第10話 4丁目0番地 その2
「ちょっと~~聞いた? 営業第2部の郷原夏江、ドタキャンしたんだってさ」
「え?………ドタキャンって………なにを?」
そこは地方都市にある企業ーーー帶刀商社の社員食堂。2人の女性社員が顔を寄せ合い、コソコソと何かを喋っている。
「け・つ・こ・ん」
「えええええええええええええええええ!!」
「バカっ! 声がデカイっつーーの…………ちょっとこっちに来て」
2人用の席に向かい合って座っていた二人だが、一人が椅子を持って移動し、ベッタリと隣同士でくっつき再び喋り始めた。他人に聞かれたくない話しをするのであれば場所を変えれば良いはずが、一人は直ぐに喋りたく、もう一人は待っていられないのだろう、まるで恋人同士のように肩を寄せ、いや、恋人以上だろう。はたから見ると女同士で耳を舐め合ってるように見える。
その話を仕入れた女は宮西茉奈30歳の独身。聞きたがってる女は片平香織で、話の主役である郷原夏江とは同期入社の28歳で3年前に社内結婚ーーー出来ちゃった婚をした女だ。その片平香織が、相手って営業第1部の三戸係長………だよね、と聞き返した。
「勿論そうだって。他に誰がいるっちゅーの」
「だよね………そっか~~夏江フラれちゃったのか~」
「逆!!」
「はい? まさか……夏江がフった??」
「人の話しちゃんと聞きなさいよね、郷原夏江がドタキャンって最初に言ったよね」
「あっ、ああ、そっか………でも式の日取りも決めてたはず」
「だ・か・らーーーードタキャンなの!」
もう耳を舐めてるというより耳をかじってるというような勢いだ。実際に西宮茉奈はイチイチ話が噛み合わないことにイラつき香織の耳にかみついたらしく、「イテっ……かまないで」と香織に言われていた。
「ねぇ~その話って情報元は?」
すると茉奈は、ほんと香織って鈍いよね、と前置きの後に、本人、と答えた。
「え………夏江が自分から言ったの?」
「だから違う!! 逆!! 前にあんたに言ったよね。私がまだ25~26の頃、三戸涼介と何度か寝たって。っで今でも会えば喋るし、いろいろと相談されることあるってことも言った!! っでアイツが言ってきたんだけど、夏江に男でも出来たんだろうかって。聞けば夏江の方から別れてくださいって言ってきたみたいでさ………あんた郷原夏江と同期だったよね? なんか聞いて………ないか…………郷原夏江ってさ~~大人しそうだけど……実はヤリマンで男漁りが凄いとか……」
片平香織はちょっと考えた後に、いやそれは無い、とキッパリと言った。
「夏江って三戸係長が初めての男だよ。うん、マジで。確か付き合い始めたのって2年くらい前だから、25か26の頃からなんだけ、付き合い始めて三カ月くらいだったと思うけど、アレって初めての時ってかなり痛いのって聞いてきたから、アンタまさか処女? って聞いたら恥ずかしそうに頷いてたし………それからチョっとづつ気持ち良くなってきたってことも言ってて、あれってマジだった」
「ふ~ん………25~26で処女ね~………まぁいない事もないけど、付き合ったら普通するでしょ………それまで男と付き合ったことなかったのかね~」
「うん、夏江ならそうだわ」
それは或る晴れた日曜日だった。
郷原夏江が買い物から戻ると、アパートの前にトラックが横付けされ、揃いのユニホームを着た4~5人の作業員が家財を搬入していた。引っ越しらしい。転勤シーズンでもないのに珍しい。どんな人が越してくるんだろう? あれ? あの女の人かな? あの人だったらいいな。まだ若いし、感じ良さそう。それに……
「こんにちわ、ここに越してくる方ですか?」
「え………あっ、はい、そうです。今日から202号室に越して来た栄前田椿です。あの~……」
「あ、ごめんなさいね。302号室の郷原夏江です。独身の一人住まいよ。あなたは?」
「あ、私も! 一人で住むんです」
話し好きの栄前田椿は喜んで色々と喋った。自分は4年制の大学に通ってる学生で20歳。地方都市のアパートに住んでいたのだが、そこはちょっと古いアパートで使い勝手も悪く、たまたまこのアパートの前を通りかかると入居者募集の張り紙があって、まだ建ってからそれほど年数が経っていなさそうだから不動産屋に速攻で連絡をしたのだ。っで中を見せてもらって驚いた。2LDKのフルリビングタイプだから、ベランダ側が全部LDKに利用した間取りで解放感が凄い。そして築5年という限りなく新築に近く、大学がある地方都市とはJRでひと駅、車だと15分程度。そして何といっても気に入ったのが、入居している人の全てがどういう訳か女性の独り住まいだということで、その場で入居を決め、金を出すパパには「引っ越しするから」と事後報告をした。学生の身で2LDKは贅沢なのだろうが、パパもこのアパートの中を見て、二つ返事でOKを出した。ただ娘に甘いこともあって家賃のことなど気にしてはいない。
「そうなのよね~、ここってどういう訳か女性の一人住まいしかいないの。みんな若くて………301号室の凛ちゃんが………あっ、東野凜さんっていう人なんだけね、34歳でここでは一番の年長者なの」
このアパートは川沿いにあることからだろうが、名前がリバーサイド。そのリバーサイドが建つ前には何があったのか分からないが、妙に細長い3階建てのアパートで、各階には2戸しかない造りだ。だから6戸しかないアパートなのだ。栄前田椿が202号室に越してきて、空いているのは101号室だけとなったことを含め、郷原夏江は住んでいる全員の名前を澱みなく伝え、そして最後に付け加えた、まるで女子寮みたいでしょ、と。
栄前田椿は決して人づきあいが悪い方ではないし、人見知りでもなく、引っ込み思案でもない。それどころか、中学では選挙管理委員長、風紀委員長、生徒会長をやり、高校でも生徒会活動に絶えず関り、高2の時にはまた生徒会長をやった積極的な女子ではあるが、女の子特有のベタベタした付き合いが苦手で、ある意味、男の子のような性格だ。そんな椿は郷原夏江の説明を聞いてちょっと引いた。全員の名前、フルネームでスラスラ言えるんだ。昭和の時代の近所付き合いみたい。なんか凄そう……
「困ったことあったら何でも言って、椿ちゃん。………あっ、勝手にちゃん付けで呼んじゃったけど……いい?」
「えっ、ええ………全然いいです、はい。あははは………」
「私のことも下の名前で呼んで。ここじゃみんなそうだから」
「そっ、そうなんだ………じゃぁ……夏江さん」
「ああ、それとね、今日は日曜だけど、夜の7時にはみんな帰ってきてると思うから……」
「え? ………あ……はい」
引っ越しの挨拶は7時過ぎに行きなさいってことか。私も田舎育ちだし、パパもそういうの煩いから、引っ越しの挨拶は当たり前に行くつもりだったけど、なんか露骨。
椿が202号室に戻るとパパが作業員のリーダーらしき男に引っ越し代金を払っている最中だった。家財の搬入と据え付け作業が終わったのだろう。椿は女の子の割には部屋をスッキリさせるタチで、そのせいで荷物が少なく、引っ越しも2トントラックでの見積もりだったが、そのトラックの荷台はガラガラだった。
「いえ……それは困ります……会社からそういうのは受け取るなって言われてますので……」
「いいから受け取って。ほんの気持ちだから。運転手さんを入れて5人だったよね。こっちは2階だけど、向こうは3階でエレベーターもなくって、5人でも大変だったはずだ。遠慮はいらないから、ほら、とっときなさい」
「そっ、そうですか………なら遠慮なく……」
パパは5つの封筒に入れた心付けをリーダーに渡した。おらくは一人1000円か2000円だろう。パパだったら2000円かな。日本にはチップという習慣は無いが、昭和の頃は、パパに言わせると心付けが当たり前だったらしい。ゴルフに行けばキャディーに渡し、飲み会を企画すればホステスに渡し、温泉旅館に泊れば仲居さんにも渡す。もうお金ばらまきたくて仕方がないのか? と反感を覚えたこともあったが、そういう心付けというものが大切で、中身の金額ではなく気持ちなのだ、と機会があるたびにパパは言う。代金を支払ってるのだからそんなの必要ないのでは、とも思うが、最近なんとなく解るようになってきた。うん。でも私みたいな小娘が渡すと、なんだか偉そうで嫌味だろうな。
「引っ越し挨拶のお菓子が入った段ボールは………」
「ん……あ~~それそれ、そこのソファーの上にあるのがそう」
「おお、これか。ならさっそく挨拶に……」
「ここに住んでる人が帰ってくるのって7時過ぎだって。さっき302号室の人から聞いた。私一人で行くからパパはいいよ」
「そんな訳にはいかない。やっぱり親がちゃんと挨拶しなきゃ……」
「私20達だよ。もう子供じゃないの! それなのにいちいち親が出てくるのって逆に変だって! 恥ずかしいから!」
「そっ、そうか~~…………なら二人で昼飯でも食いに行こうか。なに食いたい?」
農協の組合長をやっているパパ。ママはとうに子離れできてて今日だって、勝手に部屋を決めたんだから勝手に引っ越しなさい、と手伝いにも来ない。なのにパパは未だに私といたがる。
「う~~ん………寿司! 回らない寿司食べに行こう!!」
「だったらパパに任せろ、美味い寿司屋につれてちゃるから」
昼飯を食べ終わりリバーサイドの駐車場に戻って来た椿は、まだ手伝う、というパパを車に押しとどめ、今日はありがとう、気を付けて帰ってね、と名残惜しそうなパパを見送り、202号室に戻るとリビングで大の字に寝転がった。
「はぁ…………つかれた~~~………箱出しは………あとでいいか」
本、衣類、食器などなど、まだ段ボールに入ったまま積み重なってるのを横目で見て、そう呟き、目を瞑ると意識が吸い込まれていった。
ーーーか~ごめか~ごめ、かーごのなーかのと~り~は~、い~つ~い~つ~で~や~~る、つ~るとか~めがすーべった、うしろのしょーめんだ~~れーーーー
かごめかごめで遊んでいる子供たち。だけど輪の真ん中には誰もいない。手を繋いで輪になり、かごめかごめを歌いながら回っている。だから終わりがなく唄をリピートして回り続ける子供たち。その子供たちの中に栄前田椿もいた。どうしてそんな遊びをしているのかは知らない。ただ手を繋いで歌って、そして回っているだけの遊び。椿も歌っている。それが当然だと疑いもせずに輪に加わり、歌って回っている。痛い。手が痛い。なんでそんなに強く握るの。嫌だ、離して。そう思ったが椿は歌うのを辞めない。誰? 誰なの? そんなに強く握るのは誰? 椿の手をぎっちりと握っている子。幼い女の子だ。その子がこっちを向いた。口を大きく開けて歌いながら椿を見た。大人の顔。302号室の郷原夏江の顔をした幼い女の子。その郷原夏江は大声で歌う、かごめかごめを。嫌だ、辞めて、もう辞めて。全然楽しくない。だが椿も歌うのを辞めない。自分も大声で歌っていた。郷原夏江と見つめ合いながら。椿ちゃんって呼んでもいい? 歌い続ける椿は返事をしない。いいよね? 椿ちゃんて呼んでもいいよね? 郷原夏江の顔をした子は歌い続けてるのに何度も聞いてきた。しつこい。もういい。黙れ。終わらない遊び。いつまでも回り続け、歌い続ける。下の名前で呼んでね。みんなそうしてるの。夏江ちゃんって呼んで。後ろの正面だれ、という大声と共に手を引っ張られた。反対側の子だ。その子も大人の顔だ。見た事のない顔。誰? あんたは誰? 椿ちゃんて呼んでもいいよね? その女も同じ事を言った。うるさい、誰だお前は……
「うるさああああああああああああああああああああい!!」
栄前田椿は自分の声で目が覚めた。え……夢? なんなんだ? 変な夢。腕時計に目をやると、まだ2時ちょっと前だ。ずいぶんと寝た気がするが、パパと寿司屋を出たのが1時半頃だった。あれからアパートまで戻って来たのだから、眠っていたのはせいぜい10分程度。なんだか気分が悪い。椿はシャワーを浴び、そして荷物の片づけを始めた。
6時頃になると粗方片付き、その頃合いを見計らったようにチャイムが鳴った。
「へーーい、引っ越し祝い持て来たよ~ん。ピザでも頼もう」
缶ビールを数缶持った伊良部環奈だ。環奈は椿と同じ大学に通う、同い年の気の合う友人。
「うん、ピザいいね。頼もう、頼もう」
椿が電話を掛けている間、環奈は新居の点検をしている。
「へ~~いいとこ見っけたね~~。2LDKか~~いいな~」
そしてリビングからベランダに出た環奈。
「うわ~~このベランダ広いね。ちょっとした焼肉できちゃったりするよね。それに見晴らしいいわ~。川沿いって良いもんだね~」
リバーサイドの全ての玄関は北向きだが、リビングに南側の大型窓の隣からからベランダに出ることが出来る造りだ。見える景色には大きな川が流れているのが目に入り、堤防からその川までは整備された遊歩道があり、向こう岸まで遮る物が何もない。
「真夏でも川沿いだからきっと涼しいと思う。バルコニーの方が解放感あって良いって人もいるけどさ~、屋根がないから雨降ったら出れないし、私、布団って外に干して太陽のコゲ臭いが付いてんの好きなんだよね」
「ん? ベランダとバルコニーって屋根が有るか無いかなの?」
ベランダから戻って来た環奈に、そうだよ、と応えた椿。
「へ~~知らんかった。………あれ? この部屋ってドアじゃなく引き戸なんだね」
「ああ、それね。パパが言ってたんだけど、窓が無い部屋って建築法で違反なんだって。だから開け放てる引き戸じゃなかったら許可が下りないらしい」
「ふ~~ん………そうなんだ……」
北玄関のこのアパートは、リビングとダイニングとキッチンが繋がっているが、それとは別に2つの部屋がある2LDKなのだが、北から南に向って2列の間取りだ。西側の列が浴室、洗面、トイレが北から南に繋がり、東側の列には2つの部屋がやはり北から南に繋がり、その2列をLDKが最南で押さえるような間取りなのだ。だから最北にある部屋には北向きの小さな窓があるが、その南隣の部屋には窓がない。
そうこうしている内に時計は7時を過ぎ、酔った環奈は最初っからそのつもりだったらしく泊っていくことに。
「ちょっと待ってて。ご近所さんに引っ越しの挨拶してくるから」
「えええええ?? マジ~? そんなのすんの?」
「うん、するの。ねぇ、私、顔赤くなってない?」
「え……? なってないけど、なんで?」
「見るからに酔ってますって顔で挨拶はさ~……」
「なんかそれって超めんどくさ~いって感じぃ」
リバーサイトは真ん中に階段があって、その階段を挟んで東西に1号室と2号室がある。だから全ての部屋に行くのに階段を何度も登ったり下りたりする必要がなく、椿は最初に301号室のチャイムを鳴らした。表札が無く、住んでいる人の名前は分からないが、自己紹介くらいするだろうから………
「意外と遅かったのね、椿ちゃん」
玄関が開けられ顔を出した女にそう言われた。え? 椿ちゃんって……
「あ、はい………ちょっと荷物の片付けに……」
「ああ、そうね。今日越してきたんだよね」
この女の名前を知らない。その知らない女から椿ちゃんと呼ばれ、あまり気持ちの良いものではない。それに、来るのが遅いって、いったいなに? なんだか先手を打たれたような感じで口籠ってしまった。少々カチンときたが気を取り直し、202号室に越して来た栄前田椿です、と言い、よろしくお願いしますと続けようとしたが遮られた。
「うん、夏江ちゃんに聞いたから知ってる。東野凜よ。みんないるから入って」
「え………みんな?」
「ほら、なにボーっと突っ立ってんの。さ~入って」
玄関から真っすぐ伸びる通路の向こうにリビンが見える。そこから顔出しこっちを見ている2人の女。一人は午前中に会った郷原夏江だ。もう一人は知らない。みんなって、もしかしたらリバーサイドに住む全員ってこと? なんか嫌だな。住人同士の距離が異様なくらいに近い。
椿は自分の部屋に待たせてる環奈のことが気になったが、この301号室に住人全員がいるのなら挨拶周りに行く手間が省ける。手土産も全部持って来たし。
玄関で脱いだ靴を揃えている椿。背中に視線を感じる。皆が私を見ている。新参者だからしかたがないか……
振り返った途端に、「ほら早く」、「待ってたんだよ」、「おいで、おいで」と声が一斉にした。……え? なに? どういうこと? 後ろ向きに靴を揃えてた時って黙って私を見てたの? 椿は思わず立ちすくんでしまった。
「夏江ちゃんのことはもう知ってるわね」
リビングにおずおずと入って行くといきなりそう言われた。どうやらこの女が全員を紹介するみたいだ。
「えっ、ええ………その際は色々と教えていただき……」
「一人用のソファーに座ってるのが苺ちゃん。苗字は尾野」
「苺でーーーす。22歳。ここじゃ最年少だったけど、今日から椿ちゃんが最年少。102号室だから椿ちゃんの真下。一人エッチの声聞かれちゃうかも~」
「ぇ………」
返す言葉に詰まったがそんな事など気にしていないのか、紹介は続いた。
「いっつパンツ見える超ミニ穿いてるけど、ちゃんとしたOLなんだよね。キャバ嬢じゃないからーーー」
見ると確かに見えていて、椿は思わず目を逸らした。
「その隣で胡坐かいてるのが麻未ちゃん。苗字は名切。無口で不愛想だけど、根はやさしくて面倒見がいいから安心して」
「不愛想は余計。29歳、201号だからお隣さんだね。………ん? 椿ちゃん飲んでるだろ。ほら夏江ちゃん缶ビール渡して」
どうして飲んでるのがバレた? 350の缶ビールひとつしか飲んでないのに。臭い? まさか隣に座ってる訳でもない。この部屋にいる誰もが気づいてないみたいで、「え~~そうなんだ」、「なら遠慮しないで飲もう飲もう」と言ってるのに一番遠くにいる名切麻未がどうして?
そんな疑問を他所に、3人掛けのソファーに座らされ、否応なく缶ビールを持たされた。
「それじゃ~、新たに仲間になった椿ちゃんと、古株みんなのご健勝を祈念して……カンパーーーイ!!」
一口飲んだ椿は、このままだと手土産を渡すタイミングが無くなると、「あの~~これ……お口に合うか……みなさん甘い物が苦手だったら……」と言うと、パンチラの苺がガバっと股を開いて手を伸ばし、「わーーーこれってコッチじゃ売ってないヤツだ!」と包装紙を見ただけで歓声を上げた。
「大丈夫。みんな酒好きだけど女の子には変わりはないから、甘い物も大好物」
隣に座るこの部屋の主が言った。あれ……まずい……この人の名前って………今更聞けない。
「うんうん、特に凛ちゃんはケーキをつまみに日本酒ガンガン飲んじゃう人だもんね~」
郷原夏江がそう言ったのを聞き、そうだ……凛……苗字は確か……東野。
三人掛けのソファー。向こう側から郷原夏江、東野凜、そして栄前田椿の順で座り、ちょっと狭いせいでピッタリとくっついているのが居心地が悪い。テーブルの挟んで真向いにある一人用のソファーには絶えずパンツが見えている尾野苺。目を向けないようにしていたが、それでもイチゴ柄のパンツではなく真っ赤な無地のパンツなのが分ってしまった。その苺が座るソファーの肘乗せに寄り掛かるように胡坐をかいている名切麻未。ほとんど喋らず、明後日の方に目を向けながらビールを飲んでいる。なんだかムっとしているようにも見えるが、変に気を使われることもなく返って気が楽でいい。
「椿ちゃん、遠慮しないで飲みなさいよ」
隣に座る東野凜だ。その言葉に椿が反応する前に尾野苺が反応した。それも郷原夏江と何かを喋っていたはずが慌ててーーービクっと直ぐにこっちを見て、「ごめんごめん、気づかなくて~~、椿ちゃん次もビールでいい? それとも別のものがいい?」と言った。
「え……あ……はい……ビールでいいですけど……」
テーブルに置かれたまだ空いていない缶ビールに椿が手を伸ばそうとすると、苺がまたガバっと股を開いて缶ビールを取り、そして渡してくれた。椿は思わずシッカリと見てしまった。苺の股間を。
「あん、エッチ~椿ちゃ~ん」
「いえ……そんな……わざとじゃないです」
だけど苺の隣に座る名切麻未は相変わらず明後日の方を向いてビールを飲み続けている。そして、椿ちゃんはビール党なんだ、と言った東野凜。苺のパンツをシッカリ見ちゃった事に何かフォローでもするのかと思いきや、まるで違った話をされ頭がついていかない。
「え………ビール党?? あっ、ああ……そっ、そうです、ビールならザルで……」
椿のパパは、椿が高校生の頃からビールを勧めた。とにかく娘と一緒に晩酌をしたかったのだろう。初めてビールを飲んだ時に何故だか「美味い」と感じてしまい、それ以来とにかくビールが好きで、銘柄はなんでも良い。そしてザルだった。その話をしようとした椿だが、隣の東野凜はテーブルにあるつまみに手を伸ばし、その会話を膨らませるつもりはないらしい。
栄前田椿は早々に帰るとは言い出しにくく、缶ビールの3つ目を飲み干した辺りでようやっと「あの……引っ越しで疲れたせいかちょっと眠くなって………そろそろ帰ります」と言ったが、時計は既に9時になろうとしていた。隣に座っている東野凜が、
「あらそう? うん、分った。あっ、そうだ連絡先!」
「え………」
「ここってね、リバーサイドの住人だけの町内会なの。だからいろいろあってね~」
携帯番号とメールアドレスを全員と交換することになり、それを嫌だとは言い出せる雰囲気ではなかった。
玄関には誰も見送りには来なかった。だが靴を履く椿は酔った頭でも感じていた。視線を。だが、お邪魔しました、ご馳走様でした、と言おうと振り返ると、一斉に声を掛けられた。「ま~たね~椿ちゃん」と言った尾野苺。「階段気を付けてね~」と言った郷原夏江。名切麻未の声は聞こえなかったが、東野凜の「また声掛けるからちゃんと来てね」との声。間違いない。301号室の東野凜がボスだ。郷原夏江も尾野苺も飲み会の間中、東野凜に気を使っていて、苺などしょっちゅう東野凜の顔色を窺うように、チラチラチラチラ東野凜の方の視線を走らせていた。
202号室に戻って来た椿。部屋で待たされていた伊良部環奈は、独りでビールを飲んでいる内に眠ってしまったらしく、寝ぼけた顔だ。
「ああ、おかえり~~」
「ごめんね~~、301号室に最初に行ったらさ~全員いたの。っで私の歓迎会みないなことされちゃって」
「全員って、このアパートに住んでる人全員ってこと?」
「そう」
「うっわ~~なにそれ。きっつ~~」
「でしょ………。ところでナニ? ずっと寝てたの?」
「うん、そんなに長い時間眠ってた訳じゃないと思うんだけど………変な夢見た~~………かごめかごめやってんの、私が………笑っちゃうよね」