕二が、「叔母さん、また来るね」と出て行った。そして病院の駐車場に停めてあった車に乗り込むと、エンジンを掛けずに携帯電話を取り出した。
「………もしもし兄貴、俺、裕二だけど、今しゃべって大丈夫か? …………あのさ~、良子叔母さんが入院してる病院に今行ってきたんだけど、あの病室なんかあるぞ。兄貴も昨日行ったんだろ? 気づかんかった? ………そっか、やっぱ気づいたんだ。でもなんだろう? ………俺なんかあの病室に入る前から、なんだコレってビックリしたんだけど、病室に入って変なのが見えた訳じゃないし……でもイヤ~な空気漂ってて、変な臭いもするし………母さんがファブリーズ振りまいたらしいけど、それでも臭かった。ファブリーズは叔母さんだろうな。母さん超ニブイから気づくはずねぇもんな。兄貴はあの病室でなんか見えたか? ………そっか兄貴も俺と同じか…………っでな、兄貴、そっち系の知り合いいるって前に言ってたよな? ………その人って信用できる人? ……………うん、そうなら頼むこと出来んの? ………え? もう頼んだって?! そっか………それ叔母さんには?」
兄の武彦には大学の同級で今でも付き合いがあるーーー極端に無口で人づきあいが決して良いとはいえない武彦なのだが、そんな武彦と不思議と気の合う数少ない友人に瑞山珀山という男がいる。山という漢字を二つも使う珍しい氏名なのだがミズヤマ ハクザンと読み、寺の次男に生れたせいで普通の大学に行き、今では普通のサラリーマンなのだが除霊ができるという。
その珀山に叔母が入院している病院のことを話すと快く引き受けてくれたが、先ずは下見のような感じでその病院を見たいらしく、叔母には言わずに、武彦の妻である未空に同行させてみるという。そして武彦はついでのように「母さんは、あれはあれで凄い。なんにも感じない……力だ」と言った。
「はぁぁああああ?? 力って……鈍いだけだろ。それもギネス級のやつ…………まぁ確かに凄いか」
502号室では息子たちから凄いと言われる和子が、バリバリと煎餅を食べながらテレビを観ている。姉の良子はリクライニング式のベットを起こし、観るとは無しにテレビに目をやりながら考えていた。いったい何なんだろう? 今は何も感じない。でもさっきまでのこの病室は絶対に変だった。慣れて感覚が麻痺した? そもそも私の勘違いだった? いや違う、そんなはずない。裕二だって気づいた。それに昨日来た武彦だって、無口だから口には出さなかったけど、あの目は気づいてるというより、警戒? いや、気づいた何かを探ってる目だった。それに昨夜は異様な夢を見た。どんな夢だったのかはどうしても思い出せないけど、なぜか凄く怖かったことは覚えてる。そして覚えてもいないのに「異様な夢を見た」と、起きてすぐに自分の口がそう言った。
あれほど502号室を嫌がっていた良子なのだが、今は、自分がなんとかしてやる、ナニがこの病室に巣くっているのか知らないが叩きのめしてやると考えていた。根っからの負けず嫌いの性格が顔を出した。
良子と和子にとって母方の祖母は、商売として拝み屋をしていた訳ではないが、人づてに頼まれれば、そこに行き、禍を取り除くことをしていた人で、知る人の間では有名な霊能者だった。隔世遺伝なのか良子も或る程度の力があったが、祖母のように自ら出向いて祓うことなどしたいと思わなかったし、そこまでの力ではないことを良子自身が分かっていた。甥の武彦と裕二はやはり遺伝なのか、幼い頃から見えるはずのないモノが見えているのを良子は知っていた。あの兄弟は私よりも濃く遺伝している。そんな甥っ子たちの存在が502号室を恐れる気持ちを軽くさせた。それと良子にとって何よりも頼もしいのが実の妹である和子が傍にいてくれる事だった。和子は幼い頃から不思議な妹だった。どうした訳か邪気を寄せ付けないのだ。それも意図することもなく自然に。霊能者の祖母でさえ「ほぉぉぉぉ……」と感嘆の声を漏らしたことがあった。それなのに当の和子は、見えない、感じない、怖がらないの、3ない女だ。頼もしい事この上ない。それに裕二が言っていた。「兄貴の知り合いにソッチ系の人がいる」と。その言い方から兄の武彦でさえ一目置いているのだろう。私は独りじゃない。妹も甥っ子たちもいる。そしてソッチ系の人だっている。あの世にいる婆ちゃんだって守ってくれてる。
入口の戸がノックされた。妹の和子が「はーーい」と返事をすると、
「総務課の者ですが、入ってよろしいですか?」
「え………? あ~トイレの電気ですね。どうぞ入ってください」
姉の良子が「トイレの電気って?」と聞くと、既に立ち上がりトイレに向かって歩く和子が、
「あ、お姉さんに言うの忘れてた。ごめんごめん。昨日の夜中にトイレ行ったの、私。………あれ? 今朝がただったかな~? そしたら電気が点いたり消えたりして……………あら? 消えない………おかしいな~」
和子がトイレの電気の真下に立って頭上を見上げているが、点いた電球はいっこうに消えようとはしない。
「変ね~………お姉さん、今日このトイレ使った時どうだった?」
「え? 別になんともなかったよ」
「あの~どんな症状だったのですか? あっ、申し遅れました、総務の課長の神原と申します」
「えええっとね~………最初は何ともなかったから普通に用を足してたの。そしたらチカチカチカチカ点いたり消えたりするからヤダな~って見上げてたら、そのうちに完全に消えちゃって、えええええって感じ。だってさ~、まだ便座に座ってたから、真っ暗になっちゃってどーしようって座ってたら、ちょっとしてまた点いた。その隙にビャーーってトイレットペーパ巻き取って、チャチャっと拭いて、ササッと手ぇ洗って………」
「完全に消えた……んですか?」
「そう、消えた」
「チカチカと消えたり点いたりを繰り返したんじゃなくて」
「繰り返しの後に消えた」
「そっ、そうですか…………」
そう言った切り総務課長の神原は黙ってしまった。点いたっきり一向に消えようとしないLED電球を見上げながら。
「LED電球ですから普通のより40倍以上も寿命が長いはずで、半永久的とも言われてて………だから高いんですが…………それでも切れる時は点滅するんですが………完全に消えてから暫く経って普通に点くっていうのは………とりあえず交換しておきますので様子を見てください。おかしかったら連絡ください。名詞お渡ししますので………」
「また変になったら?」
「電設屋さんに頼むしか……」
そう言い残し502号室を出て行った神原課長。首を何度も捻って歩きながら呟いている。
「先週だったはず。502号室のトイレの電球交換したの………なんで502号室ばかりが切れるんだ? そもそもLEDだぞ。そんなにしょっちゅう切れておかしいだろ。どこのメーカーだ? いや販売店が乱暴に保管してるのか? 調べて苦情言ってやる」
佐々木安奈。屋上で大井友里恵と喋っていたグラビアモデルのような身体をしている外来担当の看護婦が、仕事を終え、私服に着替えた姿で病院内のエレベーターに乗っていた。友里恵の気味が悪い話を途中で遮り、男の話にもっていったものの、気になってしかたがないのだ。自分が見に行き「ほ~ら、なんともない」と自分に言い聞かせたい。だって何かあるはずがないんだから。あの情報通でお喋りな友里恵でさえ、この病院には幽霊が出るなんて言ってない。だから普通の病院なのだ、絶対に。
乗っているエレベーターが3階を越え、そして4階も超えた。この時間は上に行くエレベーターに用がある人が少ないのか、1階から5階まで一度も止まらなかった。5階のフロアーに足を踏み入れた安奈。初めて来た訳ではないが、そうとうに久しぶりだ。夕食も既に終わった時間のせいか、廊下を歩く人が僅かしかおらず、看護婦の姿も見えないかった。返っていい。見知った顔のナースと出くわしたら、どうしたの? と聞かれるだろうし、答えに苦慮して口籠りそうだ。
エレベーターを出て左右に伸びる廊下をやりすごし、数メートル真っすぐに進むと再び左右に伸びる廊下に出くわす。向って左側に進むと、その奥が一人部屋のあるエリアだ。安奈はそこで黙って見ていた。向こうに伸びる廊下の奥を。
私はどうして来たんだ? 臆病なクセに、止めておけばよかった。どうせ外来担当なんだから入院病室なんて私には関係ない。入院病室でどんな噂があって、誰が、何人死のうと、そんなものはどうだっていい。私は外来のナース。ここまで来たことを心底後悔した佐々木安奈。後悔しなければならない何かに遭遇した訳ではないが、ここに足を踏み入れ、一人部屋に近づくほどに気分が悪くなる。胃の底に冷たいなにかがああるのに気づいた、そのナニかが腹の底からせり上がってきた。
「………うっ……うげっ」
もどしそうになった。まだ夕飯は食べていないから、もどしはしなかったが、背中が丸まり首が前に突き出てしまい、思わず手で口を覆った。危なかった。顔を上げて前を向いたが、涙で見える物が滲んだ。え? なんで暗いの? 廊下の奥で点いているはずの電気が消え、向こうは闇に包まれていた。なに? これは何なの? なんで誰も歩いてないの? どうして私しかいないの?
「怖い………」
そう言葉に出した途端、恐怖が膨れ上がり、安奈は立っていることが出来なかった。
廊下に尻もちをつくように腰を落とし、ずって後ろに下がるが、それでも目の前に伸びる廊下の奥から目を逸らすことが出来ない。見えるのは闇だ。なにかが見えている訳ではない。いや、闇そのものを見ていた。
「え? ………え? ………なに? 誰? ………誰なの?」
何かが聞こえた。酷くくぐもった、まるで水の中から聞こえてきたようなナニか。だがそれを人の声だと安奈は思った。誰かが私に何かを言った。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」