第11話 4丁目0番地 その3
ーーーか~ごめか~ごめ、か~ごのな~かのと~り~わ、い~つ~い~つ~で~や~るーーー
6~7人の子供がかごめかごめで遊んでいる。
室内には他にも子供たちがいて、積み木で遊んでいる子もいれば、床に置いた紙に寝そべって絵を描いている子、先生にしがみ付いている子など様々だ。
「よく降りますね~」
少しだけ開けた窓の隙間から外を眺める子が、大人びた口調で、誰に言う訳もなく呟いた。きっと母親を真似ているのだろう。
北海道には梅雨が無いと言われるが、それでも6月は雨がよく降り、そして寒い。
ここは民間の幼稚園。6月に入ってまともに晴れた日がなく今日も室内で遊んでいる子供たち。
時は昭和63年。暖房設備は石油ストーブが主流となり、さすがに石炭やマキを燃料にするストーブは家庭でも学校や幼稚園でも少なくなり、この鶴岡幼稚園でも煙突がついた石油ストーブだ。その石油ストーブは柵で囲まれ、子供たちが誤って触ったりしないような対策が施されているが、なんとも頼りのない造りのため、ストーブを焚く季節では室内での鬼ごっこ、かくれんぼーーー走ったりする遊びは禁止だ。
北海道の6月。晴れた日はすごしやすい季節なのだが、雨が降ると真冬ほどではないものの、暖が欲しく、ストーブを焚く。だが極端に寒い訳でもなく、そしてそのストーブには温度センサーなるモノは付いていないから6月に焚き続けると暑い。だが消すと寒い。それ故に窓を細く開けながらストーブを焚いている。そんな中、今日もかごめかごめで遊んでいる子供たちがいた。
「ーーーライオン組って、かごめかごめで遊ぶ子が多いの気づいてた?」
そう言ったのはゾウ組の担任である薫子先生。38歳のベテラン先生だ。
「えっ、そうなんですか? 薫子先生のゾウ組はしないんですか?」
驚いたようにそう言ったのはライオン組の恵美先生。23歳の新卒のせいもあり、最近の子であっても好んでする遊びの一つが今も目の前で行われている「かごめかごめ」なのだろうと何の疑いもなく思っていた。
「ゾウ組もたまにはしてるけど、ライオン組って外に出れない日は必ずやってるよね。……恵美先生って昭和30年代生まれでしょ? 子供の頃アレで遊んだ? 私は20年代だから、やった事はやったけど、あんなに頻繁にやった覚え……ないな~」
今は午前中の自由時間なのだろう。何人かの子供に纏わりつかれてる薫子先生は、それを上手くいなしながらそう言った。
「ねぇ~恵美先生ぇ~~こっち来て折り紙やってぇ~」
子供たちに手を引っ張られ、連れて行かれた恵美先生は、それ以上「かごめかごめ」の話を薫子先生とすることは出来なかった。それは、その日を境に薫子先生が幼稚園を辞めてしまったから。
鶴岡幼稚園。昭和56年に新築として建てられ運営が始まった。初代の園長は鶴岡二郎だが、その昭和56年、幼稚園の運営が始まる矢先に二郎が亡くなり、それ以降は妻の鶴岡美佐江が引き継ぎ、なんとか切り盛りしている。
鶴岡幼稚園には1年保育と2年保育があり全部で4クラス。年少組が「ひよこ」、そして年長組が「ライオン」、「キリン」、「ゾウ」。だから2年保育である年少組から受け入れる子供の数は少ない。そのせいもあって先生達の負担は、年少組が何組もある幼稚園よりは軽いはずだ。
昭和60年代。女の子が将来なりたい職業に、幼稚園の先生、と卒業文集に書く子が多い人気の職業ではあるものの、実際には子供好きでなければ務まらないであろうし、鶴岡幼稚園に勤める先生はいずれもそうだった。だが何故か辞める。それも何人もが一斉に辞めるのではなく、ポツン、ポツン、と忘れた頃に辞めるから不審に思う人などいない。しかし、ただ一人、園長の鶴岡美佐江だけは違った。
「まただ………また退職者が出た。それも薫子先生が辞めるなんて………」
54歳の鶴岡美佐江は独身時代は幼稚園の先生だった。農家の次男だった鶴岡二郎に見初められ結婚したのが25歳の時だ。夫となった二郎はコツコツと働くことを良いとはしない男で、職を転々とし、美佐江は結婚後も幼稚園で働いた。そんな夫婦に転機が訪れたのが二郎の父親の死だった。遺言があった訳ではないが、残された二郎の母が財産分与だと土地をくれてやると言ったのだ。
大規模な畑作と酪農をやっていた二郎の実家。その大半は長男である一郎が引き継いだが、けっこうな面積の土地とある程度まとまった金をくれた。その土地というのが今まで耕したことのない石がごろごろとある河っぷちの長細い土地で、二郎本人が、くれるならあの土地が欲しいと言ったのだ。それを聞いた長男の一郎など「あんな土地もらってどうするつもりだ?」と驚いたが、二郎はそんな土地に拘り、遺産としてもらった。昭和37年のことだ。美佐江が27歳の時だった。
そもそも二郎の両親が畑作に使っていた土地は全て実家を取り囲む位置にあるのだが、二郎が欲しいといった土地は「飛び地」だ。それも別の町にある土地。今となっては親父が何を目的に買った土地なのかも分からない、明らかに遊ばせていた土地。
だが二郎は、この土地には利用価値がある、と見込んでいた。管内で一番人口が多い市の隣町にある土地。あの人口が多い市はまだまだ伸びる。札幌と遠く離れているのが返って良く、近い将来もっと発展するはずだ。そうなると隣町から通勤する者がきっと増える。そう考えた二郎はもらった土地に5階建てのアパートを一気に3棟建てた。そしてそのアパートは瞬く間に埋まった。時の首相が所得倍増論を打ち出したのが2年前の昭和35年。幼稚園の先生をしていた美佐江の給料も本人が驚くほどに上がり続けーーー後に、昭和48年までが高度経済成長期と呼ばれることになり、そんな時期と重なったのが要因で、それを見越した二郎に先見の明があったのは間違いないが、有り金を全て注ぎ込むという大博打に勝ったのだ。
経済が正しく成長する中で国民全ての所得が増えるというインフレ。実際に10年間で所得が倍になったが、それに比例して物の値段も上がった。変わらないのは借金の元金。そうなると借金をした者が勝ちだ。二郎の元にも銀行が金を借りて欲しいと頭を下げに来た。二郎は何の躊躇いもなく借りて借りて借りまくり、そして4棟、更に2棟と続き、わずか5年の間にアパート群を造り、二郎はいつのまにか地元では有名な不動産業者に名を連ね、手掛ける物件も管内一円に広がった。
そんな中、50代の首相が誕生し、日本列島改造論をぶち上げたのが昭和47年だ。工業の分散と人口25万人程度の地方都市の建設、それと高速道路と新幹線の全国延伸が急ピッチで行われた。おそらくはこの時からだろう、「地方都市」という言葉が使われ始めたのは。そして二郎が見込んだ通り、管内で一番人口が多い市は「地方都市」の一つに数えられ、更に発展し、そしてその地方都市の隣に位置する町はベットタウンとして人口が増えた。
遺産でもらった土地と金。その二つを元手に始めたアパート経営が時流に乗り、あれよあれよという間に巨大な資産に化けた。小さな雪玉を転がして大きな雪玉を造るーーーまるで雪ダルマのようだ。
だが遺産分与でもらった土地の内、何も建てずに残っている土地があった。二郎の親父が亡くなったのが昭和37年。それから15年経った昭和52年になっても何も無い土地が残っていた。
妻の美佐江は、不動産業を営む夫を尻目に幼稚園の先生として働き続けた。昭和39年に一人息子の芳太郎が生まれた後も、働いていた幼稚園に無理を言って、赤ん坊を抱いて勤務した。所得倍増計画が打ち出される前であれば失業者が町に溢れていたが、高度成長期に突入以降の労働市場は一転し、人手不足の波が地方にも押し寄せ、美佐江の我儘が通っていた。そんな美佐江は夫の不動産などには興味がないどころか、あれは山師のようなものだ。もっと堅実に働いて欲しいと思っていたから夫が遺産分与でもらった土地の一部が未だ未使用で遊んでいる事など知らなかった。
「死んだ親父から貰った土地………まだ残ってんだよな」
「ふ~ん………そうなんだ」
「遊ばせとくのも何だし……」
「だったら何か建てれば?」
「そうだよな………周りも人が増えたし、道路だって整備されてるから……」
二郎の方から切り出した話題のはずが、その二郎が煮え切らない。今まで二郎から妻の美佐江に相談事を持ちかけたことなど一度もない。それがどうにも様子がおかしい。
「なに? どうしたのさ? あんたらしくない」
「ああ………」
「遊んでる土地があるんならさ、幼稚園建てたらどうなの? ここら辺って人口増えて学校は出来たけど、幼稚園が足りないって聞いたことあるわ」
「そうか………幼稚園か………そう言えばお前、幼稚園の先生だったな………」
「はぁあああ? 今更気が付いたように言わないでくれる………まぁいいけどさ~」
そんな夫婦の会話から幼稚園を建てることに決まった。
幼稚園の設立・開業に関する諸々の許可やら手続きは、二郎が何時知り合ったのか大物政治家を使ったことにより、役人ーーー町役場の職員や北海道職員が空港まで出迎えに行った東京のお役人までもが来て、建築業者や行政書士を入れての打ち合わせをしていたはずが、実際に建物が出来上がり運営が始まったのは昭和56年だ。計画してから3年以上もかかった。美佐江は夫の仕事に興味が無く、建物が出来上がるのに随分と年月が必要なんだな~、と思ったこともあったが、その頃の二郎の顔つきが異様なくらい険しいこともあって、いつ出来上がるのかを含め、建築状況を訊ねることはしなかった。
建物が出来、運営開始の1週間前の大安吉日には、大規模幼稚園でもないのにーーー田舎の小規模な幼稚園には似つかわしくない盛大なセレモニーが執り行われ、国会議員、道議会議員、そして町長と町議会議員が居並ぶ中、二郎の母親がそのセレモニー会場で倒れ、死んだ。死因は心不全、80歳だった。
そしてその翌日、母親の通夜の席で、今度は二郎が死んだ。51歳。死因は同じ心不全。美佐江が46の時で、息子の芳太郎が17歳、高校3年生になる春だった。
独身の頃から幼稚園の先生をしていた美佐江だが、それはあくまでも使われる身であり、幼稚園に限らず法人経営などやったことがない。登記上は二代目の園長なのだが、最初っから経営の素人が園長兼経営者だ。それでも行政書士や、二郎が生前付き合いのあった役場職員の助けを借りながら数年かけてようやっと軌道に乗せた。そして一息ついた頃に気が付いた。
ーーー理由もなく先生が辞めていく………
そう、最初っからなのだ。幼稚園の経営を始めた当初から、気付けば誰かが辞めた。そして補充して暫くすると、また誰かが辞めた。その繰り返しだった。
美佐江は54歳になった。息子の芳太郎も大学を卒業して25歳で、不動産の会社の代表と幼稚園の理事をやらしている。アパート経営は順調で、夫が最初に建てた5棟は既に取り壊し、その跡地には新たに7階建てを3棟建てるなど、思い切りの良さは夫の二郎を上回り、行政書士や顧問弁護士は、美佐江社長は根っからの経営者だと口を揃える。
そんな中、ゾウ組の薫子先生が辞めた。38歳のベテラン先生で、美佐江が最も頼りにしていた先生だ。半年前にはキリン組の先生が辞め、その1年前にはライオン組の先生が辞めている。結婚を機に職場を去る女性は多いが、美佐江自身が結婚後も幼稚園に勤め、子供が生まれた後も抱っこしながら勤務した経験を持つ女だ。寿退社と言われる習慣を最も嫌い、結婚後も、そして子供を産んだ後も働ける職場を心掛け、先生達には常日頃そう言っていた。それなのに、ポツン、ポツンと忘れた頃に辞める。どれも結婚が理由ではない。なぜ辞めるのかを訊ねても言葉を濁し、正確な理由を教えてくれた先生はいない。
所得倍増計画で始まった高度経済成長は日本列島改造論に続いたが、昭和48年のオイルショックによる狂乱物価で終わった。それ故に労働市場は冷え込み、新卒者にとっては就職難となり、経営者にとっては買い手市場で退職者の穴はすぐに埋まる。だが信頼できる者となるとそれは雇ってみなければ分からない。ゾウ組の薫子先生は、まだ38歳だからこれからも経験を積ませ、いづれは園長に、と考えていた。それが理由も言わずに辞めた。
息子の芳太郎は未だ独身だが実家を出て一人暮らしをしている。不動産会社の代表なのだから住む処には困らない。その芳太郎が珍しく実家にフラリと寄り、母親の美佐江の作った晩飯を食べていた。不思議と夫の二郎の話になった。
夫の二郎が死んで早いもので去年七回忌が済み、次は十三回忌だね、などと思い出したように美佐江が言った。
「そう言えばさ~、親父が生きてる時………あれは確か俺が高2か高1の時だ。幼稚園建てるのに手間取ったろ。あんとき親父が何度か言ってたの最近になって思い出したんだけど……」
「なんか言ってたっけ?」
「ああ……すっげぇ暗い顔して………かごめかごめが聞こえるって……」
「かごめかごめ? 子供がする遊びの?」
「だと思うけど、あの当時の親父って、なんだか陰気な顔ばっかしてたし、俺も反抗期っていうのかな~、まともな会話なんか無いからそれ以上は聞かんかったけど………」
「かごめかごめね~~……近所でどっかの子供たちが遊んでたんでしょ、きっと」
「そうかな~~………あんまり覚えてないけど、親父がそう言ってたのって夜だったような………でもあの当時の親父って不機嫌っていうか………顔色もすっげぇ悪くて……あれって死相ってヤツじゃ……」
「ちょっと~気味の悪いこと言うの止めなさいよね」
「はははは………悪い、悪い。それより幼稚園建てるの何であんなに手間取ったんだ? 鉄筋でもなく木造の平屋だぜ。3年くらい掛かったはずだよな? あり得ねぇわ」
美佐江は当時の事を思い出していた。幼稚園の開業一週間前に執り行ったセレモニー。その会場で義母が倒れ亡くなった。そして翌日の通夜の席では二郎が倒れ亡くなった。幼稚園は入園者も決まり、当然、必要な先生たちも既に決まっていた。二郎がいなくなっても進めなければならない。幸いな事に美佐江本人は勤めていた幼稚園を退職し、この新たな幼稚園の先生をやりながら経営にも携わるつもりだったから、そこはバタバタしなくても済んだが、まさか二郎抜きで開業することになるとは夢にも思っていなかった。それと二郎が手掛けていた不動産会社は想像以上に大きい事を初めて知り、その会社の代表にも美佐江がならざるを得なかった。悲しんだり途方に暮れる暇などなかった。今更だが、よくやった、としみじみ思う。確かにあの当時の夫はいつも険しい表情をしていたのを覚えてる。それに幼稚園が出来るのに確かに時間が掛かった。不動産会社の代表をやった今なら、芳太郎が言うように、あり得ない、と分る、がどうでもいい。あの当時の二郎が苦虫を嚙み潰したような顔をしていようと、それが他人に言わせると死相が浮いていようと、理由は知らないが幼稚園が出来上がるのにバカみたいに時間が掛かったとしても、今となってはどうでもいい。とにかく今は新しい先生を見つけなきゃ……
「だめえええええ!! 直ぐ出して! ここから離れなきゃダメーーーーーーーーーー!!」
丹波ユキの悲鳴のような叫び声が響いた。
運転している桂義男が振り向き何かを言おうとしたが、それより先に後部座席の田所波一郎の「サチコ! おい、サチコ! どうした!!」という怒鳴り声が響く。
丹波ユキの膝に頭を乗せて眠っていたサチコ。膝を貸しているユキも口を開け、よだれを垂らしながら眠っていたのが急に目覚め叫び声を上げたのだ。だがユキが目覚めたのとほぼ同時にサチコも目覚めたのを田所は見た。それは急にガバッと頭を上げ、子供らしくない険しい目をしていて、寝ぼけ眼な表情とはまるで違う。そして頭を上げたサチコは直ぐに倒れるようにユキの膝の上に横たわり、その直後にユキが叫んだのだ。
「サチコ! おい!……」
「違うよ。私、渚だよ」
「なっ、なに………」
動物園に遊びに来て、今の今まではサチコだったが、そのサチコは消え、渚に代わっていた。
「ジジーーーーーーーーー!! 早く出せええええええええ!!! 車を出せえええええええええ!!」
「いや、信号がまだ赤で……あっ、変わった」
黒塗りのリンカーンタウンカーリムジンはタイヤを鳴らし急発進した。
「渚、サチコはいったいどうしちゃったんだ?」
「わからない。急に引っ込んじゃった………でも怖がってる」
「怖がってる? なにを?」
「う~~ん………なんだろう??」
そんな渚を驚いた表情で見ているユキは、やっぱりサチコにも見えたんだ……と呟き、そして震えている。
「ユキちゃん、見えたってナニが?」
田所が聞いた。
「………よく解らないけど………入ってこようとしてた」
「入って来る? どこに?」
「ここ。………この車に」
それを聞いた運転している桂が、「えええええ?? どこからです?」と聞き返すと、「ドアからじゃない。手が……壁から手が………」と言った切り、震えるユキは押し黙ってしまった。そんな震えるユキの手を握った渚。
「ユキ姉ちゃん、直ぐにアヤネ姉ちゃんの家に着くから………」
「そうだな、急いで彩音様のところに戻ろう」
誰も喋ろうとしないリムジンの車内。運転している桂はいつも制限速度を守っているが、この時は飛ばした。そしてリムジンが権藤家の敷地に入った途端、全員がーーー丹波ユキ、田所波一郎、城島渚の3人共が、ハッとしたように顔を上げた。
「あれ? なんでしょうね? 車内が明るくなったような………」
運転している桂も気づいたらしい。
「居たんだ………ナニかが車内に」
「そんな………もしそうならユキちゃんには見えたはずじゃ……」
「わからない…………でもきっと居た。私にも見えないナニかが…………そいつはアヤちゃんの光で……逃げた」
リバーサイドの202号室に越して来た栄前田椿。朝起きると真っ先にリビングのカーテンを開け、そしてベランダに出て深呼吸をする。川の流れる音が心地よく、空気までが素晴らしく澄んでいるような気がして、ここに越してきて本当に良かったと実感する瞬間だ。そして夕食の後にはやはりベランダに出て、川の流れる音を聞いていた。自分がこんなにも流れる川が好きだったとは知らなかった。川で遊ぶのが好きなのではない。あの流れる音が好き。
気が付くと11時を過ぎていた。そろそろ寝ようかな。リバーサイドに越してきてからの椿は早寝・早起きになった。今の季節は朝の5時頃には既に日が昇っていて、その時間帯の川の空気がとても好きなのだ。本当は日が昇る時間に起きてみたいのだが、さすがにそれは早朝というより深夜の時間で起きるのは無理だ。夏も終わりとなる頃なら日が昇るのが遅くなり、見れるはずだから楽しみだ。
椿は寝室を窓が無いリビングの隣の部屋にしていた。最初は一番北側の部屋を寝室にしたのだが、その部屋は道路に面していて、夜中になると排気音を巻き散らせる乗用車やトラックの音が響き、田舎育ちの椿はその度に目が覚めた。そのためわざわざベットを移動させたのだ。それも一人では動かせないからパパに頼んだら喜んで飛んできた。だが新たに寝室とした部屋はしょせん隣だ。きっと大して違いはないだろうと思ったが、不思議なくらい夜中に目覚めることが無く、朝まで熟睡できた。
その日も窓の無い部屋で寝ていた。
それは突然だった。
バーーーン、と来た。
なにかが来た訳ではない。そして音がした訳でもない。だが椿には、バーーーン、と来た、としか思えなかった。いきなり瞼が開いたのだ。それと同時に意識も覚醒した。
ーーーなに? これってなに?
真っ暗で何も見えないが意識はハッキリしていた。
ーーーなんでこんなに暗いの? たしかリビングに繋がる引き戸は締めなかったはず……
そして身体が動かないことを知った。声も出せない。
ーーーウソ、これって金縛り?
椿は金縛りになった事が無い。初めての経験だったが恐怖は感じなかった。中学生の頃、同級生に不思議な連中が何人もいたせいで、変に度胸みたいなものがついていた。そうだ、指に集中しよう。指の一本でも動かすことが出来れば金縛りを解くことが出来るって何かで読んだ。右手の人差し指、動け、動け、動け、ちくしょう動きやがれ。なんで動かん、私の指、動けっちゅーの。
必死に精神を指に集中している時だ、今度は、ズーーーン、と来た。空気が重みを増したとしか思えない。なに? これってなに? え……? 何かいる? 誰? 誰なの?
部屋は相変わらず真っ暗で、僅かな光さえ無い闇だ。だが何かがこの部屋に入ってきたのが見えた。黒いナニかだ。闇よりも黒いナニかが、ゆっくりと、ゆっくりと、寝ているこの部屋に入って来た。どこから入って来た? 壁? 壁を抜けて来た? その闇より黒いナニかは繋がっていた。一体じゃない。何体も何体も繋がったモノが、自分の寝ている部屋に入って来て、そして反対側の壁に消えていく。
目が覚めた椿。朝だった。そして目が覚めたことによって自分は眠っていたのだと知った。あれはナニ? 夢? そう思いながら身体を起こし腕時計に目をやると、まだ朝の5時前だった。いつも6時ちょっと前に携帯電話のアラームが鳴るようをセットしている。なんだろう? どうして目が覚めた? 枕もとに置いてある携帯電話を手に取ると、メールの着信が1件あった。え? まさかこんな時間にメール? 開いてみると間違いない。たった今着信されたメールだ。でもこれって誰? イチゴ?? こんなの登録したっけ?
「あっ、………あのパンツまる見えの……102号室の」
声に出していた。そして文面を読んだ。
ーーー今日の夜7時に夏江ちゃんの部屋に集まるよ。
「はぁああああ? なにこれ? 集まるって………」